廃屋敷、ずっと昔に使われていた東の国の建物の事。アイクはとある廃屋敷の前に立っていた。次の執筆の題材を調べていたところ、そう遠くない場所にあると聞いてやってきたのだ。
中に入ると破れた障子、ささくれた畳、倒れて散らばった小物達に出迎えられる。見るも無惨な状態だった。
(昔は美しい建物だったのだろうな……)
建物自体は壁面の跡、廊下から見える広い庭、建物の真ん中には小さな池まであった。きっと芸術や自然も楽しめる華やかで美しい場所だったのだろう。探検しながら次の小説の内容を考える。
「廃墟の姿を描写してホラーにするか……昔の姿を想像して時代モノにするか……あれ?」
屋敷内を歩いていて気が付いた。
「床が濡れている……」
一ヶ所だけではない。ここを起点にずっと続いているのだ。足跡とは違う、何かが這って行ったような跡が。
好奇心に突き動かされ、アイクはその跡を辿っていく。それはどんどん屋敷の奥へ奥へと進んでいき、それに伴い暗くなる室内。
……日が入らないとはいえ暗すぎないか?
広い屋敷ではあったが、こんなに奥まで行けるものなのか?
不安が募っていくのに対して、進む足は止まらない。帰った方が、と考えかけたその時、唐突に屋敷の突き当たりに着いた。正面にはそれ程大きくなさそうな部屋があり、障子が半分程空いている。中は真っ暗で何も見えない。
この時のアイクは帰ればいいのに近付いてしまった。障子に手を掛けてしまった。覗いてしまった。
「っひ……!」
目玉が見ていた。
大きな一つ目が。
大きな黒い塊の中に大きな一つ目を持った「何か」は気付いていたのだ。知っていたのだ。アイクがいる事に。アイクは後ろに下がろうとしたが足が絡まり、その場に尻餅をついてしまう。
「こ、来ないで……」
ペタリ
ペタリ
アイクのか細い声など聞こえぬと言うように黒い何かは一歩ずつ近付いてくる。手のような足のようなものを一歩ずつ踏み出して。三歩目が出た所でナニカはニヤリと笑って一気に距離を詰めてきた。
「!! っひぃ……!」
アイクも飛び出すように立ち上がり、背中を向けて走り出した。
走る。
走る。
無我夢中で。
角を曲がり、障子や襖を開け放ち、とにかく走った。
出口はどこだ?
アイツの目的は?
どこか隠れる所は?
頭の中を駆け巡る疑問達。後ろを確認したいがそんな勇気も余裕も無く、アイクはとにかく走った。
出口はまだなのか?
こんなに遠かったっけ?
ずっと同じ所を回っているような、
募る不安と恐怖に比例し、体力の限界が近付いてくる。
脚が痛い、
肺が痛い、
もう、走れない。
ついに脚が止まり、近くの部屋に逃げ込んだ。襖を閉めて壁に背を預ける。全力疾走で息が上がっているが、見つからないよう手で口を覆って出来るだけ小さく呼吸する。
ズルズル、ペタペタ、と歩く音が近付いてきた。身体の震えも相手に聞こえてしまいそうでアイクは口を覆っていた片手で自分の身体を抱きしめた。
ズルズル……ズル…… ……ズル……
…… …… …… ……
…… …… …… ……
……通り過ぎてくれた?
音が聞こえなくなり、アイクは襖を開けようと脚を上げたその瞬間、何かに足首を掴まれる。
「!? っやだ!何これやだ!!」
黒い液体のような物がアイクの両足を捕えていたのだ。その液体はどんどん量を増しアイクの前に形を作っていく。大きな黒い塊。アイツだ。そう確信した瞬間、大きな一つ目が開いて目が合う。アイクの恐怖を笑うように一つ目が弧を描く。そして逃げる間も無いまま、アイクの首元に黒い手が巻きついた。
「!! っかは!?っぐ、っゔ、やだ……!」
身体を持ち上げられ、自由になった脚をばたつかせる。巻きつくソレを剥がそうと両手に力を込めるもびくともしない。それどころか全身に無数の黒い手が張り付いて身体の自由を奪っていく。黒い手が張り付く度に、何か悪いモノが注がれているような感覚がする。視界だけでなく心も黒く染まる感覚。
これはダメだ、
このままではボクは、
ボクもコレとオナジニ、
ついには両手脚も捕えられ、一切の抵抗を許されない。
もうだめだ。身体も、心も。
諦めかけた瞬間、突然真っ二つになる異形。身体が自由になって、一気に入り込む酸素に咳き込む。座り込んだアイクを何かが覆った。
「そのまま大人しくしていなさい」
それは温かくて知ってる匂いがして、霞む視界には美しい椿の羽織りが映った。沢山の異音が聞こえる中、ぼんやりと椿を見ていれば、だんだん周りは静かになっていった。
無音になった空間で、視界に白いスラックスが入り込む。それを辿って視線を上げると黒髪の誰か。顎をすくわれ、さらに視線を上げれば、揺れる耳飾りと黄色い満月が近付いてくるのが見えた。顎をすくう手が逃さぬとばかりにアイクの頬を捉えて、さらに満月との距離が近くなる。ついにはぼやけて見えなくなって、口が何かで塞がれた。
「……ん!?っん、んんー!?」
キスされている。
なんで?どうして??
そう思っている間に舌が入ってきて、口内をまさぐられ、唾液を飲まされ、舌を吸われる。さっきの黒い何かを打ち消すような、吸い取ってくれるような感覚。黒い何かに支配されていた感覚は無くなり、かわりに酸欠でぼんやりしてきた頃、やっと唇が離れていった。ようやく手に入れた酸素と身体の自由に再び咳き込みながら、もう一度見た相手の顔は心配と安心とほんの少しだけ怒っているような、しかしよく見知った顔があった。
「アイク、戻ってきたかい?」
「……ゔぉっくす……?ぼくは......」
口端を指で拭われる。そして気付いた。いつの間にか不気味な屋敷では無く、美しい屋敷にいる事に。沢山の飾られた着物や吊るされた布地が目を惹く部屋。どれも赤を基調とした煌びやかなデザインで所々にある淡い灯りがそれらを照らす。
「ここは私の神域、安全な空間さ。アイク、君は本当に危ない所だったんだよ」
「……ごめんなさい……本を……作ろうと思って……」
「いいんだ。間に合ったからね。でもこれからは誰かに相談するか、私を連れていっておくれ。君に何かあったらと思うと……本当に……!」
抱きしめられる。申し訳ない事をしたと襲いくる罪悪感に涙が出てきた。
「うん……ほんとうに、ごめんなさい……!」
「ああ、泣かないでおくれ……!君にそんな顔をさせるつもりはないんだ。どうか泣き止んでおくれ」
涙を拭われ、顔中にキスをされ、再び優しく抱きしめられる。なんとか泣きやんでヴォックスの背中に腕を回せば、通じたのだろう背中をポンポン叩かれた。
「疲れただろう。少し眠るといい。私達の家に帰ろうね」
「ひっく、ぐず……うん……」
頭も撫でられ。よく知ったにおいと温かさに一気に眠気が訪れた。ヴォックスが身体を抱きあげる感覚を最後にアイクの意識は途絶えた。