種蒔く頃に(竪琴の節)「ここを耕作地としよう」
「何を言っているんだお前は」
グロンダーズ。昨年の戦争で平野は焼け、周辺の田畑も踏み荒らされた大地には学者や魔導士が派遣され、荒らされ疲弊し切った土壌をなんとか快復できないかと地質と環境の調査に来ている。
そんな土地で、我らが国王陛下が国土を想う者らに労いの言葉を掛けたのが数刻前だ。太陽が空の一番高い位置に昇った頃だった。威厳と慈悲を持ち合わせた態度は、その場にいる者をいたく感動させた。形式的な挨拶ばかりではなく、年若い生徒のように熱心に農学の話に耳を傾け学者に敬意を払う王の姿は多くの者にとって好印象であった。
此度の往訪はイングリット率いる天馬隊が護衛を務めている。ブレーダッド配下の騎馬隊ではないのは耕作地を荒らさないようにという配慮と、いわゆる"天馬の恵み"が理由だ。土壌の栄養を劇的に底上げする堆肥は、ガラテアを中心とした天馬隊を抱えるファーガス領からグロンダーズの土地を始めとした多くの土地の復興支援として譲られている。一番にその恩恵を受けるに農民らは、名高いガラテア天馬隊を遠くの空で隊列を成して飛ぶ姿しか見たことがない。彼らのために優美に舞い降りるその姿を披露すればたちまち歓声があがった。
天馬を伴った王の視察は大成功であったと言えるだろう。来年はこの地で豊穣を祈る祭礼を執り行い、陛下にぜひお越しいただきたいと大勢の民が言い募った。
美しい金の髪とどこまでも透き通った空色の隻眼、そして恵まれた体躯を包む高貴な青の外套は農民にとっては神話の中から出てきたような存在だ。豊穣をもたらしてくれるに違いない、そんな非現実的な偶像を抱いてしまうことを咎めることはできない。
できない、が。
フェリクスは目の前でうきうきと土をいじり手先や頬を汚す男を見やり、大きくため息をついた。わざとらしく「はあ」と声を出してやっても、ディミトリはまるで聞こえていないかのように農具を構えてざくざくと土を掘り返しながら、時折しゃがみこんでいる。
「知っているかフェリクス、この雑草は食えるぞ」
何をしているかと思えば、ディミトリはやけに嬉しそうに手にした雑草を掲げて斜め後方で見守るフェリクスの方へ振り返った。
「食わんでいい。お前はもう少しまともな食事をしろ」
身につけた褪せた青の上衣は、麻を植物で染めただけの簡素なものだ。下衣は丈夫そうだが薄茶色の布地はすっかり土で汚れている。腰には使い古したなめし革の帯に小さな鞄が付いている。その中には種子やちょっとした小道具が入っているはずだ。そして、何だか知らないが持参してきた種子が、その中にたくさん詰まっているはずだ。
先ほどまで身に纏っていた凝った刺繍が施された上着や上等な毛皮を誂えた外套、金糸を縫いつけた衣服によく磨き上げられた革靴は全て馬車の中に押し込んだ。フェリクスを見張りに立たせて何やらごそごそしていたかと思えば、農民の作業服に着替えていたのだ。おそらくこのあたりの商店から調達してきたのであろう、先ほどまで集まっていた農民たちを同じ格好をしている。
「いいか、あちらの丘を超えたところではイングリットの部隊が警護にあたるかたわらで学者の話相手をしている。くれぐれもその格好で農夫たちの前に出るなよ」
グロンダーズで耕作地としている土地はとにかく広い。ここの領主たちはそれぞれ多く地主や村を統括し、管理を任せている。その中でもここはかなり端の方で、小さな村が慎ましく菜園を作っている土地の一部だった。
「……俺はあの者らに混ざって畑仕事をしたかったんだが」
ディミトリはぷいっとそっぽを向いて再び土いじりに精を出し始めた。中心部の広大な畑で声を掛け合いながら汗水垂らして働いていた農夫たちを思い返しながら、面白くなさそうに唇を尖らせる。
「おい、俺とイングリットが譲歩してやっているのを無碍にするのか?」
王が民に混じって労働したがる奇癖を持っているのはいずれは知られるところになるだろうが、昨日の今日で民らの抱く憧憬――つまり威厳と慈悲を持ち合わせた偉大なる救国王の姿を壊してやるのは気が引ける。暗殺の危険も無いとは言い切れない。だが、ディミトリの数少ない個人的な要望を主張であり、それを叶えないというのもフェリクスの王の盾としての意地があり、妥協する羽目になった。
そもそも、本来であればフェリクスはこの場にはいないはずだ。ディミトリがお忍びで来いと呼び出され、来てみれば陛下の畑仕事を手伝ってほしいとイングリットが言う。職責に勤勉な彼女の協力をどう漕ぎつけたかとフェリクスは眉間に皺を寄せたが、どうやら彼女も彼女で学者や魔導士、農夫たちと交流したいそうだ。ガラテア領のために土壌と作物の知見を得たいのだろう。どうもダグザ産の根菜で厳しい土地でもよく育つとかいう代物を熱っぽく語っており、フェリクスはどいつもこいつもと眉間の皺を一層深くするよりなかったのである。
王の元に馳せ参じたフェリクスがディミトリに連れて来られたのは荒れ果れた土地だった。畑だった区画が辛うじてわかる程度の痕跡は見受けられ、急拵えの真新しい木の柵に囲まれている。
ディミトリはといえば張り切って鋤と鍬を抱えて目を輝かせていた。だが、いきなり種子を蒔くわけにはいかない。まずは土を掘り返すことから始まる。そして雑草や小石を取り除き、ふんわりと空気を含むようにして盛る。それから"天馬の恵"を撒いてよく土を慣らしたらようやく種まきの段階に入れる。
農作業と関わりの無い王族には知るよしも無い知識ではあるが、ディミトリはよく知っていた。まずは自慢の馬鹿力で土をひたすら掘り起こし、雑草と小石を放り投げていく。――やけに手際が良いところを見ると、事前に知識が仕入れてきたのだろう。余計なことばかり覚えてくる王を見る公爵の視線には一種の諦めが浮かび、仕方なしと鋤で土を整えていった。
「どうするつもりだ。お前はフォドラの統一王と言ってもこの地の所有は元々ベルグリーズだ。耕作地の一部はブレーダッドの飛地にでもするのか?」
かの領主は終戦の折に自らの首と引き換えにして蹴りをつけ、この地は確かにブレーダッドの預かりになった。だがあくまでそれも一時的なものだ。戦地復興後も飛地として所有し続ければ旧帝国領の者らが黙っていないだろう。
畑の面倒を見たいのであれば旧ファーガス領内にしておけばいい。フェルディアの王城周辺には大修道院に倣って温室も建て、戦場帰りの兵士たちの一部の部隊には耕作を任せるという話も出ている。
一方ここは王都から遠い。ディミトリがうきうきと土仕事をしているそこは村人の裏庭ほどの面積でしかないが、作物というのは三日四日で何か実るものではない。種を蒔いて終わりではなく、時々様子を見にくる程度では芽吹かない。国王一行はベルグリーズとフリュム周辺の動向調査を行う予定で数日間は滞在するものの、毎日様子を見る暇もなく、
「いいや?ここを俺の土地とするつもりはないさ」
「他人の土地を耕しているのか?村人には何と言ったんだ」
「なに、辺鄙な耕作地を見つけたから耕やすのを手伝ってもいいかとイングリットに聞いてもらっただけだ。戦で踏み荒らした詫びだと言ってな。間違ってはいないだろう」
確かに間違っていない。間違ってはいないが 、まさかその村人も農作業をするのが国王陛下だとは思うまい。
遠くの方で笛の音が聞こえる。今節ではどこの村でも竪琴や笛を吹いていることだろう。爽やかな風に乗って届くその音色は長閑な田園風景そのものを彩っていた。
「この土地はグロンダーズ平原の中でも辺鄙な場所ではあるが、本来はもっとその肥沃さを享受して然るべきだ」
ディミトリ一人がこの狭い土地の耕作を手伝ったところで何がどう変わるわけでもない。そのことは本人も理解しているはずだが、敢えてフェリクスは問いを投げかけた。
二人してざくざくと鋤を土に突き立て、汗水を垂らしながら。
「お前が農作に励めば民は救われるとでも?」
「俺の怪力の使い途としてなかなか妙案だと思わないか?まあそう嫌そうな顔をするな。冗談だ」
問いの根底にある思惑を知ってか知らずか呆けた軽口を返すと、フェリクスは鼻に皺を寄せて思い切り顰めてみせた。冗談は嫌いだ。とりわけディミトリが言うものは特に。本心を煙に巻いて白々しい微笑みを浮かべ、自分が本当にやりたいことを他人の見えないところで自ら踏み潰す手段なのだろう。
王でなくとも大人になり責を負うようになれば誰しもがやっていることだ。特別なことではない。だから咎める権利も哀れむ必要もなく、同情して気遣ってやることにも意味がない。
ただ、何事にも限度がある。それを態度で示してやれるのはやはりフェリクスぐらいしかいないものだから、そういう時は思い切り嫌な顔を向けてやろうと昔から決めているのだ。
「誤魔化すな」
「はは、お前相手に出来るわけないだろう。……俺はな、戦馬が駆け踏みしめた土なんて見たことはなかった。俺が避けた魔導の術が畑を駄目にして、計略で放たれた火矢が土地を焦がし、火計のために干し草が徴収されたら農家がどのように困るかは知らない」
「当たり前だ。お前は貴族、それも王族だ。農民の生活を理解することに時間を割くより暇など無い。俺もお前も、領主として必要なことを学ばされたはずだ。平民が帝王学を修め領主の苦労を知らなくて良いように、領主もまた平民と同じ苦労を背負うことは意味はあるか?」
身分に逆らう考えは危ういものだ。自分より適任がいるだとか、己が才を真に有効に使う場は別だとか、それはある意味で正しく、しかし正しさだけでこの世は回らない。正しいと直感することに反する現実を受け入れ覚悟するのは困難なことだ。
フェリクスはディミトリの存在無しにその覚悟が出来ただろうかと自問自答し続け、だからこそディミトリに問い続けることを止めるわけにはいかない。
「その通りだ、フェリクス。俺が農夫の真似事をしたところで意味は無いだろう。だが、意味があると最初から分かっていることしかしないことが本当に正しいか?」
「愚問だな。意味があるか決めるのは己自身。正しいか判断するか、いや、その正しさを是とするかもまた己自身だ」
世間一般、常識、民衆、多数派。そういった誰かの口を借りて語られ、さも当然のような顔をした上っ面の"正しさ"はあやふやなものだ。
何故、それを正しいと自分自身が信じられるのか。その支えがない主張は何とも脆い。
「正しさを是とするか、か。お前も弁が立つようになったな」
「で、お前は何を以て是とする?」
ディミトリは農具を振るう手を止めて向き直り、フェリクスもまた手を止めてディミトリの顔を正面から見上げた。
ゆっくりと流れる雲の間から、太陽が不規則に影や日向を作っていく。表情を変えていく空の下、ディミトリの顔には一点の曇りも無い。
フェリクスの視線をまっすぐに受け止め、その唇は淡く微笑みを形作った。
「何かを是とするならば、当事者でなければならない。更には関わる他者を知ろうとしないのであれば判断すべきではない。俺が進む道、他人が通っていく道、その交わる場所で俺がいったい何が出来るのか。俺の信念が間違った方向に進まないように、身を以て知り、見聞きし触れたものから意味を作るのは俺の仕事だ。元から正しいものがあるんじゃない、正しくさせるために力を惜しんではいけないだけだ」
その声色はひどく優しく、穏やかなものだった。気負いもあるが、それはもう性格だろう。何でも一人で背負い込もうとするのはこの王の悪い癖だ。その善良さ、賢明さゆえに自分を蔑ろにする。だが、大事を前に泰然と構える肝の太さもあるからこ均衡を保っている。
そして、その均衡を見守る人間が――つまり、王の盾たるフェリクスが隣にいれば、ひとまず問題は無いのだろう。
「……フン。理解しているのならば良い。お前の好きなようにしろ」
「ああ」
一種の表明に対して拍子抜けするほどの短いやり取りだ。だが、それで良い。言葉は重ねれば重ねるほどに良いわけではない。それにいつだって言葉より行動の方が雄弁だった。
全く世話の焼ける、とぶつぶつ呟きながら土いじりを再開したフェリクスに、ディミトリは一言だけ呟いた。
「ありがとう。フェリクス」
いくつもの雲が通り過ぎた頃には、土を耕し終えて、ディミトリは種を取り出した。
「それで、何の種を植えるんだ」
「向日葵だ」
「花を?食用の豆や根菜じゃないのか」
「ああ、俺も初めはそう思ったんだが、向日葵を畑に植えるのは理由があるらしい。学者たちに聞いたんだけどな、向日葵は荒れた土壌に良いらしい」
向日葵は成長が早く、深く根を張るために土壌に水を蓄えさせられる。そして大きな葉は雑草の成長を阻み、土の中の植物に良くないものを分解し、そして夏に咲く大輪の美しい花を咲かせる。学者たちは向日葵の他にもそういった植物の作用に精通しており、土地ごとに相性の良い植物を助言してくれている。
ディミトリはそれを語りながら手の中の種を大事そうに見つめ、花が開くように美しく、太陽のような笑みを浮かべた。
ささやかな人間の営みにこそ、幸福を見出す――ディミトリはこういう人間だ。
ディミトリ個人のささやかな幸福を求めるのであれば、一人の農夫として牧歌的で平和な生活を送るのはある種の理想であるかもしれない。しかし、ディミトリほど王者に相応しい器と、その地位と権力を持ちながらも類稀なる善良すぎる精神を以って平穏なる時代に治世を敷けることは、悠久のフォドラの歴史を紐解いてもディミトリをおいて他にいないのではないか。
生まれた場所で咲け、と。親から、世間から、数多の民衆から求められるままに成すのは癪だ。けれども、逃げ出しても良いなど無責任な偽善を振り撒くのはもっと癪だ。
相手がこの世で最も大切な存在であればなおのこと。鍬と鋤を振るうことにすら重く捉える男に、他ならぬフェリクスがどうしてそれを軽んじられようか。
ならば、せめて誰にも負けないように咲き誇れと。そして咲いた後には必ず未来へつながる土壌が残るように。
大輪の向日葵の如く花を咲かせることこそ、この男に相応しい生きた証だろう。
フェリクスは、太陽の光を受けてキラキラと輝くディミトリを眩しそうに見て、鍬を持つ手に力を入れた。