The Contradictory Devil「『悪魔の証明』……ですか?」
ミチルはグラスを片手に小首をかしげた。隣ではブラッドリーが琥珀色の液体が入ったグラスを傾け、機嫌が良さそうにニヤリと笑う。
シャイロックに届け物をしてほしいとフィガロに頼まれて、少しドキドキしながら訪れた夜の魔法舎内のバーでは、ちょうどブラッドリーがカードゲームでムルに大負けしたところだった。何でもいいから気分転換がしたかったのか、ミチルの姿を見止めたブラッドリーはカウンター席に彼を座らせ、北の国の話や盗賊時代の話を聞かせてきたのだ。
北の魔法使いだと思うと少し怖かったが、ブラッドリーから次々と繰り出される話は面白く、シャイロックが出してくれたピンク色とオレンジ色が綺麗なグラデーションになったジュースも美味しく、ミチルはついつい腰を落ち着けてしまっていた。
「そうだ。『ある』ことは証明できても、『ない』ことは証明できねえ。例えば、『触れた物を何でもお宝に変える魔獣がいる』っていう噂が立ったとして、いるって主張する奴はその魔獣を探して連れてくりゃいい。だが、いないって主張する奴が世界中をしらみつぶしに探して、絶対にそんなものは存在しねえって証明することは不可能だ。探し方が悪いだのどこかにいるかもしれないだの、いくらでも反論できちまうからな」
「そうだよ!」
「わっ」
カウチで横になっていたはずのムルが突然視界に飛び込んできて、ミチルはグラスを取り落としそうになった。「ムル」とシャイロックが窘める声も意に介さず、ムルは空中に浮いたままミチルの鼻先に人差し指を突きつける。
「だから『悪魔の証明』! 消極的事実の証明の困難性を比喩的に表した言葉!」
「えっと……?」
ムルは花火を上げたり踊ったりといつも楽しいことをしてくれるが、たまに難しいことを何でもないことのように話してくるのでミチルは思考が追いつかない。話に割り込まれたブラッドリーは、渋面でムルを押しのけた。
「おい、邪魔すんなよ」
「ブラッドはそんな魔獣はいると思う? カードをめくって切り札が出たら『いる』、出なかったら『いない』でどう? 俺は『いない』に賭ける!」
何かを含むように笑いながらカードを空中に広げたムルを一瞥し、ブラッドリーは心底嫌そうに眉をゆがめた。
「その手には乗らねえぞ。そのデッキ、切り札抜いてあるだろ」
「イカサマなんかしないよ! ギャンブルは、確率の計算と記憶力と心理戦さ」
「言ってろ。次は負けねえからな」
チッと舌打ちをし、ブラッドリーはグラスを干した。カウンターに空のグラスを置けば、すかさずシャイロックが同じ酒を注ぐ。スモークのいい香りがする蒸留酒はブラッドリーによく似合う。自分もいつかこんなお酒が似合う大人になれるだろうかと、ミチルの若草色の瞳に羨望が浮かんだ。
「理論が追いつかないことを悪魔に喩えるというのは言い得て妙ですね。解決が不可能な議論に誘惑の爪を伸ばして煙に巻く……まるで、夢魔のようです」
パイプをふかし、シャイロックは嫣然と微笑む。ブラッドリーとはまた違う大人の雰囲気に、ミチルはめまいがしそうだった。改めて、こんな所に自分がいていいのかと思う。賢者様だって、ベネットの酒場に行った時は場違いじゃないかどうか少し緊張すると前に話していた。
「どうぞ、ミチル」
くすりと笑って、シャイロックがいつの間にか空になっていたミチルのグラスを下げた。替わりに出て来たのはほんのりナッツの香りがするホットチョコレートだ。
「あ、ありがとうございます」
「どんな方でも、場違いなんてことはありませんよ。ミチルがこの場所を気に入ってくだされば、それで充分です」
ミチルが一瞬感じた居心地の悪さを包み込むように、ホットチョコレートは甘く、温かい。
その間もブラッドリーとあれこれ言い合っていたらしいムルが、今度はシャイロックに矛先を向けた。
「『悪魔』は欲への誘惑や嫉妬、視野狭窄の象徴! シャイロックは悪魔を見たことがある? それってどんな? 悪魔の対義語は天使? 本当に?」
「悪魔悪魔とおっしゃいますが、裏を返せば、現状打破という概念もあるそうですよ」
「東の国の奥地では、悪魔崇拝の習慣を持つ少数民族がかつて存在した。贄を捧げれば利益を得られるとする民俗信仰はどこにでもある。その対象が悪魔なのか、大自然なのか。それとも大自然が悪魔なのか?」
「それを言ったらオズの野郎は魔王だからな。奴も北ではあちこちで祀られてるぜ」
三人の会話はテンポが速く、知識のないミチルは理解が追いつかない。しかし心地よいリズムはまるで間近で愉快な演劇を観ているようで、聞き入ってしまう。
「オズが悪魔! 面白い! でもどちらかといえば、『悪魔』はシャイロック!」
笑いながら宙返りをするムルに、シャイロックが苦笑いをする。
「おや、聞き捨てなりませんね」
「シャイロックに夢見て破滅した人間も魔法使いも数知れない。それは悪魔以外だったら何?」
「私が望んだことではありません」
やれやれと息をつき、「そろそろお休みになる時間では?」とシャイロックはミチルに水を向けた。
「あ……」
いつの間にか、時計の針が頂点にかかる時分だ。思いのほか長居してしまったらしい。
「ご馳走様でした」
飲み干したマグカップを差し出すと、笑顔とともに受け取られる。グラスを置き、ブラッドリーも立ち上がった。
「俺もそろそろ戻るぜ。おいちっちゃいの、部屋まで送ってやる」
「え、いいですよ。一人で帰れます」
「こういう時は大人を立てるもんだぜ」
子ども扱いされて強がれば、更に大人の余裕で包み込まれる。
「お言葉に甘えては? 魔法舎の中とはいえ何があるかわかりません。あなたに何かあっては、お兄様やフィガロ様に私が叱られてしまいます」
お届け物ご苦労様でした、とシャイロックにも微笑まれては、ミチルもこれ以上意地は張れない。「ブラッドリーさん、よろしくお願いします」とせめて礼儀正しく頭を下げた。
「いいってことよ。おい、こいつの勘定は俺につけとけ」
出際にブラッドリーがシャイロックにそんなことを言うのが聞こえ、大人の道への遠さにミチルは嘆息した。
「まったく、仕方のない人」
客が誰もいなくなったバーで、シャイロックはムルを睨んでみた。しかし口元には笑みが上ってしまい、思いのほか、ムルの言い様が気に入ってしまったのだと知る。
「シャイロック、カクテルをちょうだい。今の俺の気分にぴったりなやつ」
「召し上がるなら、スツールにおかけになって」
ムルは素直にカウンターを挟んでシャイロックの正面に腰かける。シェイカーを振り、出来上がったカクテルをシャイロックはショートグラスに注いだ。
「いただきます。……辛い!」
くっと飲み干したムルは目を瞬いた。キリッと冷たい山吹色のカクテルは甘い芳香のリキュールがベースになっているが、サンダースパイスと冬景色のジンジャーを効かせてある。一口目は甘酸っぱいが、二口目からは霹靂のような辛さが舌を刺激するはずだ。シャイロックは悪戯っぽく笑みを深める。
「あなたにぴったりでしょう、ムル。傲慢を極めて塔の頂にいた王様が、天の怒りを買い破綻する……破壊、破滅、崩壊。もしくは不安定、緊迫、必要悪。裏でも表でも、救いようのない御伽噺です」
詠うようなシャイロックの声に、ムルは喉元を擽られた猫のように、うっとりと目を細めた。
「それって最高に俺らしくて、面白いね」
空のグラスを差し出しながら、ムルの視線がシャイロックをまっすぐ射抜く。翡翠色の双眸が不敵に光り、シャイロックの紅玉と交錯した。
「次のカクテルはあれがいい。──俺のための、気まぐれカクテル」
口の端を上げたまま、心持ち低い声でムルがつぶやいた。
シャイロックは微かに目をすがめる。ムルの言うカクテルは、辛めの白ワインにルージュベリーのジュースを合わせ、グリーンフラワーをシュガーで煮詰めて作った鮮やかな緑色のシロップをあしらったものだ。ロンググラスに層になるように注ぐと美しく、口に含めば、甘さの中にほろ苦さを内包した複雑な味わいが楽しめる。
何百年か昔──北の魔法使いの恨みを買い、研究所を焼かれ、全てが無に帰したと憔悴して来店したムルに、シャイロックが出したものだ。
きつい酒を求める彼に、シャイロックは応じなかった。代わりに提供したものはこのカクテルと──二人だけしか知らない、ほろ苦い、濃密な時間。
それ以来、彼が同じカクテルを飲みたがる時は、決まってその後の時間をも求める時だった。
どこまで憶えているのか、いないのか。
「お出ししてもよろしいですが、後のことに責任は持てませんよ」
「はは、シャイロック、きみらしくない予防線の張り方だね。それならカードで賭ける?」
シャイロックの唇から小さくため息が漏れる。それはある意味、降参宣言でもあった。
「遠慮させて頂きます」
魂が散り散りになっても尚、この男に敵う気などしない。
ムルは心底愉しそうに笑い、カウンターに重ねられた山札をそっと置いた。
「ねえシャイロック。このカードに、果たして切り札は入っていた? それとも最初から無かったのかな?」
ほら、意地悪くそんな質問をしてくる。
せめてもと、シャイロックはパイプをふかし、ムルの眼前に煙を吐き出した。ほんのりスパイシーで甘い香りが、二人の間に漂う。
「本当に、嫌なひと」
シャイロックはムルの目をまっすぐ見て、微笑んだ。
「それこそ、悪魔の証明ですよ」