あけおめ2022 まだ起き出すには早い時間だというのに、人の気配で目が覚めた。シャーレアンに来てからというもの、もう何日も気の抜けない日が続いていて、深く眠れることなんて稀なほど。いつもは起こしてもすんなり起きないのにと、呆れ気味に言っていた紅い瞳が脳裏に蘇る。
出来る限り音を立てないように入ってきた来訪者からは、殺気も何も感じない。むしろ、早朝の冷たい空気に微かに響く足音と息遣いは、よく知る人ものだった。
「……ラハ?」
発した声は寝起きで掠れていた。上手く相手に伝わっただろうか。薄く開いた視界はまだ闇に沈んでいて、その中で紅い双眸が輝きを放っている。
「わるい、起こしたか? っていっても、起こしにきたんだけど」
「えっ、何か緊急事態が――」
人差し指を立てて静寂を促した彼の表情を、目を凝らして窺う。暗さに慣れた目には、穏やかな、だけどほんの少し悪戯めいた顔が映った。
「まだ夜明け前だから、静かにな。だた、あんたと日の出を見ようと思っただけなんだ。ほら、去年の今日、あんたが誘ってくれただろ」
去年の……と、記憶を反芻して初めて、今日が一年の始まりの日だと思い至った。ちょうど一年前、日の出を見に行こうと彼の枕元に忍び寄ったことがあったのだ。あの時とは真逆の現状に、思わず笑みが漏れる。
「そっか……毎日目まぐるしくて、一年の始まりなんてすっかり忘れてた」
「慣れない土地だし、無理もないさ。今年はオレが案内するからな、まかせてくれ」
身を起こすと、柔らかな唇が頬に触れ、すぐに離れていく。こんなふうにささやかな幸せを感じるのも、なんだか久しぶりな気がした。ベッドから這い出ると、冷えた空気に身震いする。
「外は海風で冷えるからな。暖かい格好したほうがいいぞ」
見ればラハ自身も、いつもとは違い暖かそうなコートを身に着けていた。忠告をありがたく聞き入れ、荷物からフード付きのコートを引っ張り出して羽織る。そこに、ラハがいつも身につけているストールを巻いてくれた。
「ラハが着けてよ。俺は大丈夫だから」
「オレは慣れてるから平気だって。それよりも、寒がりなあんたが風邪ひくほうが大変だから。なんともなさそうな顔してたけど、サベネアとの往復でも、温度差で参ってただろ?」
「……ほんと、ラハにはバレちゃうね」
本当に、彼は何もかもお見通しのようで、だけどそれだけ自分のことを気にかけて、そして弱い自分も受け入れてくれているのだと思うと、なんとも言えず心が温かくなる。
ナップルームの重い扉をそっと開くと、廊下は一層冷え冷えとしていた。屋外の温度を想像して、思わずコートの襟を掻き合せる。
足音を忍ばせながら廊下を進むと、ちょうど一年前もこんなふうに二人でこそこそと石の家を抜け出したのだと、懐かしさがこみ上げた。
「オジカもさすがにまだ寝てるみたいだな。見つかってあれこれ聞かれずに済んで助かった」
バルデシオン分館の重厚な扉を開くと、夜明け前の群青色の街並みを寒風が吹き抜ける。思わず口元を埋めたストールからラハのにおいがして、すぐ隣に本人がいるのにと、不思議な感覚がした。
「こっち、着いてきて」
寒さに文字通り閉口して頷きだけを返すと、苦笑交じりのラハに続いて、石畳の緩やかな下り道を下りていく。エーテライト・プラザの手前で階段を下りて、ラストスタンドの裏手から港へと抜けた。木々もない開けたそこは風も一際冷たく感じられて、無意識に背が縮こまってしまう。
「風が冷たいな。ラストスタンドで、温かいコーヒーでも買っていこう」
こんな時間でも明かりが絶えない店内には、徹夜明けと思しき人が数人、眠そうな顔をして一息入れていた。注文すると、店員が手早くコーヒーを淹れてくれる。温かいカップを手に取ると、ほっと息が漏れた。
「どうする? 寒かったら、ここで朝日を眺めてもいいけど」
「ううん。せっかくだし、目的地まで案内して。ラハと一緒にこの街を歩けるの、すごく嬉しいんだ」
この人は、どんなふうに街を歩いて、どんなふうに日々を重ねていたのか。話を聞いて、その光景を思い浮かべて。そんな悠長なことをしていられる状況でないのは解っているけれど、この街の隅々に、グ・ラハ・ティアという人を形作った時間があったのだと思うと、どうしても気になって仕方なかった。
「そうか? なら、行こうか」
湯気の立ち上るコーヒーを啜りながら店を出て、海沿いの広場を進み、向かったのは出入国管理所のさらに先。港の突端にある高台だった。景色を覆っていた群青色は随分と明るくなり、眼前に広がる水平線がわずかに白んでいる。もうすぐ日の出の時刻だ。
「間に合ったな」
聞こえるのは波の音と、自分たちの息遣いだけ。運良く空も晴れていて海は穏やかだ。
ぬるくなったコーヒーを飲み干すと、その隙を狙ったかのように紅い瞳が目の前に迫る。避ける間もなく唇同士が触れて、すぐに離れていった。
「ちょっ、ここ、外!」
「遠目じゃ見えないから大丈夫だって。今回は何しろ暁の主戦力が勢揃いだからな。シャーレアンに来てからこっち、こんなことする隙もなかっただろ」
頬が熱い。もし誰かに見られていたらと思うと、日の出どころの話じゃない。だというのに隣に立つ想い人は、まるで悪戯が成功した子供みたいな顔をしている。
「ナップルームに戻ったら、続きするか?」
「っ……! 皆いるのに、するわけないでしょ!」
「あそこ、壁が厚くて案外音は漏れないんだけどな」
羞恥に伏せた目に、太陽の光が差し込む。まさに水平線から太陽が顔を覗かせた瞬間だった。瞬く間にバラ色に染まった海原が輝いて、その眩さに息を呑む。
「来年も、再来年も、この先ずっと、こうやって日の出が見られたらいいな」
「……うん」
迫りくる終末を前にして、一年先を想像することのなんと困難なことか。だけど、想像がつかないことと諦めは同義じゃない。またこうやって、二人並んで眩しさに目を細める日を迎えるために、出来ることをやっていこう。そう、始まりの日に誓った。