ぼくらのRE:エンドロール 涼やかな風が微かに髪を揺らす。気温は春というには暑くて、夏というにはやさしい。もうあと一週間もすれば梅雨に入るのだろう。平日昼間の駅前はラッシュ時と比べるといくらか呑気で、時間の流れもゆるやかに思える。待ち合わせは正午。午前の仕事から直接待ち合わせ場所に向かったせいで、随分と早く着いてしまった。連絡を入れようか迷ったが、急かしたくなくてやめた。今日はどこへ行こう、何をしよう、何を話そう。なんて思考の浅いところでとりとめもなく考えては霧散して消えていく。そのくせ、頭の真ん中ではもうずっと別のことを考えていた。時計をちらりと見る。確かめるように、心臓に手を当てた。
「ジュンくん」
穏やかな真昼に似合いの、軽やかな声がオレを真っすぐに呼ぶ。
「あれ、あんずさん随分早いっすねぇ」
「ジュンくんも早いね、お仕事早く終わった?」
「思ったよりは。っていうかあんずさん」
なあに、なんて首を傾げたりするのはいっそ白々しくさえある。だってその目に浮かんでいるのは微かに期待の色だ。オーケー、謹んでお応えしてやりましょう。
「かわいいですねぇ、今日。オレのためにお洒落してくれたんですか」
「……デートですので。張り切ってみました」
澄ました顔で笑う。いつもならあっさりと照れて黙り込むところ、今日のあんずさんはどうやら少し強気みたいだ。ココアブラウンの髪は肩の下まで下ろされてまるく波打っていて、後ろ髪はなにやら複雑なかたちで――オレにはそれがハーフアップであることしかわからないがもっと込み入った形で――まとめられている。服は白いワンピース、それはオレが買ったので知っている、似合うのも知っている。あとから聞いたら高校生の時におひいさんがあんずさんに買ったワンピースと似てる、と言って笑われた。買う前にいってほしい。オレがあの人と似たような趣味をしているとは到底思えないが、もしかしたら彼女に抱く印象は案外似通っていたのかもしれない。
「髪、それ自分でやったんです?」
「まさか。美容院で少し切ったついでにやってもらったの。これはプロの仕事です」
「へぇ、流石ですねぇ。そんで服もやっぱいいっすよ、それ」
「その節はありがとうございました」
夜空色のエナメルのサンダルに、ブルーグレーのペディキュア。耳元で揺れる小さな花のイヤリング。くるんと上を向いた睫毛はブラウン。些細な変化に敏感な方でもないし、流行もファッションにもメイクにも明るくないけれど、普段飾り気がない分――そして抜き打ちじゃない分――彼女の間違い探しは比較的やさしい。
「あとは……唇? つやつやしてんのかわいい」
何の気なしにそう言うと、あんずさんは目を丸くしてぱちぱちと瞬きをして、ぱっと花が咲いたように顔を綻ばせた。
「気付いてくれると思わなかった! そう、そうなの。これ昔嵐ちゃんがくれたグロスでね、ずっと、ずうっとつけたくて、でもつけるときあんまりなくって」
そうして嬉しそうに話しながら、一瞬、見逃しそうなほんの一瞬だけ彼女がひどく泣きそうな顔をしたから、思わずふと頭を撫でた。それが何を意味する表情だったのかオレには分からなかったけれど、少なくともそれが今彼女を傷付けているものでないと良いと思った。
「な、なに」
「……なんとなく?」
「そう……?」
オレの手が触れていた場所を不思議そうに触りながら、あんずさんがこちらを見上げる。
「さ、行きましょうか。映画はじまっちまいますよぉ」
そうだね、と笑った。なりかけの夏を謳う太陽のひかりを、あんずさんの白い腕が丸ごと弾いて眩しい。日焼け止め塗ったかな、なんてぼんやり考えながら、オレたちはあかるい真昼の街へ歩き出した。
◇
「待ち合わせがしたいの」、と恥ずかしそうに彼女は言った。
結婚を公表したあと、そしてオレのライブを終えてから、オレたちが部屋を決めて引っ越すまで二カ月とかからなかった。お互い多忙にも拘らず、いや多忙だからこそ、いろいろな展開が早かった。慣れない「ふたりぐらし」をお互い見様見真似で模索する日々だ。その日――つまり今日――はあんずさんが一日オフで、オレは午前中に一本だけ仕事をこなせばよかったから、自然な流れでじゃあ午後出かけましょうか、ということになった。昼頃帰るんで、と言ったら、帰らなくてもいいです、とあんずさんは言った。
「は?」
「えっと、ちがくて……『駅で待ち合わせ』、したい」
普通とか、一般的とか、平均とか、「みんながしていること」それそのものに大して意味があるとは思っていなかったし、そもそも端から性質が特殊なオレたちは考えても仕方がないと思っていた。けれどもオレが彼女と映画に行ったりカフェに行ったりスーパーに行きたかったのと似たような意味で以て、彼女は「駅で待ち合わせ」がしたいのだと言う。その感覚にさしたる共感はないけど否定するようなものでもないし、何より彼女のそうした些細な希望めいたものはなんだかいじらしくてかわいい。
「だって準備してるとことか見られてるの、面白くないと思わない?」
「いや面白いとかなんですかねぇ~? まあ別にいいですけど。ESから直で駅行けばいいってことですよね」
うん、と彼女は嬉しそうに弾んだ声で頷いた。
◇
話題性と前評判で選んであんまり外れがないのがハリウッド映画の良いところ。あとは監督の傾向もわかればなお良い。その点でいうと面白い映画を選ぶよりも雰囲気の良いカフェを見つける方が難しい。ただ幸い平日の昼下がりなので、いちごパフェの有名な、前から気になってたカフェはさほど混雑してもいなかったのでよかった。映画を見て、映画の話をしながらカフェで甘いものを食べる、帰りはちょっと景色の良い公園にでも行ってみようか、みたいな、テンプレートみたいなデートプラン。まあ最後のはちょっと未定だけど、オレの中ではそうなっている。
「ハリウッド映画とか出たいと思う?」
「どうですかねぇ、そりゃ出てはみたいですけど。英語がなあ……」
「あはは、そうだねぇ。でもそれはたぶん勉強したらなんとかなるよ」
「あんずさん英語できましたっけ」
「できないけど……」
「わ、いちごパフェすごいね、ほぼ苺」
「ほぼ苺っすねぇ、あんずさんのは?」
「メロンパフェ!」
「そっちはほぼメロンですね」
「一口交換しよう」
「たぶんこれだとただのフルーツの交換になっちまいますねぇ」
「今度MV撮影海外らしくて」
「え! すごいね。どこ?」
「にゅー……? ええとなんでしたっけ、ニュージーランドじゃなくて、海がきれいな」
「ニューカレドニア?」
「あ、それですたぶん」
「たぶん……?」
「……そろそろ出ようか」
「そうですねぇ」
「ああ、お腹いっぱいで夕飯しばらく食べれないや」
「……じゃあ、ちょっと歩きません?」
◇
遠くに海が見える。傾き始めた日差しは僅かに暖色を帯びて、丁寧に整備された都会の公園の芝を照らしていた。少しだけ強くなってきた風がさやさやと並木の葉を揺らす。静かだった。どこへ続くでもない道を歩きながら、なんとなく今までのことをゆっくりと思い出していた。街路樹を囲う丸いベンチを見つけるとなんだか急に胸が狭くなって、懐かしいような眩しいような気持ちが淡く湧き出してオレの心にひたひたと浸みた。ちらりとあんずさんを見るとあんずさんもオレを見ていて、ふたりで静かに笑って腰を下ろした。遠くできらきらひかる海を眺めながら、オレはいつもより少しだけ重い鞄を、そっと掛けなおした。
――普通とか、一般的とか、平均とか。「みんながしていること」それそのものに大して意味があるとは思っていなかったし、そもそも端から性質が特殊なオレたちは考えても仕方がないと思っていた。でも彼女が「駅で待ち合わせをしてみたかった」のと同じ意味で以て、オレはこのイニシエーションが必要なのだと思った。
「……あんずさん。オレがあんたに気持ち伝えたときのこと覚えてますか。付き合ってくださいって言ったとき」
「……クリスマスの前の?」
「いやそれよりあとの」
「ああ、記念日のほう」
「そうすね、つかあんたクリスマスのことも覚えてんだ?」
「当たり前でしょ……あとね、ちがうよ、付き合ってください、はわたしが言いました」
「うるせえっすよぉ、いいとこだけ持っていきやがって」
そう、そうなんですよね。あんたっていつもそうだ。
「プロポーズだってさぁ」
「わたしがしたね」
「ほんと何だったんすかねぇ、あれ。百歩譲ってそっちが言うのは良いとしてももっと雰囲気とか流石になんとかなったんじゃねえんですかね」
あはは、と笑った。ごめんね、なんてちっとも謝る気なんてないようすで、面白そうに。下ろした鞄をあける。
だからさぁ、あんずさん。
「もう一回、オレにちゃんと言わせてください」
「え?」
「『わたしが言った』なんて言われ続けてちゃこっちの面目丸つぶれなんで」
「うん……?」
「だから。……あんずさん」
――オレと、結婚してください。
真っ白のちいさな箱を差し出して、そっと蓋を開けてやる。ぽかんと口をあけて、あんずさんははい、と答えた。そうしてまた泣きそうな顔で笑った。オレの顔をまじまじ見つめながら、ゆっくりと差し出される左手は震えている。オレはその手をこわれものみたいに拾い上げて、いつのまにか色味を増した夕焼けを拾ってきらきらと瞬く宝石をその細い薬指に通した。それをオレンジのひかりに翳した彼女は、まぶしい、とぽつりとこぼした。
「……きれいな思い出になっていくんだと思ってた」
「きれいじゃないんですか、オレたちの思い出は」
「違うの、こういう、今と地続きの単なる『昔話』じゃなくって……たとえば、小さい頃に転校しちゃった友だちと話した会話とか、旅行先で見た景色とか。そういう、あとから思い出してきれいだなって思えるような、でも少しさみしいような、それだけの思い出に」
ぼうっと指輪に目を奪われたまま、彼女はぽつりぽつりと言葉を落としていく。オレはそれを最低限の相槌だけで聞いていた。
「出会ったときも、その次の年の夏も。一緒にしたお仕事も」
「はい」
いろいろありましたねぇ。
「告白してくれた時もごめんなさいって言ったときも、遊園地もESもエステレも」
「はい」
そのへんは……オレにとってはけっこうキツいとき。
「そういうの、全部。ただの意味もない宝物になるんだって思ってたの。しなきゃいけないって、思ってたの」
「はい」
あんたずっとそうでしたもんね、この頑固者。
「でも、したくなかった。したくなかったんだ、わたし」
「……うん」
「……ジュンくんのこと好きだった、ずっと前から。なんだか今、はじめてちゃんと思った……ううん、許せた、のかも。そっか、もうずうっと前から、わたし好きだったんだ……」
思わず、抱きしめた。随分遠回りをしたような気もするし、この道しかなかったようにも思える。でもどちらだってよかった。
「もうひとりぼっちだなんて思わせません。幸せじゃねえと不安ってくらいに思わせてやりますよぉ。あんたが、あんずさんがプロデューサーでもプロデューサーじゃなくても、ずっと」
「プロデューサーだよ、わたしはずっと」
そうですか、と返すと、耳元の声は誇らしげにうん、と答えた。胸の内側に宿る熱が、微かに震えている。夕日が、溶けるようにその輪郭を海につけた。
「ねえあんずさん、やっぱり結婚式挙げませんか」
耳元で小さく問うと、あんずさんは少し考えて、やがてこくりと頷く。
「笑顔が溢れる式、ね」
「それが理想っすねぇ」
そうしよう、と彼女はふわりと笑った。半分浸かった太陽が溶け出して、海は緋色に染まっている。空の真上から少しずつ夜が降りてくる。やわらかい、ぬるい風は微かに湿っていた。もうすぐ梅雨が来る。梅雨が明けたら夏が来る。出会った季節が、またやってくる。そうしてオレたちの周りを季節は飽きもせず巡っていくのだろう、きっとこれから何度でも。