妹が生まれた日、長屋のババァが呼んでもねぇのに突然来ては赤ん坊を一瞥して、梅と名付けて帰って行った。かかぁは女の子どもは遊女にできると喜んだが、梅の髪の毛が生えそろい、その色が白いままなこと気付いた頃から目に見えて世話をしなくなった。俺はまだ乳飲み子の梅を抱えて、隣近所に住む狂女のもとを訪ねた。この女はもともとは女郎をしていたが、間夫に惚れ込み餓鬼をこさえて、そいつに逃げられた上餓鬼も流れたので狂った。どっかで客はとってるらしいが、まともに相手されちゃいない。
建て付けの悪い戸を叩きつけるように開けると、悪臭が鼻をついた。切見世特有のすえた臭いではなく、あきらかな肉が腐る臭いだった。それでも背は腹に変えられず、俺は座敷の奥に向かって声をかけた。ただでさえ小さい灯り取りには日差しが掛けられていて、えらく暗いのだ。
「おツルさん、いるかい?」
ややあってお鶴の返事が聞こえた。それ自体が呪いのように響く、しわがれた老婆のような声だった。
「……ナツんところの坊だね……」
「妓夫太郎だよ」
暗闇に目が慣れると、布団だか座布団だかに座り込むお鶴を見つけた。足元にでんでん太鼓が落ちている。
「おツルさん、ちょいと良いかね!」
「静かにしておくれ……ややが起きちまう……」
流石に俺は面食らった。お鶴のやや子はお産のときに死んだのではなく、だいぶ早い時期に血と肉の塊で出てきたと聞いていたからだ。 お鶴はお包みのようなものを抱いていて、そのなかに"やや"がいると確信した俺は、よっぽど引き返そうかと思ったが、この狂女のほかに頼れる道がなかった。
「おツルさん、乳を貰えねぇか」
聞いたお鶴は初めてまともに俺たちの方に顔を向けた。梅には小石のような歯が生えて、重湯を啜れるようになったが、それだけで腹が膨れないことは、ここ最近の梅の様子が証明していた。かかぁが乳をくれなくなって暫くが過ぎていた。近所で貰い乳ができそうなのは、お鶴くらいしかいなかったのだ。
「構わんよ」
お鶴は笑っていた。狂った笑いではなく、まるで淡く夢見たような、優しい母親のそれだった。思わず敷居にへたり込むと、目覚めた梅が腕の中で身をよじり小さな唸り声をあげた。梅はこうして生き延びた。お鶴は梅が乳離れしてからも暫く長屋にいたが、いつの間にか行方をくらまして、今はどうしているか見当もつかない。
了