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    mukachiman

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    mukachiman

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    フロム・エクスキューズ

    「氷室さん。海、海行きましょう」
    「急だな」
     唐突に言い出した金田にイエスともノーともつかなき応えを返したのが確か三日前だった。
     見上げた先にはどんよりとした灰色の空がだらしなく広がっている。
     遮蔽物が無いことがイコール良い景色だとは限らない。寂れた片田舎にあって複数路線が入ってはいるもののターミナルには至らない規模の駅からロータリーに降りて、二人はぼんやりと正面を眺めていた。
     ビジネスホテル、複合商業施設、オフィスビルーー都心で見るものより縦に短く横に長いそれらが広々と道幅の取られた交差点にでんと据えられているだけで、その先には何も無い。関東平野には山も無いから、ただひたすら道と低い建物が続いていくだけだ。氷室とてアウトドアは嫌いではないから田舎の方に出かけることも間々ある訳だが、こうも 場所にわざわざ出向いたのは初めてかもしれない。
     曇りとなれば風も一層冷たく感じられ、氷室はロングコートの前を合わせた。タートルネックのセーターを着てきたのは正解だった。昼を回るかというところだが、気温は朝から一向に上がる気配がない。
    「マジで急だったな……」
    「善は急げと言いますし」
    「何だよ。何企んでんだよ」
    「いやいや」
     金田は言葉を濁してへらへらと笑うだけだ。氷室は気怠げに周囲を見渡した。
    「迎えが来るんだっけか」
    「そろそろのはずですよ」
    「待ってらんねえよ。寒ィ」
    「そう言ったってねえ」
     連絡が来ていないかスマートフォンを確認し始めた金田を横目に、氷室はくあ、と大きく欠伸をした。潤んだ視界に、車道の彼方から近づいてくる黒い物体が滲んで見える。
    「あれか?」
    「ん? ああ、そうですね。それっぽいです」
     瞬いた睫毛から涙が降り落ち、良好になった視界に黒い物体が車だと認識された。黒塗りのハイヤーはロータリーをぐるりと回り、二人の前に音もなく停まった。
     中から現れたスーツの男性は、指先で目元の水滴を拭う氷室とスマートフォンを着物の懐にしまう金田とを交互に見て、白髪混じりの頭をぺこりと下げた。
    「金田様。お迎えが遅くなり申し訳ございません」
    「ちょうど今来たところですのでお気になさらず。ええと、西条さんのとこの……?」
    「ご挨拶が遅れました。西条の運転手で芦山と申します。滞在中のお供をさせていただきます」
     芦山は頭を下げたために僅かにずり落ちた眼鏡を直しながらはにかんだ。ぴっちりと整えられた髪に柔和な表情、笑い皺の多い顔はいかにも実直で人が良さそうに見える。
    「こちらは友人の氷室さんです。事前に連絡していましたよね?」
    「……どうも」
    「はい、伺っております。お二人とも、まずは宿泊先に向かわれますか?」
    「ええ。そうさせていただけると」
    「かしこまりました。昼食がまだでしたら西条がぜひご一緒にと申しておりますが……」
    「本当ですか? じゃあお言葉に甘えさせてもらいます。氷室さんも一緒で構わないですよね?」
    「勿論でございます。では、早速出発致しましょう。目的地へは二十分ほどで到着致しますので」
     二人分のささやかな荷物がトランクに積み込まれ、車は走り出した。ロータリーの正面に伸びる真っ直ぐな道をするすると振動もなく滑っていく。
     氷室は芦山を憚って、視線は前に向けたまま首を傾けて金田に耳打ちした。
    「お前、友達のところに遊びに行くって言ってたよな」
    「ええ。そうですが」
    「当然でしょみたいな顔してんじゃねえよ。これが普通のお友達の対応か?」
    「ふふ、だから最初からお金の心配は要らないと言ったでしょう?」
    「お前が奢るんじゃないのかよ。知らない人間の金で楽しむってのはどうにも……」
    「いえいえ、無償じゃないですよ。これは報酬、対価なんです」
    「対価?」
     耳元から顔を離して金田に向き直ると、得意げな表情を浮かべたまま金田はふいと視線を窓の外に移してしまった。
    「昼食のときに説明しますよ。どうせ西条さんも紹介することになりますから」
     大したことじゃないんですけどねえ、と独り言じみた声音で言いつつ、金田は熱心に車窓の景色を追うのを止めようとはしない。その妙な態度に困惑しつつも、氷室は追及をやめてシートに背を預けた。
     思えばこの小旅行に誘ったときから金田の様子はどこか普通ではなかった。浮足立っているというのか、それが旅行への期待や興奮から来るものだと思っていたのだが、どうも地に足が着いていないという言い方をした方が的確なようだ。
     金田は落ち着かなげに両手の指を互い違いに組んだり擦り合わせたりしている。
    「この辺り、地元を思い出しますね」
    「おや。どちらのご出身で?」
    「北関東です。もうちょっと山が見えるところなんですけど」
    「なんだ、東京出身かと思ってた」
    「言ってませんでしたっけ」
    「言ってない」
    「別に興味無いでしょう? 私の地元なんて」
    「あるよ」
     のろのろとこちらを振り向いた顔に、氷室は「ある」ともう一度はっきり言ってやった。金田はジト目で口を微かに開閉した後、結局またふいと顔を背けて黙った。
     やはり何かおかしい。が、どうやら氷室にとっては都合の良い展開になりそうだ。金田が喋れなくなるのは氷室に風が吹いている証拠である。
     氷室がそれを知ったのは二ヶ月ほど前のことだ。舌の回らなくなった金田を黙殺し、言いくるめ、結果的に氷室が望んだ通りに事は進んだ。
     事実上は戯れ程度の、だが決して忘れることのできない濃密な触れ合いだった、と思う。
     だがあの日から今まで、二人はキスの一つも交わしてはいない。
     無かったことのように、とはならなかった。確かにあの日から何かーー一瞬だけ互いの間に漂う空気だとかーーが変化した気がするが、それを露骨な態度や言葉にするとか、今度は正面から誘うとか、具体的な行動に移すのを氷室は避けていた。
     氷室が我を通すのは簡単だ。性行為を「これは二人が望んでいることだ」という共通認識として刷り込んでやる……だとか、或いはまた強気に要望を押し付けてみてもいい。金田は煩悶の末に結局は氷室を受け入れるだろう。
     そうだ。金田はきっとまた迷う。だからできない。氷室は金田の苦悩を知ってしまったから、できなくなった。
     金田はまた何か考えあぐねているのだろうか。
    「あ、海ですよ」
     車内に漂う妙な緊張感を掻き消すように金田は声を上げた。灰色の空を映す海はどこまでも灰色の濃淡で塗り込められていて面白みもないが、拓けた景色はいくらか開放的だ。
     金田の丸い頭越しに海を眺め、氷室は無性に煙草が欲しくなった。

     海岸線にほど近いところで車は止まった。
     その宿泊先は、ホテルとも旅館とも形容し難い曖昧な外観を海風に晒している。洒落た個人宅とでも言えばいいのか、それでもネイビーとホワイトで塗られた外壁と入口のスロープのせいで多少なり「施設」感が勝るその建物の雰囲気を一言で言うならーー
    「老人ホームか?」
     後ろから耳元で囁かれた金田はぎょっとして氷室を振り返った。
    「ちょっと! 聞こえたらどうするんですか」
    「じゃあ洒落てる老人ホーム」
    「そういう問題じゃなくて」
     小声で言い合っている内に頭に疑問符を浮かべた芦山がこちらを覗き込んだので、金田は跳ね除けるとも撓垂れるともつかない曖昧な仕草で氷室を押し遣り、芦山とその奥の新しい顔に苦笑を向けた。
    「す、すみません」
    「いえ……お待ちしておりました」
     素朴な顔立ちの女性がぎこちなく頭を下げた。ここのスタッフだという彼女は大学生だろうか、化粧の薄く丸い頬に笑みは無い。無愛想というより、酷く緊張しているという印象を与える仕草だ。
    「では13時にお迎えに上がります。それまではお部屋の方でお寛ぎください。何かあればご連絡いただければ対応致します」
    「あ、はい! また後で」
     芦山の愛想の良い声が背中にかかり、金田は振り返ってひらひらと手を振った。女性スタッフは堅い表情で言葉少なに館内へと促した。
     館内を進むごとに全面改修したばかりだとか内装は一部屋ごとに違うのだとか、ホームページの受け売りじみた説明を述べては気を遣って言葉を掛ける金田に対して、スタッフは終始微かに頷く程度の反応を見せるだけだった。金田は確かに寡黙な相手にも構わず話すところがあるが、それも節度を弁えてのことだ。今日はどうも、話しすぎている嫌いがあった。
     通されたのは二階の角部屋だった。これより上階に客室は無く、入って左手と正面に開けられた窓から海景を臨む。晴れていればもっと清々しい景色が見られただろうが、窓枠に切り取られた海もやはり灰色のままだ。
     部屋の鍵を閉めてから、氷室は視線に滲む違和感をそのままに金田へ向けた。
    「ああいう子構いすぎんなよ。迷惑かもしれねえだろ」
    「え、私ですか?」
    「喋りすぎだ。気ィ遣ってるのかもしれないけど見てらんねえんだよ。お前、最近ちょっと変だぞ」
    「いやいつも通りですよ。特に何も……仲良くなれたらその方が楽しいとか、それくらいで。うるさかったですかね?」
    「……まあ、いいけど」
     お互い珍妙な顔をして向かい合っているのは如何にも滑稽な感じがした。

       ▼▼▼

    「辺鄙なところに御足労いただきありがとう。僕は西条といって、この末吉くんの実家で一時期お世話になっていました」
    「お世話になります。氷室です」
     四人掛けにしては広々としたテーブルの向かいに、西条は大きな体を押し込めるように座っている。西条の正面には金田が座り、その隣に氷室が座る。この光景どこか馴染みがあるなと思ったら、大屋と話をするときの決まった座り順だった。
     テーブルには三人分の角盆が据えられた。盆の上には揚げたてのとんかつが三人分、西条はその巨体の割に頼んだ量は氷室たちと変わらなかった。視線からその意を感じ取ったのか西条は、「最近は回数食べるのにハマってるんだよね。微弱な空腹を感じた瞬間に食べるのが楽しいの」と悪戯の計画を明かす小学生のように笑った。
    「西条さんには本当にお世話になっていまして。実は大屋会長のお知り合いなんですよ」
    「あれ、言っちゃっていいんだ。彼も大屋くん関係?」
    「知り合い、ってまさか」
     氷室と西条は揃って金田を見た。当の金田は呑気にいただきますと手を合わせたところだったが、特に隣からの「説明しろ」の無言の圧に負け、溜息をつきながら箸を置いた。
    「はいはい……話しますから、おふたりはどうぞ食べててください」
     冷めていくとんかつを恨めしそうに眺めながら金田の説明した経緯はこうだ。
     西条は金田の実家の昔馴染みで元々親交があった。西条自身は拳願会会員ではないが(本人曰く「好事家」らしい)、率直に言えば裕福であり会員にも知り合いは多い。それを知っていた金田は、拳願仕合への挑戦に当たって西条に情報提供を依頼した。金田のような人間にも取り入り易く、且つ相応の企業成績を修める会員ーーそんな都合のいい条件があるかと思うが、金田には確信があったし、現にその条件に当て嵌る人物は早々に浮上した。
     白羽の矢が立ったのが大屋である。
     それから金田は西条から教えられた大屋の馴染みの居酒屋で虎視眈々と機会を伺っていたということだ。
    「そんなことだろうとは思ったけどな。お前も相当イカれてるよな」
     氷室に奪われたロースの一切れの代わりに置かれたヒレに齧りついた金田から応答はない。突き出した口元から皿の上にパラパラと揚げた衣が落ちる。
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    TIREDフロム・エクスキューズ「氷室さん。海、海行きましょう」
    「急だな」
     唐突に言い出した金田にイエスともノーともつかなき応えを返したのが確か三日前だった。
     見上げた先にはどんよりとした灰色の空がだらしなく広がっている。
     遮蔽物が無いことがイコール良い景色だとは限らない。寂れた片田舎にあって複数路線が入ってはいるもののターミナルには至らない規模の駅からロータリーに降りて、二人はぼんやりと正面を眺めていた。
     ビジネスホテル、複合商業施設、オフィスビルーー都心で見るものより縦に短く横に長いそれらが広々と道幅の取られた交差点にでんと据えられているだけで、その先には何も無い。関東平野には山も無いから、ただひたすら道と低い建物が続いていくだけだ。氷室とてアウトドアは嫌いではないから田舎の方に出かけることも間々ある訳だが、こうも 場所にわざわざ出向いたのは初めてかもしれない。
     曇りとなれば風も一層冷たく感じられ、氷室はロングコートの前を合わせた。タートルネックのセーターを着てきたのは正解だった。昼を回るかというところだが、気温は朝から一向に上がる気配がない。
    「マジで急だったな……」
    「善は急げと言いますし」
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