春風 きっと、運命だったのだと思う。跡部景吾という、この上なく美しい男に魅せられてしまったのは。
俺こと忍足侑士は何事もそつなくこなせるという自負が昔からあった。テニスもそれなりに出来、小学生ながらに先生や女子からの人気もそこそこある。今思えば狭い世界で生きていたものだ。まあしかし、自己に対してそのようなある種の自信を持ちながら東京にやって来た俺は、すぐにその自分の生温い価値観を改めることになる。
言うなれば跡部景吾は暗闇の中に迸る落雷であった。圧倒的なまでに彼を包む支配者たるオーラと、伝統ある氷帝テニス部員を完膚なまでに叩きのめすテニスプレイヤーとしての素質。成り行きで試合をし俺はその落雷をもろにくらって初めて気がついた。ああ、自分はこの強く美しい男に一目惚れをしたのだ、と。
「侑士ー、昼飯一緒に食おうぜ!」
午前の授業も終わりさあ昼食だと教室内が騒々しくなる中、ダブルスペアであり普段から活発な友人の声がどこからともなく聞こえてきた。ぼんやりとした回想を一時中断して席を立ち、赤髪とそれについてくるもう1人の金髪のくせっ毛の友人の元へ、弁当を手に俺は歩き出す。
「なんや、今日はジローも一緒かいな」
「今日お弁当忘れてきちゃったんだC〜」
だからおこぼれちょうだい!と明るく純粋な笑顔で言われてしまえば苦笑するしかない。適当に机を動かして3人で座り、弁当を広げながら他愛も無い会話を楽しむ。岳人とジローが最近始めたカードゲームに盛り上がっているのに適当に相槌を挟んでいると、ふと一時中断させたはずの回想が頭をもたげた。
一目惚れと言っても別段何かをするということはなく、跡部率いる氷帝テニス部の一員として俺はテニスに打ち込んでいた。同じ1年の正レギュラーということもあり何かと目をつけられていたが、そこは冒頭にも述べたように持ち前のそつなさで切り抜けてきた。跡部程ではないが俺も上手くやってきた方で、いつからか彼の補佐としてその隣の立ち位置を自然と許されることが増えていったように思う。良きチームメイトとして、良きライバルとして、そしてなにより良き友人として隣に立っていた…はずだ。出会った当初から心の奥底にあったこの焦がれるような想いは、決して表には出さなかった。出したら最後、あんなにも眩しい彼からの酷く冷たい軽蔑の眼差しが返って来るに違いない、そうどこか怯えて。そうしてひた隠しながら2年と少しが過ぎたわけだが、想いは未だ燻って全く熱を失う様子を見せない。寧ろ次第に熱を帯びてきているような気がするのには見て見ぬ振りをしていた。
「…な、侑士もそう思うだろ?」
ハッ、と気がついた時には赤髪の友人が何やらいたずらっ子のような笑みを浮かべてこちらに何かを尋ねてきていた。回想に浸りすぎて会話内容を殆ど把握できていないが、まあきっと先程のカードゲームの話であろう。
ああ、そうやな、と愛想笑いをして返事をすれば、やっぱそうだよねー!!と金髪で寝ぼけ眼の友人が顔を輝かせる。
「あとべってほんとに忍足のことよく見つめてるよね!」
「…は、」
予想外の会話内容に思わず出てしまった間抜けな俺の声で彼らは爆笑する。いつものポーカーフェイスも上手く出来ずに、慌て始めた心をなんとか収めようと眉間に皺を寄せて冷静になれと自分に言い聞かせる。
「…ちょお待ちや、誰が誰をよお見つめとるって?」
「だから、跡部が侑士を、だって!」
俺の混乱を余所に、そうそうこないだもさー、と岳人は笑いながら話す。
「跡部がこっち見てんなー、って思って目線の先辿ったらさ、侑士がいたんだよ」
「オレもよくあとべに膝枕してもらうけど、ベンチに居るときは大体忍足を見てるCー」
下心故ではあるが俺は跡部をよく見つめているという自覚こそあれど、まさかその逆の話題が出るとは何事だろう。跡部が俺を?あり得ない。有り得るとしても、なぜ俺なんかを見つめるのだろうか。…今日の部活で確かめてみるべきか、と頭を回転させていた俺は考え込んだがために一層しかめっ面をしたので、また2人に爆笑されたのは言うまでもない。
春だからか蒼く透き通るように晴れた空が、今日が絶好のテニス日和だということを俺たちに告げる。たまには、ということでシングルスの試合練習に参加して順番待ちをしている最中、やはり目で話題の人物を追ってしまう自分がいた。
その人物こと跡部は中心よりのコートで、やはり美しく力強いテニスをして相手を圧倒していた。きらりと光る汗を流しながらそのブロンドの髪を揺らして愉しそうにテニスをする姿に、ああ、やっぱ好きやな、と長年煩った恋心が頭をもたげる。そのまま試合が跡部の勝利で終わるまで見届けて、初めて自分の番がそろそろ回ってきそうなことに気づく。
ラケットを手にコートに入って先攻後攻を決め、いざサーブをしようと構えた時。ザァッと風が吹いて、その方向に視線を投げかけたのは偶然であったはずだ。
「…!」
バチリ、と空と同じように青い2つの瞳と目が合う。跡部が、こちらを見ている。普段であればただほんの少し嬉しいようなそれが、今日はあの話のせいで変に胸のあたりがドキリとした。しかし試合中であるという自分の冷静な思考が視線を跡部から外させ、一瞬固まってしまったサーブの動きを再度やり直すように滑らかに紡ぎ出す。変に緊張したせいか狙ったコートぎりぎりよりやや内側に外れてしまったものの、力強いサーブは即座にポイントを奪取した。
心を閉ざしてプレイし続けても、ふと跡部のいた所に視線を投げかけてしまう。今はどこかへ行ってしまったのか跡部の姿は俺の視界には確認できない。だが、なんとなく幾度か彼の貫くような視線を背中に感じた。そのまま試合は俺の勝利に終わり、相手に堪忍な、と告げて俺は急ぎ足でベンチに戻りあたりを確認して跡部の姿を探す。しかしいくら見渡せど見えるのは部員と監督のみで、跡部の姿は無かった。それに些か落胆しながら、置いておいたペットボトルの水をがぶ飲みする。いくら春とは言えど動けば汗をかくので、水分を補給しておきたかった。そしてもう一つ、この熱い心のあたりを冷やしたかった。
やはり跡部は俺を見ていた。それも一度や二度ではない。跡部の性格からすれば、なにか言いたいことがあるならば即座に所構わず俺に言ってくるはずだ。なにかある、そう思うとなんだか心構えをしない訳にはいかなかった。直接気軽には言えない何かを、跡部は俺に対して思っているのではないか。
「なあ跡部」
放課後練習が終わって正レギュラー専用の部室で着替え、そのまま部長が部誌を提出して着替えに戻ってくるまでソファーで待つこと十数分。他のメンバーが去って俺しかいない部室内にガチャリと音を立てて扉を開け入ってきた跡部に、俺は間髪入れず声をかけた。
「…、アーン?まだ残ってたのかよ」
妙な間のあった後に、なんだよ、とでも言いたげな視線で跡部はこちらを一瞥して颯爽と自らのロッカーに向かう。俺は緊張で声が上ずらないよう、あくまで冷静にと声色を保つことに努める。
「なんか俺に対して言いたいこととかあらへん?」
「…別に無ぇ」
「ほんま?なんか今日やけに自分から視線を感じたんやけど」
そうまるでなんでもないことのようにさらりと言ってのけて跡部の背中をじっと見つめる。ジャージを脱いだ後に現れた白い肌が妙にいつもより色気を増して見えたのは、きっと俺の緊張のせいだろう。跡部は俺の言葉に一瞬、ほんの一瞬だけ固まったかと思うと、そのまま振り向きもせずに着替えを続行しながら言う。
「お前の気の所為だろ」
「んなことゆうたって、サーブん時も目合ったやろ?」
話しかけているのにこちらを見ようともしない跡部の姿に焦れ、思わず俺はソファーから腰を上げて跡部の方へ歩みを進めた。
「なあ、こっち見ぃや」
既にシャツのボタンを留め始めている跡部の肩をそっと引く。やっとこちらを向いた、と思って跡部の顔を見た俺はきっと今日で一番間抜けな顔をしていただろう。
「ッ!!」
跡部は、赤面していた。ほんのりと紅がさした頬に心なしか潤んだ瞳。俺の中で封じ込めていた想いの枷がガラガラと外れていく音がした。
「跡部………ッ」
その想いに乗せられるままに跡部の肩に添える手に力を加え、思わずロッカーに跡部の身体を押し付け股に脚を挟んでしまえば、もう跡部は俺の手中にあるも同然だった。跡部の顔はますます紅くなり、それに俺は長年拗らせた想いが暴走する様を感じる。そのあまりの愛らしさに顔を近づけようとした、次の瞬間。
「ッ離せ!!」
「っ、」
ドンッ、という鈍い音と共に胸辺りに衝撃が加わり、自らの身体がよろめく感覚が走った。
跡部が俺を突き飛ばしたのだ、と認識するまでにそう時間はかからなかった。そして同時に、自分が越えてはならない一線を越えてしまったことも。先程まであった興奮が一気に引いていくのを自覚する。
跡部は手を前に出したまま固まっていて、驚いたように見開かれたその目と再度視線が合う。
「…!忍足ッ!!!」
後悔しても遅いことに気づいたのは、ぐらりと視点が上に向いた後だった。一瞬跡部の泣きそうな表情が見えたかと思うと、今度はゴン、というあまり聞きたくない音と頭への強い衝撃を感じる。
…今倒れたら、アカンのに。
そして俺は、意識を失った。
今思えば運命だったのだと思う。忍足侑士という、強くも優しい、あの穏やかな男に魅せられてしまったのは。
その日は本当になんでもない日だった。春でまだ新生徒会も発足したばかりのため、俺は昼休みに1人で生徒会室にこもり、黙々と事務作業をしていた。生徒会長はいくら経験慣れしているといえど、仕事量が減るわけでもない。小さな山のように積み上がる書類にため息をついてふと換気のために開けていた窓をみれば、外の青空が眩しいほどに見えた。そうして俺は図らずとも仕事の手を止めて、奴と出会った時のことを思い返していた。
奴こと忍足侑士は、俺が氷帝テニス部の部長になると証明しようとした時に現れた。まだ春が始まって間もないころ、忍足は何を思ったか俺に勝負を仕掛けてきた。軽く蹴散らしてやろうと思っていたが、これが案外うまくいかなかった。1点とればまた1点取られ、と中々に良い試合ができたのは今でも記憶に新しい。そうしてテニス部部長になった俺は、同じ1年で正レギュラーを勝ち取った忍足に自然と言いようもない親近感を抱いていた。頭がきれて周りに気を配ることができ、でも一線引いた所で冷静に状況を判断する。気がついた時には誰よりも目で追っていた。ジローにそれを指摘されて初めて気がついたのだ、俺は相当無意識に忍足の存在を認識していたらしい。
だがしかし、俺と奴はあくまでチームメイトであり、ましてや親友でもなんでもない。生徒会の仕事を手伝ってくれるという点では友人だろうが、奴のことだ、なんでもそつなくこなすためにその程度の頼み事なら些細なものなのだろう。そう考えると俺が感じるこの感情は、些かチームメイトに感じるそれとは異なってもう少し大きいものであるように思えた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。忍足について回想をしていたら一瞬で終わってしまった昼休みと食べ損ねた昼食にぼんやりしながら、俺は次の授業を欠席する言い訳を考えていた。
そうしてなんとか授業を切り抜けると放課後になり、部活。部活中も俺は相変わらず奴のことで頭がいっぱいだった。この時季だからか、やけにそれが気になって頭から離れない。だがプレーに支障を出してしまえば部長失格というもの、俺はテニスコートでいつもどおり、いや、いつも以上に精を出してテニスに打ち込んだ。
試合が終わりアドバイスもそこそこに、トーナメント表を見にホワイトボードへ向かう。次の試合を目で追っていると、忍足侑士の文字が見えた。書いてあるナンバーのコートに目をやれば、そこには俺の頭から離れないやつの姿があった。考えを読ませない穏やかな笑顔を浮かべて対戦相手と会話し、サーブの構えに入った、瞬間。
ザァッ、と風が吹いた。
「…!!」
そして、丸い伊達メガネをかけた彼が一瞬目を見開いてこちらを見る。目が、あった。合ってしまった。今までなんてことなかったはずなのに、なぜか今日は胸が苦しい。まるでなにかに恋焦がれているような、甘酸っぱい感情が俺の身体を駆け巡った。
伊達眼鏡の奥にきらりと光る黒い瞳に図らずとも吸い寄せられていると、奴はすぐにフッと視線を逸らし、サーブに力を込める。いつも通り、いや、いつもより少し内側にずれてはいるものの相変わらず力強いサーブは、綺麗に先制を決めた。俺はなんだかむず痒くなって、無理やり忍足から視線をそらした。
コート内を回って部員の様子を観察していても、いつのまにか目は未だ試合をしている忍足の方へと向いてしまう。それに気がついたのだろうか、いつもは寝ているはずのジローが俺の隣へやってきて言った。
「あとべっていつも忍足のこと見てるよね〜」
どこか嬉しそうな声色でそう言われ、なんだか癪に障って俺は言い返す。
「別にそんなに見てねぇよ」
「うっそだー!だってさっきも見てたC〜」
ね?と言われれば返す言葉もない。それ程までに心当たりがあるからだ。
「ジロー、お前はさっさと練習してこい」
立ち去れと暗に促すと、ジローは嫌だと言わんばかりに頭を横に振った。
「あ、そうだ。ずっと思ってたんだけど、あとべって忍足に恋してるみたいだC」
ゲンコツを食らわせそうになる左腕を必死に抑えた。戯れ言をと一蹴しないのは、ひとえに相手が普段可愛がっている他ならないジローであったからだ。
「誰が、誰に、何をしてるだって??」
青筋を浮かべる俺に気づいてないのか、ジローは先程と同じく嬉しそうな顔で続ける。
「だってー、あとべの目って恋してる人の目なんだもん」
俺は……今度こそ何も言えなくなった。目は口ほどに物を言う。社交界のためにとあらゆる処世術を身につけてきた俺にとっては、その言葉が痛いほど正しいことを知っている。それにジローはこう見えて案外鋭く、こうやって言うことは大体合っている。
ということはつまり、俺が本当に忍足に恋をしているとでも言うのか。
「じゃー俺はもう一眠りしてくるC〜」
二度寝だか三度寝だかをしに行こうとしたジローを慌てて制止して練習に参加するように促してから、俺はコートから見えない位置に急いだ。
俺が、恋をしている。忍足に。心臓のあたりが早鐘を打って酷く煩い。熱でも出たかのように火照る顔を手で包んで冷まそうと試みるも、なかなか熱は冷めてくれない。
ゲームウォンバイ忍足、という誰かの声を聞いて胸がドキッとする。ああ、やはり。名前を聞くだけでもこんなにも激情が身体中を駆け巡るのは。
「…俺は、恋をしている」
再び、春のうららかな風が俺の火照った頬をかすめた。
練習も終わり部誌を提出してさあ着替えよう、と部室の扉を開けたとき。
「なあ跡部」
ドキリとした。そしてすぐさま自分の表情筋が変に動いていないかを確認して異常がないことに安堵する。忍足は入って正面のソファーに座り、まるで俺の来訪を予期していたかのように俺の視線をまっすぐに捉えていた。
「アーン?まだ残ってたのかよ」
なんでもないふりをして急ぎ足で自分のロッカーに向かい、着替えを開始する。他の部員たちがいなくて奴と2人きりだから緊張してる、なんておくびにも出さずに。というかなぜ忍足はまだ部室に残っているのだろうか。既にジャージから制服に着替えている奴は、今にも帰る準備万端のように見えた。
「なんか俺に対して言いたいこととかあらへん?」
背中から唐突にそう声を投げかけられる。俺は別段思い当たる節も無く、
「…別に無ぇ」
と返す。声が上ずっていないか不安になりながらも、背後にいる忍足に向けてそっけなく返事をした。すると間髪入れず奴は言った。
「ほんま?なんか今日やけに自分から視線を感じたんやけど」
ドキリ。本日何度目かわからない心臓の跳ねる音が聞こえる。まさか、俺が忍足を見ていたことがバレたのか。先程不意に自覚した淡い恋心がバレるのがいやで、俺は忍足から顔を背けたまま再度返事をする。
「…お前の気の所為だろ」
「んなことゆうたって、サーブん時も目合ったやろ?」
顔が一気に紅潮するのを感じた。バレている。目が合ったことは否定しようもない、俺はどう否定の返事をしようかと悩んでいたために近づいてくる足音に近づかなかった。
「なあ、こっち見ぃや」
忍足の低く艷やかな声が聞こえたかと思うと肩を引かれ、気づいた時には間近に忍足が迫っていた。
「〜〜ッ!」
まずい、顔を見られた。赤くなった顔を背けようとしたが、忍足の漆黒の瞳に吸い寄せられて思うように目を逸らせない。そして、俺は見てしまった。その瞳の奥に潜んだ獰猛な獣の姿を。
「跡部……」
股に脚を挟まれて逃げ道を無くされる。先程から既に限界に達していた俺の心臓の鼓動はもうこれ以上はないというほどに早鐘を打ち、気がつけば俺はほぼ無意識かつ反射的に両腕を突き出していた。
「ッ離せ!!」
ドンッ、という鈍い音と共に俺の手が無意識に奴を突き飛ばした。
気づいた時にはもう遅く、忍足の目には俺から拒絶されたことによる深い後悔の色が溢れていた。忍足との距離が急に遠くなった感覚がして、己の心が嫌な音を立てて軋む。
そんな顔をさせたい訳じゃない、という言葉は喉の奥につまって出てこなかった。その代わりとでもいうように、気づけば咄嗟に名前を呼んでいた。
「忍足ッッ!!!」
自分の声ではないような焦った声が口から飛び出るのを感じる。
突然のことで頭が回らなかった。まさか、忍足がバランスを崩して倒れていっているなんて。必死の思いで手を伸ばして忍足の手を掴もうとするがすんでのところで届かない。
今、手を取ることができなければ、俺は―。
ゴン、という耳を塞ぎたくなるような音と共に忍足は倒れ、…そのまま、目を覚まさなかった。
「……」
忍足の父が勤める大学病院のとある一室に、俺は放課後使用人の送迎を断って1人でやってきた。既に他のレギュラーメンバー達は見舞いに来たのだろう、忍足に似合う青い花や授業の写しのプリントが近くに置いてある机に所狭しと並べられていた。それを一つずつ手にとってこっそり覗き見をし、なんだかんだこいつも愛されてるんだな、と1人心の中で呟く。
忍足が倒れ気を失ったあと、俺は即座に奴のダブルスペアである向日に電話をした。樺地や監督、病院に電話するのはなんだか自分の失態のせいで迷惑をかけているようで気が引けたのだ。結局は大差は無かったのだが、まあ気持ち的な問題だった。
向日のまわりにはちょうどジローと宍戸もいたらしく、俺からの電話で即座に部室に舞い戻ってきた。気を失って倒れている忍足の姿に動揺する3人に、俺は俺が突き飛ばしたことは伏せて忍足が頭を打って倒れたことだけを伝えた。
その後宍戸が救急車を呼び、忍足はそのまま病院のベッドで目を覚ますまで横になることになった。言うなれば短期入院とも言えるが、俺たちはそのころは翌朝になったら目を覚ますだろう、なんて楽観的に考えていた。
しかしそんな期待とは裏腹に忍足は目を覚まさなかった。
「…今日で、3日目だ」
未だ目を閉じて身動ぎ1つすらしない忍足に、はたまたその側に突っ立っている自分に言い聞かせるように、そっと俺は声を絞り出す。打ちどころが悪かったとしても出血していないのだ、そう長く昏睡することはまず無い。医者である奴の父によれば、もしかしたら精神的なストレスが関係しているかもしれない、とのことだった。侑士なら有り得そうだよな、という向日の言葉を聞き、俺は罪悪感に苛まれる。倒れる直前、忍足の目は雄弁に絶望感を物語っていた。相当なストレスを俺自身が与え、そのせいで忍足は長く昏睡していると考えるのが自然である。
その罪悪感から逃げるように俺は今日も忍足の病室に通う。さらりと奴の目にかかっていた前髪をどかしてやり、ベッドの外に零れ落ちそうな手を静かに握る。
「……いい加減起きろ、忍足…」
声に出したかもわからないような俺の小さな独白は、窓から入ってきた春の風にあえなく掻き消された。
4日、5日と日数が徒に過ぎていけば、流石にレギュラーメンバーは焦りを見せ始める。部員やクラスの面々には怪我で通ってはいるが、事情を知るもの達は、忍足がこのままずっと目を覚まさないのではないかと気が気では無かった。
部活中、隣にいたり試合をしたりしていた紺色の髪の想い人を無意識に目で探し、今はそこにはいないのだと不覚にも痛感させられる。あの晴れた日とはうってかわって、空は今にも泣き出しそうな曇天であった。この鬱屈とした気分をなんとか晴らそうと望みは薄いながらもコートに出ようと足を踏み出した所で、誰かに腕を掴まれる。振り返ればそこには恋心を自覚した日のデジャヴのように、ジローがその顔を珍しく歪めてこちらを見つめていた。
「…どうした」
その苦悶の表情に思わず問いかければ、ジローはより一層顔をしかめて俺に呟いた。
「あとべ、泣きそうな顔してる」
予想外の言葉に身体が硬直する。いつの間にか降ってきていた雨が俺の頬にポツリと当たった。
「忍足と何かあったんでしょ?オレ、わかるよ。あの日の夕方からあとべ、ずっと泣きそうな顔してるもん」
あの日、と言われて自身の顔が酷く強張るのを感じた。忍足に関する事柄では表情が上手く作れない。忍足と何かあったのだろうということは、きっと普段己の変化に聡いジローならば容易く想像できたのだろう。
「ねぇ、あとべ。自分の想いに素直になっちゃえば?」
ドキリ、と胸が跳ねた。
じゃなきゃオレも悲しい、とジローが泣きそうな声で言う。茶色い瞳はまるで、忍足がいないことで感じた俺の喪失感を見抜いているようだった。
雨は次第に激しくなり、俺の頬にいくつもの水滴が筋を残す。部員達に雨のため練習を中止させる号令をかけてから、俺は未だに心配する金髪の友人に柄もなくニコリ、と微笑んでみせる。
「…俺は泣かねぇよ」
俺がもし泣くとすれば、きっとそれは―。
今だこちらを心配そうに見つめるジローにくるりと背を向け、俺は部員達が戻っていく部室棟とは反対方向に雨の中を歩き出す。後から引き留める声は雨にかき消され、俺の耳には届かなかった。
春の冷たい雨が肩に打ちつけ、傘も持たない俺を容赦なく濡らしてくる。放課後の中途半端な時間に加えこの天気だからか、氷帝生含め人は通りには殆どいなかった。ポケットから連絡用の携帯を取り出して迎えが要らないことを告げ、俺は学校を出てある方向へ走った。向かう先は、1つしか無い。雨が身体に打ちつけてだんだんと冷えていくのを感じ、身体に張り付くジャージに不快感で顔がゆがむ。やはり傘を持ってこればよかったか、なんて考えもよぎったが、頭を振る。そんなことはできない。一刻も早く、俺はあいつに伝えなければならないのだから。
俺が泣きそうな理由を、喪失感の理由を。
そしてこの、俺の想いを。
忍足侑士は、夢を見ていた。
ぼんやりと明るい青空に、くすぐったいような風。なにもかもが境界が曖昧になって、それがなんだか酷く心地よかった。ふと気になって隣を見れば、いつものようにブロンドの髪をなびかせる彼がいる。
おしたり、と嬉しそうに目を細めてこちらを見てくるものだから、俺はその愛らしさに思わず彼へ手を伸ばす。
だがその瞬間、周囲は一気に暗くなった。凍えるような寒さが押し寄せ、目の前で嬉しそうに微笑んでいた彼はもういない。どころか、遠くで彼は1人佇んでいた。
『離れろ』
遠くからでもわかる軽蔑した眼差しは、俺の心臓のあたりをキュッとさせる。そのままくるりと背を向けて立ち去っていく彼を浅ましくも引き留めようと手を伸ばした所で、届くはずがない。俺は暗闇の中、1人凍えた。
また、夢を見た。
俺達は恋人だった。すっきりとした夏の日差しの中、俺は彼と手をつないで楽しそうに談笑していた。ああでもない、こうでもないとテニスの話をしていれば、それはいつのまにかテニスに変わって。きらきらと汗を光らせてテニスをする彼の姿は、何度でも俺に恋に落ちた時のことを思い出させた。美しく、強く、こんなにも眩しい。
だがラケットを落としてまで思わず伸ばした手は、やはり彼には届かなかった。彼は面白いのか、フハ、と笑いながらもやはり踵を返して去っていく。俺はまた取り残されて、真夏のコートに1人立っていた。
何度も、何度も夢を見た。
そしてその度に、絶対に手に入らないその背中に絶望しては、1人佇む。俺は孤独だった。1人になった後の暗闇はひどく寒く、それは太陽である彼がいないことを容易に俺に思い知らせた。ふわふわとした温かさの裏でじっとりとした冷たさが俺を蝕み、胸のあたりがその度にキリキリと痛んだ。
どれだけ経っただろうか、俺はまた、彼と共にいた。だが、いつもと違う。彼はいつものように眩しい笑顔を浮かべてはいなかった。
あの日のように透き通った青空の下、俺と彼、いや、『跡部』はいた。晴れていて爽やかな風が吹いているはずなのに、何故か跡部は濡れていた。
「跡部、」
ふと出た自分の声に驚く。今までは境界線すらも曖昧であったというのに聴覚も視覚も感じるとは、これが所謂明晰夢というやつだろうか、なんて思う。
愛しい名前を呼べば、濡れた跡部は俺の方へ歩み寄ってくる。その表情はいつも見た楽しそうな表情でも、冷淡な表情でもない。ただただ、なにかに耐えているような苦悶の表情だった。そんな顔をさせたくない、と抱きしめようとする自らの手を必死の思いで抑え、近づいてくる跡部をうかがう。
手を伸ばせば触れられそうな距離まで近づいて初めて、跡部は口を開いた。
「…忍足」
なんだか久しぶりに名前を呼ばれた気がして、ドキリと心臓が脈打った。跡部は何かを迷うような素振りを見せた後、意を決した顔で毅然とこちらを見つめる。そこには、あの日と同じ色があった。
「俺は、お前が好きだ」
ザァッ、と夢の中なのに風が俺達の間を吹き抜けた。
俺は、その言葉を信じられなかった。
「……自分、ほんまに言うてるん?」
いつものポーカーフェイスは全く役に立たないで、なにも飾らない己の素直な心情が思わず口をついて出てしまう。跡部がそんな素振りを見せたことなんてほぼ無いし、あの時だって跡部は……。
そこまで考えて漸く自身が失言したことに気がつき、思わず口に手を当てれば、跡部は俺のその手を口から引きはがす。
「あれはその、驚いたんだよ。お前がいきなり近づいてくるから…」
恥ずかしそうに、もしくは気まずそうに目を逸らした跡部の青い瞳が次第に潤うのを俺は見逃さなかった。
「俺は後悔した。お前があんな表情をして、何日も眠って、ようやく俺は、気づいた。…お前が、忍足が、どうしようもねー程に好きだと」
跡部は一つ一つを噛みしめるかのように、たどたどしく言葉を紡ぐ。逸らしていた目がこちらに向けられれば、まるで堰をきったようにボロボロと美しい塩水が彼の瞳から溢れ出した。
「俺は、お前と…共に、」
そこから先はもう言葉にならないようで、跡部はただ涙を落としてしゃくりあげる。俺も気がつけば頬が濡れていた。そして以前は叶わなかった、跡部を自らの腕の中にそっと収める。ビク、と肩を震わせた跡部だが、そこに怯えの気配は無かった。
俺はもう、跡部の言葉を信じられないことはなかった。そして、やはり先程と同じように素直な本心が俺の口をついて出る。
「跡部、……俺は跡部がずっと好きや。出会った時から、俺ん中で跡部は光り続けとった。それは今もやけど」
何度も美しいと思った柔らかいブロンド髪にそっと手を添え、頭を撫でて温もりを感じる。濡れた身体も冷えたその体温も、全部、包みこんでやりたかった。
「好きや。ほんまに、好きやねん」
愛おしく跡部の方を見れば、跡部も俺の方を見る。たった3センチ差だからか、自然と唇が重なり合った。互いを確かめるように始めはゆっくりと、やがて融け合うように激しく。孤独で苦しんでいた夢の面影はもう無く、ただここには幸せだけがあった。口を離して銀の糸が俺達の間を名残惜しむようにつないで消えた時、今度こそ温かく穏やかな風があたりを吹き抜けた。
既に涙は収まり、俺達は互いに柔らかな笑みを浮かべていた。
「…ハ、らしくねぇな」
「自分もやで」
フハ、とどちらともつかない笑い声を耳に、俺達は深く抱きしめあった。互いの体温が混じり合うような感覚と共に、どこからともなく桜の花びらが舞って―――。
「、……?」
ぼんやりとした視界がしだいに輪郭をもち始め、夕陽でオレンジ色に染まった天井がうつる。寝かせられているということは病院なのだろうか。そう思って上半身を起こすと、なにやら視界の端に見慣れたブロンド色の髪がよぎった。
「…なして、こないに濡れてるん」
外は晴れているにも関わらず、通り雨にあったのか跡部のジャージや髪には水が滴っていた。スースー、と穏やかな寝息を立てて俺の側でベッドに突っ伏して寝る彼の頭に手を乗せれば、先程の夢が脳裏に鮮明に蘇る。
『俺は、お前が好きだ』
『好きや。ほんまに、好きやねん』
あれは明晰夢にしては現実味がありすぎた。全部自分の妄想と言われればそれまでだが、俺は生憎跡部の泣き顔なんて見たこともないし、想像で補完したには精巧すぎる。それに跡部が濡れているところも現実とそっくり同じだ。やはり夢ではないのではないか、なんて思いながら、跡部の髪をさらさらと撫でる。
まあどちらにせよ、あれで俺の心は決まってしまった。この想いはもう止められない。決意と共になぜだか湧き上がる幸福感で口角が上がるのを感じた。
「……ん、」
側にいた彼が起きる気配を察知して、俺は心からの微笑みをたたえて言う。
「…おはようさん」
「おはようさん」
ぼんやりとした頭が周囲の認知を遅らせ、俺はゆっくりと頭を上げる。だが、その低くて穏やかな声だけは耳がしっかりと拾っていた。そしてそれを脳で咀嚼してすぐ、俺はバッと顔を上げた。
「ッ、忍足!」
伊達眼鏡越しではない、黒い瞳と目が合った。たった数日、されど数日。心に湧き出ていた喪失感にその存在はすっぽりと埋まった。
「目が…覚めたのか」
「ああ、可愛え誰かさんのお陰でな」
じ、とまるでなにかを訴えるようにこちらを見られれば、もしや、と脳裏にとある光景がよぎる。無我夢中で忍足の病室に来た俺は、忍足の姿を見て安心して恐らく眠ってしまった。そしてその後に見た夢が…。
「『好きや。ほんまに、好きやねん』」
夢と寸分違わない幸せそうな顔で、忍足は俺にそう告げる。ドキッ、と心臓が跳ねた。同時に俺の手をとってそっと口づけを落とされれば、俺の顔がみるみる火照っていくのを感じた。ああ、こいつは憶えている。そして、俺も。
「……『俺は、お前が好きだ』」
顔を背けたくなるのをぐっと堪えて、忍足の目をまっすぐ見て言う。2年越しの想いだ、正直に伝えなくてどうする。忍足は俺の返答に一層嬉しそうに笑顔を見せ、ありがとな、と呟いた。
「あー、ほんま、突き飛ばされた時は焦ったなあ」
「だからッ、あれは本気じゃねえ!」
「勿論わかっとるって。夢ん中で泣きながら言うてくれたもんな」
くくく、とまたもや嬉しそうに笑われれば打つ手がない。俺は顔を逸らし、ついでに近くにあった椅子に腰掛けた。
それとほぼ同時だっただろうか、なにやら廊下から騒がしい足音と共に扉が勢い良く開いた。
「あとべッ!!」
息を切らしてやってきたジローとそれに続くレギュラーメンバー達に、俺と忍足は思わず目を丸くする。一方のレギュラー陣も俺達同様目を丸くしていた。
「あれ?お、忍足、起きてるC!!!」
ワッ、と病室に雪崩込むようにして奴らはゾロゾロと入り、口々に忍足が起きたことに対する喜びの言葉を述べている。
「くそくそ、すっげー心配したんだぜ!」
「お前、倒れてから今日で5日目だぜ?目が覚めて良かったな!」
「体調悪いとかはないですか?一応ナースさんを呼んで話しておきますね」
「これで下剋上のチャンスもできましたよ。…フン、良かったです」
「………ウス!」
忍足はそんな仲間からの言葉に嬉しさと気恥ずかしさで笑みを浮かべずにはいられなかった。
一方でジローと滝は忍足への祝福もそこそこに、俺の方へ向かってくる。
「もー、雨の中いきなり出ていくからびっくりしたCー!」
「ほんとにねー。通行人の人達に聞き込みして、景吾君が病院へ傘も持たずに走っていったって聞いた時は耳を疑ったよ」
俺の突飛な行動はつまり忍足に対する想いの大きさでもあって。しまったとばかりに彼らの口をふさごうとしてももう遅い。嫌な予感がして後ろを振り返ると、にまにまと先程と同じ位、いや、それ以上に嬉しそうな笑顔でこちらを見ていた。
「へぇ……、あの跡部が雨ん中、俺のことを一心に想ってここまで走ってきてくれたなんてなあ」
感慨深いわー、と表向きは言いながらも、目はあの時と同じように獰猛な獣を奥に携えてこちらを見ている。そんな目で見つめられてしまえば、否定しない訳にはいかなかった。
「ッ別に、たまたま傘を忘れただけだ」
「顔背けて言われても説得力ないなあ〜」
ハハハ、と病室内にみなの笑い声が響いた。キッ、と忍足を睨みつけながらもニヤけてしまう口元を隠し、俺は立ち上がる。するとなにやら視界の端に白色がうつった。
「あれー、桜の花びらだC」
ジローがひょいと拾って俺に手渡してくる。
「もうシーズンは過ぎたはずだけど…不思議だね」
滝も覗き込んできてそう言う。
だが、俺はわかっていた。そして忍足の方を見れば、奴もこちらを向いて同じことを考えているようだ。
春のうららかな風はきっと、夢と現実の架け橋となって桜の花びらをここまで運んできたのだろう。今手元にある小さな花びらの色は、夢の最後にうつった視界と同じ色で。
温かい幸せを運び終わった春風は、俺達の間を通って窓を吹き抜け、空へと羽ばたいていった―――
〜Fin〜