薄暗い中で灯ったタバコの灯は小指の先ほどで小さい。けれど、自分のそばで灯ったこの火の光がどれほど強いか。
肺を満たす煙があたたかい。
「絶対に一人にしない」
まっすぐに見つめてくる、不器用な男の目。
どこまでも自分を見つめてくれた男の目。
イトウとアリアンが出て行ったあと、予想はしていたが俺たちの組織は無茶苦茶になった。圧倒的な暴力を持つイトウがいなくなったことは、組織としての制御と力、防御、威厳を失わせた。死ぬ者、離脱する者、裏切る者が次々と現れ、解散宣言もなく事実上崩壊した。二人はここを守るために出て行ったというのに皮肉な結果だった。自分の力ではどうにもならないことはわかっていた。この組織はイトウとアリアンの武力があってこそ成立していたものだ。自分の役目はその力の下で起こるさまざまな細かいものの調整をつけることだった。屋根がない家は朽ちていく。わかってはいた。それでも、不甲斐なさを悔しいと思わないほど激情がないわけでもない。
アヴドゥルの終身刑が確定した日、組織のメンバーはついにボビーと俺だけになった。たった二人で組織を名乗るのも笑える話だが、それでもいつか帰ってくるかもしれない二人のために組織としてありたかった。
利便の良い溜まり場であった波止場の倉庫は、いまはすっかりヨハンのものだ。トライアドを通した商売は安定しているようだった。小利口なやり方だ。一番大きな組織に筋を通しておけば、縛りはあるが庇護もある。だが、イトウをはじめとした俺たちの組織は誰かの下につくことも拒んだ。もともと「誰にも踏まれたくない」と願って集ったのだから。
夜の港は静かだった。今日は何の取引もないのだろう。人の気配も、車のエンジンが唸る声もしない。ざざ、と寄せる波の音、その波に揺らされてぶつかりあう船たちのきしみ。それだけが繰り返し繰り返し流れてくる。吐き出した煙草の煙はすぐに夜に塗りつぶされて消えた。
「ここに居たのかよ」
背後からかけられた馴染みのある声は、少しホッとしたような音を含んでいた。何も言わずに出たせいだ。悪いことをした。
振り返り見る、弱い電灯で浮かび上がる男の姿。左側に斜めに傾いた大きな体。少しだけ赤みがかったまるい鼻先、下から伺うような目。もうたった一人の仲間、ボビー。作り物の足を引きずりながら、ボビーはこちらに歩み寄ってくる。これも失ったもののひとつだ。
隣に立ったボビーはまっすぐ海を見た。自分もつられてそちらを見る。真っ暗な海はさざめきの端に街灯の黄色い光が落ちていた。小さく儚い光はすぐに粉々になって海に溶けていく。
「これからどうすんだ?」
何をとは問わない。言わなくても分かりきったことだ。
「どうもしないさ」
どうかする?いや、どうにも出来ない。イトウのような力は自分にはない。自分にできることは、ただここで残り続けるだけだ。かつての姿でなくなったとしても。
「……なんでだ?」
なんで、と問いかけてくるからには聞いたのだろう。余計なことを言う奴がいたもんだ。イトウと親しかった組織メンバー。それだけの肩書きが魅力的に見える奴もいる。そんな手合いからの勧誘はお断りだ。もとよりどこかに行くつもりもないけれど。
「イトウに言われたからって、俺の面倒見る必要ねえぞ」
小さな声は少し拗ねた響きをしていたから、思わず、ぷはと笑いが漏れた。イトウが最後に残していった「見張ってろ」のこと言っているのだ。考えなしで乱暴で、すぐ手が出るくせに、この男はこういうところは繊細だ。かわいいとすら思える。
「なんで俺があいつの言うことなんか聞いてやらなくちゃいけないんだ」
思いきり肩を抱いて引き寄せた。どんとぶつかった大きな体は重たくて安心する。からかわれていると思ったのだろう、ボビーはバツが悪そう身をよじる。腕の中から逃げてしまいそうになったから、その肩をもう一度抱き直した。拗ねているようで見上げた顔はくちびるがとがっている。ふかしていたタバコを口から外し、その口に当ててやる。
「やるよ」
ほんの少しだけボビーはタバコを見つめたあと、素直に口に咥えた。吸い込んだ息と共に赤い火種が闇に鮮やかに浮かび上がる。小さな光がボビーの鼻の頭をぽつり照らした。
「お前こそ、好きにしていいんだぞ」
もともとのし上がりたい気持ちが強い男だ。自分のしみったれた未練なんかに付き合わなくてもいい。今度は肩を抱く力をゆるめる。離した指とボビーの肩との間に冷えた潮風が滑り込んだ。ボビーには、新しい場所で、新しくやり直す権利がある。この崩壊の発端を自分がもたらしたものだとボビーはわかっている。しかしこの道でなくてもいつかはきっも崩れていく塊だったのだ。だから。「責任なんか感じなくていい」そう付け足した途端、強く肩を抱き寄せられた。ひっついた体からこどものように高い体温が半身に伝わってくる。
「俺はお前を置いていかない」
きょとんとして顔を見上げる。ボビーはこちらを見ないまま続ける。
「絶対にだファティ。何があっても。死んでもだ」
ボビーはタバコをひと吸いし、煙を吐く。それからそのタバコをこちらに寄こした。見下ろしてくるふたつの目はまっすぐそらされない。そこには海に落ちている光を反射して、月のように丸い光がぽつりと灯っている。口を開くとタバコはそっと差し入れられた。素直に咥えると、吸口がひたりとくちびるに張り付く。湿って温かかった。お前も同じように感じただろうか。
同じ煙で肺を満たす。
頼りない街灯がぽつぽつと並ぶ波止場、足元もおぼつかない暗さの中でただ二人立ちつくす。腹の底にひっそりと抱いていた心細さは消えていた。ボビーの肩を抱いていた手を首筋に這わす。温かい肌の下、ずくずくと血が流れているのが手のひらに伝わる。ここにいると強く教えてくれる。引き寄せると肩にボビーの額が押しつけられた。吹き付けてくる風は二人の間を抜けることはない。
波止場は先と変わらず、暗くさびしい。けれど今かいだ潮の香りが、隣の男のにおいと混ざって懐かしく、優しく、心をなでる。味わうようにタバコの煙を吐き出す。
「俺も、俺もだボビー」
約束する、絶対に。
お前は約束を守る奴だ。俺は置いていかれていないし、お前を置いていってもいない。ちゃんとお前はここにいる。
へし折れたタバコの先、火はあかあかと鮮やかに灯っている。
アクセルをゆっくりと踏み込む。むせかえるような錆びた血、油、排ガス、硝煙。それらが混ざり合って、ひどいにおいが割れたフロントガラスから流れ込んでくる。
けれど、吸い込んだタバコからだけは、隣にいた男のにおいがした。