明日はロディが日本にやってくる日だ。
事務所からの帰り道、出久は軽やかに二十四時間営業のスーパーの入り口を潜る。タイムセール中の惣菜を買おうとデリカコーナーにいけば、ロディが気に入っている梅じそチーズフライが残っていて、出久は上機嫌でカゴに入れる。最近、ロディは梅がブームらしい。最初酸味と塩分に驚いていたというのに、なんだかクセになるなと真面目に呟きながらよく食べている。とてもかわいいと思う。うん。
ロディは現在オセオンの航空会社に副操縦士として勤めていて、入社時に下っ端だから本数こなさなきゃなんねえんだと言っていた通り、いつもいそがしくしている。若手は短距離フライトが基本らしい中で、相当苦労してオセオン-日本の直行便のフライト担当をもぎ取ったらしい。アジア便は一度のフライトで長時間運転になるので、割りがとても良く年功序列で埋まってしまうそうだ。
そんなわけで、ロディが頑張ってくれたお陰で出久は月に一度のペースでロディに会うことが出来ている。なかなかオセオンにいく時間が確保できない出久としては、ありがたい事この上ない。
月に一度のフライトでは、オセオン時間の夕方頃に離陸し、日本時間の早朝に羽田へ着陸する。大体出久の仕事終わりのタイミングで、出久のスマートフォンにロディから毎度、飛行機の絵文字がひとつだけ送られてくる。出発の準備で忙しい中、休憩のタイミングでそろそろ日本に向かうという意味合いで送ってくれているようだった。その絵文字が送られてくるのを見ると、出久はやる気がみなぎる。いつだってやる気十分だけれど、やはりロディに会えるのはとても嬉しいので。
今日もそろそろ絵文字が届く頃だな、とレジに向かいながらスマートフォンを取り出しちらりと見れば、ちょうど通知がポンと画面に表示された。自然と頬が緩む。溢れそうになる笑い声を抑えながら、軽やかな店内BGMを耳に、その通知をタップする。しかし。
「え」
表示されたのは、いつものシンプルな飛行機の絵文字ではなく、文章であった。内容は。
『トラブル 飛べないかも』
浮き足立っていた気分が地底深くまで落ちた音がしたと同時。出久は間髪入れず電話アプリを起動した。発信先はもちろんロディだ。呼び出し音を聴きながら、心臓が嫌な音を立て全身に振動を響かせている。
しかし無常にも電話は留守番電話のアナウンスへ切り替わった。落ち着け、と自分自身に言い聞かせる。
もし事件に巻き込まれたのなら、こんなメッセージは送れない。送れる場合でも内容はかわってくるはず。それならば、ロディが怪我でもしたのか。それとも。いくつかの仮説を思い浮かべ、コールし直す事数回。出ない電話に痺れを切らし、先程のトークアプリを起動し、単刀直入に質問を送る。
『なにがあったの』
すぐに返信がくるとは考えられないが、それでも送った。やはりすぐに既読マークはつかない。
焦る気持ちを必死で抑えながら、買い物かごの中身を見る。冷静な判断ができない。落ち着け、落ち着け、と自身に言い聞かせた。息を一度吸い、次にすべきことは、と思考を回し始めた瞬間。手に強く握ったままの出久のスマートフォンがぶるぶると振動をはじめた。発信者は──。
「ロディ!」
『お、おお……おい、何事だよデク。なんかあったか』
待ち侘びていたその声の主は、普段の電話と変わらない音色を電波にのせて出久に届けてくれた。やっと自分が呼吸ができた気がする。
「こっちのセリフだよ、ロディ! 飛べないってどうしたの、怪我でもした!?」
『はあ? 怪我なんかしてねえけど……え、なに。なんでその思考に至ったわけ』
「いや、だって……トラブルで飛べないって……」
『ん? そのままの意味だけど……あー、たしかに言葉足らずだったかもな』
ロディの落ち着いた声を聞き、少しずつ冷静さを取り戻していくと、ようやく今いる場所に出久は気づいた。スーパーの惣菜売り場の前で声を荒げてしまったため、店員や客がこちらをちらちらと見ている。
慌てて謝罪の意味の会釈し、声量を落として通話しながら買い物を再開した。
『乗る予定だった機体が派手なバードストライク起こしちまってさ。修理して点検中だったんだ。それで振替運行の機体を用意するかって話が出たからデクに連絡いれたわけ。そっちの機体の運転資格を俺は持ってないし、そうなったら俺のフライトは無しになるから、だからトラブルで飛べないかもって』
「そ、そっかあ……」
『心配させちまったな。悪かったよ』
「いや、僕も運行情報調べればよかったんだよね。ごめん、焦っちゃって……ああ、だめだな、反省しなきゃ……」
『相変わらず真面目すぎるだろ』
電話の向こうでロディの笑った気配がする。その気配に心底安堵した。
「じゃあ今回のフライトは無しになるってことかな」
買い物カゴの中身をちらりと見る。さっき買ったロディ用の惣菜は戻すべきなんだろうか。それは少し、否、だいぶ寂しい事で、出久は躊躇ってしまう。きっと一人で食べたらもっと寂しいのだから、戻すべきだというのに。
すると出久の質問にロディが、ああ、と思い出したように声を出した。
『そうそう。そのはなしだよ。修理と点検が予想外に早く終わったから、遅延にはなるけど予定通りの機体で飛べることになった。いまから打ち合わせ入るんだ。だから先にその連絡を入れるかってスマホ出したら、デクから不在通知きてたから』
「へ?」
飲料コーナーの前に立ったときだった。出久の口から間の抜けた声が転がり落ちた。ふわ、と体の中で何かが浮き上がる。
「じゃあ会えるの?」
「……まあ、そういうこと」
ぶっきらぼうな声が電波を介して耳に届いた。
むずむずと口元が動いて、結局耐えきれず出久はふにゃりと笑みを作りあげる。
『あのなあ……』
きっと電話の向こうのロディは頭をかいているんだろう。なんとも言えない顔をしながら。それが易々と想像できるから、出久の笑みはさらに深くなる。
「んなわかりやすく喜ぶなよ、今からフライトだってのに反応に困るだろ」
「ロ、」
「集中させろ。んじゃ、また明日な」
出久に何も言わせないとばかりに言葉を遮り、早口を捲し立て、ロディはプッと音を残して通話を終了させた。
出久のことを考えていたら集中できないと言外に示され、やはり出久の顔はだらしなく緩んだ。
スマートフォンをポケットに入れ、飲み物をいくつか籠に入れる。籠の中を見つめて、もうちょっと惣菜を買い足そうともう一度惣菜コーナーに向かい始めた足の動きは、すっかり入店時と同じ軽やかさに戻っていた。