疲労を訴える身体を引きずって部屋に戻ると、心当たりの無い異臭が充満していた。
何かを腐らせて放置したような、少なくとも部屋を出てオキャクサマの相手をして戻ってくるまでの間で発生するようなものではない。
そも、部屋には一刻もしない内に腐り果てるようなものは無かった筈だ。
どうする。
誰かを呼んで清掃でもして貰うか。平素であればそうしていただろうが、今日は酷く疲れていた。
とにかく早く休みたい、と身体は休息を欲しているが、理性がこの部屋への滞在を拒む。
「逢美君」
唐突に背後から呼ばれ、返事をする前に襖を開こうと伸ばした手を捕らえられてそのまま強い力で引かれると碌な抵抗も出来ずに倒れ込む様に抱き止められる。
自分を名前で呼ぶ人物はそう多くは無い。かつ、君などと気安く呼び掛ける人物は此の場所の主人の一人である男だけと記憶している。
「癒皇、さん」
あの三人の中では比較的話の通じる部類で有り、少なくとも自分に対しては触れる前に許可を求めてくる様な接し方をされていた。
乱暴とも呼べる勢いで引かれた所為で体勢を崩し、身長差も有って下から見上げた彼の顔は俺の方を見ておらず、今しがた開けようとした襖をじっと見つめている。
「・・・何か、御用でしょうか」
「あぁ、急にごめんね。吃驚したね」
「・・・いえ、それは構いませんが」
話す間も襖からは目を離さない。
「幾つか確認したいんだけど」
「・・・はい」
「今日、誰かと会う約束はした?」
「・・・いえ、特には」
「じゃあ、今逢美君の部屋の中に居るお方は知り合い?」
ひくり、と喉が鳴った。
中に誰かいるのか。恐らく、この悪臭の持ち主らしきものが。
知らない。心当たりも無い。
オキャクサマだったとしても、もう間もなく営業時間は終わる頃合で、ましてや自室に案内するなど有り得ない。
僅かに首を横に振ると、にこりと微笑んだ黒い男は肩に掛けていた羽織を脱いで頭からすっぽりと覆う様に俺へ被せてきた。
「そっか、教えてくれてありがと。じゃあアレが痺れを切らしたみたいだから移動しようね」
抱えるから舌噛まないように、と言うが早いか、横抱きにされると同時に開けた場所へ駆け出す風で羽織が飛ばないように押さえた隙間から、強くなった悪臭と先程まで自分が立っていた部屋の襖が盛大に吹き飛ぶのが見えた。
「チッ、やっぱ正規の客じゃねェなアレ」
跳躍を繰り返しながら屋根を蹴り高い所へ上がっていく最中に小さく毒吐く珍しい姿を見ながら、背後を盗み見るが酷い臭いがするだけで追いかけて来ているらしいものの姿は見えない。
屋根を越えて反対側へ着地するとそのまま迷い無く廊下を進み、あまり見覚えの無い部屋の前に着くと襖を開きずかずかと侵入していく。
途中、見慣れた子供がそれなりに広い室内にも関わらず隅の方で二人固まって眠っているのを見つけてああ、この人の部屋か、と思い至る。
「今日は此処で休んでていいからね」
敷かれていた布団の上におろされ、部屋の物は好きに使っていいと説明を受ける。
他人の部屋、というのは落ち着かないが、何が居たのかは解らないが恐らくあの悪臭の残り香が染み付いている部屋に戻る気はしない。
平素であれば構って欲しそうにちらちらとこちらを窺う子供も大人しく惰眠を貪っているため、身体を休める程度なら邪魔は入らないだろう。
礼を述べると、幼子にする様に頭を撫でられるが大人しく享受する。この程度で、軽々に反抗するのは得策ではない。
「私はこれから逢美君の振りしてアレに御退店願って来るけど、私が戻るまでその羽織は脱がないようにしてね」
俺の振りをする、とは。
どうやって、と考えている間に続けて「ごめんね?」と謂れの無い謝罪と同時に肩口に彼の吐息を感じたと思った瞬間、鋭い痛みを感じて咄嗟に唇を噛んで耐える。
ぶつり、と鋭い物に皮膚が裂かれ、染み出る液体を舐め取られてちりちりとした痛みが走る。
ちゅう、と耳障りな音を立てて離れていった男は口端から伝った血を舐め取りながら、今付けたばかりの傷を撫でた。
「臭いが落ち着くまで休んでていいから、ちゃんとした『上書き』は後でやろうね」
にっこりと微笑んだ男は新しい羽織を肩に掛けると、ばさりと翻しながら部屋を出て行った。
・・・あれもあれで厄介だな、と認識を改めて、せめて体力ぐらいは回復させておこうと甘んじて羽織ごと横になる。
誰にも聞かれる事の無い溜息は深く、止められそうになかった。
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招かれざるキャクと、過保護にされる話。
この後めちゃくちゃ上書きされた。