ある庭師のその後雲がないせいか空が普段より高く見える。春を待ち望むつぼみを、久方ぶりに顔を出した太陽が照らしていた。
「庭師」の正体が明らかになって2カ月がたつ。一時期は腫れ物に触るように扱われていた零課も、猪狩や新藤の助力もあり寒さが緩むにつれて元の日常を取り戻していった。いや、過去を乗り越えてそれぞれが前に進んでいるようだ。少なくとも、榊の目にはそう写った。

「…これで全部、だな」
誰に言うでもなく1人こぼした声が空に解ける。ときに雪崩を起こすほどに書類が積まれていた机はがらんとしていて、妙に物寂しい。
謹慎が解けてすぐに提出した辞表は問題なく受理された。受け取った荒井にはもの言いたげな視線を向けられたものの、引き留められはしなかった。謹慎中に身の回りの整理をしていたことから薄々勘づかれていたのかもしれない。やはりチーフの目は誤魔化せない、とため息をついた。
拳銃を持てなくなったことに気づいた日から桜の代紋を返上することは考えていた。庭師を捕らえ、相模原さんの無念を晴らすまではと後生大事に抱えていたものの、今ではその理由もなくなってしまった。それどころか人を、それも後輩の大切な妹を撃ってしまった自分にはもう警察官として振る舞う資格がないように思われた。仕方がなかった、むしろ止めてくれてよかったと棗からも言われたものの、自分で自分を許せない以上なんらかのけじめが必要だった。今も彼女の責める声が聞こえる気がするときがある、というのは少し女々しすぎるだろうか。
辞職後は警備会社に就職するつもりだ。この三年間で培った身体能力を活かして誰かを守りたいと思ったからだ。まだまだ未熟なものの、合気道の心得もある。新藤に相談したところ、繋がりのある企業を快く紹介してくれた。面接など零課に配属されたとき以来で少し緊張する。

最後の荷物をショルダーバックに詰め、零課本部を後にする。資料室の前を通るときにふと正門に目をやると、見慣れた3つの人影に気が付いた。知らず足が早まる。
零課の面々が見送りに来てくれたらしかった。いつもの憎まれ口を叩きながら、暖かな助言を授けながら、はなむけの言葉を送りながら、それぞれの餞別を渡される。胸に抱いたそれらに引っ張られるように頭を下げた。
「お世話になりました。ありがとう、ございました。」
声が湿っていたことには、気づかれてしまっただろうか。
 
それからまた二カ月が過ぎた。新しい職場にも慣れ始め、私生活にも余裕が出てきた頃。降るわけでもなく晴れるわけでもない、どっちつかずの空の下で早朝の河川敷を走りながら、とりとめもない思考を巡らせる。
そろそろ夏の怪談が流行り始めるころだな。湿度が高くなるがカランコエは大丈夫だろうか、せっかくもらったのだから大切にしなければ。そろそろ梅雨も本番だろう。牛飼い座の流星群は月末だったか。綺麗に見られれば良いが…上の空だったせいか、橋の影になるところに立つキササゲがたくさんの花をつけていることに近づくまで気づけなかった。
咲き誇る花を見るたびに耳の奥で響く悲痛な喚き声。それは自分の受けるべき罰である。甘んじて受け入れる覚悟はあるが、どうしても身構えてしまう。しかしこの日はいくら待ってもその声が響くことはなかった。
違和感と同時に抑えきれない安堵を覚えた自分が嫌になる。湿気と汗でべたつく肌を鬱陶しく感じながらもストレッチを終え、河川敷を後にする。知らず下を向いていたからだろうか、足元に落ちた自分の影がはっきりと形をもったことに気が付いた。
振り返ると、雲が切れて鮮やかな日光が射しこんでいた。視界にあの木が再び映る。
そうだ、あの木の名前は——


1人の庭師は、世界からの気遣いを受け取った。しかしそれは虚構を築くことなく暖かに息づいていく。彼はそれを守ろうと気遣いながら生きるだろう。