食えたもんじゃねえ 固いものに当たり、手ごたえが変わった。傍らのハンマーを手に取り、勢いよく振り下ろす。
ず、がつん、ズヌ。ず、がつん、ズヌ。
一定のリズムで鳴る音は、一体どこまで響いているのだろうか。隙間だらけのこの家は、ろくな吸音もしてくれない。
「お~。だいぶ進んだな」
新堂は重たい鉈をおいて、後ろから覗き込んできた日野に目を向けた。立ち上がろうとして床に手をつくと、そこにあった水たまりが大きくはねる。日野は一歩踏み出そうとした足を慌てて引っ込めてそのしぶきを避けた。日野が履いてるのは最近新調したばかりの靴だった。白い靴なので、赤いシミがついたら目立ってしまう。
「休憩か?」
「おう。手いてえ」
立ち上がって見下ろした先には醜い肉塊がひしめき合っている。それらの中からこちらを見上げる澱んだ眼球がふたつ。
――かつて新堂の養父だった男の死体が、そこにあった。
先ほどまで新堂が手を痛めながら切り分けていたのはその右足だ。いまではその全長もわからないほどに細かくなり、毛むくじゃらなハムに成り果てて沈黙している。
新堂は日野に続いて鬱屈とした部屋から出て、二人の城でもっとも広い空間――リビングと呼んでいる――に向かった。
血だらけの体でソファに座るわけにもいかず、床に適当な雑誌を敷いてその上に腰かける。固い床は雑誌越しでもひんやりと冷たい。まだ春に片足を突っ込んだ程度の季節である。これなら汚れてもいいか、と死体処理に合わせて選んだ大きめのTシャツ一枚ではその冷たさを受け止めきれず、寒さに身震いする。
「ほらよ、あったまるぜ」
「お、景気がいいな」
「今日は記念すべき日だろ」
日野から受けとったマグカップから立ち上る湯気を吸いこむと、気化したアルコールに脳を揺さぶられてくらりときた。日野も同じように顔を寄せ、その香りを楽しんで上機嫌である。
ちなみに、日野の方にはトッピングであんこが入っているが、これは日野が好む飲み方で、いつもの光景だ。おおよそ、食べられるもののほとんどに日野はあんこを添える。新堂はその味覚をマジで狂っていると思っているものの、ウゲ、と舌を出すだけで我慢するようにしていた。生活を共にするもの同士、譲り合いの気持ちが大切ということだ。
「乾杯」
日野の音頭と共にマグカップとグラスにそれぞれ施されたあべこべな装飾がぶつかり合い、軽快な音が鳴った。熱燗を飲むのに適した猪口など二人は持っていないので、冷える尻と裏腹に手のひらは熱いほどだ。ゆっくりとアルコールに浸された内臓が内側から体を温めていく感覚が、妙にくすぐったい。
日本酒を味わうふりをして、新堂はゆっくりと目を閉じた。じわりと、瞼の裏に養父の死に顔が浮かぶ。輪郭が滲んで歪んだ絵の中で、その鼻腔から胎内に入り込もうとしていた蝿ばかりが鮮明に記憶に残っていた。
――果たして新堂は、自らの手で養父を殺してはいないのだった。
臆したからではない。ふたりで考えた手書きの殺害計画書を握りしめて目的のアパートに乗り込んだとき、すでにその標的がこと切れていたからだった。
要因は、見る限り多すぎて知識のないふたりには判断できなかった。酒か、ドラッグか。散らばる空き瓶と錠剤の中には市販の風邪薬のパッケージが混ざっていたから、病気かもしれない。
「勝手に死にやがって」
養父の体を蹴り飛ばすと、思いの外柔らかくつま先がめり込んだ。死後硬直は終えているようだったが、不幸中の幸いというべきか、まだそこまでは腐っていなかった。
実は、この時点で殺害計画の大半は頓挫していた。なんせ『殺害計画』なので、その記載のほとんどは殺し方についてだ。死んでいた場合、なんていうパターンは流石の日野も用意していなかったのである。
死体の前であぐらをかき、頭を突き合わせて殺害計画書を読み返す。そこまで数は多くないもののすでに集り始めていたハエを払いながら、その目線は紙っぺら一枚から外れることはなかった。
「これはやりてえ。やれんだろ」
しばらくそうして手書きの文字を見つめた末に新堂が指差したのは、計画書の中でも殊更汚い字で書かれた末尾の一行だった。
ということで、ふたりは愚直に養父の死をアパートの大家に告げ、死体を引き取れないか打診することにした。新堂が指定した計画を遂行するには、死体を持ち帰るのが絶対条件だったのである。
運良く在宅していた大家は、ノックしてから3分ほどかかってのそりと扉から顔を出した。酒瓶片手に現れた大家の歯はボロボロで、顔中の筋肉が痙攣していた。ヤク中丸出しだった。このアパートに住むためのドレスコードなんじゃないかと思うほど、父親とまるで同じ様子である。
養父を訪ねにきたら死んでいた、と伝えたところ、大家は一拍遅れてリアクションした。どうやら驚いたような顔を作りたかったようだったが、あまりにお粗末な演技だった。早く死んでほしいとでも思っていたのかもしれない。口角が痙攣していたせいで、笑っているようにも見えた。
「養父がご迷惑をおかけしました」
「ああ、…あは。ほんとに、んぐ。いやいや」
「死体は俺たちがもらいますね」
「んん。はい。ごめんねえ、ありがとうねえ。んふふ。あ、はい。さようなら」
死体の受け渡しはドラッグを買うより簡単だった。狂った大家に見送られながら、ふたりはガスが溜まりはじめてずっしりと重たい死体を自分たちの城まで運んだのだった。
ず、がつん、ズヌ。ず、がつん、ズヌ。
熱燗を片手に、新堂は解体を再開していた。1時間半ほどかけて両手足が終わり、胴体に取り掛かっている。内臓を傷つけるとガスの臭いがひどいため、内臓の周りだけはより器用な日野に任せた。
脊椎を分解するのは楽しそうだったので内臓だけくり抜いてガワは残してもらったのだが、思ったより楽しくない。案外簡単に関節が外れてしまうため、手応えがなかった。脊椎より、肋骨を砕くのが楽しかった。鉈の刃を当ててハンマーで砕き続ける作業は、いつの日か一度だけ見た飴細工の職人の姿を思い起こさせる。
そうして、いつの間にか残す工程は兜割だけとなっていた。頭そのままでは大きすぎる。せめて二等分にはしたい。
新堂はしばらくその頭を蹴り転がして遊び、飽きたところで生首に手をかけて持ち上げ、見つめ合った。黄ばんだ眼球はしぼみ始めており、視線を合わせるのが難しい。鼻先はボールにして遊んだせいで皮が剥けていた。あまりに哀れで痛々しくて、クソッタレにはとてもよく似合っていた。
「お前みたいなガキ、殺して犬に食わせてやる」
いつの日か路地裏で犯されながら養父に言われた言葉を、その顔に吐きかける。この言葉を思い出すと、避ける肛門の痛みと養父のすえた臭いと鼻血で溺れる感覚も共に思い出してしまうが、それでも今日までは決して忘れるものかと誓って生きてきた。
――でもこれでやっと、明日から忘れて生きていける。
レンガを使い生首を立たせて固定する作業をしていた時、ふと、どこかから犬の鳴き声が聞こえた。
「はは、うまくいきそうじゃねえか!」
高揚した気分のまま力強く振り下ろした鉈は、想像より簡単にその頭蓋を割り砕く。
用意した殺害計画書はほとんど役には立たなかった。けれどその中でも唯一、新堂が考えた死体処理の方法だけは、つつがなく遂行されようとしていた。