202310.txt「ここから逃げましょう」
ハン・ジュウォンが睨みつける。
この坊ちゃんは寝ぼけてるんだと思った。
群青色を水で溶いたみたいな明け方。
床に白く散らばってるのは剝ぎ散らかしたお互いの服。
締め切った部屋の中はまだほんのり精液の匂いがする。
今いるのは俺の家だ。共同名義人はもう死んでいない。逃げようとは果たして。
ハン・ジュウォンの透き通るようなその眼差しには抗えない。
しぶしぶと床の白を拾い上げて身に着ける。
玄関に向かう途中、数日前からテーブルに置きっぱなしだったリンゴの赤が浮かび上がるのを無意識に掴んだ。
護身用の武器か何かのように。
逃げるとは。どこへ。
10月の早朝は微かに霧がかかっていてその清潔な湿気を含んだ冷気を深く吸い込む。
ハン・ジュウォンがSUVを開錠するピピと言う音が聞こえる。煙草が吸いたくなったが持って来るのを忘れた。
SUVの運転手は行き先を告げずナビは電源も入れず死に絶えたまま鈍色のアスファルトだけがシャーとなりながら滑りゆく。
煙草どころかスマートフォンも持っていない手持無沙汰でリンゴを右手から左手とボールのように弄ぶ。
逃げるとは、どうやって。
青を溶かした無彩色の中、場違いなほどどぎつい明るさのコンビニエンスストアの看板が目に入る。
「そこ。入って」
一人車を降りる。店内の白い明りに目がくらんだ。
コーヒーだけ一杯買って出ながらここが最後のチャンスだと思った。
チャンス?何の?逃げようというハン・ジュウォンから逃げるためのチャンス?
とにかく無性にコーヒーが飲みたかった。
SUVの扉を開け助手席に置かれた赤いリンゴを手に取って座る。シートベルトを締める。
それを確認したハン・ジュウォンは無言でエンジンをかける。
車内にはコーヒーの香りが充満する。多分実際に飲むよりもこの瞬間の香りが一番魅力的な。コーヒーの香り。
案の定口に含んでみれば煮詰め過ぎたような酸味と水っぽい味がした。
「あなたもどうです」
赤信号の時カップを口元へやるとハン・ジュウォンは視線を前に向けたまま一口飲んだ。
「リンゴは」
おもちゃみたいな赤を差し出すとこれもまた大きく一口かじって返して寄越す。
潔癖症の坊ちゃんが買ってきたまま何日も置きっぱなしだったリンゴを。皮ごと。
SUVは海岸の手前の駐車場に停まった。
こちらを振り向きもせず車を降りた彼はずんずんと歩き出す。
海も空も砂浜もトーンの違う灰色の中追いついた黒い服の男は黙ってこちらに手を差し出したが
俺はコーヒーとリンゴをそれぞれ手にしていたので肩をすくめて見せた。
それでもハン・ジュウォンはおでこに皺を寄せるとリンゴの方を取り上げて手を繋いだ。
べたべたと冷たい海風の中を歩く。裸足に履いたスニーカーに砂が入ってじゃりつく。
頬を膨らませた彼が差し出して来た果実に片手を添えて一口齧る。
コーヒーのカップはもう繋いだ手より冷たい。
ごうごうと言う波音と口に広がる酸味と甘みを奥歯でサクサクと砕きながら浜辺を歩く。
ねえハン・ジュウォン。逃げようとは なにから