死体の臭いがすると思った。
「……気に入らなかったか」
ほんの一瞬依織の目に差した剣呑な色を見てとって、匋平が差し出していた花束を少し引っ込める。動揺した様子はない。依織の反応を予想していたのだろうか。花屋でこの花束を受け取ったその時、匋平の脳裏にも同じものが香ったのか。
「——いやあ、あんまカワイイんで驚いてもうただけや。おおきに!」
引き寄せるようにして淡い桃色の花束を受け取る。潰さないよう慎重に腕に抱くと、鼻先に甘い香りが立ちのぼった。依織の記憶を刺激したものの正体はやはりそれであるようだった。
腐り始めの死体は甘い香りが立つのだ。
原理は知らない。興味もない。おそらく何かしらの成分が、花のそれと重なるのだろう。無論それは花そのもののかぐわしい香りとは全く異なるが、おぞましい光景にそぐわない一瞬の甘さは妙に印象に残り、結果として今何の変哲もない花束を前に依織を戸惑わせた。
依織の後ろからいつものように花束を持ちに来た善へこれもまたいつものように「店に飾っておいてくれ」と言うと、匋平は手ぶらになった依織へ視線を戻して肩をすくめた。
「悪かったな。いつも、香りの良いやつにしてくれって言ってんだ」
「何も悪いことないやろ。むしろ気ィ遣ってもろて申し訳ないくらいやわ」
依織の言葉をほとんど無視して、匋平が「ジャスミンだろ」と言う。
「バラの周りの、白い花」
小柄な花からひときわ強く香った絵に描いたような〝花の匂い〟に何を思ったのか、やはり匋平は依織の表情から察しがついていたらしい。
「……あァ、小さい花な。たしかにあれから、良え匂いしたかもなあ」
CANDYの近辺に用事があると、匋平は花を携えて依織のもとに立ち寄る。「店に飾ってくれ」と決まり文句のように言い添えて。色合いはそう鮮やかなものでなく、大きさも持て余さない程度のものだ。一度タイミング悪く出くわした二、三人のキャストからずいぶん地味なものをと絡まれた時、匋平が涼しい顔をして「ココの一番の花はあんたたちだからな。花瓶の花が目立つ必要なんかねえだろ」と述べたので、依織は内心舌を巻いたものだった。
——そうして今日もまた、淡い桃色のバラの周りを白い花でまとめたシンプルなブーケだ。
見た目には主張がなくていい。花を見て喜ぶような相手ではないから。香りの良いものがいい。興味などなくとも、香りが届けば気分は良いだろう。
そんな風にオーダーをする匋平の姿は想像に難くない。依織に花を愛でる趣味はないと知りながら店への礼儀という建前で幾度も花束を贈ってくる匋平の心情はどうにも量れないが、不思議とそこに、こういった贈り物にありがちな自己満足は感じなかった。依織を困らせないための気遣いがあるからかもしれない。少しはかわいくも思う。いじらしい。花を贈りたいなどという願望を、この神林匋平がこの翠石依織に抱いているということが。
「……手に残っとるわ。不思議やなあ、匂いって」
指先に鼻を寄せて依織がそう言うと、匋平が「へぇ」と相槌を打って依織の手をとる。依織の無骨な指先に美しい鼻先が寄せられて、まぶたが数秒伏せられる。
「ああ、たしかに甘いな」
開かれた目が依織を見た。隠す気のない、口説く視線だった。
「今夜は?」
「……そうやなあ。店行こうかな、仕事上がったら」
「そうか。待ってる」
丁重さ以上のものはないくちづけが手の甲に落とされ、匋平は手を解放して身を引いた。そつのない、大人らしい、物分かりのよい態度だった。儀礼的なあいさつを互いに口にして店に戻り、善が先ほどの花を生けた花瓶のそばで足を止めて、依織は短く目を閉じる。やはり覚えのある、鼻をつく甘い香りがするが、近くで嗅ぐと生花らしい青臭さも目立った。
目を開く。何の変哲もない花がある。匋平から花を受け取って抱く瞬間の、香りがふわりと立つ感覚を、この先どこかで思い出すかもしれない。そう思う。路地裏で。アパートの一室で。地下室で。だからどうということもない。ただ、そうなるだろうとだけ思う。
(20220613/砂糖は甘く、そして貴方も)