携帯端末の画面に表示されているメッセージを目でなぞる。仕事の合間に私用の携帯端末へ届いた連絡を確認するのは依織のルーチンワークの一つで、いつも通りの短い休憩に入ったタイミングで手が私用端末を取り出したのも無意識の動作だった。善が横から差し出してきた緑茶を口に含みながらチャットアプリの通知を消していくうち、ふと珍しい名前に行き当たって視線が止まる。
『明日の天気わかるか』
送られてきたのは短い質問だった。指が迷わず返信を打つ。そこに思考のさし挟まる余地はない。
『いちんち雨の予報やけど、一時頃から少しやったら晴れるかもな』
メッセージに既読マークが付く。ほどなくして誰が贈ったのかかわいらしい猫が感謝を述べるステッカーが貼られたので、手を振るトラのステッカー(こちらは玲央が贈ってくれたものだ)を返して画面を閉じる。端末をしまいながら横から伸びてきた善の手へ空の湯呑みを渡すと、依織は背中を反らして大きく伸びをした。
「は〜ァ……っと、善、明日なんやけどな」
「はい!」
「午前一時から……まあ多めに見積もって三〇分間としよか、裏口周りから事務所まで誰も近寄らんようしといてくれ」
「はッ、承知しました」
依織の取り決めに自分から立ち入ることのない右腕は、しかし生来の正直さから感情や疑問がひどく顔に出やすい。依織は物言いたげな善にへらりと笑いかけると、「俺の客や。個人的な、な」と声を落として言った。
事務所の扉がノックもなく開く。革靴で床を鳴らしてPCから目を上げない依織の前に立った男が、「漏れねえだろうな」と低くつぶやいた。
「寝言言いなや。俺の城やぞ」
「悪ィが、俺の勘はもうあてになんねえからな。念には念をだ」
「どうだか……ちゃんと、見られんと来たんやろ」
そう言ってようやく顔を上げた依織が微笑んでみせると、男は眉を寄せて依織へ笑い返した。わずかに波のある黒髪。琥珀色の瞳。皮肉げな口元としかめ慣れた眉。依織は唇を湿らせて「さて、」と切り出した。
「人払いは三〇分間や。茶ァものうて悪いけど、さっさと用件聞かしてもらおか」
椅子に深くかけて指を組む。日にちを指定して天気をたずねるのは、二人が相棒だった時分に内密に合流するために用いていた暗号だった。それを今になって使用するということは、男の持ってきた話はただごとではないということ——あるいは、少なくとも、ただごとではないと依織にあらかじめ知らせる必要がある話題であるということだ。
かつての相棒、神林匋平が依織の前に立っている。
「……〝夢を見せる店〟の噂、聞いてるか」
ろくでもない事件の始まりとして。
2022/01/23発行予定/抱きしめてやる(仮題)