連日大量に出される課題。手に負えないグリム。
当初からは随分と減ったが、未だに続く嫌がらせ。
モストロ・ラウンジでのアルバイト、購買部のお手伝い。
―…疲れた…。
全く言うことを聞かない足腰と、滝のように溢れてくる涙。それはまるで、張りつめていた糸がプツン、と切れたかのよう。
心も身体も限界を超えてしまい、人気の無いところで蹲っていたところに現れて、俺は何も見てねぇよ、とぶっきらぼうに言いながら、誰も寄り付かない空き教室に、手を引き大股で歩きながら連れていってくれた人。
小走りになりながら廊下を歩き、その大きくて広い背中と、夕焼けに輝く銀色の髪を見つめた。
『…ジャック、ありがとう。』
涙が溢れて、喉が詰まって、思ったように声が出ないままお礼を言ったから、きっと聞こえていなかったかもしれない。
でも、耳がピクピク動いていたから、もしかしたら聞こえていたかも―…。
涙をグイ、と拭い、監督生は大きく息を吸って、吐いた。
―…こうやって、不器用に手を差しのべてくれる人も居るなら。
もう少し頑張ろう、と、監督生は小さく呟いた。
その日からだった。
監督生の中で、ジャックの存在が大きくなっていったのは。
その日からだった。
ジャックが、何かと監督生を気にかけてくるようになったのは。
グリムは預かるから、たまには気分転換してこいよ、と言ってくれたジャックにお礼の品を購入し、監督生は店を出て、ああやっぱり、と顔をしかめた。
どんより鉛色の重い雲が朝から空を覆っていて、いつ雨が降り出してもおかしくない天候だった。
なんとか持ちこたえていたが、ジャックへ何かお礼を、と悩んでいる間に、とうとう我慢しきれなくなったように、雨が降り始めていた。
好きな人に渡す物だから、それはもう、悩みに悩んで、悩みまくった。
それとなく役に立って邪魔にならず、迷惑にならないもので…と考えると、キリが無かったのだ。
―ジャックも一緒に出掛けようって言えたら良かっ…いやいやいや、それは迷惑!迷惑だよね!
ブンブンと頭を振って、監督生は考えを打ち消す。
『そんなことしたら、帰りたくなくなっちゃう…』
大きく溜め息をつき、監督生は空を見上げた。
ポツポツと空から滴る雫は、石畳の色を濃く染めていく。
ジャケットを傘がわりにして、慌てて店の中へ避難する者、鞄からいそいそと折り畳みの傘を取り出す者。
雨が降った時の対応は、人それぞれだ。
監督生も、鞄の中から折り畳みの傘を取り出そうとして…しまった、と再び顔をしかめた。
―…昨日、エースに貸したままだった…。
項垂れて、監督生はキョロ、と辺りを見回す。
数メートル先に、小さなカフェ。
ジャックの為に買ったお礼を濡れないように鞄にしっかりと入れ、よし、と気合いを入れて、監督生はそのカフェへ駆け込んだ。
『この突然の雨で、お客様が多くて。
相席でもよろしいでしょうか?』
カランカラン、とベルの鳴る音に反応してやってきた店員に困った顔で言われ、監督生は断ることが出来なかった。
ナイトレイヴンカレッジで様々な経験を通し日々学んでいるとはいえ、根はお人好しで断ることが苦手なのだ。
大丈夫です、と頷いた監督生を、店員は案内する。
店員が、テーブルに先に着いていた男性に相席の断りを入れ、離れていった。
『失礼します。』
小さく声をかけた監督生をチラ、と見て微かに頷き、男性は読書へ戻る。
黒ぶちの眼鏡をかけて、上品に軽食とコーヒーを楽しみながら、その老紳士は難しそうな、分厚い本を読んでいる。
テーブルに置かれたブラックコーヒーからは湯気と、良い香りが立ち上っていた。
『ホットコーヒー、ください。』
店員にオーダーをすると、監督生も、鞄の中から読みかけの本を取り出した。
陽も落ちて、ますます雨足が強くなっている。
監督生がオーダーして間も無く運ばれてきたコーヒーは、冷めてしまい渋みが出始めていた。
コーヒー一杯で長時間粘るなんて、と非難する人は居ない。
皆各々、雨が止むまでの自分の時間を楽しんでいるし、キッチンの奥からは店員の呑気なお喋りが店内の音楽の隙間から聞こえる。
ウッドベースのピチカートと、ゆったりとした木管楽器のメロディ、雨音。
柔らかな色の照明も相まって、すっかり監督生はこのカフェが気に入ってしまっていた。
監督生と同時刻にカフェ店内に避難した人々は、自力での帰宅は諦めて、各々迎えを頼んだようだ。
一人、また一人と店を後にしていくなか、監督生は途方にくれていた。
最悪、びしょ濡れで帰るか…と考えた時。
ブー、と、スマホのバイブが鳴って、監督生は読みかけの本を1度閉じた。
ディスプレイに映し出された名前を見て、トクン、と心臓が跳ねる。
微かに震える手で、監督生は通話ボタンを押した。
『監督生、今どこにいる。』
電話の相手は、ジャックだった。
雨に降られたから、帰る時間が遅くなるかも、とジャック、エース、デュースに連絡を入れておいたのだが、その時から既に2時間は経っていた。
『傘を忘れちゃって、町の噴水前のカフェで今、雨宿りをしていて…ごめんね、帰る時間、すごく過ぎちゃって。
グリムは良い子にしてる?』
『グリムは心配いらねぇよ。
それより、噴水前のカフェだな?そこで待ってろよ。』
『えっ?待ってろって、何、』
『迎えに行く。』
『えっ…』
短い回答の後、通話は切れてしまう。
―ジャックが、迎え?わざわざ?なんで?
えっ、でも…嬉しい…。
ソワソワとしながら、監督生はジャックに言われた通り、カフェで待つことにした。
明日返却しなければならないのに、読みかけの本の内容が、全く入ってこない。
閉じては開き、開いては閉じて、を何度か繰り返した頃、カランカラン、とベルが鳴った。
いらっしゃいませ、と歩みよった店員に、すいません、ただの迎えなんで、と謝る声が聞こえてくる。
―わぁ…本当に来ちゃった、どうしよう…。
監督生が、立ち上がるタイミングを見計らっていると。
『お嬢さん。』
『はっ、はい。』
相席の老紳士が優しく微笑んでいた。
悪戯な光を宿した瞳の彼には、お迎えが監督生にとってどんな人物であるかが判ってしまっているらしい。
『あまり待たせてはいけないよ。』
『あ…はい、あの、失礼します。』
監督生はパタン!と閉じた本を鞄に押し込み、意を決して立ち上がった。
『ジャック!』
『おう、帰るぞ。』
『うん。』
ごちそうさまでした、と店員にペコリと頭を下げて、扉を開けて待つジャックの元へ小走りで近づく。
カランカラン、とベルが鳴って、カフェの扉はゆっくりと閉まった。
『エースが、監督生に傘を借りたまま返してなかったって言ってたからな。』
『そう…そうなの、私は貸したことすら忘れてて…』
しどろもどろになりながら、監督生は答えた。
何でわざわざ迎えに?とか、迎えに来てくれた人がジャックで嬉しい、けどこれは悟られちゃだめ、とか、様々な感情がごちゃ混ぜになる。
『ほら、さっさと帰るぞ。』
ジャックが傘を広げる。
『…1本?』
『ああ。』
『あの、ジャック濡れちゃうからこの傘は…』
『いいから早くしろ。』
『わ、』
グイ、と手を引かれ、ややジャックの胸に飛び込むようにして、傘の中に入る。
『行くぞ。』
『う、うん。』
監督生が濡れないように、とこちら側へ傘を傾けてくれるジャックに手を引かれたまま、監督生は歩きだした。
水溜まりを避けながら、2人はゆっくりと歩いた。
否、ジャックが、監督生の歩く速さに合わせてくれていた。
『あ、あの、ジャック?』
『なんだ?』
『迎え、ありがとう。』
『…おう。』
『グリムの面倒まで見てもらって、迎えにまで来てもらって…』
『別に、俺がやりたいからやってる。』
『…グリムのお世話?』
『なんでそうなる…』
呆れたように溜め息をつき、ジャックの尻尾が不機嫌そうに揺れた。
それからしばらく、2人の間に会話はなかった。
離すタイミングを掴めず未だ繋がれたままの手から、ドクドクとこの動悸が伝わってしまうのでは、と監督生はギュ、と目を瞑る。
街灯だけが照らす雨の夜道を、2人は学園に向かってひたすら歩いた。
学園に着く前の、最後の交差点。
車なんて、一台も通らない時間帯。
青信号がチカチカと点滅をして、やがてそれは赤に変わった。
雨粒を照らす赤信号はぼんやりと辺りを照らしている。
車が通らないなら、といつもなら渡ってしまう道を、2人は律儀に立ち止まった。
学園に着くまでの数メートルの道のりが終われば、突然の雨がもたらしたこの特別な時間が終わってしまう。
それが、なんだかとても名残惜しい。
『ジャック、あの、本当に…』
ありがとう、と告げようとした監督生を見下ろすジャックを見上げて、思わず息を呑む。
とても真剣な、表情だった。
『お前、人の居るところだと、弱音を一切吐こうとしないだろ。
だから、お前の役に立ちたくて、俺がやりたくてしたことだから…お礼なんか、言わなくて良い。』
『い…いや、言うよ!?
だって、わざわざこの雨の中…』
『言ってるだろ、俺がやりたいからやってる。
お前のこと迎えに行って、こうしてゆっくり歩きたかった。』
―待って、そんな、勘違いする…。
ブンブン頭を振って、監督生は心を落ち着けるために深呼吸をした。
『わ、わかったよ、ありがとう。
じゃあこれは、私が渡したいから渡す。
今日のお礼。』
鞄の中から、悩みに悩んだ末購入したジャックへのお礼を、監督生は取り出した。
濡れないように、濡れないように、と気を遣っていた甲斐あって、それはまったく濡れていなかった。
紙袋は少しシワになってしまったが。
『スポーツタオル…部活の時、使えるかなって…』
モゴモゴしながら監督生は言うが、ジャックの反応が無い。
あれ?と思い、顔を見上げると、目を大きく開いて、なにやら衝撃を受けているようだった。
頼りない街灯でも判るほど、その顔は赤い。
そして。
―尻尾めっちゃブンブンしてるー…!!
『あー…わかった、お前がそう言うんなら、受け取る。』
『うん、どうぞ…』
スポーツタオルの入った紙袋を監督生が手渡すと、ジャックは大切そうにそれを抱えた。
自分の尻尾なのだから、ジャックだって気づいていない訳がない。
しかし、尻尾のことは、何も言えない。
言ってしまうと、まだ踏み込まなくて良い領域に踏み込んでしまうような気がして。
2人でうつ向くようにして下を向く。
きっと2人の顔は、赤信号のように真っ赤だ。
『…ジャック、信号、青になったね。』
『ああ。』
頷くが、2人は一歩を踏み出そうとしなかった。
やがて再び、青信号は点滅して、赤に変わってしまう。
『赤になっちゃったね。』
『ああ。』
頷くジャックと顔を見合わせて、思わず2人は吹き出してしまう。
『次こそは渡らないとな。』
『うん。』
頷いて、監督生は握られたままの手に力をこめて、ジャックの大きくて骨張った手を握り返した。
―あまり待たせてはいけないよ。
あのカフェで老紳士に言われた言葉が監督生の胸に過るが、監督生は小さく首を振る。
―まだ、この関係が心地良い。
それに、彼は待ってくれる気がする。
雨の日でも、晴れの日でも、雪の日でも。
あの老紳士に言われた言葉は、自分に向けられた言葉か、はたまた耳の良い彼にも向けて言われた言葉だったのか。
信号が青に変わり、2人は今度こそ歩き始めた。
大きな1つの傘の下に、2人の影。
雨はもう、止んでいた。