【オリキシン】初夏の埋火 小さい狐の手に手を引かれ、煙の壁を抜ける。土俵から飛び降りてちらりと振り返れば、辺りは霧のような煙が立ち込め煙草独特の臭いがうっすらと漂っていた。
「逃げるぞ!」
焦りの滲む声に急かされ、煙崎やこは走り出す。
使われた幻術は煙を媒介としているらしい。午後の陽が溶けた初夏の風は緩く、しばらく自然に掻き消えることはないだろう。
だからその間に全力で、この場からできるだけ遠くへ。逃げなくてはならなかった。────殺されないために。
必死に逃げている彼らの出会いはほんの数十分前に遡る。
土曜日の午後、学校正面の横断歩道で、なんの前触れもなく煙崎の目は見えていなかった方の世界を映し出した。
向かいの道路を二足歩行で歩き二つの狐火を従える柳染の狐。突然視界に現れた不思議な生き物を、呆然と目で追っていた。着物を帯モチーフのコルセットで締め、ふわふわの毛先に赤い不規則な模様を刺している。気づかれてぱちんと視線が交差した時、「俺が見えるのか」と彼は目を丸くした。
道路越しの問いかけに頷いて、信号が青になる。
メソッドシガーと名乗った煙草の神は興奮を抑えるように、自分を見ることのできる人間を探していたと語った。神を見ることができる特別な人間を、人が集まりやすい学校周辺で探していた、と。端的には親方になってくれと頼まれたのだ。顔の下半分が仮面で隠れているとはいえ表情はわかるもので、(もともと表情が控えめなのだろうが)嬉しそうな目で語るシガーの言葉に、興味本位で耳を傾ける。親方が何を意味するのかよくわからなかったが、自分に不相応なら断ればいい……そんな気持ちで話を聞いた。開眼した人間の持つ神通力、その神通力を使って神相撲を行うゴウリキシンについて。どんな物語にも書いてない、知らない世界が広がっていた。
でも、なんで、どうしてこうなった。
いま必死で逃げている原因。
突然現れた長身の黒いゴウリキシンの襲撃。
訳も分からないまま親方として立ち、手も足も出ず固まったままだった。親方の援護もなしに応戦するシガーの焦った声を聞き、この初戦がただの試合ではないことを理解した。そして同時に、神相撲が剛力神界で伝統的かつ現在もホットなエクストリームスポーツであることも理解してしまった。……これは自分には不相応だ。こんな緊張の中太鼓なんて叩けない。音楽なんてわからない。命だって狙われてる。不安と後悔ともう引き返せない恐怖で一杯だ。でも、シガーにとってもあの黒い神は予期していなかった敵なのだ。だから責められない。ぐるぐる回る頭のなかではっきりとしているのは、今が人生最大の危機であることだけだった。
いままでにないほど全力で走り続けて、運動の苦手な脚が悲鳴をあげる。息も切れ始め、これ以上の全力疾走は難しかった。
「あそこなら遮蔽物が多い。隠れよう」
シガーが指したのはちょうど見えてきた図書館横の自然公園だった。奴の攻撃が直線的であることと、まだ昼間で公園内にも人目があるから手荒な真似はできないだろうという話だった。それでも時間を稼ぐために、できるだけ入り組んだ散策路を選んで奥へ奥へと歩いていく。
「追ってくる……よね」
湿った土の上に敷かれた板の足場が軋む。
「追ってくる。土俵から出た後、すぐにバレて分身が消された。気配を隠しながら逃げたが、見つかるのも時間の問題だろうな」
「これからどうするの? なんで私たち狙われてるの……?」
「狙われてる理由はわからない。でも、もう一度戦うしかない。倒して、撤退させる。土俵上ならまず殺されることはないから比較的安全だ。単純だけど効果的で、……今の俺たちには難しい」
それは煙崎にもわかりきっていた。既に戦意なんて無い。
「だれか、助けてくれる人とかいないの? 危ないやつってことでしょ?」
「残念ながら俺にはあいつの知り合いやあいつと互角以上に戦える仲間はいない。すまない」
前を歩いていたシガーが振り返る。
「頼む、やこ」
真摯な目が不安げな煙崎の表情を映していた。
「俺と一緒に戦ってくれ。あいつは強い。勝率が高くないのは事実だ。でも俺を信じて欲しい。強い思念が重なれば、神通力も強く流れる」
「……信じるだけじゃ勝てないよ」
「いいや、信じるからこそ勝てる。強い思いが神通力を織り上げるんだ」
親方の自信のなさが、不安が、シガーの足枷になってしまう。逆に言えば純粋にパートナーを信じて神通力を送れば高い能力を発揮して不可能を現実へと導く……なんてドラマチックなのだろう。初心者だろうが関係なく、ここで無抵抗に惨たらしく殺される以外の道がシガーの中にはあるのだ。何より、シガーはまだ見て聞いていたい、自分の知らない世界を知っている。
なら、私は────、
「狐」
突如樹上から降った冷たい声に草木も即座に呼吸を止めた。四方に伸ばされた枝葉の天井を背景に、銀色の髪が靡く。あのゴウリキシンだ。ここではやはり大振りの針刃を振り回すには場が悪いのだろうか。即座に襲って来る気配はなかった。
「何故逃げた。まだまともに戦ってすらいないだろう?」
シガーは煙崎を後ろに下がらせながら、樹上の黒い神を睨めあげる。
「……最近、神通力を持った子どもがジャリキシンに襲われる事件が多発しているという。お前、ジャリキシンじゃないだろう! なぜ俺たちを襲う? 誰かに頼まれたのか!?」
「答える義理はないな」
あまりにそっけない返答に、傭兵か、と呟きシガーは苦い顔をする。
「やこ、やるぞ」
落ちついた声だ。タイコンを握る手は、まだ恐怖で震えている。この場で戦う意思が弱いのは自分だけだ。
「俺を信じてくれ」
「…………」
小さく頷くと、シガーはカミズモウの掛け声とともに土俵を展開する。霧がかった灰色の森の中で不規則に大小様々な鳥居が生え、不思議な景色が広がる。その真ん中にカミズモウで戦う神、ゴウリキシンたちが立つべき土俵が形作られた。
そして綴じ針の神ツヅユイがコートを翻して土俵に降り立つ。作法として、彼は自分たちを待っていた。深呼吸をひとつしてタイコンを操作し、親方衣装に身を包んでスタンドに立つ。再び見下ろした土俵は広く、握ったバチの重さにはまだ慣れないが、先刻とは違い不安だけが心を占めているわけではない。
「来い、この音こそ神の音! 俺の神音だ!」
シガーは声とともに光に包まれカミズモードへと変化する。先程も見た背中だ。二股に分かれた尾が炎のように揺らめいた。
覚悟を決める。神太鼓を一度響かせ、黒い綴じ針の神を見据える。
「聴いて、私達の神音!」
どこからともなくムササビの行司がふわりと舞い上がり神相撲の開始を視覚的に伝える。準備の整った二柱を確認すると、のこった! の掛け声とともに軍配を振り上げ、張り詰めた緊張が弾けた。
「全力で迎え撃て、メソッドシガー!」
コートの両裾が針刃に変形し、刺し貫かんと襲いかかってくる。……負けるわけにはいかない。緊張を噛み殺して力強く神太鼓を鳴らすと、それに応えるようにシガーは駆け出した。煙管から糸を引くように撒かれた煙が滞留し、不定形の罠として張り巡らされていく。しかしツヅユイは足を絡めようとする小癪な煙を脚力で振り切り、それでもどろどろと纏わりつく煙の腕を針刃で切り払って跳躍する。シガーはツヅユイに向けて二つの鬼火と煙の狐を放つが、灯火ではなく攻撃の意図で激しさを増した鬼火は銀髪の一本も焦がすことなく掻き消され、管狐の影は狩を成すことなく霧散した。
虎鋏を踏み抜きながら間合いまで接近したツヅユイは、針刃を振るわず防御の姿勢を取ったシガーの顔面を狙って蹴りつける。後方にやや押されるも、手の甲で受けた衝撃をなんとか耐え抜く。
圧倒的だった。小細工が通用しない。付け入る隙もない。その上神太鼓を全力で打ち続ける煙崎の体力も、開始早々に限界だった。
「っ、やこ! 決め技だ!」
要求される神通力に応えるため、より一層強く神太鼓を打ち鳴らす。
「ぉおおおおぉおお────ッ‼︎」
吼える。疲労を見ないように力を振り絞る。上手い叩き方やコツなどわからない、無知で力任せの神音。ここで負けるわけにはいかない、その一心で神通力を送る。
「鳴り渡れ、私の─────」
しかしそれは、ならなかった。
神通力を送り切る前に、不気味な腕に変化したツヅユイの右裾がシガーの頭を掴んで土俵に引き倒す。踏ん張りを遥かに超える膂力で不本意にかしずいたシガーは、うつ伏せに倒れ伏してしまっている。
シガーの頭部を掴んでいた腕が針刃へと形態変化し、シガーの首元へ、ゆっくりと滑らされた。
「まって……、……っ」
絞り出した言葉が続かない。『何が何だかわからないけど、だからって殺さなくたっていいじゃないか』……ただそれだけ。それだけの命乞いなのに、恐怖で言葉を紡げない。
「勝者! ツヅユイ!」
行司の凛とした声が響く。ツヅユイは動かないシガーを見下ろしたまま「弱すぎる」と冷淡に呟くと、針刃を裾に解き踵を返した。土俵が消えると同時にその姿を見失う。きょろきょろと辺りを見回しても影すら無く、夕陽の滲む湿った空気が木の葉を揺らしていた。あれほど自分たちを追い詰めていた気配は欠片もない。
「あっ、シガー! 怪我はない、…… ?」
はっとしてシガーの下に駆け寄ろうとしたが、そこには何の姿もなかった。鬱蒼と茂る緑と木漏れ日のようにちらつく夕陽の赤色のみ。葉のざわめきが沈黙のように満ち満ちている。気がつけば服だって私服そのものに戻っていた。
呆然と来た道を戻り公道に出た。
自宅に着いた頃には日は沈んでおり、昼間の不思議な出来事が読んだ本と想像が混じって鮮明な記憶のようになっただけなのでは?かなり詳細な白昼夢を見たのでは?と疑問を呈していた。だが、じわじわと全身を軋ませる筋肉痛は健在で、階段を上がるのにも一苦労である。生まれて初めて手すりに感謝してなんとか自室にたどり着く。息をつき、ふらつきながらベッドへと倒れ込んだ。
「夢でも見たのかなあ……」
「夢じゃないぞ」
「え」
降ってきた声に顔を上げると、ベッドの上にはちょこんと柳染の狐が座っていた。シガーが目の前にいた。わああ!? と声をあげて跳ね起きる。
「夢じゃなかった! ……じゃなくてっ、どこ行ってたの!?」
「辺りに俺たちを狙っている奴がいないか確認してきたのと、俺たちの痕跡を消してきた」
「そっ、そっか……怪我はない?」
「大丈夫だ。土俵を汚す悪事はしない奴だったみたいだな」
互いの無事を確認して、シガーはまず謝罪した。せっかくの初陣だったのにイレギュラーな取組で、怖がらせてしまってすまない、初神相撲で白星を挙げられずすまない、と。そう謝罪した上で、言った。
「改めて、俺の親方になってくれないか」
シガーは片手を差し出す。
「もちろんタダとは言わない。俺は早急に横綱になりたいというわけじゃないんだ。稀に神相撲をしてもらう代わりに、この家や、やこの周りに悪い神に対して目眩しになる術をかけたりしよう。そのためにちょっと部屋の隅を借りるが、空間の邪魔にはならないと約束する。どうだ?」
術とか神についてはよくわからない。だが、きっと悪い提案ではないのだろう。実際にああも襲われてしまっては、安心して生活するために味方の神は必要不可欠だと結論付けた。
「わかった。私がシガーの親方になる」
手をそっと握り返した。ふわふわの毛が手首にあたってくすぐったい。
「ところでどうして家わかったの?」
「煙の気配を辿ってきた。一度くるんだからな。あとは、そこの開いてる窓から」
部屋の窓を見ると、換気のために網戸のみとなっていた。自分でもわからない微かな煙の匂いを追うなんて器用だと思ったが、もしかしたら神だから細かい気配が識別できるのかもしれない。
下階から自分を呼ぶ声がした。
「やこ、呼ばれているぞ。俺は結界を張るから行ってくれ」
「待って、それ見たいんだけど……」
「あとで違う術も見せよう」
術の行使の約束を取り付けて家族に返事をし、筋肉痛に情けない声をあげてリビングへと向かう。
何者かに狙われている恐ろしい状況であることには変わらないけれど、好奇心を刺激する不思議で魅力的な世界が開かれている。
文字の隙間の空想にさえ無かった非日常が、初夏の風とともにやってきた。