ダムゲートコントロール――アドラー星、エラルド島。
「い、いー天気!」
サマルは洗濯したシーツを干しながら、久しぶりの地上、久しぶりのお天気を楽しんだ。
約二年間に渡る西太陽系の海賊退治任務が終了し、大インドサーカス傭兵団はバキン・ラカン帝国のエラルド島に寄港していた。
「久しぶりの地上だからな、この日光で干されたシーツで寝るのは気持ちいいだろうね」
長い髪を束ねたアーリアは、サーヒルが追加で運んできた洗濯物をどんどん干してゆく。大量のシーツが風に揺られ、辺りには石鹼の柔らかな香りが漂っていた。
「なんつーか、のんきですね」
二年ぶりの地上でまずやることが洗濯とは、とカーシは呆れた。とはいえ、このフットワークの軽さ、雑用でも自分で行うという気質が大インドサーカス傭兵団の雰囲気づくりに寄与していることは間違いない。
「のんきなくらいがちょうどいいんだよ。いつも気を張ってたら疲れてしまうだろ?」
口ではそう言いながら、カーシは団長と並んでどんどんシーツを干してゆく。
「まあ、そうですね。ところで、クマールはどこです?」
「彼には市場での買い物を頼んだけど……あー、そっか、そっか、気が回らなくてごめんね。一緒に買い出ししたかったよねー、久しぶりの地上デートしたかったよねー」
「団長。うざいです」
恋人が見当たらないので何気なく聞いたところ、面白がるような顔でアーリアは返事をした。
戦場では頼りになる指揮官であり、誰よりも星をあげる騎士だが、この性格なので、いい意味では取っつきやすく、悪い意味では面倒くさかった。
カーシは面倒くさくなり、アーリアから離れ、洗濯場へ向かった。たまにこういった絡みはあるものの、アーリアは基本的に放任主義だ。クマールとカーシの出自に何かあると気づいているが、そこには触れない。とはいえ、面倒くさいことには変わりない。カーシは汚れたシーツをどんどん洗濯機に放り込んでゆく。
一方、クマールは……。
「じゃがいも一〇〇キロ、にんじん五〇キロ、小麦粉と米が五〇袋ずつ……うーん、大量」
「はい、この量を運ぶのは大変なのでクマール様が来ていただいて助かります」
「クマールでいいよ。班長より僕の方が新入りだしね」
普段は厨房で働く調理班と共に市場で買い物の最中だった。騎士二五名で構成される大インドサーカス傭兵団だが、働いているのは騎士だけではない。GTMを調整する整備班、どんな時でも食事を用意する調理班、怪我人を治療する医療班など、総勢百名を超える大所帯。GTMを動かすにはたくさんの人々が必要だった。
というわけで、買い出しは大切な業務であり、大量の荷物を運ぶには数十キロもあるガット・ブロウ(騎士用の剣)を軽々と振り回す騎士の力が重宝される。
「では、クマールさんで。荷物運びを手伝っていただいたので、今日のメニューはクマールさんの希望で決めましょうか」
「いいんですか? えーと、じゃあ久しぶりにねぎうどんが食べたいです」
「わかりました。追加でねぎを三〇束買いましょうか」
エラルド島の中心、ナラシンは帝国領地だが完全自由商業地区として解放されている。そのため、様々な国の人々が様々な物を売りに来たり、買いに来たりと賑わっていた。
調理班のメンバーとクマールは次々に食料を買っては船に積み込み、忙しい半日を過ごした。
「ご、ごめんなさい」
クマールが小麦を五袋一度に運んでいたところ、急に片腕に力が入らなくなり落としてしまった。
「大丈夫ですか?」
幸い、近くに人はおらず、誰かの足の上に落としたり、小麦の袋が破れるなどの被害はなかった。
「はい、急に力が入らなくなって……あ、戻りました。落としてしまい、すみません」
「いいんですよ。それより、腕を医療班に診せた方がいいんじゃないでしょうか?」
「すぐに治ったんです、大丈夫ですよ」
クマールは不思議に思いながら、右腕をさすった。こんなこと、一度もなかったのに。
「駄目です、帰ったら絶対に診せてくださいね。積み込みは私たちで行っておくので、クマールさんは自身の買い物をして来てください」
班長の有無を言わさない。船から追い出されてしまったクマールは、仕方なく市場の方へ歩みを進めた。
もう一度右腕に力を込めるが、違和感はもうなくなっていた。楽観的なクマールはきっと一時的なものだろうと思い、医療班に診せるのも面倒に思い始めていた。
あてもなく市場を歩いていると、いい香りのする屋台の前で足を止めた。クマールの好物である黒糖マントウの屋台だった。湯気をあげて蒸されているマントウを見て、クマールは迷わず買うことを決めた。しかも、カーシも好きなレーズン入り。ねぎうどんのデザートにピッタリだ。
手持ちと相談して自分とカーシの分、ふたつ買おうと決める。
「すみません、黒糖マントウをふたつください」
「はいよ。包むかね?」
「お願いします」
体格のいい店主にマントウを注文して受け取る。黒糖のふんわりとした香りが漂い、クマールは無性に腹が減った。しかし、これはデザート用なので我慢と自分に言い聞かせる。
「マスター、おれも食べたいです」
突然、後ろから声がした。
振り向くと、ボロボロのマントを羽織ったファティマが立っていた。
「マスター……って僕のこと?」
「マスター以外にマスターはいません」
話が通じない。
着ているマントは泥にまみれ、毛羽が目立つため明らかに主人を失ったロスト・ファティマに違いない。周りにクマール以外に騎士はいないので、このファティマは明らかに彼に話しかけていた。
「うーん……僕はクマール。君の名前は?」
「おれはチッティ」
通常、主人のいないファティマがマスターに適した騎士を見つけても、騎士が応じなければマスターにはならない。クマールには、チッティというファティマのマスターになった覚えはなかった。
とはいえ、主人のいないファティマを放ってはおけない。自由都市ナラシンにも違法ファティマブローカーくらいいるだろう。彼らはファティマが人間の言うことを聞かなくてはならない性質をいいことに、売春宿で働かせるなどの悪事を行っている。
ここでクマールがチッティを保護しなければブローカーの餌食となるだろう。それに、主人となった覚えはないが、彼がマスターと呼ぶのだからマスターなのだろう。
「チッティ、僕は大インドサーカス傭兵団に所属してて、今からそこに帰る予定だけどいいのかい?」
「うん。マスターの命令ならそれでいい」
もしかして、このチッティというファティマは壊れているのかもしれないとクマールは思いついた。承認していない騎士を勝手にマスターと認めるなど、通常のファティマならありえない。
ファティマを所有したことのないクマールは困惑しつつ、とりあえず団長に見せることを決めた。彼女ならファティマ・ガーランドとのつてもあるはずだ。
「じゃ、おいで」
ふたりで歩き出そうとすると、クマールのものではない腹の虫の音が響いた。
「もしかしてお腹空いてるの?」
「うん。ここしばらく何も食ってない」
「そっか、マントウ食べたいって言ってたしね。これ、食べながらでいいから一緒について来られる?」
ファティマは針金のような体をしているので、元々細いのか、飢えて細いのかが分かりにくかった。クマールは買ったばかりのマントウふたつをチッティに渡す。
「マスター、ありがと」
「いいんだよ」
チッティは躊躇いなく、湯気をあげるふかふかの黒糖マントウにかぶりつく。
「おいしいかい?」
夢中で食べるチッティに和やかな気持ちとなり、クマールは聞いた。
「うまい! マスターも一口食べる?」
「じゃあ、もらおうかな」
チッティがちぎった黒糖マントウを受け取り、クマールは口に放り込んだ。ふかふかで、もちもち。そして黒糖の優しい甘みと芳醇なレーズンの味が口に広がった。
「おいしいね」
「うん!」
子供のように素直なチッティと、好物を味わって温かな気持ちになったクマールはお互い笑顔を交わし合う。
これがチッティとクマールの出会いだった。
船に戻った調理班の皆は数十分の間にクマールがファティマを連れて帰ってきたことに、もちろん仰天した。その中で最も気にしていないのがクマール本人で、急にファティマのマスターとなったというのに高揚することも焦ることもなくただ受け止めていた。
「彼のスーツはカスタム製で、所属していた軍や騎士団の手がかりはつかめませんでした」
急に現れたファティマに傭兵団は大騒ぎとなった。
チッティの簡易的な検査はサーヒルが行い、淡々と結果が報告さていく。
「そして、記憶がないと自己申告していましたが、事実のようで、ヘッドクリスタルは損傷し、パワーゲージやクリアランスなどの情報は読み取れません」
報告を聞くのはマスターであるクマールに、団長のアーリアとカーシの三人。明らかに訳ありのファティマであるため、チッティの詳細を知るのはごく少数人に留めることにした。
ヘッドクリスタルから情報を読み取ることができないほどの損傷とは、と三人はチッティの過去を心配する。
「承認作業はなかったとのことですが、クマール様でマスター登録されていました。私にできるのはここまでで、これ以上詳しく調べるにはファティマ・ガーランドに任せるしかありません」
「そうか、ご苦労だった、サーヒル……さて、どうするかね……」
通常、お披露目などの正規ルート以外でのマスター登録はいくつかの例外を除けば違法とされる。そして一番の懸念が、壊れたファティマは廃棄処分対象ということだった。
頭脳と肉体共に人間以上の能力を備えるファティマ。彼、彼女らが暴走すれば騎士にしか止めることはできない。そのため、ファティマには多くの制限が存在し、それを守る義務がある。壊れたファティマの処分も義務のひとつだった。
「チッティを直すことはできないのでしょうか?」
クマールはアーリアに尋ねた。
「それはわからないがとりあえず、サマルとサーヒルのメンテナンスのため、ローヒト博士を訪れようと思ってたから同行するといいよ」
「はい……」
せっかくチッティのマスターとなったのに、直らなければ処分しなければならない。それは、心優しいクマールにとって重すぎる決定だった。
「まだ処分しなきゃならないって決まったわけじゃないし、直るかもしれないだろ。そんなに落ち込むなよ」
落ち込むクマールを慰めるのはカーシだった。クマールとは長い付き合いなので、ファティマを機械として割り切ることが難しいと悩むことを理解していた。
クマールはファティマを所持していないが、何年もサマルとサーヒルに接してきた。見た目は人と変わらず、感情もある、戦場で何度も命を救ってくれるのがファティマだった。出会ったばかりだが、記憶をなくすほどの経験をしたチッティを割り切ることはクマールには難しかった。
「ま、マスター。も、問題発生です!」
重い空気を振り払ったのはサマルだった。
部屋に入ってきたサマルは困った様子で言う。
「ぼ、僕とサーヒルはえ、S型だから、ち、チッティに服を貸すことが、で、できないんです」
それは、全員の想定外だった。
「下着はの、伸ばしてどうにか、き、着てもらいましたが、服はど、どうにもなりません!」
長く放浪していたらしいチッティのファティマスーツは傷み切っており、取り換えが必要だった。しかし、チッティの外見タイプはM型。S型のサマル、サーヒルの身長は一六一センチなのに対し、チッティは十センチ以上も身長が違う。
体を清めたチッティにサマルは自分のカレント服を貸そうとしたところ、ブラウスの肩はパツパツ、ショートパンツのボタンはとまらないという具合だった。
そして、ファティマの肌は繊細なため、絹や綿のような天然繊維の服しか着ることができない。現在のジョーカー星団で天然繊維の服は希少であり、一部のブランド品かファティマ服にしかもう使用されていなかった。ファティマが無理に人工繊維の服を着れば、アレルギーのムスケル・スクラッチが起き、最悪皮膚が剥けてしまう。
クマールもカーシも天然繊維の服など持っていない。だとしても、破れや汚れまみれのスーツを着せることは憚られた。
「うーーーーーん。仕方ない! ちょっと待ってて!」
アーリアが頭を抱えていると思ったら、サマルとサーヒルを連れ、部屋を飛び出していった。残されたクマールとカーシは、ぽかんと顔を見合わせるしかできない。
十数分後、アーリアはチッティを連れて戻ってきた。
「新しいスーツを買うまで私の服で辛抱してくれ。これくらいしかなかったんだ」
着る服がないということで、アーリアは自分の服をチッティに貸したのだった。
チッティはプラダの襟だけ白い黒のサテンワンピースを着ていた。身長が一九〇センチ以上あるアーリアの服なので大きすぎではあるが、これならアレルギーの心配はない。
「マスター、これぶかぶかー」
「せっかく団長が貸してくださったんだ、今は我慢してくれ。今度騎士公社で新しいスーツを買うからさ」
サマルの服とは真逆に、チッティは布をつまんで肩が余っていることをクマールに訴える。
先ほどとは打って変わり、和やかな雰囲気になり、問題は先送りとなった。今は今の問題を対処する。クマールは心配をやめ、不服そうなチッティを宥めた。何か忘れていることなど、意識にのぼることはなかった。
「それじゃ……直らないんですか……」
数日後、ボォス星のカステポーにあるローヒト博士邸にクマールたちは訪れた。
サマル、サーヒルのメンテナンスと共にチッティを見てもらうと、診断はあっさりと下った。
「う、うん。戦闘か何かの衝撃で、か、完全にダムゲートコントロール(ファティマが人間に服従するための設定)が壊れてしまっているんだ」
ローヒト博士を中心に、マスターのクマール、アーリア、カーシの三人が囲む。博士の単刀直入な言葉に、クマールは事態が上手く吞み込めなかった。
「無理に直そうとすれば、め、メンタルに負担がかかって、精神崩壊しかねない状況なんだ。だから、無理矢理直すのは、お、おすすめしないよ」
せっかくパートナーとなったファティマが直らない。信じられなかったが、星団一の頭脳と呼ばれるローヒト博士の言葉に噓などあるはずなかった。
クマールは震える手でチャイのカップを取ったが、飲むことはできなかった。
「――それでは、処分しなければならないんですね」
チッティと過ごしたのはほんの数日だった。それでも、彼を処分しなければならない重みをクマールは負いきれそうにない。大切な存在となりつつあった。
「え、処分しなくても、い、いいんじゃない?」
「へ?」
思いがけない博士の言葉にクマールは手を滑らせチャイをこぼし、アーリアとカーシは目を丸くした。
「そんなこと、許されるんですか?」
「ゆ、許すって誰が?」
動揺するクマールとは対照的に、博士はいつもの微笑みを崩さず飄々とした様子で言う。
「ファティマがたちを縛る、せ、星団法なんて、ひ、人が勝手に決めたことだよ。ぼ、ぼくは、ふぁ、ファティマたちが、せ、制限されるなんて、ば、馬鹿げてると思うよ。か、彼らだって、い、生きてるんだから」
弁護士資格を持つクマールは博士が言う星団法のくだりは聞かないふりをする。
まさか、ハーリドやサマル、サーヒルなどの傑作ファティマを製作したガーランドのローヒト博士が、そのような考えを持っているとは思いもしなかった。
「では、チッティはそのままで、いいん、ですね?」
「うん。き、君が決めればいいさ。記憶は戻らないし、だ、ダムゲートコントロールは壊れているけど、GTM感応機能などは無事だから、ふぁ、ファティマとしての性能は無事だよ」
クマールはこの可能性を考えていなかった。星団法で壊れたファティマは廃棄処分と定められているが、それを破るなど思ってもみなかった。
「僕は……チッティを殺したくないと考えています」
クマールは決断を下した。
「せ、せっかく生まれてきた命、だ、だからね。ダムゲートコントロールが壊れていないように検査が通る、ぎ、偽装の手伝いはできるよ」
重大犯罪だというのに、何てことないように微笑みを崩さずローヒト博士は提案した。そもそも、ローヒト博士はガーランドではあるがファティマを兵器として扱う人ではなかった。彼が生み出したファティマはすべて彼の愛しい子だ。ファティマは人と同じ感情があり、人と同じ生命体なのに、生きるも殺すも人間次第と断ずる星団法を忌み嫌っていた。
だから、彼は全てのファティマを愛しい目で見る。
「で、でもね、チッティより、き、君の方が重症だろうね」
「どういうことでしょうか?」
「く、クマールくん、ちょっと手を貸してくれないかな」
そう言って博士はクマールの手を取る。肘などを軽く叩き、何かを調べているらしかったが、クマールも完全に蚊帳の外のふたりにもさっぱりだ。
「ざ、残念だけど、クマールくん、き、君は神経反応減退症だ……」
「それって、どんな病気なんですか!」
クマールが口を開くよりも先に、カーシが聞いた。ファティマの問題だけだと思っていたのに、まさか恋人に病が見つかるなんてと信じられなかった。
「ぜ、全身の、し、神経が反応しなくなってゆく、びょ、病気だよ……治療法はなくてね……さ、最期は眠るように……。最近、う、腕や体の一部が、う、動かなくなる症状があるね?」
クマールはすっかり忘れていた。チッティと出会った日、小麦粉の袋を運んでいたところ、腕の感覚がなくなったことを。あれが病気の前兆だったとは……。
「あります。時々、腕の感覚がなくなることがあって……」
「なんで放っておいたんだ!」
カーシはたまらず怒鳴ってしまった。自分のことは後回しにしがちな幼馴染の性質をこれほど恨んだことはない。怒鳴ったって意味ないと自分でもわかっているが、突然の宣告にカーシは動揺していた。
「ごめん……寝違えたとか、ちょっとした痺れの類だとおもって……」
「いや、俺も怒鳴って悪かった。クマールは悪くないんだ……悪く、ないんだ……」
全員が受け止められなかった。まさかクマールが治療法のない重い病気だとは……。
数日後ーー
「カーシ、何度も考えて結論を出したよ。故郷に帰ろうと思う」
ローヒト邸の客間で、クマールは恋人とパートナーにこれからの考えを伝える。
天気のいい日だった。開け放した窓からは心地よい風が吹いている。そういえば、チッティと出会った日のエラルド島もいい天気だったとクマールは思い出した。
「そうか……俺は反対しない、クマールがしたいようにすればいい……」
病気の宣告後、精密検査を経てクマールの寿命は長くて五年とわかった。そして、時間を延ばすには騎士の力を使わないことが大切だとローヒト博士から念を押されていた。
神経反応減退症は星団史より遥か昔、AD世紀に行われた人体実験の副産物であり、炎に焼かれたAD世紀の忘れ形見のような病だった。
だからこそ、クマールがやり残したことをするべく帰郷を選んだ。
「でもな、俺もついてく」
「えっ、傭兵団はいいの?」
全部、ひとりで背負い込もうとする恋人にカーシは釘をさした。
「百何十年の付き合いだと思ってるんだよ、クマールの考えてることくらいお見通しだっての。団長はいつでも復帰待ってるって言うし、第一、目を離しだら騎士の力使いそうな奴放って置けるか」
恋人の冷たい手を包み込む。
「恋人なんだからさ、俺のこと頼れよ……」
「カーシ……」
まだ動く手でクマールはカーシの大きくて傷の多い手を握り返した。星団の技術なら傷跡を残さず治療できるのに、面倒だからとそのままにしておくカーシ。クマールはざっくばらんで気取ったところのない恋人のこの手が好きだった。
あと、何度握り返せるのだろうと脳裏で考えてしまう。
「ありがとう。だからね、チッティ、僕はもう騎士を廃業するんだけど、ついてくるかい?」
「うん! おれ、マスターから離れたくない。マスターが騎士じゃなくても、GTMを操作しなくたって、おれのマスターだから」
アーリアのワンピースから、ローヒト邸にあった予備のカレント服に着替えたチッティは泣きそうな表情で縋りついた。
ここ数日の検査で、チッティはクマール以外をマスターとして認識しないことが新しく判明した。強制的にマスター解除することもできず、チッティはクマールと共にいる以外生きる道はない。クマールはチッティの命の恩人だ。
もし、彼以外をマスターと選んでいたら壊れたファティマと認識して廃棄処分されていただろう。チッティのダムゲートコントロールは壊れている。ダムゲートコントロールによりファティマは死を恐れず戦闘に赴き、自身の命よりマスターを守るよう脳を支配される。でも、チッティにはそれが効いていない。死は怖いし、死にたくもない。壊れた部分など気にせず、おおらかで、初対面のチッティに温かい黒糖マントウを渡してくれたような優しいクマールのそばにいたかった。
「みんなで、帰ろう……ランガスタラム村へ、帰るんだ」
愛する人たちに囲まれ、クマールは志を固めた。自分が生きている間にできることはすると、決めた。
開け放した窓からは心地よい風が吹いていた。