狼〈ウェアウルフ〉は誰だ(FF5/バツレナ) 真昼の白い光が溢れる長い廊下を、一心に駆けていた。
おそらくどこかの宮殿なのだろうが、レナが知っているどの王城にもこんな廊下はなかった。
——と、思う。
左手には窓が、右手には乳色の石壁が続く。足元には分厚い真紅の絨毯。頭上にはいくつもアーチを描く高い天井が延々と、見える限りの先まで延びている。
どこまでもどこまでも、まるで果てなどないかのように。
「はぁっ、はぁ……」
足音は絨毯に吸われ、細かな埃が光の中で静かに輝く。白昼夢のような美しい光景の中、聞こえる音は自分の荒い息遣い。そして背後から迫ってくる微かな唸り声。その二つ。
どこからどれほど逃げてきたのだったか。
——何も思い出せない。
止まったら捕まる、捕まったら終わりだ。
——それだけはわかっている。
すらりと高い踵が美しかった銀の靴はとうに壊れ、脱ぎ捨てた。
真珠色のドレスをまとめて抱える余裕も既になく、もう後ろに靡くままにしていた。
爪先にも踵にも血が滲み、腕はだらりと垂れ下がるばかりでもう少しも持ち上がらない。いくら喘いでも息苦しさが薄れない。せめて何か武器でもあれば良かったのに。
「ああっ……」
絨毯を踏んだ爪先からずきりと痛みが走り、意図せず悲鳴じみた声が唇から漏れた。爪が剥げたか骨が割れたか。視界が滲む。頭がぼやける。限界だった。
それでも止まれない。何故なら——
ああ、ほら。やっぱり聞こえる。
ほんの数歩だけ遅れた後ろで、薄汚れた巨大な獣が喉を鳴らしている。
少しでもこの痛む足を甘やかせば、あるいは少し背後を確認するだけでも、あっという間にあの生臭い空気が追いついてくるのだ。そうして瞬時に伸びてくる致命的な鈎爪や牙。今まではかろうじてかわしてきたものの、既にドレスの後ろ身の裾は幾度も引っ掛けられて細かくばらばらに裂けていた。あの飢えた恐ろしい獣は、やわな小娘の身をこういうふうにしたいと思っているのだろう。怖気で気が狂いそうになる。
だれか助けて。
声を出せば少しは気が晴れるだろうか。けれどここは出口のない無限の廊下。まるで美しい廃墟のように、生き物の気配はない。
いるのは自分と、あの獣だけ。ずっとそうだった。
思い出せる限りの昔から、ずっとずっと——
(そう……だった……かしら……?)
ああ。違う。
(わたしは——)
かつてここに、恐ろしい獣なんて、いなかった。
ここは自分一人だけの場所だったから。
(ずっと……一人で……)
薄れる意識の淵で、朧げに思い出す。美しいものだけに包まれていた幼い頃。綺麗な砂糖菓子のような姿で、ずっとこの静かな場所で一人。大切なものとして扱ってくれる大人たちに、窓越しに微笑みを投げかけながら過ごしていた。あの人たちが悪いのではない。どこまで行っても途切れない、こんな頑丈な格子窓であちらとこちらに隔てたのは自分。
いつからだっただろう。
愛はくれるけれど、もういない者達を一番大切にし続ける人——
可愛いけれど、わたしの願いより優先しなくてはいけない存在——
恭しく首を垂れてくれるけれど、別の家に帰っていく人々——
そうではなくて。
それらも大切だけれど、そういうものだけではなくて。
自分にも欲しくなってしまったのだ。何よりも強く求めてくれて、一番大切だと言ってくれる、自分だけの特別な人。そういう人が自分にも一人くらいいたっていいのではないか……いつからかそんなことを思い描くようになってしまった。
もしもそういう人が現実に現れたならば、こちらに入れてあげてもいい。
そういう傲慢な我儘を、本当はずっと——わたしは。
「あ——」
とうとう躓いて、つんのめって、絨毯が近付いてきて。
その瞬間。覚悟が定まった。
ずしりと遅くなる時の流れの中、宙でくるりと身を返し、踊りかかってくる獣の姿を見定める。狼に似た、それより数倍は大きく重そうな獣。吊り上がった瞳が爛々と輝く。彼は狂喜しているのだった。長い舌を宙に躍らせ、涎を撒き散らし、黄ばんだ牙を閃かせ、夢中で飛びかかってくる。この獲物を隅々まで貪りたい、長い長い飢えを遂に満たしたい、迸るように叩きつけられる強烈なその一心。
レナはふと微笑んだ。惨い死への恐怖は消えていなかったが、この死神を微笑ましく思う気持ちが僅かに生まれていた。疲れているのは、彼だってきっと同じだろう。力の入らない両腕をふわりと差し伸べる。長年泥と血を吸い続けた重く滑る毛皮、その強烈な生臭さごと、飛び込んできた重いものを抱き止めた。
時が速度を取り戻す。背が絨毯に衝突するのとほぼ同時に、獣がレナの腕をすり抜けて頭を上げた。顎が開く。レナの腹に牙を埋める。ドレスごとぶちりと食いちぎる。激痛に貫かれ、レナの喉から絶叫が迸った。皮膚も肉も腸も構わず、獣は次々とむしゃぶりついていく。レナは泣きじゃくった。鼻面を突っ込まれ奥まで骨まで無惨に食い散らかされていく耐え難い痛み、同時になぜか同じだけ強烈な歓びに突き上げられ、泣き咽ぶ自分を止められない。
こんなにも全霊で求めてくれる人、今までいなかった。
美しいドレス、豪奢な絨毯、見る間にどす黒く汚れていくそれらに見向きもせず、それはレナだけに夢中だった。鼻息を荒げ、唸り、吠え、震えながら全身で喜んでいる。これが欲しかったのだとまるで嬉し泣きするように。滲む視界にそれを映し、ガクガクと痙攣する腕で、レナはこの行儀の悪い獣の頭を抱いた。獣は嬉しそうにレナの喉に牙を埋めた。
(……ああ。わたし、嬉しい……)
やっとわかった。
これが我儘の果て、その答え。
わたしがずっと会いたかったのは、
※ ※ ※
ぽつりと、瞼が薄く開いた。
耳にはしんと張り詰める静寂。
真昼の白い光の中に、細かな埃がきらきらと輝きながら舞っている。
背が布に触れているのを感じる。おそらくは麻、シーツの感触……だろうか。
どうやら眠っていたらしい。すぐ側に窓があるらしく、見上げる視線の先でレースのカーテンが音もなく揺れている。白漆喰の壁に埋まる黒木の柱。古ぼけた梁が横たわる天井の辺りは薄暗いが、それほど遠くはない。要は一般的な民家のそれ。
「——……」
レナはぼんやりと瞬いた。ここは——どこだろう?
瞼も手足も、思考までもがひどく重い。
眠っている間にひどく汗をかいたらしい。今もまとわりつくような暑さに包まれているのを感じる。頭上の窓を通っているはずのそよ風も、肌にはほとんど届かない。
ふと、ぎしりと床板が軋む音がして、それから足音が続いた。近づいてくる。傍の椅子に腰を下ろす気配。何かが覗き込んでくる。影が落ちる。
人間の形をしている。
「よお」
その人は、彼は、笑っている。
「大丈夫か? ずいぶんうなされてたな」
冷たく湿った布巾。それがぽんぽんと顔を、それから首筋を拭ってくれる。
——気持ちいい、と思う。
半分閉じかけの瞳をそろそろと上に向けていく。汗が浮かぶ首筋、顎——笑みの形の唇——それからきちんと並ぶ健康そうな歯列が目に映った時、レナは無意識に自分の下腹に指で触れた。そこにはちゃんと皮膚が漲り、体温もある。呼吸に合わせて穏やかに上下もしている。当たり前だ。それにしては何故か現実感が乏しいのだが——。
じっとしていると今度は、大きな掌が額に乗せられた。冷たくも熱くもない。ただその乾いた感触と重みには不思議と安堵を覚えた。
「よしよし。熱は引いたみたいだな。偉いぞ」
和やかにこちらを見守る瞳。青い色。
「——……」
名を呼びたかったのだが、吐息にしかならなかった。喉が酷く渇いている。
こちらの様子に気付いた彼が側机から水差しを持ち上げ、小さな器に中身を注ぎ始めた。ほら、と差し出されたそれを——
どう、したらいいのだろう?
いつまでも頭が働き始めない。暑さのせいだろうか。
「おいおい……本当に、大丈夫か?」
大丈夫、と言っていいのだろうか。元の自分はどういうものだった?
不思議と思い出せない。もしかして、これも夢——なのだろうか?
ぼうっと彼の手元を眺めていると、彼は一つ息を吐いて吸って、それからぐいと器を煽った。それから腰を浮かせてこちらの頬に手を添え、顔を伏せて覆い被さってくる。やわらかな何かが唇に押し付けられる。口腔に冷たいものが流れ込んでくる。喉が勝手に嚥下する。渇きがわずかに和らぐのを感じる。
「ん……」
掠れてはいたが、なんとか声が出た。
「あり……がと——」
「もう少し、休んだ方が良さそうだな」
労りに満ちた声が心地良かった。そうしようと思ったわけでもないのに、するするとまた瞼が下りてくる。全身にまだ眠気が残っている。
「まあ、もう急ぐ理由なんてのもないしな。焦ることないさ。何日でもゆっくり、ここの平和を見物して行こうぜ」
頬に触れていた指が、今度は汗で張り付く前髪を優しく掻き分けてくれるのを感じる。それから親指が額を撫で、他の指が瞼や鼻筋や顎をなぞり。親猫に慈しまれる子猫のようだと思ったが、別に嫌ではない。のでされるがままでいる。
「……でも、ああ、しまったな。おれより、ファリスとクルルにいてもらう方が安心だったよな。ついさっき外に出しちまったんだよ。みんなでここに籠っていても暑いだけかと思ってさ。噴水の広場でちょっと水遊びでもして、その後どっかで飯食って買い物して夜には帰ってくるって——」
レナはゆっくり瞼を開き、ぼんやりと声の主を眺めた。寝台に寄せた椅子に腰掛け、穏やかな笑みを浮かべて話しているその人。
(前から——こうだった……?)
髪や頬をゆっくり撫でてくれる指も声も眼差しも。いつになく優しく甘く感じて、それがひどく心地良くて。頭も心も痺れたまま元に戻らないのは、そのせいではないのか。
思い出せない。元からいつもこうだった?
それとも——他に誰もいないから、今だけの特別?
ふと話が途切れた。静寂が戻ってくる。契機とでもいうように指が離れようとするのを感じて、それはなんだか嫌だと思う。力の抜けた腕を精一杯持ち上げて、そっと袖の端を捕まえた。彼は笑んだまま、驚く様子も見せない。
少しも逆らわない手を自分の腹部に導き、置かせて。上から手を重ねてやんわり押さえても、虜囚は素直に従うのみ。貼り付けた微笑を僅かに傾け、眼差しで意図を問いかけてくる。
レナは声にならない声で囁いた。
「……食べたい?」
すぐには返事がない。
カーテンがそよそよと揺れる。一日はまだ長い。
「——飯なら後で、あいつらが」
「大好きなの。あなたが。世界で一番」
一言紡ぐごとに息が上がりそうになる。それを辛うじて飲み込んで。
「知っているん、でしょう?」
彼の表情は動かなかったが、腹に乗せた指先がぴくりと動くのは感じた。
「……わたしだって、わかっていることはあるのよ」
布越しに感じる五指の形。囁きに応じるように、じりじりと重みが増してくる。
熱が染みてくる。
「ねえ……バッツ」
例えば、少しだけ触れた指先の意外な強さだとか。
朗らかな笑みの奥で、笑っていなかった瞳だとか。
あの人の姿の内側からこちらを窺う恐ろしい獣の存在を、ずっと感じてきた。
けれど彼は一瞬でそれを押し殺して、平静なふりに戻るのがとても上手かったから。何も見えていないふりを、ここまでずるずると続けることができてしまったのだけれど。
さっき微睡から覚めた瞬間、何故だか覚悟が定まってしまった。
唐突に理解が追いついたのだった。
——怖いものは、怖い。
——だけど、わたしは、彼のそんな衝動すら嬉しく思っている。
ならば逃げ回る必要などないではないか、と。
彼は俯いて息を吐き、吸った。煩悶するように。それを何度か繰り返し。
再びこちらに向いた顔は、特に変わりのない優しい笑顔のまま。ただ声だけが少し奇妙に掠れていて、
「……もし、お前が、ちゃんと元気になってからも、——」
振り絞るような言葉は、それきり絶えた。
仮面は剥がれ落ちた。
枕のすぐ横に、無言の彼が手を置く。寝台が沈み、軋む。ずっとそこにあった模範的な笑みが今はぐにゃりと歪み、まるで怒りを噛み殺しているようにも、泣き出すのを堪えているようにも見える。不思議に切なくなるそれが、間近に覗き込んでくる。
——もしかしたらこれは、夢ではないのかもしれない。
ゆっくり、何かを確かめるように唇に触れてきたのは、もう何の建前もない、ただ焦がれ続けた者の口づけだった。続いて指が。掌が。
初めから子猫と親猫などではなかった。
彼が守り続けた人間の皮は内から食い破られ、ついに這い出るものを見る。
ああ——会いたかった。
より強くそう思ったのはどちらだったか。
レナが潤む目で差し伸べた両腕に。
自由を得たばかりのそれは、もう何の遠慮もなく飛び込んできた。