逃亡 ふかした煙草の煙が、遺品にかかってしまいました。私を殺しに来た"元"同胞の物です。色々、やってしまいましたから。
だから、私たちは山の奥まで逃げてきたのです。前線から遠く離れた山の中なら安全だろうと思い込んでいました。いざ蓋を開けてみればそんなことはありません。数多の軍人が目を血走らせて追ってきました。私の元同胞達が。
大きく溜め息をつきました。肺の中の煙が口からゆっくり溢れて、空へ登っていきます。
戦争は我々イカの勝利で終わったと、風のうわさで聞きました。だから、元同胞たちは一兵卒を追ってくるくらい暇なのでしょう。
軍規違反は見逃せないのでしょうか。それとも私の伴侶に用でもあるのでしょうか。
インクと血でどろりぬかる土の中へ、私はおもむろに手を入れました。足元に広がるぬるい泥の中、何だか冷たい光沢のある鎖が、私の手に絡みついてきました。引き上げてみると鎖の先にロケットがついています。この曇って薄暗い空の下でもきらりと冷たく光るほど磨き抜かれています。赤茶けた様々な汚れに塗れているというのに。
黒い液体で滑るその蓋に指をかけて開けました。金のロケットに陽の光を遮られ、色褪せることもなくロケットの中で少し恥ずかしそうに微笑んでいる妙齢の女性と、その腕の中に抱かれて微笑んでいる赤子たちは乳のような甘やかな幸せの空気を纏っています。
私たちの血肉は、一度命を終えてしまうと、土へ空気へ水へとありとあらゆるものに拡散してしまいますから、残るものなど遺書遺品程度なのです。ずきん、と胸の内が痛みました。けれど、このロケットは家族の元へ返せそうにありません。ただ彼には愛すべき家族がいて、そして私が今ここで彼の人生を終わらせた。目の前で泥となって消えていったインクリングの男性について私が知りえる情報は、これだけです。許せなどとはほざけないけれど、ごめんなさいなんて言うつもりはありません。こちらも生きるためだったのです。手をぎゅっと握りしめました。ばきり、嫌な音と共に鋭い痛みが手のひらに走りました。生暖かい自分のインクが手のひらから滴り落ちて、ぬくもりを纏う金属片たちと共に薄く輝き、泥のなかへ消えていきます。
じり、と指先に熱が迫ります。短くなった煙草を私は一瞥し、鮮やかな色をした泥に突き立てました。一歩後退ると、それは粗末な墓標のように見えました。
愛しい人が私を呼ぶ声の方に顔を向けます。夜露で湿った落ち葉の匂いと共に温かな炎の香りが、私の前をすり抜けました。
彼らが追ってくる理由は、分かっています。私は彼らの恨みを受けています。
何も、無意味に同胞を手にかけたのではありません。追っ手から逃れたかったのです。それなのに追ってきた彼ら彼女らは、私へ出頭するように、そして”彼女”を当局へ引き渡すようにと強い力で腕をつかんで離さないのです。私はあの時彼女とどこまでも逃げると決めたのですから、腕を掴む同胞の角ばった手に銃口を押しつけて、目を見開いた彼らを撃ちました。私の罪状に同胞殺しが正式に追加されたのはこの時でしょうか。それからは私が殺した人の家族——友人——恋人が、私を殺すという確固たる目標を胸に抱いて送られてきました。一人のイカには、大体8,9人ほどの深い関係のヒトがいます。遠い戦場へ送られたそのヒトの身を毎日家や職場、はたまた別の部隊で案じていて、さぁ終戦。死ぬこともどこか失うこともなく、無事にそのヒトは生き残りました。後は家に帰ってくるそのヒトを待ち、感動の再会と共に確かに温かなその身体を抱擁する。大きな隔たりによって失われた数年間を語らいながら、そうして日常へ戻る——、そんなすぐそこにあったはずの温かな夢が、どこの誰かも知らない裏切者の手によって奪われました。
そうして私たちを殺しに来たヒトを、私はまた手にかけます。後は同じことの繰り返し、鼠算式に恨みを買った相手は増えていきます。遠慮も手加減もなく私を殺しに来るイカたちをどうにか退けて、前線から、小さな村、そして山の中へ逃げました。
行く当てはありません。明日どうなるかもわかりません。それでも、満たされていました。伴侶と夜寝るときも交代に番をして、確かな吐息と時折紡がれる異国の子守歌を耳にしながら眠るその日を愛していました。
恋というものを知らぬままあれよあれよと戦地まで来てしまったものですから、燃え上がったその恋の脈動に私はすっかり飲まれてしまいました。初めて彼女と出会時のことをよく覚えています。
その頃の私は、正式な軍隊に所属していました。
半年ほど前、晩春のある夜、私は塹壕を出ました。死にたかったわけではありません。死よりも死を目の前にしたみんなが怖かったのです。もうこの先が無いから、と薬を吸ってどんちゃん騒ぎを繰り返す寝床で眠れたものではありませんでした。死を目前にして怖気づいた人がどうにか子孫を残そうと、いえ、それすらも叶うはずがないと知っているのにそういうことをしたがる人は、他の人が眠りについて静かになるのを虎視眈々と狙っていました。支給品のラジオを胸の前にじっと握りこんで、子守歌にもなりやしない嘘か真かわかりもしない玉砕やら転進やらを伝えるノイズ交じりの硬い声が消えていくのを頼りに、私は毎日夜を明かしました。
前線で気を抜こうものなら脳漿をぶちまける自分の頭を見ることになりますし、キャンプ地では気を張っていないと同胞に足を掬われます。酒に溺れようにもそれほどの量は得られません。薄くて硬い掛布団と地面の間に滑り込んで、眠くて眠くて今にも倒れてしまいたいというのに、ここで寝たら死ぬと私の頭の真ん中あたりがガンガン鐘を鳴らして警告してきます。日常と化した非日常に削られた屑が天秤の皿に貯まり、ある夜、命よりも明確に静かさの方へ傾きました。死んでしまったならきっとずっと静かにもなるでしょうが、別に死にたかったわけではありません。ただひたすらに静かさだけを求めて、私はブキも何も持たず寝巻のまま外へ向かいました。
夜も更け、昼の熱も鳴りを潜めたころ、掘った塹壕の少し浅くなっている部分から地表へ出ました。その日は新月でした。私のような小さなインクリングの姿など、夜が覆い隠してくれました。何週間ぶりかの外は空気がずっと澄んでいました。冷たく新鮮な空気が肺いっぱいに入ると、なんだか悪い夢から覚めたようでした。空を見上げると、数多の星々が明滅して私を見下ろしていました。
星。こんなことにでもならないと、わざわざ夜空を見上げることはなかったでしょう。都市部から遠く離れたこの前線では、星の光を遮るような人工の電灯も、工場から出て空に薄い膜を作る煙すらもないものですから、淡い瞬き、弱々しく輝く星のひとつひとつまでよく見えました。
空を見上げて立ち尽くしている私の足元に、風が当たりました。ふわりと香る花の香りが、暗闇の中で妙に印象的でした。重量のあるやわらかなものが落ちる音に目線を下へ降ろしてみると、黒い影が座っています。
「私、ここで星見るのが好きなんだ。」
柔らかな声で話しかけてきたその影は、私に地面に座るよう促しました。その日は月さえ眠る真っ暗な夜でしたから、「そこに何かがいて、そしてそれが私へ喋りかけている」ことしか普段情報を得るのに頼り切りな視覚からは得られませんでしたが、意識を星からその影へ向けて僅かばかり考えを巡らせると様々なことに気が付きました。
膝元から響いてくる声はどこか懐かしさと母性、そして達観した響きを帯びていて、しかし声質自体は若々しい女性のものです。そして、イカの言葉が上手い……、そう、わずかにタコ語由来の訛りを残しつつも、しかし私たちよりずっと滑らかにイカの言葉を扱っています。
私は、彼女が指さした地面へ背中合わせになるように腰を下ろしました。タコ。私の後ろにいるのはタコです。私が幾人も手に掛けた的、そして数多の同胞を手に掛けた殺人鬼、それと、同じ種族です。早春の夜、外は暖かさを守ってくれるような草など一切生えていない荒野で、私は薄い寝間着しか纏っていません。それなのに、胸の前で握りしめた私の手はじっとりと嫌な汗で濡れています。空を見上げて惚けているタコは、自分と背を重ねている相手がイカだと……、そんなことない、だって彼女は私たちの言葉で喋りかけてきたのですから。
「ふるさとの山から見える星と一緒なんだ。すぅごく、遠い所にあるの。」
淡く星が瞬く夜空へ向けて、彼女は白くしなやかな手を伸ばしました。地平線まで広がる墨染と色のない枯草ばかりの地面と、彼女の淡い肌の色とは、別の世界のもののように見えました。
「私も星になれるかな。」
彼女は言葉の調子をそのままに、そうつぶやきました。昏い闇の中で、彼女の深い碧の瞳だけが、色を持っていました。うつくしいヒトだと思いました。
その日から、私は毎日空を見にいきました。
私たち第18部隊が投入された地方は雨の少ない地方でしたから、空の見えない日はあまりありませんでした。インク全てを奪われるような昼間の灼熱は、夜になるとすっかり鳴りを潜めます。雲の無い空に昼間の熱が逃げていくから、砂ばかりの地表は吐く息が白く濁るほど、寒々とした場所になるのです。しかし、寒い夜、澄んだ空は星の輝きを湛えていました。
「死んだ人は星になる、って、言われてるんだ。」
彼女は、毎日星を数えていました。いつの日か、彼女が私に話してくれたことがあります。彼女に会ってからの二度目の新月のことでした。暗い夜が更に暗く、目では彼女の影だけを認めることができました。
戦争は、終わりませんでした。
銃を握って、タコを撃つたびに、私の脳裏をあの豊かな赤いゲソが過るのです。ある時思い切り吐いてしまって。掘り上げた砂の道を私たちのインクで補強した、砂に染み落ちて最早色がなくなった土の壁に、食道を酸で焼き体の中心から這い出た胃液が染みこんで、表面にぐずぐずになった朝の硬く薄黒い乾パンが残っていました。
戦況はイカ側に傾きつつありました。やれ何処其処の城を落としただの、やれ敵軍の主力砲が破壊されただの、真か嘘かわからない噂話が流れ始めていました。
タコたちの攻撃は段々と苛烈に、しかし向う見ずになっていきました。大量の爆発性のインクを全身に染みこませて自爆特攻を仕掛けてくるタコの、頭のゲソの本数がだんだん増えていきました。私たちのように人型をしたタコがです。その目にあふれんばかりの憎しみを湛えた彼らの中に、間違ってもあの子の面影を探してはいけないと思ったところで、私は彼女の名前すら知らないことに気が付きました。爆心地の中心、泥とインクに塗れたタコたちのドッグタグを拾っては、磨いて、そして海に投げこみました。
今日こそ星を眺める彼女の名前を聞こうとして、しかし何をすることもなく空があかくなるのを繰り返しました。毎晩外に出て、彼女の影を認めるまで、あの子が生きているのか死んでいるのかもわかりません。けれど、彼女はいつもそこに居ました。彼女が生きていて、そして私が生きているのも、奇跡のように思えました。
戦争が長引き始めて、そのうち、夜中でも出入り口に見張りが付くようになりました。食糧庫から食べ物が消えるのを外部の犯行じゃないかと上が睨んで、出入り口と保存庫に交代で見張りをつけることになりました。他の人たちは食糧庫と門戸を当番制で交代に見張りにつけられていたのに、私はなぜか外の見張りを免除されました。いいな~と同僚に脇腹を小突かれる傍ら、私は胸の下で心臓が早鐘を打つのを感じていました。食料が盗まれているとは言われていましたが、その実毎日の食料配給は私たちのものですら、何ら変わることもありませんでした。
バレたのではないか。私のような下っ端とは言えど、どのような形であれ敵軍と通じているなどということがあったら処刑は免れません。
震える私をよそに、それからそう遠くないある日。彼女が私たちの隊を訪れました。
……捕虜として。
ぞろぞろと頭の赤いタコたちが引きずられて、私たちの隊へ来た彼女らの中に、一際目を引くタコがいました。目を押さえて俯きながら進むタコたちの中で、彼女は目を閉じ、涙を流しながら、しかしそれでもすっくとまるで真新しい若竹の如く背筋を伸ばして、敵軍の土地を歩いていました。
新兵器として、命に危険を及ぼさずに無力化をする毒ガスを開発しているとは聞いていました。彼女の所属していた部隊が偶然その試験台に選ばれて、そして実験は満足のいくような成功をしたようで。
彼女と共につながれてきた数多のタコたちは、研究と治療のために後方の病院へ送られるまでの間、私たちの隊からわずかに離れた場所に掘っ立ての小屋を作らせそこで監視をすることになりました。
戦闘はめっきり少なくなり、食料の配給と、それから監視のための人員がそちらに裂かれるようになりました。一気に毎日は平穏を取り戻して、血の気の立った私の同僚たちも夜泣き明かしたりしながらも、段々と落ち着いていったように見えました。
私は静かに胸をなでおろしました。彼女たちはそれでよいのかはわからないけれど、少なくとももう命を散らすことはもうないのでしょう。タコたちをこれ以上殺さなくて済む、と私は安堵していました。彼女たちはみな誰も彼も疲れたような顔をしていました。そして、それは私たちも一緒でした。
この戦争が終わった後の事を、この期に及んでようやく考えました。私たちの戦争は、曰く居住可能な土地が狭まりつつあることで発生したと言います。故にこの戦争がどちらの勝利で終わったとしても、今までのように私たちも彼女たちも入り混じって過ごす未来はないのでしょう。
それから、すぐの事です。
精鋭部隊の隊長が敵の将軍に致命的な傷をつけたというニュースが、手持ちのラジオに入りました。
今までがまるで意味のない小競り合いだったように思えるほど、あっという間に勝利が決まりました。
(ここまで)