出会ってしまった「上手く行かないもんだなぁ」
面接を受けた会社からの落選のメールを眺め独りごちた僕に、バーテンダーは優しく微笑みかけると無言で新たなグラスを差し出した。
ここへ通い出して早ひと月。そろそろ顔も覚えられてるし、なんなら早い時間から入り浸る僕が恐らく無職である事もバレてるだろうに優しいお兄さんだ。うっかりお悩み相談なんてしちゃいそうなところをなんとか堪えて、礼を告げるとステージに目を向ける。
ここはアパートからそう離れていない場所にある小さなジャズハウスだ。そうと知らずに入った僕はもちろんジャズの知識なんてこれっぽっちもなかったんだけど、当時少しだけ落ち込んでいた僕には耳馴染みのない音楽は新鮮で、いい気晴らしになったのだ。
何で落ち込んでいたかって? 付き合って半年の彼女と、僕が無職でい続ける事が原因で別れたって言えば理解して貰えるかな。
僕だって別に好き好んで無職でいるわけじゃない。すぐにでも働きたいと思っているし、やりがいや存在意義を見出せる職場があるなら飛び付くだろう。けれども人生はそんなに甘くはない。
以前の職場で上司にパワハラ三昧を受けていた僕は、多分、臆病になっているのだ。自分では自覚していないけど、その潜在的に持っている消極性が、面接官には見抜かれてしまう。もちろん、彼女にもお見通しだった。
最初こそ焦らずゆっくり英気を養えばいいよ、と言ってくれていた彼女は、とある著名な記者に文才を見出されて忙しくなり、そんな彼女からすればいつまでもうじうじしている僕がちっぽけに見えたのかも知れない。
(違うな、ちっぽけだと思ってるのは僕自身か)
「そういえば、今夜はニーマンが出るよ」
そんな事を考えていたら、不意にバーテンダーがそう言ってステージを指した。そこには、端の方に設置されたドラムセットがある。
「最近多いんだ、暇なのかな」
「でも彼、注目株なんだろ?」
「チャーリーは好きだね、彼のこと」
「好き…かあ、考えたことなかったけど確かに、ここへ来る半分は彼を見に来てるかも」
アンドリュー・ニーマン。彼は最近僕が知った、この店で時々叩いているドラマーだ。先日仕入れた情報によると、彼は某有名な指揮者の元で実力を見出された新進気鋭の若手、にも関わらずなかなか彼の活動が軌道に乗らないのはその気難しい性格のためエージェントとしょっちゅう揉めるから、そんな事もあり、ここへは知り合いの伝手で純粋に音楽を楽しむために来ている、ってことらしい。
「それなら朗報だな、今月の週末は出ずっぱりだ」
「え、じゃあまた…?」
「ああ、揉めたみたいだな。キャシーは有能なエージェントだったけど、彼とは馬が合わなさそうだった」
はあ、そういうものかな。エージェントが具体的にどんな仕事をしててどういう関係性の存在なのか詳しくは分からないけど、アシスタントを長らくしていた僕なんかは、馬が合わなかろうが食らいついてやっていくくらいの人じゃないと、彼みたいな『芸術家肌』な人間とは長続きしないんだろうな、と思ってしまう。
仕事は忍耐だ。どこだろうとそんなもんだろう。 彼自身もまた、今現在忍耐の真っただ中にいるのだろうし。
「残念だな、実力はあるらしいじゃない彼」
「だが芸の世界っていうのは、実力があるだけじゃ売れないってことなんだろ。…なあチャーリー、君は彼のどこに惹かれる? 彼の魅力は何処だと?」
「そうだな…」
ステージに現れた彼を目で追う。楽しみに来ているという割にはいつもどこか茫洋とした空気を纏っていて、なのに不意に狂気に似た煌めきを垣間見せられる事がある彼の演奏。何か越えたい壁があって、足掻いて、藻掻いて、必死で辿り着いた先のユートピア。そんなものを探している、探究者のような眼。けれどもそんな表情はほんの一時で、普段の彼は本当に音楽の中で呼吸をしているような。そんな、ミステリアスな世界観を持つ男。
あのどこか憂鬱な影を落とす瞳が、ドラムを叩く時にだけ爛々と光る様子も、そんな彼の世界観を後押ししているだろう。
「…でも今彼が胡乱な眼差しを隠しもしないのは、キャシーの件でうんざりしてるからかな」
そう言って肩を竦めた僕に、バーテンダーは笑って頷いて見せた。
***
アンドリュー・ニーマンのステージが終わって、そろそろ帰るかと思っていた時だった。
「おい、お前チャーリー・ヤングか?」
そう言って僕の肩を叩いた彼は、リックの事務所で働いていた証券マンだ。名前は確か、ジョセフ・オットー。隣にいるのはダニエル・カーター。フルネームで出てきてしまう職業病がまだ抜けない脳みそに辟易して思わず顔を顰めると、二人は何が楽しいのか、ニヤニヤと笑った。
「リックの元から逃げ出したって聞いたぞ? こんな所で夜遊びか?」
「業界で見ないが今どこにいるんだ?」
痛い所を突かれて黙り込んでいると、二人は顔を見合わせる。
「さては無職か? それともここでアルバイトでも?」
「さあね、関係ないだろ」
失礼な元同僚達には構わず店を出ようとした僕の腕を、カーターが掴む。
「おっと、そうつれなくするなよ。“リックのお嬢さん”」
「は?」
「そう呼ばれてたの、知らない訳じゃないだろ? いつも彼の全ての世話をしてた」
「“咥え込んでる”って、みんな知ってたぞ? 恥ずかしがるなよ」
「な…っ、そんなわけ」
血の気が引いて、目の前が真っ白になる。思い出したくもない、それは以前の職場での僕の、あまりに下劣で否定する気も起きなかったとある噂。事実無根であるとしても、彼らはやめない。だから止めなかったし、知らないふりを貫いた。本当は悔しくて悲しくて散々な気分だったけど、いつか奴らを見返して、自分が上にいく時が来るって、そう信じていたから耐えられた。
(でも今更そんな気分、味わう事になるなんて)
何もかも上手くいっていない僕には、単なる苦痛でしかない。否定も拒絶も出来ずに立ち尽くしていると、腕を取ったカーターがそのまま僕の耳元に囁いた。
「リックに捨てられて寂しいんだろ? 俺達が相手してやろうか?」
酒精に交じる下品な情欲の気配に、思わず身を引いた、その時だった。
「え…?」
カーターの姿が目の前から消える。一瞬の出来事に呆気に取られていると、隣に立っていたのは。
「…アンドリュー…ニーマン?」
何故か不機嫌そうに眉を顰めた、彼その人だった。
***
「な、何してるんだ君は…! どうかしてるよ、ほんと」
「だって…腹立ったから。別に友達じゃないだろ?」
「…友達じゃない、けど」
さっき僕の目の前で起こった事。元同僚の片方、カーターをぶん殴ったアンドリューが、次いでオットーの胸倉を掴んだところで、僕は慌てて二人を引き剥がして店を出た。彼の腕を引いて。二人はかなり酔っていたせいか追って来るような事はなかったから、あとはまあ、店の人がなんとかしてくれるだろう。
「そんな事じゃなくて、君、ドラマーだろ?」
「…」
「手、大切にしなきゃいけないんじゃないのかよ」
掴んでいた彼の腕を放して、拳を確認する。案の定、カーターの歯にでも当たったのか拳は割れて、血が滲んでいた。
「ほら、怪我して…ってえ、なんだこれ、君のこれ、どうした?」
「どうした、とは?」
「いや、なんでこんな傷だらけ?! もしかしてそこらじゅうで喧嘩でも…」
「違う。ドラム叩いてると、こうなる」
「嘘だろ、マジでやばいやつじゃん」
「…やばくは、ない」
「いやいやいや…これ放っておいちゃダメだ。切れてるし、こっちはマメが潰れて酷いな…」
「平気だ、いつものことだし」
しれっとそう言う彼は本当に気にして居なさそうで、確かにごつごつとした肌触りの掌は既に何度もこうして肌が破れてきたのだろう事を思わせた。それでも、なんでもない風に言ったアンドリューは、僕が傷に触れると痛むのか、少しだけ顔を顰める。痛いんじゃん。
「…お礼になるか分からないけど、手当てさせてよ。家、すぐそこなんだ」
「え、いや」
「いいから、そのままにしとけないよ。仮にも僕は君のファンだし」
「え?」
「ああ、そうか。自己紹介もまだだったね。僕はチャーリー・ヤングだ。チャーリーでいい」
「あの、」
「そら、行こう。アパート、ここから見えるところだからさ」
半ば強引に彼を自宅に連れて帰り、傷の手当てをした。どことなく断りたそうにしていたアンドリューがけれども強く拒絶する事はなく、されるがままに家に着いてきて、僕の手当てを受けてくれた事にひとまず安堵する。
「あんまり上手くはないけど、消毒だけでもしといた方がいいだろうから。あんま無茶するなよな」
「…あの、さっきの」
「ん?」
ソファに座って大人しく手当てをされていたアンドリューが、意を決したように切り出す。
「僕の、ファンだって」
「ああ、うん。よくあそこで、君の演奏を聴いてるよ。ジャズなんて全然わからないんだけどね」
「ジャズが分からないのに、僕のファンなの?」
不思議そうにそう言ったアンドリューは、演奏中には見せた事のない、きょとんとした顔をしていて。その表情は彼を年齢よりもいくつか幼く見せた。思わず笑うと、また首を傾げる。
「ごめん、そうだよな。確かに、君のファンならジャズの一つでも知っておかないと、ファンなんて言えないか」
「いや、別に。ジャズきっかけじゃないならどうやってその、僕のファンになったのか、興味ある」
確かに、アンドリューの疑問は至極尤もだ。僕はかりかりと頬を掻きながら、言葉を探す。
「なんていうのかなぁ」
自分が傷ついて、俯いていた時だからだろうか。同じように上手くいかない状況の中で、それでも魂を焦がすような演奏をするアンドリューの姿に、魅入られてしまっていた。自分にも何か、夢中になって頑張れるものがきっとあるかも知れない。そんな風に、単純に元気を貰えてしまうくらいには。
「…だから、残念だけど君の演奏が凄いとか、技術が凄いとかね、詳しく語れるわけじゃないんだ…がっかりした?」
僕の言葉に、アンドリューは黙って首を振って。そこで初めて、ゆるりと口角を上げた。
(あ、笑った…?)
笑うと、女の子みたいに可愛いんだ。そんな彼が、あんな、獰猛な肉食獣のような眼をしてスティックを振るう姿を、僕は知っているけれど。
「…ありがとう。そんな風に言ってくれる人がいるなんて思ってもみなかったな」
「え? いや、こちらこそありがとう?」
「ふふ…で、貴方は何で悩んでたの?」
ここで僕が某有名証券マンのアシスタントをしていたこと、そこを半年前に辞めて、現在は求職中であること。ちなみに恋人とも別れてフリーであること。求められる職場があればすぐにでも働きたいことなんかを話したのは、運命だったのだろうか。
「じゃあ君、僕のエージェント業務担当してみない?」
そう言った彼が数か月後、僕のビジネスパートナー兼恋人になるなんてことは、この時の僕はまだ、考えもしなかった。