𝐌𝐞𝐞𝐭𝐢𝐧𝐠 𝐨𝐟 𝐝𝐞𝐬𝐭𝐢𝐧𝐲陽の光も入らぬ廊下の突き当り。
鉄さびと埃の臭いが染みついたこの空間にくるのは何度目だろう。
俺を案内した監視役が足を止めたため、歩幅を狭める。
ギィと油がきれた扉が叫び声をあげ、ゆっくりと開かれる。
扉の中は蛍光灯一本のみで、廊下よりも更に暗い。
サングラスを頭の上へとズラして、目を細める。
「こいつが、あの"狂犬"か」
拘束衣を着せられ、口枷を嵌めたまま、部屋の奥に座っている男がひとり。
顔立ちは若く、資料にあった死亡時期と近いように思う。表情は魂が抜け落ちたように虚ろだ。……ま、コイツらに命なんざあったもんじゃないが。首から下は椅子にがっちりと固定され、口は拘束され、こちらを睨みつけているような目だけが見えている。一見血に飢えている獣のようにギラギラしているように見えるが、目の奥は、濁りきった水底のように、深く、沈んでいる。
「返事はしねぇ。喋らねぇ。飯も拒否して非協力的……謂わば、研究所送りデッドゾーンってことだ」
傍にいた監視役が吐き捨てるように言った。
そうだろうな。と、その目を見て納得がゆく。一方監視役の男は顔を顰める。
「人間としてはもう壊れてる。ダーリンってのは、元からこういう化け物ばかりだ」
こちらに返事を求めるように視線を寄越されたが、馴れ合いをしにここへ来たんじゃない。死人と違って、生者の時間は貴重なのだ。
俺の返事の分までダラダラと愚痴る男の手から資料をひったくると、ペラリと捲った。
収監番号を確認してから、その前に立ち、面構えを拝むように見下ろした。
「ケルヴ」
顔がぴくりと動いた。
無表情な目が、影親をゆっくりと見据える。
「お前の上官は死んだ。今日から俺がお前の飼い主だ」
沈黙が落ちる。
一拍。
二拍。
ケルヴが何かを言ったような息遣いだけが聞こえてくる。しかし、拘束されているがゆえに、明確な音になることができない。
彼の目が――濁った水面から何かが顔を出す。俺を見定めるようなぬるりとした視線。そして、殺気。死人に口なしというが、これは彼の明確な拒絶という意思表示だ。
彼の上官の名前を出せば、ピクリと反応を見せた。どうやら洗脳は死んでも治らなかったらしい。
「俺が命令して、お前はただ従うだけだ。昔と何も変わらない」
スーツの内ポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。こちらを睨む死人の意思など気にしていないというように。躾というのは初めが肝心だ。相手の機嫌を取るなど論外。こちらが主導権を握っているのだと爪先の一つさえも示していなければならない。特に、こういった力のある奴には。
ふぅ。と煙を吐き眺めていれば、ケルヴはこちらから興味を失ったように目を逸らした。アリでもいるのかと思うほど地面をジッと見つめ始めている。これも、俺の言う事など聞かないというアピールのひとつだ。資料によれば随分と従順な犬だったようだが、その影も形もない。だが、ここはもう彼奴の愛した祖国ではない――敵国でも、ない。
「ケルヴ」
顎を掴み無理矢理こちらを向かせる。首が無理な角度に曲がっていようが気にすることはない。大きな声と、そして力にケルヴは一瞬身を固くしたが、すぐに臨戦態勢のように目を鋭くさせた。
「その腐った脳みそに刻め。ここに貴様の意思などなく、権利などない。俺に命を握られているのだと」
唸り声が聞こえた。口を封じても尚、犬は喉を震わせ拒絶する。
刺すような熱を帯びた視線が、網膜まで届くようだった。
――その目を、潰した。
火のついた煙草の先が、ケルヴの眼球に押し当てられ――ジュ、という音と共に悲鳴は喉を焦がしている。手に持っていた煙草の先は潰れて細い煙が立っていた。
椅子に縛り上げられたケルヴは椅子ごと壁に背をぶつけ、苦痛に悶えた。流石に死ぬ前にもこの苦痛は体験したことがなかったらしい。
有名なシリアルキラーでも、記録がされるような偉人でもない。戦火に身を焦がしたただの男の情報は、少ない。それでも、この犬が苦痛の中で生を実感するのだと、隻眼のぎらつきが告げていた。
「そして、テメェが死人から死に損ないになった以上、躾をする」
呻き声が聞こえなくなった。肉が焼けた臭いと、煙草の匂いが入り混じる。こちらを睨みつけようと顔を上げたケルヴの目は、100度以上の熱に侵されたはずだというのにすでに水晶体らしき膜を作り始めていた。全く、頑丈で困る。ケルヴも治る体には慣れているのか、フルフルと頭を振って唸り声をあげた。本当に犬のようだ。
壁にぶち当てられた椅子は大きく変形しており、鉄製でできているとは思えないほど。それだけ、この犬のパワーの凄まじさを物語っている。その力は有用だ。この椅子のように彼の人間性が歪もうがどうだっていい。一度死んだ者に与えられるものなどないのだから。
「わかったらワンと鳴け」
「……」
腹の底から燃え上がるような唸り声がした。
すぐさま椅子を蹴っ飛ばす。湾曲した椅子は簡単にバランスを崩し、ケルヴを地面へと叩きつける。背もたれのフレームに足をかけ、死人の顔を拝んだ。眉間に皺が深く刻まれている。不愉快だと全面に物申す顔を見下ろして、首元を踏みつければ、グッと詰まった鼻息がだけば聞こえてくる。暫く押さえていれば、息苦しいのだろう。芋虫のように動き始めた。そもそも死人は息をしないのだから、こちらのほうがとてもとてもお似合いだと思うのだが……。
ようやく動きを止めたケルヴが、なにか言おうと最後の酸素を吐き出した。
なんて言っていようが、どうでもいい。
俺はそれをニンマリと嗤って返してやった。
「ちゃんとワンと鳴けたな、えらいえらい」
お前の発言など聞いてはやらぬ。お前に拒否権などはなく、何を言おうがどう解釈するかは全て主人次第なのだ。
グッタリと動かなくなったケルヴの首から足を離すと荒い鼻息と、ゴボゴボと排水溝のような音が響いていた。
振り返れば、顔を青ざめさせた監視役の男と目が合う。――というかコイツ、まだいたのか。時間を無駄にするヤツが多くて頭が痛くなる。
「帰る」
声を掛ければ、監視役はハッとして慌てて扉を開けて「どうぞ」と道を譲った。
廊下に出ると、チカチカとした灯りでさえも眩しく感じた。サングラスを鼻筋へと下ろすと、元来た道を戻る。
荒い呼吸音はもう聞こえない。俺の靴底が地を蹴る音だけが響いていた。