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    付き合ってないセベジャミ。ギャグ。
    ※G注意!!

    ##セベジャミ

    ノー・アンダーウェア・クライシス! 事態は最悪と言えた。
     脱衣場の棚の前に立ち尽くし、ジャミルは一人うなだれていた。その頭上にはどんよりと黒雲が垂れ込めている。赤い髪紐で結ばれた長い髪と制服に包まれた肌からはほのかに石鹸の匂いがして、そのシャワー後のさっぱりとした姿とまるでこの世の終わりのような重苦しい雰囲気はどうにも釣り合っていなかった。
     悄然と頭を垂れたまま、ジャミルはちらりと床に投げやりな視線を向けた──この忌まわしい事件の残骸へと。
     ジャミルの視線の先、狭いシャワールーム内の脱衣スペースの床には、真っ黒な焦げ跡と小さな灰の山ができていた。

     黒々とした灰の山。砂漠の砂のように細かく、さらさらしていて、もはや原形を留めていないそれ。本来の目的のために使われる機会を永遠に失った哀れな姿。いまでこそこんな無惨な姿をしているが、それはつい先ほどまである重要な役割を持った大切な代物だったのだ──というかジャミルのパンツだったのだ。

     そう、彼はいま、ノーパンなのだった。


     事のあらましはこうだ。
     いまから数十分ほど前、ジャミルは誰もいない体育館のシャワールームでシャワーを浴びていた。
     部活後の生徒が汗を流せるよう、体育館には簡易のシャワールームが設けられている。だがそこを利用する者は稀だった。生徒たちはみな学園内の寮で暮らしているのだ。シャワーなら古くて狭い体育館のそれよりも寮のシャワールームを使えばいいし、その方が汗を流したあとすぐに自室でくつろげる。部活が終わると部員たちはみなタオルなどで簡単に汗を拭き、制服に着替えたらさっさと寮に帰ってしまうのが普通だった。ジャミルもいつもはそうしていた。
     だがいつものように更衣室で制服に着替えようとして、ジャミルはふと思い出したのだ。今日はサイエンス部が山に薬草を採りにいくと言ってなかったか。ふだん屋内で活動している文化部の生徒たちは特に部活で汗をかくこともないので、シャワーは夕食後に済ませることが多い。だが登山から帰ったばかりのサイエンス部員たちは帰寮後すぐにシャワーを浴びようとするはずだ。つまり今日の部活後はいつもより寮のシャワールームが混む可能性がある。
     他の部員たちはこのことに気づいていないようだった。みんなのんびりとしゃべりながら制服に着替え、寮に帰る準備をしている。
     まあ、教えてやる義理もないか。
     まわりの様子をうかがいながらジャミルはそう結論づけた。別に混むと決まったわけでもないのだし。それに──シャワールームを独占できるというのも悪くない。
     さいわいその日はジャミルが部誌の当番の日だったから、部誌を書いているふりをしていれば帰る支度をしていなくても誰かにあやしまれることはなかった。──なぜ着替えないのかと問われて今日は体育館のシャワールームを使うつもりだと正直に答えたら、フロイドあたりが「おもしろそー。オレも今日は体育館のシャワー使おっかな」などと言いだしかねない。
     部誌を書き終わったらついでに戸締りもしておくと部長に請け合って、ジャミルは一人体育館に残ることに成功した。下校する部員たちを全員見送ったあと、荷物を持ってシャワールームへと向かう。
     脱衣スペースで髪をほどいて服を脱ぎ、ジャミルはがらんとしたシャワーブースに足を踏み入れた。シャワーを浴びている最中まわりに人の気配がないというのは良いものだ。体を洗ったあと一度脱いだ下着をふたたび身につけなければいけないのが気になるが、まあ部屋に帰ったらすぐ新しいものに履き替えればいい。ジャミルは使う者もいないのに律義に備え付けてある石鹸を使ってゆったりと髪と体を洗い、いつもよりもさっぱりした気分でシャワーブースを出た。そのときだった。
     視界の端をなにか黒くてすばしっこいものが横切った。その忌まわしい動き。ジャミルははっと足を止めた。そして『それ』が消えていった方向を凝視した。胸の動悸が早くなる。この自分があの動きを見間違うはずがない──
     間違いない。それはあの、小さくて、すばしこくて、触角が長くて、黒光りするあいつ──『ヤツ』に他ならなかった。
     ジャミルは足を止めたまま、全神経を集中させてあたりの気配をうかがった。先ほどの黒い影は脱衣スペースに置かれた棚と床の隙間に姿を消したはずだ。息をするのも忘れ、ジャミルはその棚の下の黒い影をじっと見つめ続けた。
     すると──いた。『ヤツ』はふたたびジャミルの前へと姿をあらわした。全裸で『ヤツ』と相対する。間違いなく人生で経験したくないことベスト3に入る凶事である。
     ジャミルはその招かれざる客(向こうからしたらジャミルの方がそうだったのかもしれないが)から目を離さないまま、そろそろと着替えの入った棚の方まで移動していった。とにかくまずは武器(※マジカルペン)を手にしなければ。いや、その前にせめてパンツだけでも履こう。さすがに全裸にマジカルペンは絵面がまぬけすぎる──まあ、ここにはいま自分しかいないのだが。
     不幸中の幸いというか、『ヤツ』が動く気配はなかった。まるでこちらの出方をうかがっているかのように、姿をあらわしたときと同じ体勢のまま脱衣棚の前でじっとしている。
     持っていたタオルをそっと棚に置き、ジャミルは下着へと手を伸ばした。そのときだ。突然『ヤツ』がジャミルの方に向かってカサカサと突進してきたのだ!
     ジャミルはパニックに陥った。ひっと喉から声が漏れ、思わず下着を取り落とす。なんとか棚からマジカルペンを引っ掴むとジャミルはざっとうしろへ飛び退いた。何度も言うがこのとき彼は全裸である。
     床に落下した下着に驚いたのか、『ヤツ』はぴたりと動きを止めた。そのまま触角を動かし、注意深くあたりをうかがっている。ジャミルはその様子を息をひそめて見守っていた。
     数秒が永遠のように感じられた。しばらくそうやってあたりをうかがっていたあと、『ヤツ』はふたたびゆっくり動き始めた。退くことを知らない兵士のように。ジャミルの方に向かって、まっすぐに。

     そのときジャミルは決意した。『すべてを燃やし尽くそう』、と──


     自分のパンツまで燃やし尽くしてどうすんだ。
     後悔先に立たず。ジャミルはぎゅっと目をつむり、深い深いため息を吐いた。
     こちらに向かって突進してくる『ヤツ』に向かって放った炎の魔法はシャワールームの床に黒い焦げ跡を残し、ついでに床に落ちたジャミルの下着をも灰に変えた。──復元魔法でも元には戻せないほど、徹底的に。
     ジャミルは全裸でマジカルペンを握ったまま、丸々二分間、灰塵と化した『ヤツ』と己の下着の残骸を呆然と見つめ続けていた。

     下着を履かないまま服を身につける決意をするのにはそれからさらに数分の時間を要した。だが仕方がない。他にこの状況を打開する方法は思いつかなかった。いつまでも裸で立ち尽くしているわけにはいかない。
     ジャミルはあきらめ悪くタオルを腰に巻き、まず上半身から服を着て、魔法で髪を乾かし、それからようやく制服のスラックスに足を通した。修復不可能だとわかっていながらも、いまだに床の上の残骸を片づけていないことからも彼のあきらめの悪さが見て取れるだろう。
     でももうどうしようもない。いつまでもこうしてここに閉じこもっているわけにはいかないのだ。早く寮に帰って夕食を作らなければカリムが心配する。やつのことだから、寮に戻らない自分の身を案じて寮生総出で捜索に乗り出したりしかねない。そんな事態は絶対に避けなければならなかった。とりあえず、未練がましく残しておいたこの灰の山を片づけよう──

    「誰かいるのか?」

     ようやく動き出そうと腹を決めたジャミルは入口から聞こえた声にふたたびぴたりと動きを止めた。この声は……
     ぎぎぎぎ……とまるで壊れかけのロボットのようにシャワールームの入口へ顔を向ける。

    「なんだ。ジャミル先輩か。体育館のシャワーを使うとはめずらしいな」

     声からわかっていたとおり、そこにはよく見知った他寮の後輩──ディアソムニアの一年生、セベク・ジグボルトの姿があった。ドア枠の向こうからひょっこりと顔だけをのぞかせ、不思議そうな表情でジャミルを見つめている──最悪だ。

    「……君こそなんでこんなところに」

     唇から息を漏らすようにジャミルはやっとのことでそう訊ねた。よりにもよってこんなときに彼と出くわすだなんて。本当に最悪だ。
     己の登場にジャミルが絶望していることになどまるで気づいていない様子で、セベクはシャワールーム内へと足を踏み入れた。

    「僕としたことが授業のあと更衣室にタオルを忘れてしまってな。本当は部活の前に取りにきたかったのだが、なんだかバタバタしていて来られなかったんだ。もう誰もいないかと思っていたらシャワールームの明かりがついていたから不思議に思って……ん? この焦げ跡は一体……」

     まずい。床の焦げ跡と灰の山に気がついたセベクがその一角に訝しげな視線を向けた。あんまり見つめないでほしい。それは元々自分のパンツだったのだから。

    「これはジャミル先輩がやったのか?」

     ちらりと視線を上げてセベクが問う。ジャミルは沈黙を守った。当然だろう。本当のことなど言えるわけがない。ジャミルにもプライドというものがあるのだ。

    「ジャミル先輩……? どうした、具合でも悪いのか。なんだか顔色が悪いが」

     自分の問いかけに答えようとしないジャミルにセベクが首を傾げる。その緑みがかった金色の瞳の中に純粋な心配の色を読み取って、場違いにもジャミルの胸がむずむずと甘く疼いた。はじめて彼と言葉を交わしたあの入学式の夜から、半年以上の時を経た現在、この他寮の後輩との関係はなんとも形容しがたいものになっていた。彼が自分に向けるまなざしの中に混じる熱。そうしてそれを、なぜか嫌だとは思わない自分。あとほんの少しのきっかけさえあればいまのこの状況が大きく変わってしまいそうな、そんな予感を孕んだ微妙な関係──だからこそ彼にだけはこんなみっともないところを見られたくはなかった。
     ジャミルは口を閉ざしたまま全力で頭を働かせた。なにかこの状況を切り抜ける良い方法はないものか。だがいくら考えても、彼を納得させられるような上手い言い訳は思いつかなかった。床の上の黒々とした灰の山(もといジャミルのパンツ)は依然としてふたりのあいだで異様な存在感を放ち続けている。

     どうやら正直に『虫が出たことに驚いてとっさに魔法を使ってしまった』と白状するしかないらしい。しばらくしてようやくジャミルはそう観念した。虫が苦手だなどという情けない事実を彼に知られたくはなかったが、仕方がない。パンツを履いていないことがバレるより百倍ましだ。

    「……その」

     目を伏せたままジャミルはそっと口をひらいた。セベクの視線が床の焦げ跡からふたたび自分に向けられたのを感じる。
     言え。いいから言ってしまえ。別に大したことではないではないか。誰だって全裸の無防備な状態のときに虫に襲われたりしたらパニックになってすべてを焼き払いたくなってしまうものだろう。……焼き払いたくなるはずだ。多分。
     一度口をひらいたままふたたび沈黙してしまったジャミルのことをセベクはしばらくのあいだ黙って見つめていたが、それからふとなにかに気づいたかのようにちらりと視線を上げた。

    「……む、先輩、うしろに虫が」

    「は!?──うわーっ!」

    「危ない!」

     聞き捨てならない言葉にバッとうしろを振り返ったジャミルはそのまま悲鳴をあげて飛び上がった。なんとジャミルから一メートルも離れていない背後の壁にもう一匹『ヤツ』がいたのだ!
     ただでさえ自分でも上手く説明できない感情を抱いている相手とノーパン状態で向かい合っているという状況に動揺していたジャミルは、まさかの『ヤツ』の再来に完全に度を失った。そうしてできるだけ『ヤツ』から離れようと無我夢中で動かした足がもつれて前へとつんのめった──もう今日は本当に散々だ。
     突然悲鳴をあげて自分の方へと倒れ込んできたジャミルにセベクは驚いた顔をして、とっさに腕を伸ばした。おそらく抱きとめようとしたのだろう、逞しい腕が脇の下から背に回り、ジャミルは硬い胸板に思いきり鼻をぶつけた。同時にむに、と尻のあたりが大きくてあたたかいものに包まれる。

    「──危なかったな。……ああ、靴のまま脱衣場に上がってしまった」

     頭上から独り言のような声が落ちる。

    「虫は先輩の声に驚いてシャワーブースの方に消えていったぞ。たぶんしばらくこちらには戻ってこないだろう…………ん?」

     なんでもないことのようにそう言って、それからセベクはなにかに気づいたかのようにはたと口をつぐんだ。相次ぐ己の無様な失態に打ちのめされていたジャミルはセベクの胸に身を預けたまま顔を上げられずにいた。

     数秒の沈黙が流れた。やがてジャミルの臀部に触れていた手のひらが、なにかを確かめるようにさわ、とごく控えめに動いた。おい、人の尻を揉むな。

    「……」

     ジャミルの尻に手を添えたままセベクが押し黙る。ジャミルもセベクの腕の中でじっと沈黙していた。もはや事態はこれ以上ないぐらいに悪い。
     おそらくセベクは気がついてしまったのだ。革の手袋を嵌めた己の手のひらと、やわらかな肌のあいだにあるべき『あるもの』の存在が無いことに。本来スラックスの布の下にあるべき、もう一枚の布の感触が無いことに。

    「……その」

     控えめな声が響いた。ジャミルの臀部を包んでいた手のひらがそっと離れていく。まるで触れてはいけない美術品に触れてしまっていたことにようやく気がついたかのように。

    「……ジャミル先輩、もしかして、」

    「……なにも言うな」

     もうこのまま顔を上げたくない。鍛え抜かれた胸筋に顔をうずめたままジャミルはそう思った。本当に今日は最低最悪な日だ。もう二度と体育館のシャワーなど使うものか。
     消え入るような声でつぶやかれた言葉になにかを察したらしく、頭上でセベクが息をのむ気配がした。シャワールームの換気扇の音だけがやけに大きく聞こえる。
     ふたたび気まずい沈黙が流れた。やがてセベクが、困惑したように再度口をひらいた。

    「しかしなぜ、ええと」

    「……」

    「つまり…………下着はどうしたんだ……?」

    「……」

    「……」

    「……」

    「……」

    「……」

    「ジャミル先輩、下着は」

    「燃やした……」

    「なぜ??」




     セベクは混乱していた。腕の中には他寮の先輩。セベクのひそかな片思いの相手である彼は、先ほどからセベクの胸に顔をうずめたまま身動きひとつしようとしない。
     そうしてセベクの想い人である彼は──なぜか現在、下着を履いてないらしい。
     ──一体なぜ?
     先ほどセベクの口から漏れた言葉は、正真正銘、純度百パーセントの疑問であった。
     『下着はどうしたのか』という至極まっとうなセベクの問いに対し、腕の中の彼──ジャミルはそれを『燃やした』と言った──聞き取れないほどの小さな声で。一体なぜそんなことをする必要があったのだろう。
     と、困惑の表情でそこまで考えたセベクは、はっとあることに気がついた。

    「まさかこの灰は……」

     ちらりと床に目をやりながらつぶやく。ぴく、と腕の中でジャミルの肩が揺れた。沈黙。それが答えだった。やはりセベクの想像どおり、この灰の山は元はジャミルの下着だったのだ。床の焦げ跡は下着を燃やす際についたものなのだろう……そうわかったところで特に疑問が解消されたわけではなかったが。

    「ええと……なにか問題が起きたのか?」

     セベクはとりあえず思いついたことを口にしてみた。まさかなんの理由もなく下着を燃やすはずあるまい。そんなのはただの狂人だ。なにか魔法を使わなければいけないような問題が起きて、その際うっかり下着まで燃やしてしまったのではないか──そう思ったのだ。ここはシャワールームで、シャワーを浴びるときは普通裸になる。その裸の状態のときになにか不測の事態が起きたのだとしたら。そうしてそれに魔法で対応しようとした際に、あやまって下着まで燃やしてしまったのだとしたら。そう考えれば先ほどのジャミルの言葉にも納得できた。
     依然としてジャミルはセベクの腕の中で沈黙していた。セベクから自主的に身を離すつもりはいまのところないらしい。頭の中を様々な疑問に占められていなければ、セベクは自分の想い人を腕に抱きしめているといういまのこの状況に顔を真っ赤にして動揺していただろう。……まあ、いまだって別の意味で動揺はしていたのだが。

     長い沈黙のすえ、ふいに胸のあたりから弱々しい声が聞こえてきた。

    「…………『ヤツ』が……」

    「『ヤツ』?」

     消え入るような声でつぶやかれた言葉に思わず首を傾げる。セベクの肩に額を押し当てたまま、ジャミルが小さくうなずいた。まるでその一言ですべてわかるだろうとでも言うように。

    「ヤツというのは……」ゴーストやモンスターのような、なにかよからぬもののことだろうか。セベクは内心首をひねった。それが現れたから、ジャミルは自分の下着を燃やしてしまうぐらい動揺しながらもなんとか魔法でそれに応戦しようとしたのだろうか。だとしたらその『ヤツ』というのは一体どこに消えたのだろう。セベクはまだそのよからぬものがこの部屋に潜んでいるのではないかと警戒し、注意深くあたりを見回した。

     セベクが身を緊張させて周囲に鋭い視線を走らせていると、ふたたび腕の中から聞き取れないほどの声が聞こえてきた。

    「……だから、さっき俺のうしろにいた……」

     『さっき俺のうしろにいた』? セベクは部屋を見回すのをやめ、ふたたびちらりとジャミルを見下ろした。あいかわらずその顔はセベクの胸板に押し付けられていて表情をうかがうことはできない。セベクから見えるのは彼の後頭部だけだ。シャワーを浴びたあとだからか、その髪はいつものように編み込まれてはおらずシンプルなひとつ結びにされていた。その頭を見下ろしながら、セベクはふとあることに思い至った。まさか……

    「まさか……さっきのゴ」

    「その名前を口にするな!!」

     突然の大声にビクッと肩が揺れる。彼がこんなに大きな声を出すのをはじめて聞いた。セベクはそのことに純粋に驚き──いや、大声ならつい先ほども聞いたではないか、と思い直した。
     そうだ。下着を燃やしたという爆弾発言のせいですっかり忘れていたが、あらためて振り返ってみると先ほどのジャミルの取り乱しようは普段の彼からは想像もつかないものだった。背後に虫がいるとセベクが指摘したとき、彼は大声をあげて飛び上がりそのまま足をもつれさせてセベクの方へと倒れ込んできたのだ。あんな失態を犯すジャミルはいままで見たことがなかった。つまりそれほどに、彼は虫が苦手ということなのだろうか……

    「……つまり、シャワーを浴びて服を着ようとしたところにゴ……さっきの虫が現れて、それを退治するために火の魔法を使いその際あやまって下着まで燃やしてしまった……ということか?」

    「……」

     その沈黙が答えだった。もしもセベクの推測が間違っていたのなら、彼はそんな不名誉な事実は無いときっぱり否定しただろう。

    「……」

     ジャミルを抱きしめたままのセベクの胸にある種の感慨のようなものが去来した。想い人の意外な一面を知ってしまった──いつでも沈着冷静で普段はまわりの暴走を止める立場にある彼が、それほどまでに虫を苦手としていたとは知らなかった。入学式の夜の出会いから、この半年以上のあいだ、セベクは彼の様々な一面を発見してきた。そうしてそのたびに彼を好ましく思う気持ちを募らせ、ただの仲のいい先輩に抱く以上の感情をその胸のうちに育ててきたのだが、まだまだ知らないことがたくさんあるらしい。

     そんな意外な真実を知ったことへの驚きがだんだん薄れてくると、ふいにセベクは落ち着かない気分になった。はっきり理由がわかったことで、いま自分の腕の中にいる彼が下着を履いていないという事実が急にリアルに感じられたのだ。それどころか先ほどセベクは、わざとではないとはいえスラックス越しに彼の臀部に触れてしまったのだ。その布の下は──
     彼の髪から清潔な石鹸のにおいが香る。セベクはそわそわと落ち着かなく身じろぎした。ジャミルはいまだセベクの胸に身を預け、そこから離れようとしない。セベクの方にも自分からこの腕を離す理由は特に見当たらなかった──他に人のいない狭いシャワールームで、好意を抱いている相手を腕に抱きしめている。そうしてその想い人はいま下着を履いていない──

    「その、」

    「失望したか」

     え、と思わず声が漏れた。わずかに首を傾げてジャミルの表情をうかがおうとするが、あいかわらずその顔を見ることは叶わなかった。

    「……虫なんかに取り乱してうっかり自分のパンツまで燃やしてしまうようなまぬけな人間だと知って俺に失望しただろう」

     セベクの胸に顔を押し付けたまま弱々しい声でジャミルが言う。その声音から彼がいまのこの状況に打ちのめされていることがよくわかった。
     まあ気持ちはわかる。セベクだってもしいまのジャミルと同じ立場にあったなら、恥ずかしくてとても顔を上げられなかっただろう。しかもその状況に居合わせたのが自分の想い人であったなら……まあ、これはジャミルには関係のないことだが。

    「──そんなことはない」

     ぴく、とジャミルの肩が揺れた。セベクは彼の艶やかな髪を見下ろしながらさらに言葉を続けた。

    「まあ、先輩がそんなに虫が嫌いだとは知らなかったので多少驚きはしたが……失望するなどということは絶対にない」

     本心からの言葉であることが伝わるように、セベクはひとつひとつ噛みしめるようにして言った。
     そう。虫相手にそれほど取り乱すジャミルを知って驚きはしたが、別にそんなことは彼に失望する理由にはならなかった。むしろどんなときでも冷静で、なんでもできると思っていた彼の意外な弱点を知ったことでセベクは彼がより身近な存在に感じられたような気がして嬉しかった。それがどんなことであれ、セベクはジャミルのことをより深く知れるだけで幸せなのだ──なぜならセベクは彼のことが好きなのだから。
     ジャミルはなにも言わなかった。だがその体からわずかに力が抜けたことが彼を抱きしめているセベクにはわかった。
     あたたかい体温を腕に感じながらセベクはふたたび口をひらいた。

    「……それよりもこれからどうするつもりだ? パン、……ええと…………その状態のまま寮に帰るつもりか」

     これほど徹底的に燃やし尽くされてしまっては、復元魔法でもこの灰の山を元の状態に戻すことはできないだろう。床の焦げ跡に目をやりながら考える。

    「そうだ、購買部で新しい下着を買えば──」

    「……今日は仕入れ日でもう閉まってる」

     そうだった。月に数回、サムは放課後の早い時間に店を閉め外に商品の買い付けに出かける。運悪く今日はその日だった。ではやはり、彼はこのままの状態で寮へと戻るしかないのだ──下着を履いていない状態のままで。

    「──ならば僕が先輩を寮まで送り届けよう」

     気づけばそう口にしていた。
     ぴくり、とふたたびジャミルの肩が揺れる。その細い体を抱きしめたままセベクは言葉を続けた。

    「その状態で一人で寮まで帰るのは不安だろう。僕は体が大きいし、なにか不測の事態が起こっても先輩の盾になることができる。……いや、別にそんな事態が起こらなくても、誰か事情を知っている者がそばについていた方が先輩もいくらか心強いだろう」

     自分に言い聞かせるように、セベクはゆっくりとそう言った。

     そうだ。こんな状態のジャミルを一人で外に放り出すわけにはいかない。なぜなら彼は、自分の想い人なのだから。
     本日何度目かの沈黙があった。どれくらい時間が経っただろう。やがてジャミルが、ゆっくりとセベクから身を離した。離れていく体温に場違いにも少し寂しい気持ちになる。彼の動きに合わせ、セベクはそっと腕を解いた。

     完全にセベクの腕から抜け出したジャミルがゆるゆると顔を上げる。ようやくその灰色の瞳と目が合った。心の中までも見透かそうとするようにセベクの目をじっと見つめたまま、ジャミルがそっとささやいた。

    「……本当にいいのか?」

    「ああ。まかせておけ」

     その瞳を見つめ返し、セベクは力強くうなずいてみせた。己はいまジャミルに頼られているのだという実感に、腹の奥底から力がみなぎるような心地がした。

     そうしてこの瞬間、セベクにはある重大なミッションが課せられたのだった。すなわち──『ノーパン状態の自分の想い人を彼の部屋まで無事送り届けよ』。


     それから体育館を出るまでは速やかだった。いくらか平静さを取り戻したジャミルは見事な魔法のコントロールで床の上の灰を脱衣場のごみ箱の中に放り込み、それから焦げ跡をできるだけそぎ落として証拠を隠滅した。あざやかな手口だ。床にはいまだわずかな焦げ跡が残ってはいたが、そもそもこのシャワールームを使う人間はほとんどいない。清掃係のゴーストが床についた黒い跡に気がつくかもしれないが、ジャミルがこのシャワールームを使ったことを知っているのはジャミルとセベクの二人だけだ。誰がやったかバレることはほぼないだろう。

     外に出るといくぶん陽は傾いてはいたが、初夏の夕空はまだまだ明るかった──ふたりにとっては都合が悪いことに。誰だってこんな明るい空の下をパンツを履いていない状態で歩きたくはないだろう。
     たださいわいなことに、体育館の入口から見える範囲に他の生徒たちの姿はなかった。

    「近くに人はいないようだな」注意深く左右を見回して、セベクはそう言った。そのままちらりとジャミルを振り返ると、なぜか彼はもじもじと落ち着かなさげに小さく身を揺すっている。

    「どうした?」首を傾げて問うとジャミルはまるで恥じらうようにそっと目を伏せた。

    「…………ズボンの布がこすれて落ち着かない……」

    「……」

     ──落ち着け、セベク・ジグボルト。

     すう、と息を吸い込んで己に言い聞かせる。やめろ、思い出すな。あのときのやわらかな感触を思い出しそうになってグッと拳を握りしめる。馬鹿なことを考えるんじゃない。彼はいまとても心細い思いをしてるんだぞ。邪な考えを抱くなんて最低だ。自分がしっかりしないでどうする。好きな相手が制服の下に下着を履いていないからって、それがどうしたと言うんだ──

     ふう、と気を落ち着かせるように息を吐き出して、セベクはふたたび体育館から伸びる道の先へと視線を戻した。──彼の足のあいだについ目がいきそうになるのを振り切って。

    「……いろいろ落ち着かないだろうが、いまは我慢してくれ。鏡舎までの辛抱だ。さあ、行こう」

     静かな声で言うと、セベクは入口の石段からゆっくりと足を踏み出した。まるで前人未踏の魔境に踏み込む勇者のように。

     ──絶対にジャミル先輩を彼の部屋まで無事送り届けてみせる。他の誰にも、彼が下着を履いていないことを悟らせたりするものか。

     ぎゅっと拳を握りしめ、セベクは固く決意した。

     その後ジャミルの部屋にたどり着くまでに、ふたりは魔法士見習いのモンスターとお調子者の後輩の魔法を使った大喧嘩に巻き込まれたり、観察眼鋭い狩人とマジカメ好きの陽気な先輩に写真の被写体になってくれとしつこく絡まれたり、なぜかスカラビア寮の噴水で水遊びに興じているジャミルの主と他寮の同級生たちに遭遇したりと、数多の苦難に見舞われることになるのだが、このときのふたりはそれを知る由もなかったのだった。
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