導入1,
海は綺麗な場所だ。夕陽の光を白波が反射し、はるか先まで続く水平線は遠い遠いどこかを想起させる。嫌な出来事に遭った時、単なる気分転換にと出歩いた時、オクジーという青年は自然と海へ向かう。地元からそう遠くはなく、漁港の船が数キロ先の沖合に停泊しているのが見える、比較的波も穏やかな海だ。夕方頃には干潮から満潮へと変わるために、波の行き交いが早急になる事もしばしばあるが、浅瀬にまで来たオクジーは普段使いの靴から履き替えたビーチサンダルのままでその波の中を進む事が好きであった。
膝より下までの皮膚を濡らす波は、浅瀬の砂を巻き込んで揺らめくからか濁りが見えた。くわえて貝殻や漂流物の類が足元に来ては引いていく様が、時と共に緩慢な動きで流れていくようで落ち着くという。また、人通りが少ない点もオクジーは気に入っていた。この海は特別綺麗な海ではないし近くに漁港がある為に遊泳地区でもない。観光地としては不向きであるし、何より海へと向かうには、昼間でも薄暗い森林や急な坂道の昇り降りを越えなくてはいけなかったために、人が寄り付きにくい。故に背丈の高いオクジーがただ一人呆然と波の中に立ち尽くしていたとしても、大声を上げられたり痛い目線を送られるなんて事は無く、海と自分だけの世界に没頭できた。
夏は日が落ちる時間がとんと来ない。もうすぐ夕食時だというのに、太陽は呑気に水平線上に光を拡散させている。余計に時間感覚を奪われていく心地に永遠の悠久さえ感じられたが、じんわりとした汗が腕を伝うと同時に喉の引っかかりを覚える。
思っていたよりも長い間、海水に浸かっていたようだ。沈殿したような足は重く、ヒリヒリと焼けた皮膚がむず痒い。生ぬるい潮風を浴びながらもう少し、あとちょっとだけ。などと思いながら足元を海面と水平にしていると、後方から長く響くような人の叫びが聞こえてくる気がした。漁師か誰かが呼びかけているのだろうか、にしては声が近すぎるような。そう考えている内に声は段々と大きく、更に砂と波間を裂く足音が軽やかな水音と共にする。
「おい、そこの君!もうすぐ満潮になる浅瀬で何をしている!」
まさか、人がやってきたのか。バクバクと鼓動が早まっていき、驚きながらも目を見開くだけで後ろを見る事が出来なかった。何故か今、この海の世界を壊されてしまった気がしたのだ。そして――。
「聞いているのか?!もし自棄志願なら他所でやるんだ!私の目の前で逝くなどと言い出すなよ!」
一度振り返れば、声をかけてくれた人と自分の世界が作り出されると思ったからだ。
「き、聞こえています。別にその、あの世に行きたいとかで来ている訳ではないので、心配なさらずとも、えっと……」
「は?誰がいつ心配した。私はただ、偶然ここを訪れたにも関わらず、たった今目の前で君が波に飲み込まれたりでもしたら夢見が悪くなるだろうが。君のせいで今後海に立ち寄れなくなったらどうするつもりだ」
大体何故こんな場所に一人で居る、山道や急斜面を経てまでしたい事は?先に言っておくがここの海産物は漁港付近に住む漁師が漁業権を保持している、勝手に採れば密漁の罪を被る事になるぞ。……ったく、遺跡の調査帰りに立ち寄るんじゃなかった。饒舌に繰り返される事は俺への文句に海の知識など、討論会の論表みたくスラスラと話し続けている。
凄い、話された内容全てが自分本位だ。こう言ってはなんだが、普通こういう場合って恩着せがましく救いたいだとか、止めるべきだとかを言いに来るものだと思っていたのに。
何だか不思議と拒絶感が減り、彼の気配が空気に混じっていくのを感じる。彼、そうだ、今話している彼は低い声をしていて教養のある喋り方をしている。さっき遺跡の調査がどう、とか言っていたような気がするし、海に入ってくるべき格好じゃないんじゃ。
振り返るべきでないかもしれない。顔を見れば絶対に、海の世界が壊れてしまう。俺が一人で居られて、俺が俺という人生を忘れてただの観測するだけの存在になる時間が。この海は何の変哲もないただの海だ、だがオクジーにとっては、最下層でもがいて苦しい人生を送るちっぽけで惨めな自分の事を消滅するまで洗い流してくれる広大な世界そのものだ。自身の心を保つ安寧を捨ててまで振り返る価値はあるのか。なんて考えたところで、思考が身体を制御出来てしまえるほど、オクジーは慎重ではなかった。
ただ何となく、この人の顔が見てみたかった。それだけの理由で後ろへと振り向けば、日に照らされる金糸の髪が目に入る。恰幅は良く、端正な顔つきにやや切れ長な蒼の目はまさしく美形である。しかし最も目に留まりやすいのは、右目を隠す眼帯に、鼻と口元にある特徴的な傷跡だった。
「なんだ、ようやく話を聞く気になったのか」
「いや、それはあまり……」
「は?」
素直に思ったままを口に出せば、彼は一つの単語で返答をする。こちらも失礼な物言いをした自覚はあったが、それにしたって反応が正直すぎる。調子が狂わされている感覚はしつつも、心のどこかで彼の存在を受け入れ始めている自分も居て、不可思議が更に加速していく。どうにも浮世離れしているようなその人物は、相も変わらず怪訝そうに綺麗な顔を歪めていた。
「でも、はい。とりあえず沖からは離れようと思います。波も随分と高くなってきましたから。それで、貴方の靴とズボンがずぶ濡れになってますけど。大丈夫ですか、それ」
指差しで指摘すれば、彼は思い出したかのように足元に目をやる。直後にふん、と鼻で息を飛ばしながら重い足取りで海岸沿いの防波堤を目指し始めた。俺も同調するかのように足を持ち上げ、ゆっくりと彼の後ろを着いて歩き出す。数分かけてやっと階段付近まで足を運ぶと、階段を登る途中に話は再開された。
「君、家はどの辺りだ」
「え、ああ……海抜からそう遠くない地区に住んでいます。多分歩いて二十分くらいの」
「ならそこに案内してくれ、衣服類が汚れていたままでは帰宅が困難だからな」
「ええ……」
初対面の人に住所を明かしたくはなかったので、それとなく雑に答えたつもりが、この人には関係の無い事だったようだ。どうしよう、多分教えない方がいいよな、普通なら絶対にそうだ。どう断ればいいのかで逡巡していれば、精神までも見透かすような瞳でこちらを見ている彼に気付く。
「私は君のせいで入りたくもない海に入ったんだ。まさかとは思うが、タダで帰すんじゃないよな?」
半分以上脅迫めいた発言と気迫に押され、迷っていた頭をついコクコクと頷かせてしまった。その様子に気分を良くしたのか、ヨシと一言だけ言った彼は早足で階段を昇った後に、こちらに距離を詰めてくる。急な距離感に驚いていれば背中に鈍い打撃を食らわされた音がした。痛みはさほど無いものの、急な衝撃に目を瞬かせると、横に居る金髪の彼は再度顔を歪める。
「何をしているんだ、案内を頼んだんだから君が先頭になれ。ただし一定の距離は保つように、君は手足に海水が付着しているからな」
私の服をこれ以上汚されてはかなわない。とどこまでも自己中心的な振る舞いを見せている彼にどう接したらいいのか、正解が湧かず、諦めて足を進めれば1mほど開けた後ろから彼が着いてくる。先程と状況は逆転しているが、精神的には彼に引っ張られたままである。
何がどうしてこうなったのか、答えはきっと神様くらいにしか分からないんだろうな。
道中足を止めれば、衣服に磯の匂いが染み付くだろうが、休まず歩け。と背中を殴られ……押されつつ、奇妙な男と二人、帰宅する道を歩いていた。