なんでもない日の、日付も変わりそうな頃。二人は取引先との会食後行きつけのバーで飲んでいた。スーツのままカウンターに並ぶ。愛を囁く恋人同士のように近寄るわけでもなく、たまたま隣に居合わせた客にも似た距離で椅子に腰かけている背中は、傍から見れば二人がパートナーだと気付かないかもしれない。
マルコの役職が上がっていく度に外で飲む機会は減った。それでも今日珍しくグラスを傾けているのは、彼が部長になった日を祝ってのことだ。
「あっという間。」
「全くだ。お前から言われなかったら気付かなかったよい。」
いつもより強めの酒をぐっと流し込むマルコは機嫌が良さそうだ。
「それすらいつものことでしょう。」
ゆったりとした会話。沈黙すら心地良い。
「初心に帰る良い日なんだ。昔のことを思い出す。」
昔話をするなんてオジサンくさいわ、と言うのはやめる。今日の主役は彼だ。聞かせて、くらいの笑顔でリンは顔を彼の方に傾けた。
「初めて見たとき、ガキみてェに身体が熱くなった。」
「ん?」
「病気と勘違いする程バカじゃねェが……一目惚れだった。」
「ちょっと待って、なんの話?」
部長になった頃の話を聞くつもりだったが様子がおかしい。
「何って、お前と会った頃の話。」
「マルコ、ちょっと飲みすぎじゃない?」
空になりかけているグラスを見てマスターに向かい軽く手を挙げる。水のリクエストをしてから彼のグラスを奪った。
「そっからは結構苦しかった。自覚したのが出会ったときだからな、そこらへんの女に手を出すのとは違う、特別な感情だ。」
酔っているのは間違いないが、マルコは真面目な男だ、泥酔することは滅多にないし、リンが見ても彼の顔は酔っているのかわからないくらい変わっていない。
「はいはい、わかったから。酔っ払いは帰って寝ましょう。」
酔っ払いの話を真面目に聞くこともなく、これはお開きだなと帰りの支度をし始める。
「お前俺が本当に酔ってると思ってんのか?」
「そうですが?」
マルコはハハッと短く笑ってぐっと距離を詰めた。
「俺が深酒しねェの知ってるだろうが。」
耳元で囁かれた雄の声に身体が強張る。目は据わっているどころか、真剣なものだった。
「たまには俺の昔話も聞いてくれよい。俺がお前のことどんだけ好きだったか知りたいだろ?」
聞くのはいいがこんなところでは恥ずかしい、とリンは正直帰りたい気持ちに拍車がかかっていたが、マルコが本当に酔っぱらったわけではなく、右手を優しく掴まれたことで立ち上がろうとしていた腰を椅子に戻すことになる。
「急にどうしたの? 恥ずかしいんだけど。からかってるでしょ。」
周りに聞こえないように声が小さくなってしまう。
「まぁ、からかってるな。」
マルコに水が渡され、空のグラスと交換する。彼はまた別の酒を頼んだ。
「付き合う前も、こうやって仕事帰りに二人で酒を飲むことはあっただろ? そんときの俺に教えてやりてェよい。『隣にいる女はちゃんとお前のモンになるぞー』って。」
自分で言って大層おもしろそうにマルコは笑う。