誰だって、無性に叫びたくなるような日はあるだろう。毒蛾とて例に漏れず、たまたま今日がその日だったというだけのことだ。
思えば、今日は朝から散々な1日だった。
朝食代わりに鉄条と食べた屋台の料理は酷い味で、吊るされたラジオから流れる占いは散弾銃のように無責任で喧しかった。
ひとり歩いていたところをカスカベに見つかり、病院へ拉致される。患者たちに睨めつけられながらの強制労働で、解放された頃にはすっかり日が登ってしまっていた。
空腹虫へ向かう途中、バウクスとサーティーンを見かけた。厳重に包まれた大きな荷物を2人がかりで運んでいるようだった。ほんの少しの好奇心から荷物の中身を尋ねようとしたところでぷつりと記憶が途切れてしまい、目が覚めると空腹虫で寝かされていた。後から聞くと、あれは病院に置く予定の巨大なホール人形だったらしい。
様子を見に来たニカイドウに夜の開店まで少し出てくると話せばただ一言、今日はもう来なくていいと告げられてしまい、フラフラと店を出て今に至る。
毒蛾の心は荒れていた。打ちつけるホールの雨のように絶望的で、大風に巻き上げられた炎のように手のつけられない有様だった。
どこか遠くへ行ってしまおう、そこで腹の底から叫んでやる。ひと気がなくて静かな場所がいい。そんな場所がこのホールにあるのかは分からないけれど。
そうして毒蛾は誰にも行き先を告げる事なく知らない土地を求めて歩き出した。
不思議なことに、いかにも無防備な様相で彷徨う毒蛾を襲ってくる人間は1人もいなかった。それはあり得ないと言って良いほどの異常事態だったのだが、今の毒蛾にとっては取るに足らないことだった。
徒歩で行ける距離などたかが知れている。だが歩みを進めた分だけ景色は変わり、いつしか周囲の風景は見知らぬものになっていく。
日が暮れかけて辺りが橙色に染まった頃、毒蛾はぴたりと足を止めた。そこは異様なほど大きくねじ曲がった木が密集する森の入り口で人の世界と自然との丁度境のような場所だった。
別段ここが気に入ったというわけではない。
どういうわけか見知った顔の人物が、毒蛾を待っているかのように歪んだ木の根に凭れているのが見えてしまったからだ。
「どうしてあなたがここにいるんですか」
つとめて慎重に言葉を選び、できる限りの突き放すような声色を装う。
「別に、この辺に用事があっただけだ」
わかりやすく目を逸らしながらそう嘯いたカイマンは、今の毒蛾にとって最も会うべきではない相手である。
「すぐばれる様な嘘はやめてください」
これは本心からの言葉だった。毒蛾の呆れを感じ取ったカイマンは、バツの悪そうな表情で頬を掻いている。毒蛾は構わずに、早足でカイマンの前を通り過ぎる。
「お前の方こそ、こんなところまで来てなんのつもりだよ」
「…少しひとりになりたかっただけです」
「だったら部屋にでも篭ってりゃいいだろ。わざわざこんなとこまで来なくたって」
どれだけ歩いても一向に気配は遠のかず、少し後ろから声がついてくる。なぜ放っておいてくれないのか。微かな苛立ちのような感覚が、毒蛾の心をはやらせた。
「それじゃダメなんです。これはオレだけのものだから、誰にも聞かせるわけには…」
そこまで言って毒蛾はハッと口を噤んだが、どう考えても手遅れである。
カイマンはそんな毒蛾を危なっかしそうに見つめている。
「別に、お前が何をしようが文句は言わねえよ。ただ、もしお前の言いたい事とやらが俺に関係するんなら、聞く権利くらいはあるんじゃねえの?」
毒蛾に黙る以外の選択肢は無い。
あなたには関係ありません、そう言ってしまえればよかったのだがどうしてもそれは出来なかった。
毒蛾という人物はとりわけ誠実という訳ではなかったが、ただひとりに対しては何もかも差し出せるように出来てしまっているのだ。
「それに」
手詰まりの毒蛾に追い討ちをかけるよう、カイマンの言葉が続けられる。
「知りたいんだよ。今のお前が何を考えてるのか」
数秒ののち、言葉の意味を理解した毒蛾は急に目頭が熱を持ったように感じた。頭が真っ白になり、自分が今なにをしているのかすら分からない。
どうして今さらそんな事を言うのだろう。
「今だから言えるんだろ、俺も、お前も」
毒蛾はついに足を止め、立ち尽くしてしまう。
思っていたよりもずいぶん早く、今日という日が終わろうとしていた。
思えば、今日は朝から目まぐるしい1日だった。
ラジオから聞こえてくる占いは1位は射手座のあなたです!と高らかに謳い上げ、なにも心配する事はないのだと自信たっぷりに告げていた。
ふと隣を見ると何食わぬ顔で鉄条が箸を動かしている。以前は床や離れた席で1人食事を取っていたし、それが当然と思っていた。しかしホールでの暮らしが始まってからそういったことは日を追うごとに減っていった。知らないうちに自分たちにとっての当たり前は変わっていたのだ。
人手が足りないからと連れて行かれた病院で訳もわからず受付に立っていると、奇妙なほどに首の長い老人がやってきた。薬を受け取った老人は毒蛾をまじまじと見つめたかと思うとにっこり笑い「お前さんを見ているとなぜか孫の姿を思い出す」と缶ジュースを1本差し出した。ジュースは毒蛾が昔から好きな味のものだった。
ホールの瘴気に当てられて意識を失ったとき、毒蛾は闇の中で揺られているような夢を見た。そこは苦痛と恐れと悲しみが支配する世界だったが、今はもう手の届かなくなってしまった人の気配にも満ちていて、ずっとこのままでいられたら良いのにと思ったところで目が覚めた。毒蛾は一度だけ周囲を窺ったあと、息を潜め目を閉じて暫くの間横たわっていた。現実世界のあらゆるものから身を隠していなければ、幸せな夢を奪われてしまうと思ったからだ。
様子を見に来たニカイドウは余計なことはなにも言わず、静かに送り出してくれた。毒蛾の目尻の赤みにも、枕代わりに敷かれた彼女の上着がぽつりと濡れていることにも気付かないふりをして。
そうして、すっかり見慣れてしまったこの街から少しでも離れようと思ったのだ。
知らない土地でひとりきり。見当違いで、的外れで、どうにもできないほど膨れ上がってしまったこの気持ちを吐き出したなら、楽になれると思ったのに。
橙と紺の光が混じって歪んだ視界の中、毒蛾は大きく息を吸った。しかし実際のところ、叫ぶどころか声が出るかすら怪しい状態だった。
背後には確かにカイマンの気配がある。
これは自分だけのものだけれど、もう聞かれてしまってもいいのかも知れない。
どうしてそう思ったのか、毒蛾自身にも分からない。ただなんとなく今日起こった全ての出来事に背中を押されているような気分になったのだ。
「オレは、あなたに」
真っ暗闇の世界で感じたあの懐かしい気配を思い出そうと毒蛾は硬く目を瞑る。
いつもどこか遠くを見ていて、大切なことはなんにも言おうとしない人
返り血に濡れながら多くの命を奪い、その手で頭を撫でてくれた人
あなたはオレを救ってくれた唯一の人だから
「神様になんて、なってほしくなかった」