ひとみごろ「触らないで!!!!」
小さな手が大きな手を叩いた。
一刻ほど前、天使の助けを借りて暗くじめついた牢から小さな堕天使を助け出して、なんとか屋敷まで連れ帰ってくることができた。
しかしとても無事にとは言えない。嫉妬の悪魔によって少女の首につけられたチョーカー、これが厄介だった。どうやら人格や記憶を書き換えるまじないがされているらしく、小さな堕天使は嫉妬の悪魔を狂愛するよう虚偽の記憶を刷り込まれている。
自分が堕天した本当の意味も、自分が追いかけた大切な人も、全部なかったことになった。この首輪一つで。
「ののくん、お願いだから外させて…」
「これはメフィさまに貰った大事なものなの!アンタみたいな人攫いに触らせるわけ無いでしょ!」
小さな堕天使が大きな堕天使を睨む。
大きな堕天使は仕方なく立ち上がり、部屋を出る。廊下には壁にもたれた悪魔がいた。
「…触らせてもくれない」
「フン、損害出すだけ出してあっさり捕まってくれやがってよォ…カミサマはちゃんと罰してくれんだろうな」
「…だといいね」
ちらと二つの視線が、部屋の中の小さな堕天使を見下ろす。隅に縮こまりながら二人を警戒するガーネットの眼差しは、いつにもまして棘を持っている。大きな堕天使はばつが悪そうに顔をそむけた。
悪魔はぶつくさと文句を言いながら玄関ホールへ歩いていく。大きな堕天使も部屋の戸を閉め、そのあとを追った。
玄関には、改めて強い封じのまじないがかけられていた。あの小さな堕天使が逃げていかないように、悪魔がかけなおしたものだ。玄関だけではない。抜けられそうな窓にも、全て。
「おい、そう沈むな、新月がああなったのは全部あのクソのせいだ。あと俺。お前がそういう顔すると、俺の気も沈むだろ」
「…ごめん」
「…は~~~~ぁ」
今は何を言っても、この大きな堕天使の気を晴らすことはできない。あんなに敵意を向けられてしまっては、自分との間は所詮そんなものだったかと思ってしまっても仕方ない。そうでないと信じたい気持ちと、事実そうなってしまった現状に挟まれて、気にするなという方が無理な話だ。
「ともかく、まずはあの悪趣味な首輪を外すところから始めなきゃなんねぇ。しんどいかもしんねぇけど、お前はそのまま続けろ」
「…うん」
「俺は取り合えず、新月がお前に気を許すタイミングを作るよう動くつもりだ」
「…うん」
「…もう今日は休め、怪我だって治っちゃいねえし。何すんにも明日だ明日」
悪魔はリビング正面の自室の扉を開けて、大きな堕天使を半ば無理やり押し込む。扉が閉まると、足音が遠くへ行くのが分かった。
部屋は、昨日の昼のまま薄暗い。あれから一日と少しが経つが、まだ部屋を暗くしていなければならないような感覚がある。大きな堕天使はサイドテーブルの上の蝋燭に火をつけ、ベッドに腰かけた。
「………はぁ」
重い溜息が吐き出される。きっと濃い『陰』が詰まっているだろう。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分にあの時もっと力があれば。いや、そもそも彼女が堕ちていなければ。こんな場所に来ていなければ。
考えてもきりがないことをずっと考えてしまう。そうでなければ頭が真っ白になって、死んでしまいそうな心持だ。
彼の言う通り、今はいったん眠ろう。気をしっかり持たないことには、上手くいくものもいかなくなる。
身体を横にして瞼を降ろす。雨脚はまだ弱まりそうにない。
***
コチ、コチ、コチ…
玄関ロビーに飾られた大きな時計の音が、ゆっくりとあたりに転がる。
悪魔は外套を羽織って二階のギャラリーの柵に腰かけ、ロビーを見下ろしていた。
「………きたな」
悪魔の視界に、小さな姿が映る。右手の廊下からひょこっと顔をのぞかせた小さな堕天使は、辺りをきょろきょろと見つつ玄関に向かう。
記憶を書き換えられているせいか、この屋敷に二階が存在していることを忘れてくれているおかげで、小さな堕天使と目が合うことはない。いつだって頭上というのは盲点だ。
小さな堕天使は玄関を数回ガチャガチャとやったあと、左手の廊下や真正面の廊下の方へいって、どこか出られるところがないか探し回る。想定通り。
「………」
悪魔は無言でその一部始終を見守る。
すると小さな堕天使は元いた部屋の正面に戻り、窓際をじっと見た。窓は割れて雨風が吹き込み、そしてそこには封じのまじないはされていない。当然、悪魔が施し忘れたのではなかった。
小さな堕天使は小さな穴に無理やり体をねじ込み、なんとかしてその割れた窓から外に出る。
「…よし」
小さな後姿が完全に外に出ると、悪魔はギャラリーから降りて窓の正面に立つ。とがった窓の縁にはところどころ血がついて、こちらもひっかけたのか呂色の羽根が一枚引っかかっている。
窓の外にはもう彼女の姿はなかったが、全て想定通りであれば向かう先は決まっている。悪魔は小さな蝙蝠にすり替わると、割れた窓から雨風の吹き荒ぶ空に舞い上がった。
小さな堕天使は、街中を隠れるように、逃げるように走っていた。悪魔はそれを決して見失わない。そもそもこの悪魔が、あの輝きを見間違えたり、見失ったりするわけがないのだ。かつて「月光」と呼ばれた、その輝きを。
「…」
何もかも想定通り、小さな堕天使は嫉妬の悪魔の屋敷に来た。玄関は開いていたようで、彼女は少し焦り気味に扉を開けて屋敷の中に入る。蝙蝠もそれを静かに追った。
一つ一つの部屋をくまなく見る。当然その屋敷はもぬけの殻で、誰もいない。家主は今頃天界でカミサマに遊ばれている頃だろう。いや、遊ばれているかはさておき。
小さな堕天使は一番奥の部屋に入る。そこは家主の部屋で、悪魔もずいぶん昔に一度入ったことがあった。
しかしあの頃とは違って、作業台と思しき机には羽根が乱雑に散らばり、壁にはいくつか光の輪がかけられている。悪趣味な部屋だ。
しかし小さな堕天使はためらうことなくその中を進み、大きなベッドの足元に立った。当然誰も寝ていない。
「…メフィさま」
小さな堕天使がぽつりとつぶやき、綺麗なシーツに顔をうずめる。肩が震えていた。
「…帰ってきてください…私、ひとりぼっちは、さみしい、です…辛いことがあっても、怖いことがあっても、あなたがいたから、頑張ろうって、思えたんです…ずっとそばにいてください、私のこと…捨てないで…」
「ひで―奴」
カチ、と少女の首の後ろで小さな音がする。少女が驚いて振り返ると、悪魔が首からチョーカーを奪い取っていた。ニヤ、と意地の悪い笑みを浮かべている。
「っ…返して!」
「そりゃ聞けない相談だ」
「あ」
パリン!
悪魔はそのチョーカーを床に落とすと、革靴の底で圧をかけてアメトリンを割った。
途端、少女が頭を押さえて苦しみだす。
「あぅ”…!」
「…にしても薄情だよなぁ、大事な大事なパートナーを置いて行って、こーんなに悲しませちまうなんて」
「…っ、だれ、なの…!私に…近づか、ないで…うぐっ」
少女は痛みに耐えながら、悪魔から離れるように窓際に後ずさる。悪魔はそれよりも早く少女に詰め寄り、胸ぐらをつかみ上げて無理やり目線を合わせる。ペールアイリスの美しい色が、少女の瞳に映り込む。
「あのな、俺は恐怖とか弱みとか、そういう支配は嫌いなんだよ」
「ぇ」
悪魔はそうとだけいうと、少女を優しく抱えなおし、窓を蹴り上げて開け放ってそこから外へ飛び出した。この部屋は二階で、当然窓の外には足場も何もない。一瞬ふわりと体が宙に浮かぶ。
しかし次の瞬間には艶のある羽が風を煽ぎ、グンと引き上げられるかのように上空に上がっていく。少女は降り刺してくる雨に、抵抗するのも忘れて悪魔の首元で顔を隠した。
風を切ってすぐしないうちに明るい光を感じた。少女はゆっくり顔を上げる。
視界いっぱいに、青白く光るものがあった。
「──」
その光は酷く暖かくて、酷く懐かしい。何故だか分からないまま、胸の奥が熱くなる。美しい。
「なあ」
視界外で顔の見えない悪魔がふと声を上げる。雲の水面を切るようにして、雲の海を泳ぐようにして飛んでいる。何故だか今は、恐怖も不安も怒りもなかった。
「お前がどんな堕天使になろうとお前の勝手だけどさ、昔の大事なことだけは忘れんなよ」
暫く青白い光が二人を照らしていた。
少女の意識は、いつの間にか深い微睡に沈んでいく。
***
眩しい。
何もない。
遠くに誰かいる。
「ねえ」
呼んでる。
私のこと?それとも誰か違う人のこと?
分からない。
「ねえ」
また呼んでる。
もしかして私のことかも?返事をした方がいいのかな。
上手く声が出ない。
じっと見つめるだけ。
「はやくもどってきて」
あ…
泣いてる。
何で泣いてるんだろう。すごく悲しそうな声をしてる。
どうしたの?
上手く声が出ない。
歩み寄るだけ。
「おねがい」
背中に羽が生えてる。真っ白。
顔を覆って泣いてる。何がそんなに悲しいの?
分からないけど、見ていると悲しくなる。
泣かないでよ。
上手く声が出ない。
そっと触れようとするだけ。
「あいたい」
チカッ
何か光る。
足元に何か落ちてる。
碧いイヤリング。
綺麗。
上手く声が出ない。
じっと見つめるだけ。
見つめる、だけ。
碧い。
碧い石に、私が映る。
私の、姿が。
「はやくもどってきて、はじめ」
あ。
泣いているの、私だ。
***