Light Forever「いつまでもここにいたいです!」
感動に震えた古論が波打ち際へ走り寄る。その後をのんびり追っていった北村が「しばらくここにいようかー」と声をかけた。足下の流木やら石やらを避けて、ふらふらと揺れる影が遠ざかっていく。
なんてきれいな光景だろう、と思う。
バラエティ番組で紹介されていた、青天下の紺碧に白砂が映える海岸を知っている。ハガキやカレンダーに刷られた、完璧な比率で横たわる砂洲と深緑の松が並ぶ名所を知っている。いつか借りた写真集で見た、エメラルドの海中に揺らめく色とりどりの珊瑚礁を知っている。
(まあ、清浄……とは言えないが)
見渡す空には大きな雲がぼろぼろと浮いて、夕陽が延びる海面は底知れぬ青鼠色をしている。ふと傍らの草むらに目を遣ると、潰れたペットボトルが砂を被っていた。
(それでも)
今この瞬間、ここは世界で一番美しい海だった。
二人が波の動きに合わせてステップを踏む。
古論が両手を広げて語る。
北村が微笑みを返す。
一歩踏み出して、口を開きかけて、立ち止まった。
1.
信号が赤に変わった。
物の輪郭も不明瞭な逢魔時、都心から随分離れた交差点に車や通行人の影は少ない。静寂の中、エンジン音が大人しくリズムを刻んでいる。
ハンドルを握りっぱなしだった腕を休めつつ、事務所への道が合っていたか訊ねようと左に顔を向ける。助手席に陣取る北村が、スマートフォンをこちらに見せながら口を開いた。
「この交差点を右ねー」
「……うん? ここは左じゃないのか」
「何言ってんの、地図見てよー」
結局自分で見るのか、と画面を確認すると、なるほど道順を示す長い矢印が右方向へ折れている。ただ、この道順なら自分はよく知っている。何故なら、数時間前に辿ったばかりだからだ。
「今から事務所へ行くんだろう」
北村が眉をひそめた。後部座席から「事務所へ向かっているのですか? ならば私が外を見ても問題ないのでは」と声が飛んできた。
ゆっくりと顔を正面に戻して、気付けば明るすぎる空を、いつの間にか並ぶ一度見た建物群を、フロントガラス越しに覗く。太陽は傾いているものの、空を焼くにはまだ時間が早そうだ。これは。
「雨彦さん、信号ー」
まさか運転しながらうたた寝していたとは思えないが、浜辺のあれは夢だったのだろうか。それとも、何かに化かされているのか。
アクセルを踏みながらそっと周囲の気配を窺うも、特に変わったところは無い。北村は暇そうに地図アプリを拡げたり縮めたりしているし、バックミラー越しの古論は目隠しのまま大人しく紙袋の山に挟まれて座っている。袋の中身は仕事先で彼が受け取った誕生日祝いの数々で、自分もその場に居たから贈り主達が何か仕掛けたりするような——できるような人々ではないことはよく知っている。
また、昨晩念入りに「点検」したこの車内におかしなものが入り込むことは、無いはずだ。
「北村、今何時だ」
「そこに時計付いてるでしょー。えっとー」
読み上げられた時刻は、もう予想はついていたが、仕事先を出る時に確認した時刻からそう経っていなかった。
道路脇に車を止めると、いそいそと外へ出た北村が後部座席のドアを開け、紙袋の山を上手く避けながら古論の手を引いた。「まだ目は閉じてろよ」と声を掛けつつ、腕を伸ばしてその頭から目隠しを取り、座席へ放り投げる。
「クリスさん、目を開けていいよー」
「窮屈だったろ。……無事到着したぜ」
とりあえず、だが。
おや、磯の香り、と古論が呟く。鮮明な既視感。
「ここはまさか……」
夕陽に照らされた双眸が大きく見開かれた。隣に立ち、雑に目隠しを外されたせいで乱れたその髪を軽く整えてやる。
「今年の誕生日はここで祝おうと思ってねー。クリスさん、おめでとー」
「おめでとさん。ケーキやらは事務所に用意してあるから、この後に向かうとしよう」
「想楽、雨彦……ありがとうございます……!」
感動に震えた古論が、ガードレールを掴んで振り返った。本当に嬉しくて、と続け、
「いつまでもここにいたいです!」
覚えのある言葉で締めた。
時間が、巻き戻ったとでもいうのか。
砂浜へ降りて行く古論と後を追いかける北村のやりとりを聞きながら、手繰るように丁寧に記憶を辿る。
今日は仕事を早めに終わらせてもらい、事前の計画通りに現場から二人を自分の車に乗せて出発した。自分のとは言っても、家の社用車ではあるが。北村に地図番をさせつつも、道順は事前に頭へ入れておいたので、何事も無く到着した、気がする。だがつい先程に全く反対方向へ向かおうとして咎められているし、何よりその時、自分はもう事務所へ帰るつもりだった。すでに持っている海辺の記憶が、今作りあげた妄想あるいは錯覚ではないのなら、あの帰り道が行き道になった瞬間、俺は時を遡ったことになる。
二人が波打ち際をゆらゆらと歩いていた。古論が腕を大きく広げたのが見える。それに北村が笑い返す……
はたと気付く。ここからでは遠すぎて二人の表情なんて目を凝らしても分からない。古論が話し、北村が微笑んだのを知っているのは、確かに自分がもっと近くから二人を見ていたことがあるからだ。
茫然としているうちに、夕日はあっという間に沈んでしまった。
信号が赤に変わった。
景色がもう夜に近くなっていることを確かめて、備え付けのデジタル時計を確認する。今は、帰り道。
時計から目を逸らさず「次は左だな」と隣に投げかけた。異常が起きたのは今より少し早い時刻、この交差点だった。先の現象が、偶然あの時にこの場所で発生したものならば、自分達はこのまま何事も無かったかのように事務所へ帰れるのだ。
「そう、合ってるよー」
じっとりと濡れた両手がハンドルから滑り落ちた。気付かぬうちに握り締めていたらしい。
「雨彦、お疲れではありませんか? 良ければ運転を代わりましょうか」
「気にしなくていいぜ。お前さんは今日の主役だしな」
「雨彦さん、信号ー」
液晶パネルは狂いも乱れもせず、淡々と時刻を進めていた。目を正面に戻してアクセルを踏む。角を曲がりきった後、バックミラー越しに心配そうな顔の古論と目が合ったので「この車はクセが強いんだ」とフォローを入れた。
「慣れない右ハンドルでは厳しかろうよ」
そうですか、と残念そうな様子はなかなか面白くてもう少し見ていたかったが、自分はそのクセの強い車を運転する身なので目を離しているわけにもいかず、また前方に意識を戻す。
外は明るかった。
三度目の波音を聞きながら、まずいことになったと独りごちる。
海岸で少し長居をして、更に走るスピードも遅くして時刻を後ろにずらした。にも関わらず戻ってしまったということは、時刻が原因ではない可能性が高い。
あの交差点自体に何かあるのかと思っていたが、二度目に時間が遡ったのは右折した後、交差点を抜けた後だったからそれも関係ないのだろう。
「雨彦さんどうしたのー?……ケーキとかは事務所にあるから、この後も楽しみにしててねー」
「ありがとうございます! 私は、この瞬間とこの景色を決して忘れはしないでしょう!」
二人はこの巻き戻しに全く気付いていないようだ。古論はともかく北村なら、俺が気付いているか探りを入れてくるだろうが、そんな様子も無い。ならば、俺が何とかしてこのループから抜け出す方法を見つけなくてはならない。
海岸へ降りていく古論を追いかけようと北村が歩き出した。「しばらくここにいようかー」という北村の言葉へ被せるように、声を張り上げる。とりあえずは、後ろにずらしてダメなら前しかない。時刻は関係していないかもしれないが、まず試してみて効果があれば万々歳だ。
「すまん、すぐ事務所へ向かうぜ。どうも道が混んでるらしくてな」
「え? 雨彦さん、いつそんな事調べたのー?」
怪訝な顔をする北村の向こうから、赤い夕日を背に駆け戻ってきた古論が溜息をついて苦笑した。
「それは、非常に残念です。もっとここにいたかったのですが」
本当に戻されたのかと疑いたくなる。あまりにも早すぎる。
「クリスさん、目を開けていいよー」
これは本当に北村の含みの無い言葉なのだろうか。彼がわざと演技をしているんじゃないのか。
「おや……磯の香り……ここはまさか……」
……この驚き様は演技ではなさそうだ。
砂を払い車に乗り込んで、ベルトを閉めて、キーを回して、ハンドルを握り顔を上げると同時に北村がベルトを外して外へ出ていった。呆気に取られている間に彼は後部座席の古論を連れ出した。その頭には外していたはずの目隠しが巻かれていて、「まだ目は開けちゃダメだよー」とそれを外してやる北村が、何してるのと俺を見た。
砂浜を見下ろす道路の脇に三人で並び立ち、四度目の祝いの言葉を贈る。自分の言祝ぎに祝福の響きは確かに乗っていただろうか。
「ケーキとかは事務所に用意してるよー。クリスさんの気が済むまでここにいるつもりだけど、そっちも楽しみにしててねー」
「二人とも、ありがとうございます……!」
場所や時間帯どころか、走行中かどうかも関係無いとは。はてさてどうしたものか。
「気が済むまでとは、一体どれくらいかかるだろうな」
「ほんとだ、うっかり口を滑らしちゃったよー」
「そうですね! できればいつまでもここにいたいです!」
例えば二人を車に乗せない、あるいは俺と二人が別行動をとるとどう変わってくるのだろうか。試してみるしかない。
「ところでな、お二人さん。悪いんだが……」
二人が怪訝そうな顔で振り返る。
「ちょっと家の方で用事ができちまってな。事務所まで電車で向かってくれるかい」
えー、と北村が分かりやすく顔をしかめた。
「ここから最寄駅まで結構あるんだけどー」
「そこまでは乗せてやれるさ。安心しな」
「クリスさんの荷物、結構多いんだけど」
「古論、預かれそうなものはそのまま車に載せてても構わないか? 明日事務所へ届けるよ。……古論?」
「あの、それは、」
少し躊躇するそぶりを見せた古論が、恐る恐るといった表情でこちらを窺った。
「雨彦は、事務所でのお祝いには参加しないということですか?」
その声はひどく悲しみを纏っていた、ように思う。
2.
何度目かの波音を聞きながら、まずいことになった、と力無く呟く。
駅まで送り届ける途中で当然のように戻されてしまった。仕方がないので、次のやり直しでは二人をここへ置き去りにした。心は痛むがそのまま一人で自宅に帰り、車を停めて、溜息をついた。そして時計を見て、思わず呻いた。十月十一日の朝だったのだ。
二度目の仕事はスムーズに、どうせやり直しているのだからとより良くなるように立ち回って、予定よりも更に早く終わらせることができた。そうして余裕が出来たところで、北村を呼び寄せてどこか別の海岸を探してくれるよう頼んだ。舞台が大きく変われば、何か変化も起きるかもしれない。盛大に文句が返ってきたが、もっとキレイな場所はないかだの適当に注文をつけるとしぶしぶながらいくつかの海岸をピックアップしてくれた。
決めていた場所より随分距離はあるものの良さそうな所を選んで、今までと同じように向かって、同じように古論は喜んだ。そして事務所へ向かうのにかかる時間を考えて、名残を惜しむ古論を車に押し込み、出発した。
そしてやっぱり戻されてしまったのである。
「今年の誕生日はここで祝おうと思ってねー」
もう何度も来ている、見慣れた海岸。
「クリスさん、おめでとー」
俺の行動や流れによって多少違いはあるものの、基本変わらないやりとり。
「おめでとうさん、古論」
ただ、二人にとっては毎回が初めての今日になる。最初で最後になるその時のために、俺は「正しく」振る舞わなければならない。
「ケーキやらは事務所に用意してる。眺め飽きたら、向かうとしよう」
「想楽、雨彦……ありがとうございます……! 眺め飽きるなんてとんでもない!」
ふと、頭に引っかかるものがあった。
「いつまでもここにいたいです!」
目を輝かせて放たれたその言葉が、異様に反響して聞こえた。
(だから、帰らないのか?)
思わず口に出しかけて、慌てて噤む。
「この瞬間とこの景色を決して忘れはしないでしょう!」
そう宣言しながら、主役の男は砂浜へ降りていった。その後を丸い頭がのんびりと追う。二人が夕陽の方へ遠ざかっていく。
橙色が落ち着かなくて、まだ染まりきっていない青紫の高空を見上げた。綿雲の隙間に、吹き飛ばされそうに淡い五日月が小さく佇んでいる。その静かな空に宥められたような心地で、一つ深呼吸をする。
頭がクリアになったところで、腕を組む。はてさて、一体全体どうしたものか。
強い思いは、時として「実体化」することがある。
それは、よごれを引き寄せたり、生み出したり、また払ったりすることもある。気付かぬうちに本人や周囲に影響して、考えや行動を強く変化させたりもする。稀に、現実世界の異常を引き起こすことも、ある。物理法則を超えるほどの。
——いつまでもここにいたい。
さすがに古論も、言葉通り永遠にここへ留まりたいと思っているわけではないだろう。確かに「永遠の航海とはむしろ幸運なのでは」などと言っていたこともあったが、今の彼はアイドルという仕事、Legendersというチームを愛する海と同じくらい大切にしている。だからこそ俺達は贈り物の一つとして、三人でここへ来たのだ。
しかし、つい永遠を望むほどに喜びを抱いたのも事実だろう。そして、偶然、その思いは世界と呼応してしまった。当人の知らないところで。
一際大きな波の音が響いて、何やら慌てたような声が耳に届いた。目線を下げれば、茜色の混じり始めた景色の中をそろそろと戻ってくる二人の姿があった。足元を庇っている。ははあ、さては波を被ったな。
漸く帰り着いた二人に、車に積んでいた新品のタオルを渡す。慎重に歩いた甲斐あって、濡れた裾に砂はほとんど付いていない。
「すみません雨彦、洗ってお返ししますので……」
「これ雨彦さんちの会社のタオルー? ありがとー……ちょっとはしゃぎ過ぎたねー」
足首を拭った北村が「よっこいしょっとー」と歳に見合わないことを言いながら立ち上がり、目を細めて水平線を眺めた。
「もう日が沈むねー。どう、クリスさん。しっかり楽しんでくれたかなー?」
「勿論!」と脱いだズボンを絞っていた古論が、皺をパンと叩いて伸ばし、振り向いて微笑んだ。
「想楽、そして雨彦。私は本当に幸せです。二人がここへ連れて来てくれたこと」
微かな風が髪を揺らす。遠く水平線から真っ直ぐに射す夕陽が、彼の瞳を強く黄金色に輝かせている。
「私と共に、同じ景色を見てくれることが嬉しい。私達が共に、同じ場所に立っていることが嬉しい。嬉しいことが多過ぎて、気持ちが……言葉が急いてしまいます。それでも二人が待っていてくれることが、嬉しいです」
纏まりきらない言葉を、古論は少しずつ紡いでいく。あまり見ない光景だなと考えて、今見ているこの景色・この会話は自分にとっても初めてであることに今更気付いた。
「……クリスさん。僕も、クリスさんがこんなに喜んでくれて嬉しい。それとねー」
感化されたのか、素直な北村の言葉。
「クリスさんが、思ってること全部を伝えようとしてくれるから、それが……えーっと、」
迷うように逸らされた目が地面を彷徨って、再び上げられた瞳は茜色に煌めく。
「……うれしい……うん、すごく嬉しいなーって思うよ」
整わないよー、と北村が誤魔化すようにくるりと回った。そのまま二人とも黙ってしまったので、また静寂が訪れた。
嬉しい。俺は、提案したこの時間を二人が喜んでくれて、嬉しい。本心だ。でも、何かもっと違う、強いものがある。それが見えない。
言葉を探していると、少し存在感の強くなった月が目に入った。そうだ、自分は二人をこのループから連れ出さなくてはならないのだ。
それが俺の、やるべき事だ。
「さあ、お二人さん。ぼちぼち戻るとしよう」
波音が、絶えることなく続いている。
水際で戯れる二人を眺めながら、この繰り返しからどうすれば抜け出せるのかを考える。
まず、「いつまでもここにいたい」が怪現象の原因と見ていいだろう。文字通りの意味でそれが叶えられている今、できることは彼の思いの部分自体を変えてしまうほかない。例えば、ここにいたいという気持ちを満たすほどに満足するよう仕向けたり、反対に早く立ち去ってしまいたいと思わせたり。
できれば後者は避けたい。ループから抜け出せた時に、今までの信頼を失っていては困る。そうも言っていられなくなる前に、試みが成功すればいいが。
因みに、乗車中でなくとも戻されることがわかっている。朝からやり直すことになったときに「車を使えないことにして海行き計画を実行できなくする」作戦も試してみたが、その場合も同じように出発前へと戻されるだけだった。
大きな波音と、二人の慌てた声が聞こえてきた。今回もこれがあるようだ。波を被った二人を迎えて、タオルを貸して、夕日に染まる二人の思いを聞いて。俺は前回、何をしたのだったか。
戻ってきた二人にタオルを渡して、笑いながら声を掛けた。
「災難だったな、二人とも。きりもいいところだ。そろそろ事務所に向かわないか? まだまだお楽しみが待ってるぜ」
「ありがとうこざいます雨彦。タオルは洗ってお返ししますね」
「ありがとー。そうだねー、いい時間だし、プロデューサーさん達も待ってるしねー」
もう日が沈むねー、と立ち上がった北村が古論に訊ねる。
「どう、クリスさん。しっかり楽しんでくれたかなー?」
「勿論!」と濡れたズボンを絞っていた古論が、振り向いて微笑んだ。
「そりゃ良かった。さっきの話じゃないが、もうしっかり満足できたかい? 心残りは無いか?」
念入りに訊こうとすると、北村が僅かに片眉を吊り上げた。少し不自然だったかもしれない。
「ええ。心残りと言えば、ここを離れるのは惜しいです。しかし私はもう充分に、全身でこのプレゼントを受け取ることができたと感じています」
「そうかい。でもまあ、離れるのが惜しけりゃまた来ればいい話さ。そうだな……また来年もこうしてここに連れて来てやろうか?」
「いいのですか!? 今から楽しみです!」
「流石に鬼も笑うよー……まあいいんじゃないー? スケジュールが上手い具合に空いてればいいねー」
喜色満面の古論の顔が一瞬にして悲しげになる。
「つまり、来られないほうがLegendersにとっては良い状況という事ですね……」
「そんな先の事で余計な心配しなさんな。それこそ悪鬼羅刹も大爆笑だ」
「それもそうですね!」と古論は案外からりとした調子で答えた。彼がそっと胸に手を当てる。
「こうして共に同じものを見て、共に立つ仲間がいる。私は幸せ者です!」
満たされているとはこのようなことを言うのでしょう。小さく呟かれた言葉は、珍しく海風に吹かれて今にも消えてしまいそうな声色だったが、心の底から幸福が滲み出ている。
大満足の様子だ、今度こそ抜け出せるかもしれない。
「じゃ、事務所へ向かうか。車に乗ってくれ」
「運転よろしくねー。僕一応地図係だから、クリスさんはまた後ろだよー」
「分かりました。二人とも、よろしくお願いします!」
シートベルトを締めたところで、そういえば二人のあの、素直な言葉を聞いてなかったなと気付いた。俺が横槍を入れてしまったので、会話の流れが変わってしまったからだ。
少し勿体無かったかもしれない。普段あんなやり取りをすることは無いから、きれいで真っ当で、素朴で素直な思いは二度と耳にすることができないかもしれないのだ。
そういえば、俺は結局何も言ってないな。
3.
運転席で腕を組んで、夕陽に横顔を焼かれながらただ車内時計のデジタル表示が刻一刻と変わっていくのを眺めていた。
上手くいかない。
他人の感情を(言い方は悪いが)操るのは得意なほうだという自負がある。ましてや古論は北村に比べて分かりやすいから、このシチュエーションを満喫させてやれば、本当に帰れると思っていた。
締め切ったドアの向こうから、尚も波音が響いてくる。ラジオのスイッチを入れると、溌剌としたパーソナリティの何らかの質問に続いて、聞き覚えのある柔らかく掠れ気味の低音が流れてきた。
『……そう。でね、そのカットでの葛之葉君がね、もう、怖いの』
『怖いんですか? でもそのカットって』
『ナハトが、僕……父親と交わした誓いのシーン。僕の唯一の出演シーンだよ、見た方、覚えてるかなー』
彼は少し前に公開されたLegenders主演映画で、俺の父親役だった俳優だ。おおらかでさっぱりとした人物で、撮影中も何かとこちらのことを気にかけてくれていた。
『元々は優しーい、懐かしーい感じの、ほらエモってやつ? まあそんな場面なんだけど、実は……これ言っていいかな、いいよね。回想というより、夢のシーンなんだよ。思い出を夢で見てるの、ナハトが』
『あー、あそこ確かにちょっと不穏な感じでしたねぇ』
『何度も同じ夢を見てるうちにね、変わってっちゃうのよ。考えというか心がというか。その絶妙に、あーナハトやばそうだなーというのがさ、目で表現してくるんだよね。僕向き合ってるからさ、怖いのなんの』
『葛之葉さんは以前からちょっと凄みのある演技で人気ですよね』
『うん、僕出演決まってから彼等の出てる作品見たんだけどさ。俳優じゃなくてアイドルでしょ? 凄いねえ』
後でお礼の連絡をしなくちゃあな。「後」が来た時に思い出せるかな、と零しつつ、あの撮影の事を思い出す。
演じた役を見つめていて、自分にはもう手放したくないものがいくつもあることを、それが何なのかを自覚してしまった。その為には、このままでは駄目だということも。
だから、まず一歩、二人に向かって歩みを進めてみたのだ。
——次のオフは三人で一緒に海にでも行くか。
あの時動いたと確かに感じた時計の、その針が指した未来の一つが、この今日のイベントだった。こんな所で横槍を刺されたくない。
でももう、解決の糸口が見つからない。本人に「帰らせてください」と言う訳にもいかないし、かといってこのまま同じ事を続けても何かが変わる気もしない。
二人には申し訳ないが、「ここにいたい」を封じる方針でいくしかない。
諦めるしかない。
……………………何を?
突然、運転席のドアが開いた。
「雨彦さん、クリスさんが気にしてるよー。体調でも悪いのか、それとも何か心配な事でもあるのかって……寝てたのー?」
目を開くと、北村が顔を覗き込んでいた。普段より格段に柔らかな微笑を浮かべている。
半分眠りかけていたのは事実だ。体調はいちいちリセットされるのか問題は無いが、ずっと同じ事をなぞり続けている訳で、やはり気持ちとしては疲れる。心配ないと言いかけて、目の端に歩いて来る古論の姿を捉えた。
「……家から連絡があってな。急ぎじゃないが、頼みたい仕事があるんだとさ」
北村は「ふーん、それで?」と気の無い風に相槌を打つ。俺が断ることを予想して、そう言うのを待っているんだろう。気付かれないように少し唾を飲み込んだ。
「まあそこまで緊急性は無いだろうが、一応向かうことにした。よう古論、悪いがもう車に乗ってくれないか。事務所までは送るよ」
北村の顔が引き攣った。遅れて「……はあ?」と吐き捨てられた声が存外大きく、やって来た古論が一瞬肩を揺らした。
「送るというのは、雨彦はこの後事務所へは寄らないのですか」
「ああ、少し家の用事でな。パーティーに参加できなくて、本当に残念だよ」
「そ、そうですか……私も、残念です」
何回目だったか、同じ様な事を言ってがっかりさせたことがあったな。あれはつまり、俺が離脱するので彼は不満を抱いたということだったんだろう。
悲しみが存分に乗った声色に、北村がちらと目を遣って、それから半眼で座ったままの俺を見下ろした。
「別に、今行かなきゃいけない話でもないんでしょー。だったら、事務所でクリスさんのお祝いしてからでもよくないー?」
「想楽? 雨彦がそう判断したというなら仕方ないのでは……それにご実家のお仕事の話でもありますし」
「だって雨彦さん、今日のこと結構楽しみにしてたでしょ」
古論の目が丸くなった。
「雨彦……! あなたも海へ来ることを心待ちに……!?」
海が目的ではなかったが、確かに浮き足立っていたところはある。まあ北村にはそう見えたのなら、好都合だ。
「そりゃ、サプライズを仕込んで祝いに来てるんだ。心も踊るさ。でも清掃は、俺の……」
(言っていいのか?)
「俺の本業だからな」
言ってしまった。
一人が悲愴と諦念の顔に、一人が僅かに、ほんの僅かに軽蔑の色を浮かべた。そう、それでいい。
「どんな状況だろうと、仕事が入ればきっちりやる。当たり前のことだろう?」
「でも雨彦さん、最近清掃業の話してなかったよねー。アイドルのほうを優先してたとかじゃないのー?」
「掃除の仕事が入ってなかっただけさ。腕が鈍ってなきゃいいが」
「別に今でなくてもいいって言われてるんでしょ? だったら好きなほうを優先させればいいと思うなー」
「好きなほう、だって?」
ふっと、息を吐いて。
「生まれた時から、そう生きてきたんだ。俺の役目でもある。今更変えられないさ」
北村のことだ、俺が「自分に嘘をついている」ことに気付くだろう。彼が一番嫌う行動だ。
「自由に、気侭にというわけにはいかないんだ、俺は」
古論が真っ青な顔で隣の男を見た。
「……ああ、そう。あんたがそれでいいなら、ずっとそうすればー?」
彩度の無い、けれど棘だらけの言葉だった。
北村はフロントドアを乱雑に閉めると、「クリスさん帰るよー。事務所までは送ってくれるらしいからねー」と声を掛けながら後部座席に乗り込んだ。呆然と立っていた古論は我に返ると、反対側へ回り込んで後ろへ乗ろうとし、思い直して助手席のドアを開けた。
「雨彦……私は、」
何事か言おうとした古論は、少し視線を彷徨わせて、俯いたまま席に乗り込んだ。俺は流れっぱなしになっていたラジオの音量を上げた。
せめてもの救いは、北村がはっきりと怒りを示してくれたことだった。
あれでは、一刻も早く帰りたいのは俺のほうだ。
いつまでも波音が反響している。
「今……何と、言いましたか……?」
動きを止めた二人がゆっくりと振り返る。口角を上げるか迷って、薄らと力を込めた。どうせなら、嫌われてしまおう。なんて自分勝手で薄情な奴なんだ、と。
「俺は、Legendersを抜ける」
「……なに、それ……?」
夕日が、眩しい。手を翳してみたが、ただ視界が狭くなっただけで二人の顔はよく見えなかった。
信じてくれないかもしれないが、と付け足して口を閉じた。話せるのはこれで全部のはずだ。居心地が悪くなって、三角に立てていた脚の片方を砂の上に伸ばした。
突然長々と嘘のような話を聞かされた二人は、当惑のまま顔を見合わせた。……北村は少し面倒そうにも見える。そういえば彼は、いつの間にか俺達の前で態度を作らなくなった。
「……うーん、冗談……にしては長すぎるよねー。あ、日が沈んでるー」
「本当に雨彦が幾度も今日を繰り返しているのなら、今のあなたのやつれ様も頷けます」
「そんなに参った顔をしているかい俺は……」
思い付く限りのアプローチを、延々と重ねている。けれど、何かが変わる気配が無い。幕切れのタイミングが少しずつ早まっていることくらいだ。偶に事務所到着の寸前まで進めることもあるから、タイムリミットの様なものではないと思われる。
「何をすりゃいいのかさっぱり分からないんだ。お前さん達、どうしたら帰りたくなる?」
「僕達に言われてもー」
「私達の気持ちと関係があるのですか?」
古論の「ここにいたい」の点は伏せている。本人が意識してしまうと益々ややこしいことになりかねない。
あーあ、と北村が伸びをして背後の地面に手を着いた。頭の向こうには夕焼けの残滓が広がっている。
「それ、僕の知らない僕がこれまでに大勢いたってことだよねー。やだなー、僕何か変な事言ったりしなかったー?」
「全員同じだけの時間を全く同じに生きてきた北村なんだ。今俺の前に居るお前さんと同じ事しかしないさ」
つまりは、目の前の彼も挑発に乗って怒りを露わにするのだろう。
「戻ってしまうきっかけやタイミングならもう雨彦は試し尽くしているでしょうし……」
考え込んでいた古論が顎に手を添えて唸る。
「先程の話ですが、私達の内面が関係しているのであれば、精神に影響するようなショックがあれば何か変化も起きるかもしれません」
ショック療法かー、と北村が溜息をついた。
「でもそれって、僕を怒らせたっていう時とか……脱退宣言とかも同じ方向性だったと思うけどー」
「そうですね、例えばもっと強い衝撃、或いは身体的な……」
言いかけて古論は口を噤んだ。隣で砂を掻き混ぜていた、ひと回り小さな手が止まる。
暗く不透明な海のほうへ誘うように、風が吹き始めた。
「すっかり日が落ちたな」
誰も帰ろうとは言い出さない。ループの事を信じきれていない二人も、不安そうにこちらを見た。
「……何か灯りを持ってこよう。待っててくれ」
懐中電灯、それから冷えてきたなと車に積んでいた毛布を持って戻ると、二人が何事かをひそひそと話し合っていた。古論が北村のほうへ顔を寄せている。
心持ちゆっくりと、音を立てて歩いて行くと、ちらと此方を見た北村が「遅かったねー」と声を上げた。
「それ何ー? あ、毛布だ。いつまでここにいる気なのさー」
「まだ解決の糸口は見つかっていませんからね。雨彦の考えが纏まるまで、作戦会議です!」
戴いた中にお菓子がありました、持って来ましょうかと古論。ふと目が合って、けれどすぐに逸らされてしまった。
車に引き返そうと踵を返しかけたところで、「クリスさん!」と焦りの混じった声が響いた。見れば北村が立ち上がった古論の袖を掴んでいる。掴まれたほうは、戸惑うでもなくただ少し悲しげに眉を寄せている。胸の底で不安がじわりと滲み出す。余計な事を考えていなければいいが。
「……あのねー、雨彦さん」
さも今思いついたかのような調子で、北村が口火を切った。
「僕達はさー。そんなことが本当に起きてるのか確信が持てないから、……色々、試そうとはならないでしょー?」
遠回しな言い方だ。最適な言葉を探すのに手間取っているのだろう。彼は、優しい青年だ。
「お疲れ様です、雨彦。あなたがどれ程の苦難を受けているか、私には想像もつきません。ただ」
落ち着いた、穏やかな声が引き継いで続ける。
「雨彦は優しいので、私達を尊重してくれた上で試行錯誤を重ねていることでしょう」
古論が袖を掴んでいる手を、そっと握った。
「少しでも可能性があるなら、あなたの考えることを試してみてください。あなたが救われるのなら、私は傷付いてもいいと、そう思っています」
傷付くのは勘弁願いたいけどー、と北村が呟いた。
「雨彦さんが本当に手の打ちようがないっていうなら、仕方ないよねー」
先へ進めないってのが一番最悪だもんねー。そう言って北村は立ち上がり砂をはたく。
眉根に力が入るのが、自分でも分かった。
二人が思い切った行動に出なくて助かった、と思う。そもそも眉唾話だ、彼等が真剣に考えてくれるとは思っていなかった。ただ少し手掛かりが欲しかっただけだ。だから、正直に言えば嬉しかったところもある。助けを求めればこの仲間達は手を差し伸べてくれるのだ。
だが俺は、二人にあんな覚悟をさせたくはなかった。
4.
「……もう、ほんとになんなのさー」
「雨彦、もう星が出てしまいましたよ」
呆れた声、困惑の声。何も答えず、ただ手元の砂を握っては離し、握っては離しと弄ぶ。指の間から砂が零れていく。
日が沈んでも、俺は砂浜から動かなかった。拾った空き缶を転がしながら、乾いた砂の上に腰を下ろし続けた。
初めのうちは冗談だと思っていたであろう北村は、だんだんと苛立ちを滲ませ始めた。古論に配慮してか上手く隠してはいるが、睨みつけるフリをするその目に非難の色が混じっている。古論はといえば、狼狽えているものの、一方で俺の意図を掴もうと観察するような眼差しを向けている。
「クリスさんどうするー? 最寄り駅まで滅茶苦茶歩くんだけどー」
「私自身は平気ですが、あの荷物を抱えて歩くのは厳しいですね……車に乗せてもらったままというわけにもいきませんし」
「予定を狂わせてるのは雨彦さんだし、積んでてもいいんじゃないかなー。……あ、でも今から歩くとなると事務所に着くのが深夜だねー。集まってくれた人達には悪いけど、今日は解散してもらうしかないかなー」
古論、と声を掛けて、ポケットから車の鍵を引っ張り出す。
「ほれ、帰るなら勝手に運転してくれて構わないぜ。普段と逆で難しいだろうが、まあ我慢してくれ。すまないな」
鍵を古論に放ると、暗くてよく見えないのか受け損ねた彼が「す、すみません」と足元の茂みを探った。
「良かった、ありました。雨彦、それはあなたを此処へ置き去りにして行けという事ですか」
「先に帰るならそうしてくれ。そうだ、古くてクセの強い車だ。飛ばすとかなり暴れるぜ、気を付けてな」
「借り物を雑に扱う訳にはいかないので、もちろん安全運転を心掛けますよ……そうではなく! 私達が車をお借りしてしまったら雨彦はどうやって帰るのですか!」
「ああ……まあ、何とかするさ」
もう放っとこうよー、と北村が古論を引っ張っていく。古論は鍵を握りしめて「えっ、いや、しかし……」と戸惑いながら車へ引き摺られて行った。
照明の点いた車内で、何やら話し合う二人が見える。僅かに赤みがかった闇の奥に横たわる水平線を眺めて、浅い溜息を吐いた。
彼が望んだはずの、「ずっとここにいる」という選択だ。勿論こんな真っ暗闇の浜辺で時間を潰したいわけではないだろう。流石に分かっている。しかし試せる事は片っ端から確かめてみるべきだ。俺が残れば、古論は先に帰ろうとはしない。恐らく。
ゴミや草の根なんかが無いことを手で確かめて、そのまま仰向けに寝転んだ。輝きを増した月が、続いて幾つかの明るい星々が目に入る。街中から随分距離があるのに、見える空は事務所の屋上と変わらないんだな。
そのまま、四半刻ほどが過ぎた。
時をやり直させられる気配も無いためぼんやりと微睡んでいると、車のドアを開閉する音、続けて砂を踏む軽い足音が一つ近づいてきた。
「雨彦、もう秋です。このままだと風邪を引きますよ」
薄ら目を開くと、長い髪を垂らした影が覗き込んでいる。
「お前さんもここで海鳴りでも聞きながら、星を眺めないかい」
「困りましたね……」
やはり無理があるか。言葉通りずっとここにいれば、古論も満足するかと少し期待はしたが、彼は思っているよりずっと良識的だ。むしろこうやって困らせていれば、帰りたい気持ちが作用してこの繰り返しから抜け出せるかもしれない。
また目を瞑る。古論がごそごそと隣に腰を下ろす気配がした。
と、何かがふわりと体に乗せられた。
「困りました。サイズが足りません」
起き上がってみれば、大きなブランケットが広げられていた。全身を覆うまではいかないが、大の大人二人の胴を隠してもまだまだ余裕がある。
「頂いた中にありました。素敵なデザインですね。ご覧下さい! 深い海の中を群れる魚達がキラキラ光っています!」
青いガーゼ生地が幾重にも重ねられた上に、海底の絵がプリントされている。月明かりに光っているのは、絵に重ねて刺繍された銀糸だった。
「ほう、良いのを貰ったもんだな。いいのかい? ここで広げると砂まみれになるぜ」
構いません、と古論が笑った。
「お手入れも難しくはなさそうですし、使ってこそというものです。それに、本物の海、砂浜、そして輝く月! 素晴らしいコラボレーションです!」
「雨彦さんに洗ってもらいなよー。こんなところで広げる予定じゃなかったんだから。ほら、これのついでにー」
いつの間にかやって来た北村が、抱えていたバスタオルや毛布を俺の上に落とす。見れば、車へ積みっぱなしにしていた清掃社の備品だ。
「使っていいよねー? そんなに汚れてもいないし、これ借りようかー」
ふー、と溜息を吐いて、地面にバスタオルを敷いた北村は、古論を挟んだ左向こう側に腰を下ろした。「想楽、どうぞ」と古論がブランケットの端を渡す。
「ありがとー、クリスさん」
「北村。おい、北村。俺の側が半分無いんだが」
「暑がりの雨彦さんはそれで十分でしょー」
「想楽……」
北村にこれ以上持っていかれないよう布を掴んで、傍から見たこの光景を想像した。大人の男三人、しかもあのLegendersが、一枚のブランケットを共有して海岸に寝転がっている。広い砂浜で、身を寄せあって。
「想楽、雨彦。今日はありがとうございます。二人とこんな日を過ごせたこと、この気持ちを、私は一生忘れません」
「どういたしましてー。良かったねー雨彦さん。こんなに言ってもらえたら、言い出しっぺも嬉しいでしょー」
「そうだな。予想以上の反応が帰ってきて、こちらも計画を立てた甲斐があったもんだ」
「そういえば、プロデューサーさんには今日中に向かえないかもしれないから解散してくださいって伝えといたからねー」
時計もスマートフォンも気にせずに、ただ星空と波音だけの世界で、ぽつぽつと話をした。取り留めのない、雑談ばかり。
やがて北村の口数が減っていき、代わりに微かな呼吸の音だけが聞こえてくるようになった。体を起こした古論が向こう側を覗き込んでいる。
「眠ってしまったようです。雨彦、まだ此処にいますか?」
小声で尋ねてくるその声に、催促や自分勝手を責めるような調子は無かった。優しくただ純粋に、こちらの意志を確認する問いだ。
答えないでいると、彼は諦めてまたそっとブランケットへ潜り込んだ。
古論が先よりも更に小さな声でまた話し始めた。
「……あのクランクアップの日、あなたは初めて海へ行こうと言ってくれました。その時思ったんです。ああ、見えたな、と」
見えた? と聞き返した俺に視線を遣って、古論はそっと微笑んだ。
「未来は常に不確かです。予想もしない不運に巻き込まれたり、変化し続ける感情や意志で目的地が霞んだり、見失ったりします。しかし、あの時は」
北村が身動ぎをしたらしく、ブランケットが向こう側へ引っ張られた。
「なんと言いますか……その、遠くない未来に、私達は何処かの海岸に三人で立っているだろうと、そんな確信のようなものがあったんです。あなたの言葉は、その場だけの為に発せられたのではなく、あなたのもっと深いところから来る意志なのだと」
ああ、何処かで薄らと気付いてはいたんだ。
「雨彦、私は嬉しい。あなたがこの時間、この場所を望んでくれたことが」
あの瞬間が続くことを願ったのは、古論じゃない。
俺だ。
信じてくれないかもしれないが、と付け足して口を閉じた。全て、起きた事も考えた事もやった事も、全て話した。顔を上げられない。何とか持ち上げた片手で、視界を遮るように覆った。
突然長々と嘘のような話を聞かされた二人は、互いに少し面倒そうな顔と当惑の顔を見合わせた。
「……うーん、冗談……にしては長すぎるよねー。わ、もう真っ暗だよー」
「本当に雨彦が幾度も今日を繰り返しているのなら、今のあなたのやつれ様も頷けます」
俺自身が変わらなきゃならなかった。でも何を?
「何すりゃいいのかさっぱり分からないんだ。……俺は、どうしたらいい?」
「僕達に言われてもー」
少し首を傾げた古論が問い掛けた。
「雨彦が『帰りたい』と強く願うだけでは駄目ということでしょうか」
「きっと、何か他にも必要なことがあるんだねー」
そんなの僕達に分かるわけがないよー、と北村がお手上げと言わんばかりに背後の地面へ手を着いた。
「えっと、雨彦さんは最初ずっと続けばいいのにと願っちゃってー、それで今は帰りたいと思っても帰れなくなったんだよねー。」
ふむ、と相槌を打った古論が顎に手を添える。
「雨彦の内面が関係しているのであれば、精神に影響するようなショックがあれば何か変化も起きるかもしれません」
ショック療法かー、と北村が溜息をついた。
「雨彦さんってどんな状況なら動揺するのかなー。ていうか今進行形でダメージ受けてるよねー……大丈夫ー?」
「そうですよね……これ以上雨彦に無理をしてほしくはありません。しかし例えば違う方向性の……そうです!」
古論がはたと手を打った。「びっくりさせないでよー」と驚いた様子もない北村が、砂を撫でていた手を止める。
「心を大きく動かすのは別に悪いケースばかりという訳ではありません。雨彦、何かしたいことはありませんか!?」
身を乗り出した古論の髪を、大海へと誘う風が揺らした。
「どういうことー? 雨彦さんがやりたいのは、兎にも角にもその怪奇現象から抜け出す事でしょー?」
「抜け出す事は目的であって、引き金となる願いとは異なるものと思われます。つまり、最初の願いである『ずっとここにいたい』と同種の願い事を叶えればよいのではと」
「分かるような、分からないようなー……」
「どうですか、雨彦。あなたのやりたいことは何ですか」
名案だとばかりに目を輝かせた古論が、ちょっと考えるように他所を見て、それから付け足した。
「もしかしたら、あなたが最初にやりたかったことはと尋ねるべきかもしれません」
「最初にー? あ、そっかー。雨彦さん、雨彦さんが願ってしまった事って、本当に『ここにいること』だったのかなー?」
四つの目が真っ直ぐに俺へ向けられた。
と、暗く不明瞭な水平線から一つ、ぬるりと風が吹いてきた。古論が「おや、こんな時間に海風……」と呟く。
俺の願いは、あの夕暮れの美しい二人が、ずっとそのまま在り続けることだ。
俺があの時、やりたかったことは、——
5.
「想楽、雨彦……ありがとうございます……!」
やめてくれ
「いつまでもここにいたいです!」
も う た く さ ん だ
「——————!」
逆光に縁取られた人影の口が動いている。
握りしめていた車の鍵を自分の首に添えて力の限り押し込
ざぶざぶと橙色の波間を突っ切って歩く。海水ってのはこんなに重いんだなと冷めた頭で考えた。
「あめ、雨彦! 待ってください、なにを、」
思ったより早く追いついてきた古論が、痛いほどの力で俺の腕を掴む。振り返ると遠く浜辺では、北村がどこかに電話をかけているようだった。
深みに嵌る、危険だ、流れが速い、と騒ぐ古論に構わずがむしゃらに足を動かす。
「戻りましょう雨彦、戻って、私達と話をしましょう。……っ!?」
「悪いな、古論。ちょっと辛抱してくれ」
なんとか振り払われずに喰らい付いてきていたその手を逆に掴み返す。不意をつかれて倒れ込んできた長身を、渾身の力で抱え上げ、投げ飛ばした。
盛大に水飛沫が上がるのを目の端に捉えながら沖の方へ向き直り、さらに数歩進んで、突然頭の先まで水面下に滑り落ちた。海底が無い。海水が目に染みて痛い。
本能で酸素を求めもがこうとするが、酷使された腕や足は痺れて動く気配がない。鼻や口から逃げる空気さえ無い。
沈む。
暗く、澱んでいる。
暗い。
車の向こう側、リアタイヤの陰に流れるような金糸が覗いている。雨も降っていないというのに、その髪は濁った水溜まりに沈んでいる。
「どういうことか、説明してくれるー?」
背後から声を掛けられたので振り返る。北村が顔を引き攣らせて一歩下がった。
「僕らに、何か恨みでもあったー?」
そんなことは無い。俺はお前さん達を疎んだことは一度も無いよ。
「その手の物を、離してくれると有り難いなー」
言われて見下ろすと、右手にいつものデッキブラシが握られていた。柄が折れて、半分先が無い。持ち上げると、折れた先からぬるりと液体が滑り落ちてきた。
「それ、大切なものでしょ? そんな事していいのー?」
大切さ。でも、それより大事な使命が、俺にはあるんだ。
お前達を、俺がかけた呪いから解放しなきゃならないんだ。
一歩近寄ると、北村は更に一歩、重ねてもう一歩後退る。
「本当にー?」
大きな目が更に見開かれた。俺がブラシを握る腕を後ろに反らせたからだ。さあ、狙いを定めて。
雨彦さん、と北村は打って変わったように焦り出す。頬を目一杯歪ませて、それはもう悪魔か化け物でも目撃したかのような表情。いつかの映画で見たなあ、その顔。
やめて、助けて、許してと戦慄きながら助けを乞う北村。腰が抜けたのかアスファルトにへたり込み、それでも手を着いてずりずりと後退しようとする。はて、彼はこんな男だったかな。
喚く丸い頭に向かってブラシを振り抜く。と、唐突に大きな目を真っ直ぐに見据えて、北村が問いかけた。雨彦さん、と。
「本当に」
「それでいいの?」
「……」
とても暗い。
見下ろすと、足元に転がった北村の目が、赤い光を宿して、尚も俺を射抜いていた。
逃げるように目を逸らすと、その先に大きな大きな、真っ黒な満月が浮かんでいた。
鮮明な波音に意識を呼び戻される。そっと目を開くと、強い橙色の光が視界をいっぱいに埋めた。堪らずに空を見上げると、所在なさげな五日月は変わらずに浮かんでいる。
(夢でよかった)
いつどのタイミングで眠ってしまったのか分からないが、異常な——はっきりと思い出せないが、有り得ない月は夢の証と思って大丈夫だろう。
遠く波打ち際から、生き生きとした二人の声が風と共に流れて来た。主に生き生きとしているのは片方だけだが、もう一人の方もいつもより足が軽やかに見えるのは気の所為じゃないだろう。
明るくて、清澄で、美しい景色だ。
肺の底に、身体の底に溜まった空気を全て吐き出すように、深く、一つ呼吸する。ポケットを探って、自分のスマートフォンを取り出した。
「……プロデューサーかい?」
長めの呼び出し音の後、弾んだ声が耳に届いた。随分懐かしい響きだ、と思う。声を乗せた電波が、随分遥か遠くからやって来るように感じた。
『お疲れ様です雨彦さん。今移動中だと思うのですが、どうされましたか? こちらの準備は万端ですよ! 今日はオフの皆さんも来てくださっているので、ちょっとしたパーティーになりそうです』
「そうかい、そりゃ古論も喜ぶだろう。俺達はちょっと寄り道していてな。多分事務所へ向かうにはもう少しかかる」
『波音が聞こえますね。ゆっくりしてきてください。最近はお仕事も忙しかったですし、雨彦さん達も息抜きだと思って』
息抜きか。そんな気分でいられたらどんなに良かっただろう。
「ちょっと古論にサプライズをしたんだ。あんまり喜ぶもんだから、なかなか戻ろうと言い出せない」
『クリスさんのためのお祝いですからね。でも夜までには戻って来ていただけると助かります。喜んでください、新しいお仕事のお話があります』
「そりゃまたせっかちな。息抜きは何処へ行ったんだ……まあ、そうだな。早く事務所に帰って、誕生日を盛大に祝って、早く俺達の次の仕事をしたいよ」
『張り切ってますね! 頼もしいです』
「いや、今のは……ふっ、ああ。楽しみにしてるよ」
ところで、と相手は変わらぬ調子で、でも少し真剣なトーンを帯びた声で尋ねてきた。
「雨彦さん、本当にお疲れのようですが、大丈夫ですか? 何かあったのですか。私に出来ることは」
電話越しでも気付くとは、流石プロデューサーだ。この人なら、きっと、何かをもたらしてくれるだろう。
「そう……さな、上手くいかないことがあって、思いつく限りの手を試して、もうどうしようもなくなったとき、お前さんならどうする?」
『それは……お仕事の話ですか。それともプライベートのお話でしょうか』
「プライベートだな」
そうですね、と数秒間が空いて。
『こうしたいな、と思ったことをやりますかねぇ』
あっさりと、前にも聞いたような答えが返ってきた。
『それまでは解決のためだけを考えて考えて、そうして行き詰まっちゃったわけですよね。だったらもう、とりあえず、全く関係なくてもその時自分がやりたいと感じていることをします。私の心のために』
時間に余裕があれば、ですけどねとプロデューサーが笑って付け足す。
「要するに、リフレッシュということか」
『リフレッシュは大事ですよ。気持ちをまっさらにして、また何か見えてくるものもあるかもしれませんし』
「見えてくるもの……」
『そうして、また見えだした先へ進むんです』
6.
「いつまでもここにいたいです!」
感動に震えた古論が波打ち際へ走り寄る。その後をのんびり追っていった北村が「しばらくここにいようかー」と声をかけた。足下の流木やらを避けて、ふらふらと揺れる影が遠ざかっていく。
なんて、きれいな光景だろう。
ぼろぼろと浮かぶ大きな雲、底知れぬ青鼠色の海面、潰れたペットボトルが転がる草叢。
(それでも)
さざめく水面を渡って真っ直ぐに届いた夕陽が、黄金の光を、雲や流木、小石に至るまで全てに投げかけていく。その真ん中で大小二つの人影が、輪郭を光らせて佇んでいる。
今この瞬間、ここは世界で一番美しい海だった。
初めから、ずっとそうだった。
——あなたが最初にやりたかったことは……
二人が波の動きに合わせてステップを踏む。
古論が両手を広げて語る。
北村が微笑みを返す。
——その時自分がやりたいと感じていることを……
引き寄せられるように一歩踏み出す。見下ろした自分の靴の先が、彼等と同じ光を受けて輝くのが見える。砂に足を取られないようしっかりと踏み締めて、もう一歩前に進んだ。
勢いづいて、波打ち際の二人のほうへどんどん降りて行く。途中で流木を踏んづけて転びそうになったが、構わず歩く。こちらの大きな動きに気付いた古論が片手を上げて「雨彦!」と俺を呼んだ。
ああ、とうに忘れてしまったはずの感情が渦を巻いて胸の空白を塞いでいく。それは喉を競り上がって、溢れるように唇を開かせる。
しかし残念かな、その感情がどういうものなのか俺には分からなかった。分からないものに形を与えることはできず、口から溢れそうになった声は行き場を無くして消えてしまう。
(待ってくれ)
(あと少しなんだ)
それらを取り零したくなくて、足が止まる。目の端にちらりと、半分砂に埋まったブラックコーヒーの空き缶が映った。拾わないと。
(俺は、どうしたい?)
「雨彦!」
気付けば目の前に、夕陽に透ける髪を翻して古論が立っていた。
「古論……」
「どうしたのですか、雨彦。さあ、共に行きましょう!」
古論が、しっかりと俺の左手を掴んで引っ張っていく。力強い手だ。俺はよく知っている。
幾度も聞かされ続けた波音が、すぐ足元から全身を包んで空へと流れていく。嫌な心地はしなかった。いつの間にか右手に収まっている空き缶を見て、北村が呆れるように笑った。
「こんな時でも掃除ー? 雨彦さんらしいねー」
「海岸清掃ですか。素晴らしい心掛けですね!」
缶を持ち上げて、おもむろに眺めた。凹みだらけの薄汚れた黒い塗装の、銀色の縁がきらりと光った。
——私の心のために。
「なあ、二人とも」
なあにー、と俺の顔を見た北村が少し口元を引き締めた。つられて目を向けた古論も、掴みっぱなしだった手の力を緩める。するりと離れていきそうになった手を、俺は掴み返した。
「本当に、きれいだな」
「……? そうだねー」
缶をそっと地面に置いた。湿った砂へ踏み込んで、離れた所にあったその肩に片手を添える。添えられた北村は少し揺れたものの、振り払おうとはしなかった。
二人の双眸が、光に縁取られた影の中でも陽光を照り返して煌めいている。胸の中の奔流はいつの間にか凪いで、ただただ静かに幾つかの言葉が浮かんでいた。
「本当にきれいだからさ」
形になった思いは、拍子抜けするほど簡単で、単純なものだった。
「俺はもっと、この景色を見ていたいよ」
今はこれでいい。これだけでいい。これから時間はいくらでもあるのだから。
「また皆で此処に来よう、きっと。だから——」
右手に指が添えられ、左手が再び強く握り返された。
『Light Forever 〜星霜の先の俺達へ〜』
「クリスさん、今日は本当におめでとうございます!」
「プロデューサーさん、それ何回目ー?」
「何度言われても嬉しいものですね。ありがとうございます」
いやあ、とプロデューサーが座っている古論の肩を叩いた。
「幼い頃の写真を見てしまうと、よくこんな立派に育ってくれたなと感慨深くなってしまって」
「久々に会う親戚とかなのかなー?」
「わあ、素敵なブランケットですね。プレゼントですか?」
「ええ。大変素晴らしい意匠です。ご覧下さい、深い海の中を群れる魚達がキラキラ光っています!」
「本当だ、刺繍なんですね。身に着けるものじゃないので合ってるか分かりませんが、クリスさんにすごくお似合いですよ」
「センスの良いデザインだねー。子供っぽすぎず大人っぽすぎずっていうかー。よかったねークリスさん」
「はい。今度きちんとお礼を言わなければいけませんね。この方に限らず、プレゼントを下さった皆さんに」
「そういえば、帰りに何処か寄り道でもされてましたか? お仕事終わりの連絡から随分経って帰って来られたので」
北村と古論が目を合わせた。
「ふふ、内緒ー」
「お二人に、海へ連れて行ってもらいました!」
「ええー、なんで言っちゃうかなー」
「えっ、申し訳ありません……とても嬉しかったのでプロデューサーさんにも知ってもらいたくて……」
「海、ですか?」
はい、と古論が満面の笑みで答える。
「サプライズで、海岸へ連れていってもらったのです。とても美しい夕日でしたよ」
「それは良かったですね! いいなあ、私も海でお祝いしたかったですねえ」
「来年は是非プロデューサーさんも一緒にあの景色を見たいです。そうだ、プロデューサーさんのお誕生日を海でお祝いするのはどうですか!……いえ、何ならすぐにでも共に行きましょう! 次のお休みにでも!」
「良いですね! 次のLegendersのオフはいつでしたっけ」
「お祝い関係ないねー。プロデューサーさんも、酔ってるのー? それほんとにコーラなんだよねー?」
雨彦さんも何か言ってよー、と北村が振り返った。
「……何その顔ー。今何を考えてるか、言ってみてよー。ほらほらー」
「雨彦さん、どうされましたか? 何かあったのですか……嬉しいことでも?」
「ふふ、あったんだよねー。すっごく珍しい、面白いことがねー」
「お仕事……いえ、海でですよね。何があったんですか?」
「ふふ、秘密だよー。ねー、クリスさん」
「は、はい! 秘密、です」
三人の目が、じっと俺を見つめた。
「良い顔をされていますね、雨彦さん」
「ええ。まるで……いえ、とてもきれいな表情ですよ、雨彦」
そう言って、今日の主役は朝焼けの空のように笑った。
終