新生MCDオンリー展示物「って……」
空却のふとした小さな呟きを、左馬刻は決して聞き逃さなかった。昼下がり、左馬刻はこの後テリトリー内の商会に顔を出す用事まで小一時間ほど時間があった。空却はというと暇をたっぷり持て余して、そのあたりのソファでごろごろと漫画を読み耽っていたところだ。いつもべったり引っ付き合っている一郎がバイトで不在なので、そうすると空却には途端に何もやることがなくなる。
「どした」
「あ……? 何がだよ」
「どっかで怪我でもこさえて来たのかっつってんだ」
簓も別件で出ている今日、珍しくチームの事務所には左馬刻と空却の二人しかいなかった。デスクから左馬刻が声を掛けると、空却はだるそうに体を起こす。左馬刻の問うところを理解してから、ああ、と少し言い淀んだ。
「けっ、地獄耳め」
「ケンカやったなんて、ここんとこお前からも一郎からも聞いてねえぞ」
左馬刻は眉間に皺を寄せる。空却の返事は不自然にそっけない。
「したって別にテメーらに一個一個報告しねーっつの。つか別に……そういうんじゃねーから」
空却がはぐらかすものだから、余計に気に掛かった。珍しく歯切れが悪いことにも。左馬刻は吸っていた煙草を灰皿に押し付け、ソファの方へゆらりと寄る。
「だったら尚更どうした。痛め付けられて黙ってんのか?」
ただの喧嘩ならばそれはそれで構わないが、何か良からぬことに巻き込まれているとなれば、左馬刻も黙ってはいられない。
空却と、それから彼の相棒の一郎は、放っておけば二人してろくでもない仕事や揉め事に首を突っ込む。だから左馬刻はこれでも心配しているのだ。戦後からH歴に至るまで、子供を取り巻く嫌な物を色々と見てきた。
妙な怒気を含みながら、左馬刻は空却の前に立つ。
空却はそっと場を離れようとする。だが、すぐに肩に手を置かれてそれは叶わなかった。特段強い力ではない。力ずくではない、諭すような力加減が、かえって重たかった。
「あのなぁ……なぁに深刻な感じになってんだよ。お前ちょっと過保護だぜ。マジでいちいち左馬刻に言うことじゃねーんだわ」
「おい。ヤられたとこ見せてみろ」
「あ!? 無理だって! っつ、」
身をよじった瞬間、空却は息を呑んで横腹を庇った。一瞬の動作を見逃しはしない。
左馬刻は躊躇なく、空却の服の端を捲り上げた。
「あ……?」
左馬刻の眼下に、空却の素肌があらわになる。横腹から胸にかけて、びっしりと肌の上に残されていたのは、暗赤色の小さな痕と、腰のあたりを食い破った歯形だった。
酷いものではあった。だが単純な暴力によるものではなかった。どういう類の痕なのかを左馬刻はすぐに理解して、空却の顔を二度見する。空却はああと溜息をつき、抵抗をやめた。
気まずそうに目を逸らされる。想像したものとは方向の違った結果に左馬刻は一瞬戸惑ったが、いやしかし、問題は"誰が"空却の体をこのようにしたのかであって。
「分かったろ、左馬刻。気ィ済んだら離せ……」
「いや……お前これは、」
左馬刻は念を押そうとしたが。
バァン、と派手な音を立てて、事務所の扉が開け放たれた。
「やーお疲れさん! さっき下で一郎に会っ……て……」
「一緒に戻ってきま……あ?」
入ってきた簓と一郎は、事務所の中の光景にすぐ言葉を失った。何をそこで立ち止まっているのだろうかと思ったのち、左馬刻は一テンポ遅れて、ミスをした、と気が付く。
ソファの背に引き倒され、左馬刻に服を捲り上げられた空却の姿。
二人はそれを凝視した。それからすぐに、疑いに満ちた目を左馬刻の方に向けた。
「え!? 何しとんお前ら!? 左馬刻!?」
「おい……どういうことだよ?」
左馬刻は慌てて空却を突き飛ばす。けれど遅い。簓と一郎は騒然とするばかりである。
「ちげーわ! 俺はただこいつが……」
「事務所で!? 高校のガキ相手に!?」
「簓うるせえ殺すぞ!! 聞け!!」
非難したいのか囃し立てたいのか分からない簓がまとわりついてくるのは、まだいい。その後ろで棒立ちになったまま、あからさまにショックを受けた表情でこちらを睨んでいる一郎に左馬刻は焦る。
しかし一郎の怒りの矛先は、親友に手を出したと誤解されている左馬刻よりも、なぜか空却の方を向いているように思えた。
「空却……いま左馬刻さんと何してた?」
「あーあーあー拙僧が相棒に疑われちまったわ。どーしてくれんだ? サマトキサマ」
怒りの篭もった一郎へ直接は答えず、空却はどこか他人事じみて左馬刻に水を向けた。にやにやと面白がっているのは、無理に服の下を見られた意趣返しのつもりか。
こちらを睨みつけられた左馬刻は、面白がって覗き込んでくる簓の顔を押し退けながら叫んだ。
「心配しただけだっての!! 説明してやっから落ち着け!!」
この状況に至ったいきさつを聞かせ、ついでに気の立った一郎を宥めすかして、一郎と簓はようやく納得に至った。そして空却の体にびっしりと残る痕の出所は、話をするうちに思いがけず判明することとなった。
「まあ……何だ。俺は別にテメーらの仲につべこべ言うつもりはねーからよ。詮索して悪かったな」
「俺はどうせそんなとこやろなーと思っとったけどなぁ」
「だったらさっさと言っとけや!」
歯切れの悪い左馬刻とは対照的に、簓は組んだ脚をぶらぶらとさせて平然と言った。大騒ぎしたくせに、打って変わって涼しい表情をしているのが腹立たしい。
ローテーブルを挟んで向こうのソファに、一郎は妙に小さくなって座っている。大人ふたりの小競り合いに、いつもなら呆れているところ、今日ばかりは顔を赤くして下を向いていた。左馬刻に体を見られた空却はというと、もう開き直ってしまったようだった。頭の後ろで手を組んで、たるそうに左馬刻たちのやり取りを眺めている。
「っす……何か心配かけちまって、すいません」
左馬刻が見た性行為の痕は、たとえば左馬刻の知らない相手が空却にいただとか、まして思い浮かべた最悪のケース――大人による虐待だとか、怪しい仕事や売春だとかによるものではなく――チームメイトの一郎が付けたものである、というのが事の真相だった。
自分でそこまで説明する羽目になった一郎は、居たたまれず、蚊の鳴くような声で謝った。妙なことに巻き込まれていたわけではないのは良かったが、見ている左馬刻の方が、何だかすまない気持ちになった。
「まー知られちまったもんはしょうがねーって。自分でびっちり付けた痕見られて恥ずかしーなぁ? 一郎サンよ」
空却は一郎の横腹を小突いてからかった。自分以上に一郎が恥ずかしがるものだから、すっかり調子に乗っている。
「お前が警戒心なさすぎンだよ! なに左馬刻さんに服捲らせてんだ!?」
「あ!? オメ―が噛んだり吸ったりしつけーのがそもそも悪ィんじゃねーか!」
きゃんきゃんと言い争う中で、よく知る後輩二人の生々しい話題が口から出るのを、やや聞きたくないような気持ちもしたが。
「お前ら、一回聞け」
二人の意識がこちらに向く。前のめりに両手を組み、左馬刻は至って真剣な眼差しで一郎と空却を交互に見た。
「とにかく、話はこっからだ。お前らがヤってようが何だって良いが、ああいうやり方はよくねえだろ。一郎、相手に怪我させるような抱き方すんじゃねえ」
「お二人の仲につべこべ言うてもうてるやん~」
茶化す簓の頭をバシリと叩いて左馬刻は続ける。
「テメーらよぉ、いつもの人死に出そうな取っ組み合いと同じノリでやってんだろ? もうちょい労ってやれや」
「う、うす……」
「あんなぁ口で言ったって無理だってサマトキ、こいつ興奮すると見境無くなって拙僧の話なんざ聞きゃしねーんだからよ。いつものバトルで分かんだろ」
「いつもの光景とこいつらのセックスの事情繋げてほしないなぁ……」
空却に親指で差されて、うるさい、と一郎は小さく言い返したが、それ以上は何の反発もなかった。図星なのだろう。
左馬刻は天井を仰ぎ、ふうと煙草のけむりを一息に吐いた。
「だったらしゃーねえなァ……」
「え、結局放置すんのかよ。どうせだからサマトキサマから一郎に言い聞かせてやってくれって、そのうち拙僧の腹肉食い千切られるわ」
「そこまではしねーよ!」
「見捨てるとは言ってねーよ。兄貴分として俺も腹ァ決めねーとな」
煙草を持ったままの指で、一郎と空却をびしりと差す。
戸惑った顔の二人を、左馬刻は鋭い眼光で見据える。そしてドスの効いた声で言い放った。
「お前らここで実際にヤってみろ。危なっかしい時は教えてやる」
「……はあー!?」
突拍子もない提案に、絶叫は三人分シンクロした。すっかり面倒を見切る覚悟を決めてしまった左馬刻は一切動じない。
「なんっでテメーらにンなとこ見せてやんなきゃなんねーんだよ!」
「空却が言っても聞かねえし、自制もできねーんだろ。なら指導してやる奴らがいねえと変わらねえよ」
「いや待てや! らって! 俺もおらなあかんの!?」
「たりめーだ! ガキに示しつけろや! 何お前が動揺してんだよ!」
おろおろと立ち上がり、ついでに場を立ち去ろうとする簓の首根っこを左馬刻は掴み、自分の隣に引き戻した。えーん嫌やぁ、と情けない声を上げる簓に構う余裕は目の前の二人にはない。
いつもたいてい常識の通じない空却にも、さすがにこれは抵抗があるらしい。一郎もどうすべきか迷っている。
左馬刻はよく諭して聞かせるような、いやに優しい声をして、一郎に問い掛けた。
「一郎ォ……よく考えろ。テメーの大事な相棒だろ。空却だってヤワじゃねえし、テメーはまだ若くて、気持ちが強ェばっかりにそうなっちまうのはよく分かった。だが……無闇に相棒を傷付けるのは違うんじゃねえか?」
「っ……!」
一郎ははっと目を見開く。
尊敬する左馬刻が見せた真剣さのためか、共に戦ってきた相棒への気持ちか、何らかが一郎の心に突き刺さったらしい。一郎が答えるよりも一拍早く、簓は二人の波長が合ってしまった気配を悟り、頭を抱えた。
一郎は深々と頭を下げ、左馬刻の提案を呑む。
「……そう、すね。左馬刻さん、指導お願いします」
「マジかよ!? おい左馬刻! こいつ感化されやすいンだから下手なこと言うんじゃねえ!」
空却は騒いだが、その頃には一郎はすっかり真剣な目になってしまっていた。
一回り大きな手で、一郎にぎゅっと両手を握られ、空却は反発の言葉を失う。
「な、何だっての」
「折角気に掛けてくれてんだ。ちゃんと見てもらおうぜ、空却。俺だって、相棒にキツい思いさせちまうのは良くねえと思ってる。……だから、付き合ってくれるか?」
「一郎、お前……」
「あーもうダメやなこれ、一瞬でたらし込まれとる」
どうにも一郎に情で訴えかけられると弱く、空却もすぐに頷いてしまった。任せとけ、と揚々と答えた二人の絆に、左馬刻は満足げに頷いていた。横目でそれを見た簓だけが今も困惑を隠せない。
「あかん……ツッコミおらんくなってもうた……じゃあもう俺がこの場に残らなボケばっかりになってまうやん……」
「さっきからブツブツ何言ってんだ? お前」
それなら仕方がない。簓はむしろ誰よりも使命感に燃えた。結局、簓が左馬刻と共に、後輩二人を見守ることに決めた決定打はこれであった。