最低の朝 一体何がどうしてあんな夢をみたのか、自分がロボットだったら故障を疑ったに違いない。何度か頭蓋を探ってみたけれど、残念ながらネジは刺さっていなかった。もしかしたら内側のどうしようもないところに埋め込まれたネジの調子が悪くて、既に手遅れな可能性は残っているけれど。
あの悪夢(と荒井は形容するようにしている)を見てからはじまった今日という一日は、それはそれはとにかく最悪だった。気を抜けばすぐあの悪夢を思い出してしまって、もうすでに七回ほど机に頭を打ち付けて脳漿をぶちまけたい衝動に耐えている。ちなみに、今はちょうど七回めを耐えるために机のうろにボールペンを差し込んで抉っているところだ。現国の課題図書がよりによって恋愛小説だったもんで、主人公が恋人と思いっきりキスをかますと同時に机を凌辱したといった具合である。
「うわ、あぶないな。……なんだ君か。背が小さいのもほどほどにしなよね」
そんな状態だというのに、帰り支度を済ませ急ぐ帰り道、今地獄の閻魔より会いたくない人間と廊下の角で激突した。一瞬で床へ目を逸らしたが、この粘度のある嫌味な口調といい無駄に整った顔といい、間違いなく風間その人だった。
荒井は目線をそらした先、ワックスが剥げかけた廊下にへばりついた化石みたいなガムを見た。もうこの際コイツでいいからこの場から逃げ出す手助けをしてほしいとさえ思う。しかしいくら懇願の眼差しを向けても、ガムは筋肉隆々の大男になって荒井を攫ってくれることはなかった。
現実逃避をしながら、荒井はもうひとつの思考回路で、風間から香る女にもてそうな香水のにおいを感じていた。夢では無かったそのにおい。今までも香っていたような気もするが、それが今日はとびきりいいにおいに感じてしまって、動揺した。そのせいか、うまく舌が回らない。
「……そっち、こそ、ちゃんと前を見たらどうなんです。……何のために前髪を分けているのやら」
「あのねえ、この前髪は前をよく見るためじゃなくて皆に僕の顔をよく見せるためのものなの。わかってないなあ」
相変わらずまったく筋の通ってない持論をひけらかす風間に対し、これまでならもう何ターンか嫌味合戦を行う所だが、今の荒井はそれどころではなかった。一度意識してしまうと風間の香りが鼻孔から脳を駆け巡り、窒息しそうに胸が苦しくなったからだ。その息苦しさと言ったら、風間がつけている香水は毒ガスなのではないかと疑うほどだった。
そして突如、悪夢の中では働かなかった嗅覚の情報が介入した影響か、脳が海馬にこびりついた映像をよりリアルにして再生し始める。
自分の頬を撫でた骨ばった指の感触や、一回り大きな体躯に包まれたときの温度。それから、宝物にするみたいなとびきり優しい唇の感触。
「ねえちょっと、なに、下痢?なんか君今日おかしくない?」
うつむいて体を縮こまらせて石になった荒井は、まったく情緒のない言葉をかけながら覗き込んできた風間と目が合った瞬間、心臓の大事な血管がねじれる音を聞いた。それと同時にふらついた体を支えるため一歩前へ足を踏み出した拍子にガムの死体を踏んだが、なんの手助けもしてくれなかった役立たずなので知ったこっちゃない。
「あなたが僕を好きとか言うからでしょう!」
荒井は眼球に大量の水分を含ませながら風間にそう言い放った。体の中心にあるポンプが異常稼働を繰り返すうちに勝手に溜まった涙だった。
それを見て、次に固まるのは風間の番だった。まるで最初からそういう仕組みみたいに時間の経過とともに赤くなっていく荒井の顔を、風間は黙って見つめる。
できたての石像がふたつ。たっぷり一分間の沈黙ののち、背が高いほうの石像がぽつりと言った。
「……まだ言ってないけど」