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    花もげら

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    花もげら

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    軍曹会議9展示作品です。
    現代パロディ鯉月小説。犯罪の街で傷つきながら悪と闘う鯉登さんと、彼を気遣う月島さんによるふたりの2時間アクション映画です。ラブロマンスもあります。

     ここは犯罪都市ゴッカムシティ。
     マッドクオッカと呼ばれるもっとも大きな犯罪組織と、若者を中心にあつまったイマニタスという新興の民兵組織。
     冷たい火花を散らしてふたつの組織が勢力争いをつづけるなか、金を集めることしか関心のない頭からつま先まで腐った政治家と賄賂なしでは動かない警官どもは静観を決め込み、犯罪者をのさばらせ続けるのだった。
     どこにも属さない市民たちは、ただ震えて夜は固く扉を閉め、暴力が扉のすきまから忍び寄ってくるのを防ぐ。だが凶暴な集団は窓を割って扉を蹴りとばし家まで略奪にやってくるのだった。
     無辜の民たちの阿鼻叫喚は今夜もやむことはない――

     そしてまた狂騒の夜が明け、倒れたひとびとや吊るされた人間を肥ったカラスがつつく脇をゴミ収集車がはしっていく。
     街を救う『ヒーロー』が現れなくなって半年たち、悪人たちは春になって一斉に芽吹いたように息を吹き返し、暴威を振るって狂った血の花を咲かせて回っていた。

    『ゴッカム警察がキエンシグナルを夜空に投げかけても、誰も助けに来てくれないとは……おそらく〝ミスター・モスモス″は残念なことだが死んだのだろう』
     有識者と名乗るやつらがテレビでコメンテーターの真似事をするさまを、坊主頭の月島基は定食屋で朝飯を食べながら見ていた。
     TV画面にはキエンシグナル――」L――という形を夜空に投影するサーチライトが映し出されていた。かつて、キエンシグナルを出したとき、覆面の戦士〝ミスター・モスモス″がやってきて、悪党どもを一網打尽にした時代があった。虐げられるばかりだった市民たちはその活躍に快哉を叫び、ミスター・モスモスの名をだせばゴッカムシティ住民なら赤子でも泣き止んで笑うのだった。そう、半年前までは。
    『昨日、宝石店「レポノント」に押し入った強盗達による被害はおよそ1億円になるとみられ――』
     おかずより先に猛烈な勢いで白米をかきこみ、一粒残さず綺麗になくなったあと、月島は店の端に設置されている自動ご飯盛り付けロボットまで歩いて行った。ご飯は無料でおかわりし放題なのだ。下にお椀をセットすると200gのボタンを押した。ご飯がぼとぼと落ちてきて満足し、さらにもう1回押したところで、腰のポケットから振動が伝わってきた。

    『おう月島、月曜ヒマか?』
     月島はさしあたり大学生であり、授業があるというのに暇なはずがない。
     それを知っていて電話をかけてきたのは、1~2年次で取らなければならない必修科目でつい先日知り合った湖西(こさい)という名の先輩だった。4年生だというのに単位取得をまだ残しているのが不審であったが、稼げるバイト先をたくさん知っているというので連絡先を交換したのだった。
    「2限で終わります。その後なら」
     山盛りになったお椀を持ちながら定食屋のテーブルへ戻る。
    「日給10万の案件だ。夕方に集合、夜明け解散だ。やるか?」
     湖西は、お前みたいな貧乏人ならやるよな?、と屍肉にたかるハイエナとして月島を扱っていた。
    「…!やります、お願いします。」
     果たして、一も二もなく月島は飛びついた。推薦入学の奨学生であり、親からの援助もなく生活費もすべてバイトで稼いでいる月島にとっては10万は大金だ。願ったりかなったりだった。
    「誰にも言うなよ。待ち合わせ場所はあとで送る」
    「よろしくお願いします。」

     スマホを切った後、おかわりをかきこんだ。こわばっていた身体の関節が安堵によってあたたかな湯につかったようにほぐれていく。大学に入ってから休日という休日はなく、肉体労働バイトと授業、レポートの連続でさすがに少し疲弊していた。ようやく学業が面白くなってきたのに、それ以前に生きるのに精いっぱいなのだ。
     月島は特徴的な鼻をもち、小柄な体躯は筋肉におおわれて仕上がっており、醸す空気は大学生とは程遠く、イマニタスの構成員と間違われて職質された回数たるや片手で数えるには足りない。
    (――まぁ、当たり前だよな)
     月島は何度かマッドクォッカの仕事を日給5万で請け負ったことがある。イマニタスとの勢力争い、小競り合いで喧嘩要員として雇われ、実績も出した。イマニタス所属の十人を病院送りにしたのだ。
     罪悪感などはなかった。弱肉強食が当たり前の世界だ。母はおらず、酒乱の父親に子供のころから殴られて育ってきた月島には、暴力はテレビのお笑い番組などよりよほど身近にある存在だった。
     月島の部屋には価値のあるものなど何もない。家電すらまともに揃っていない。児童保護施設で長く過ごした癖がぬけないのか、生活を彩る私物を置くような気持ちにもなれなかった。ニュースによればショーウインドウのたたき割られた家電屋から商品を強奪していく輩もいるそうで、ネット上のフリーマーケットには盗品があふれているが、そういったものに手を付ける気にもなれなかった。月島の持ち物と言えば、この生命とやたら頑丈な体だけ。

     とにかく金が必要だ。金を貯めなければいけない。卒業すれば奨学金の返済も重くのしかかってくる。学生のうちにマッドクォッカかイマニタスへ自分をいかに高く売り込むかということも頭に選択肢として常にあった。そうなると、勉強したくて大学に行った意味さえなくなるが、犯罪組織に入る――それがどん底で這いまわる貧しい若者が活路を開くため、最も有効な手段だったのだ。
     3杯目をご飯盛り付けロボットによそってもらったあと、10万あれば家賃、光熱費に食費にあれもこれもと頭のなかでソロバンをはじく。
     食事を済ませたあと大学へ行き、午前の授業を気持ちも軽く終わらせたあと、月島はサッカー部の部室へ顔を出した。正式な部員ではないものの、同級生の前山一夫が所属しており、メンバーが足りないときは飛び入り参加したりと月島にとっては気安く立ち寄れる場所だった。

     こんにちはと挨拶しながらドアを開けると前山がロッカーに囲われるように置いてあるベンチに座っていて、着替えの最中だった。
    「あ、月島くん、授業終わったんだ」
    「まえ、…やま、どうしたんだ、その背中」
     月島がふるえる指でさした前山の背中は、青タンと赤紫の痣があちこち点在していた。
    「あー、これ、たいしたいきさつじゃないよ」
     必死に届かない背中へ軟膏を塗ろうと手を伸ばしながら、丸っこい鼻の前山が笑う。
    「事故にあったのか。それとも、イマニタスに…」
    「ううん。ほら、僕、今週からうちの初等部学童のバイトはじめたじゃない?」
    「ああ…」
     学生課の掲示板に貼ってあった求人、日給6000円のバイトだ。月島はそれを知ってそんな安い額でバイトを受ける前山を素直に凄いと思ったのだが。
    「別室登校の子で、ちょっとワンパクな子がいてね。どの先生も相手できないから、若くて体力のある大学生…って僕が呼ばれて、遊ぶ機会があったんだけどね」
     別室登校というのは、不登校の学生だろうか。特別教室ということだった。
    「その腕白…乱暴な子供にやられたってのか?」
     青タンを目で追いながら月島がため息をつく。前山は決して華奢なわけではない。背丈も月島よりあるし腕力だってそこらの男には敗けないだろう。
    「11歳も年下なんだけど、すごい力なんだ。もうどの先生も敵わないらしくて」
    「………」
    「不登校になったのも、クラスの男子たちと乱闘を起こしたせいだって。」
     1人で10人倒したって、すごいよね、と前山は言ったが、
    「家庭に問題があるんだろうな」
     月島は自分の過去になぞらえて何の気なくそう言った。場所がら子供のころから凶暴なガキは山ほど見てきたし例外なくそいつらと殴り合ってきたが、そんな月島でも相手の強さを見て手加減はしたものだ。前山の青タンを見るに、小学生でこの凶暴さでは行く先が思いやられる。ましてやこの街ならなおさらだ。
     ゴッカムシティは貧富の差が激しい街だが、上流階級でも素行不良で悪党とつながっているやつらはゴロゴロいる。
    「それが、夕方になってお母さんが迎えに来たんだけど、すごく上品で優しそうな人でさ。急に乱暴するようになってすごく困ってるんだって涙ぐんでたよ。」
     甘やかすからつけあがるんだろう、と月島は思ったが口にはしなかった。月島の通っている私大はゴッカムシティでも名門とうたわれる大学だ。そこに幼稚舎からエスカレーター式で入った奴らは、月島たち大学受験組を見下しているのも肌で感じていた。
     初等部にいる連中がどういう奴らであっても、今更驚かない。

    「………明日もバイトなのか、その別室登校の面倒」
    「うん、今月いっぱいは出ることになってる」
     教育学部である前山は子供と関わることに常に前向きだった。こんな腐った街で教職なんて、と今まであらゆる先生と呼ばれる人物からさじを投げられてきた月島へ、前山は笑みを見せて「希望をみせるのが大人の仕事だから」と語った。そんな前山が月島は嫌いではなく、友好関係を築いてきたのである。
    「湿布持ってるから貼ってやる」
     リュックを肩からおろし、隣に腰かけると月島は俊敏に動き出した。サッカーでは守備を担当し、常に敵と衝突する立場にある月島にとって湿布は必需品であった。
    「ありがと~お願い」
    「大丈夫なのか。終わりの方では骨折するんじゃないか、前山」
    「そうかも~~」
     相手は相当むずかしい子供のようだが、放り出すような気持ちは最初からないらしい。月島はガキの相手なんて御免被るが、前山は絶対に放っておかない、の精神で食らいついていくようだった。

     明日は金曜で、午後はバイトも授業も入れていなかった。手際よく湿布を貼りながら、しばし思案して、
    「俺もいっしょに行く。今のうちから、このゴッカムシティで生きるというのはどんなことか教えてやらないとな――悪ガキは拳で殴ってしゃっつけて(こらしめて)やる。」
     そう言って、月島は友人への心配から首を突っ込むことにしたのだった。

     金曜日に前山と一緒にバイト先へ向かう。
     不登校児や学童の生徒たちが集められた教室では椅子が並べられて、みんな密集して座っていた。そんななか、ぽつんと遠い場所に椅子を移動して座っている子供が『その子』だと月島にはすぐ分かった。真っ白いシャツにサスペンダー、長いパンツ姿で靴もぴかぴか、裕福な家の子なのだろう。
     小学生ながら体格もいい――大人になったらさぞ背も伸び逞しくなるだろうと秘めたポテンシャルを感じさせる。南国の陽光を感じさせる褐色の肌、そして特徴的な眉毛が目を引いた。

    「…………」
    「ほら、あの子だよ。名前はコイトくん」
    「……なぁ、前山。俺、今日はコイトくんと2人きりで遊びたいんだ」
    「えぇ…でも、お願いだから喧嘩しないでね?」
    「わかってる」
     自由時間になって、ボードゲームに勤しむ生徒たちを遠巻きにして、ぽつんとひとりでいるコイトくんの傍へ歩いて行った。

    「なんじゃおめ」
     コイトくんは月島を見るなり警戒信号丸出しでにらみつけた。彼は薩摩弁でしゃべるようで、興奮すると早口になり、誰も聞き取れずクラスの同級生ともコミュニケーションが取りづらいようだと事前に情報を聞いていた。
     片隅でひとり、暇そうにしてレクリエーションにも参加せず手持ち無沙汰にしていた彼は、全身の毛を毛羽立たせて必死に虚勢を張っていた。
    (――さびしい)
     月島にはコイトくんの心の叫びが聞こえた。
     相手の声が聞こえてしまうこと。俺はバウンダリー(自分と他者の境界線)に問題があるんだろう、と月島は自己分析している。子供のころからアルコール中毒だった父親から暴力を振るわれてきた。自他境界線があいまいで、他者の痛みを自分の痛みととらえたり、そのまた逆もある。月島は自分を制御する必要があり、それが出来た時はじめて成人を名乗れると思っている。

    「だいだわいは。名を名乗れ」
    「ツキシマだ。コイトくんと遊びたくて来た」
    「……ふん。仕方なか!びんたを下げんなら遊んでやっ!!」

     ――………。
     難しい子供なのかと思っていたが、なにか…構ってほしいだけのような。子供らしさの片鱗を感じた月島だったが、次の瞬間それを覆された。
    「ふっ!」
    「!!」
     風をきる音と風圧が耳をかすめる。月島はケンカで鍛えた生来の勘で数ミリ距離をあけて、避けた。
     月島へ繰り出した拳を手前に戻しながら、左右にステップを踏み鯉登くんが白い歯を見せた。
    「おいは武道やってる。おめ大人なんじゃろ?修行につきおうてほしか!」
     
     言い終わる前に二手目が来て、月島はまた避けた。なんだこのスピードは、子供の身体能力じゃない。
     三手目、そのまま突進してきた小さな身体を受け流し、月島は背後から間髪入れずに鯉登くんをつかむと、わずかに力をこめて宙吊りにする。もがいても引っ搔いても、その腕がどうしても振りほどけないことが分かったのか、コイトくんは不機嫌そうにキエエエエッと耳をつんざくような声を出す。小学生相手に我ながら大人げないが、身体を宙に浮かせたまま、逆にぐるんと回す。頭が下になり、コイトくんは恐慌状態になった。
     ツームストン・パイルドライバーの体勢に入ったが、
    「つっ、月島くーーーーーんっっ!!」
     という前山の静止を待つまでもなく、すぐ止める。

    「う……」
     コイトくんは呆然とし、鼻水が垂れていた。
    「喧嘩は、まずタッパがなきゃ駄目だ。身体の大きい奴にはどうしたって負ける」
     ゆっくり地面へコイトくんを下ろすと、月島はまず傾聴の姿勢に入った。
    「コイトくんはなんで修行なんかしてるんだ?」
     あれは特殊な武道の経験を積まないと会得できないだろう。
    「強うなっためだ」
     また鼻を垂らしたので、月島は手持ちのティッシュでぬぐってやった。
    「それで、クラスの奴らをブチのめしたのか?自分が一番強いと示すために」
    「違う!」
     吠えかかるようにコイトくんは間違いをただした。
    「喧嘩した理由は…おやっどのこと、杖ついてるって、もう歩けんってからかいおった!事業も引退しておいの家族はよにげすると悪口ゆとった!!――」
    「………」
     彼は謝罪を要求したが、クラスメイトはそれを呑まず、乱闘になったという。勝ったはいいが、乱暴者のレッテルを貼られて教師たちやいじめっこ達の保護者達から問題児扱いされたと。身に覚えというか自分と共通点がありすぎて、月島は眉間を指先で揉んだ。
     それと、気にかかるのは彼の苗字だ。
    「半年前なぁ、大事なおしごとのとき、悪い奴らに襲われておやっどは大怪我したんじゃ。それをさんざん歩けんと馬鹿にしよって!おやっどがどんなに辛かとか知りもせじ…。おいは、ぜってに、おやっどを怪我させた奴らを許さん!!復讐のために修行しちょい!!」
     コイトって、もしかしてあの鯉登か。
     慈善事業に積極的に寄付をしている、鯉登平二。町の名士だ。
     この政治も司法も腐った街が福祉活動などするわけがない。そのなかで、彼が未来ある子供たちへ多額の寄付をしていると知っていた。鯉登の基金による利息を払わなくてよい奨学金を借りて、月島も大学に通えている。
    (あ――…)
     なんという巡り合わせだろうか。
    「そりゃ、からかったクラスメイトが悪いな。お前の父ちゃん、俺の恩人だし、すごい人だよ。スーパーヒーローだ」
    「!!」
     ぱっと鯉登くんの顔がヒマワリが咲いたみたいに明るくなる。
    「どんだけ凄いか、クラスの奴らは知らないんだ。でも、言葉で教えるだけにしとけ、お前は力が強すぎる――なんていうか、才能があるんだ、暴力の」
    「ぼうりょく?それで復讐でくっか!?」
    「まぁ、復讐できるかはどこまで強くなれるかで決まるが…まず自分で暴力をふるう力をコントロールできるようにならないといけない。それまでは、道場とか、そういう指導してくれる大人がいる場所でだけ力を解放しろ。この特別クラスや先生に力をふるっちゃだめだ」
    「でも、ツキシマには勝てんやった」
    「今は勝てるけど、お前が――そうだな、高校生になるころには敵わなくなってるよ。」
     膝をはたいて土埃を落としてやると、
    「お前はすごい力を持ってるんだから、弱いやつにそれをむやみに使うな。いいか、強い奴らと闘うここぞというところで刀を抜くんだよ、昔の武士はそうしていた」
     詳しくは知らないが、この歳の子供は侍とか好きそうだから適当にそういいくるめた――つもりだった。
    「ん。…わかった」
     意外にも、鯉登くんはすんなり引き下がった。
     そのあともプロレスごっこをして遊び、夕方帰るころオレンジ色の空を背にして鯉登くんは機嫌よく手を振って笑う。
    「ツキシマああ!!月曜も来やんせ!そしたやおいも登校すっ!!」

    「…ああ」
     恩人の息子だから、しょうがないので約束をした。迎えに来た鯉登くんのお母さんは、息子が登校すると聞いて喜びに涙ぐんだ。

    「湖西先輩…すみません、実は」
     特別教室のバイトで行けなくなったと断ったら、「代わりはいくらでもいる!もうお前に仕事は振らねぇよ」と一方的に電話を切られた。ため息をつきつつ、そして日給6000円の日々が始まる。
     2人で毎日遊んだ。
     友達と協力し合うことを学ぶレクリエーションとして2人で物語を交互にすすめる紙芝居を作った。お話を作り、ラストはハッピーエンドで締めるという課題だった。登場人物は鯉登くんがこれ以上なく気合を入れて作成し、『竜の王子』という鯉登くんそっくりのキャラクターが主人公となった。紙芝居には脇役として月島も登場させてもらった。鯉登くんは絵がうまく、月島の特徴をよくとらえていて坊主で背も鼻も低いゴリラみたいなキャラクターが爆誕した。
     2人で宝物も交換しあう。
     11も歳が離れているのに、親友になった。

     ――だけど、俺は最後に、もう二度と会えないというお別れの前に、鯉登くんを、怒らせてしまったんだ――

     ずっと喧嘩別れした後悔が尾を引いて、10年を経たいまも月島の心を締め付けるのだ。



    【皆様、本日はFOX航空1028便をご利用いただき誠にありがとうございます。この便はゴッカムシティ発スペイシティ行きで、飛行時間は約2時間を予定しております。】
     飛行機の機内放送をぼんやり聞きながら、月島基は窓際の席で夜景をながめていた。10年経っても坊主頭と背丈は大学のときから変わらぬまま、顎ひげが少し生えて、鼠色のスーツとくたびれた手提げカバンだけが持ち物だった。
    【15分後に離陸いたします。離陸に備え、シートベルトをしっかりとお締めください。また、座席の背もたれとテーブルを元の位置に戻してください。】

     月島の席から見える大きな中央スクリーンには、緊急時の案内がながれていた。救命胴衣の付け方や非常口の位置などが説明されているなか、誰もそれに注視せず旅の期待にがやがやと騒ぐ人、荷物を運び込む人などが忙しなく行交い、夜の便はあらかた席が埋まっているようだった。

    【携帯電話や電子機器は機内モードに設定してください。】

     月島が座る席の前は通路になっており、人があわただしく行き来している。その足音にまぎれて、低いバリトンボイスが鼓膜をふるわせた。
    「今年のクリスマスは雪が降るそうですよ。暖冬といわれていたのに、かなわんですなぁ」
     ははぁ、と、月島の隣から、男が声をかけてきた。
     ゆっくり声のした方へ顔を向けると、額から後頭部まで手でなでつけ、前髪がちょろりとハミでたツーブロックヘアの男が笑いながらも全く笑っていない目で話しかけてきたところだった。首に「PRESS」と書かれた名札をさげている。報道関係者用名札――プレス証――だ。足元にカメラケースと思しき箱も置いてあった。口のわきに縫い目と髭、見たところ二十代後半、怪しい男ではあったが、月島はなんの意味もない会話をするくらい害はなかろうと判断して言葉のキャッチボールを始めた。
    「私は雪が楽しみなんです。子供たちがよろこぶから」
     月島が答えると、隣席の男は素早い目の動きで、手提げかばんからのぞく絵本と紙芝居を追った。絵本と紙芝居の背表紙には『ちんげんさいがまちへいく』『おばけのパトロール』『ひゃっくんのたいせつなわすれもの』と書かれていた。
    「ああ、…この絵本ですか。私は図書館司書でして、月に一度子供たちに絵本の読み聞かせをしてるんです。来月のクリスマスにも予定していまして」
    「ははぁ、サンタのおじさんだったわけですか」
    「おじさん、…はぁ、そうですね」
     正面へ向き直って月島は背もたれへ体重をかけ、息を吐きながら天井を見上げた。31歳、もう立派なおじさんだ。モラトリアムなどとっくに卒業した、自分の人生に責任を持たなければいけない年齢。
    「失礼、まだお若いかたでしたか」
     ははぁ、それじゃお兄さんとお呼びしないとですなぁ、とまた頭をなでつけると、前髪チョロ毛の男はシートのリクライニングボタンへ指をかけて、なにげなく押した。
     坊主頭の岩男が、無表情でゆっくり後ろに倒れていく。
     ははぁ、ボタン間違えましたなぁ、という人を食った声がどんどん遠ざかる。なんなんだこの男は、さっき機内放送で席をもとに戻せと言ってたのを聞いていなかったのか。それにしたって、クソ、このシート、どこまで後ろに倒れるんだ――

     ガコッという音とともにリクライニングが止まったとき、不自然にのけぞった体勢で月島は嫌な予感がした。
     きしみながらジェットコースターがコースの頂点まで引き上げられ、落ちる寸前ふわりと感じる浮遊感に似ている。まさかな、と思った「ま」の時点で、ものすごい勢いで背もたれは元に戻り、限界まで引き絞った強弓から矢が放たれたような勢いで月島は身体ごと通路側へ飛び出たのだった。
     傍から見れば投石器でなげられた岩に近かったろう。目の前にお客さんが迫るが、月島もどうにも出来ず無表情で飛ばされるしかない。
    「すいません、道を開けてください――!!」と心で叫んでも声にならない。
     あわや乗客と衝突して大惨事が起こると目を閉じると、衝撃とともに何かが月島の身体を包んだ。投石と化した月島を受け止めた男性の、爆発的な筋肉の膨張を感じる。岩を抱きつつ踏みしめた両足が10センチほど後ろへさがったが完全に受け止めきった

     大胸筋にはさまれて呼吸できず、月島はうめき声も出なかった。受け止めた相手は気を抜いたのか、硬直した大胸筋がやわらかく変化していく。そのやわらかさに頬をつつまれつつ、痛みがどこにもないことを悟り月島はハッと正気に戻った。月島が20センチ上にある相手の顔を見上げる。
    「ああ、」
     という声しか出なかった。身長は180センチ以上あるだろう、肩幅も広く身体も厚みがあり、筋肉もしなやかで強靭だと布越しで触れあってすぐ分かった。しかし最も違和感があったのは、月島の背にまわった腕も見上げた体勢も包み込むような体温もなにもかも、最初からあつらえられたように月島にジャストフィットしていたせいだ。
     天が専用にオーダーメイドしたとしか考えられない。
     そしてそれは相手にも同じであったようで――受け止めた男性は特徴的な眉毛の下にある切れ長の目を白黒させていた。年齢は20歳ほどだろうか、南国の太陽をいっぱいに浴びたような褐色の肌と、険しい目元と削ぎ落したような荒い頬のラインがどこか野性味を感じさせるが、彼の放つ他者をよせつけぬ高貴さがまぶしく身体の輪郭を照らしていた。その光は月島の頬に軽く添えられた左手、その薬指に輝く黄金のリングすら暗くくすませるのだった。
    「………」
    「…………」
     見つめ合ったまま、時が止まる。
    「痛っ…」
    「あ、…ごめんなせ」
     左手でゆるりとなでたせいで、固い手のひらで月島の頬を傷付けたのだった。竹刀だこだ。出来ては破れを繰り返し、これほど固くなるにはどれほど鍛錬を積んだのか、月島には想像が及びもつかない。
     お互い二の句が継げないなか、
    「お客様ああああああ!!申し訳ございません、その席はリクライニングが故障しておりまして――!!!おっかしいな、故障テープ貼ってたのになーーー」
     どたどた床を踏み鳴らして男性キャビンアテンダントが慌ててすっ飛んでくる。メガネがナナメがけされるほどあたふたした様子なのは、どうやら月島のほうではなく、もうひとりを気遣ってのことらしかった。
    「申し訳ございません、鯉登さま、ご無礼を。席はあちらでございます。お兄様もいらっしゃいますね、すぐご案内いたします。――あ、そこのアナタは、他の席用意するんでとっとと荷物持ってついてきてください」
    「音之進、どげんしたと?」
     後ろから駆けてきた――おそらくキャビンアテンダントが言っていた兄らしき――男性が気づかわし気な声をかける。こちらも弟より柔和な顔立ちをした色白の美丈夫だ。同じ特徴的な眉毛をしているので肉親だとすぐ分かる。
    「兄さあ!おいはなんでんなか、でも、こんひとが怪我してたら――」
     そこで初めて、未だぎゅぅと抱きとめられたままと気付き、月島は腕をつっぱって音之進と呼ばれた男性の胸のうちから逃れた。危ない、あまりに“しっくり”来過ぎるあまり、そのままの格好でいた。声を掛けられなければ離陸まで抱き合っていただろう。
     まずい状況だ、これは弟を追いかけてきたお兄さんから見たら、“お鍋のなかからボワッと変態おじさん登場”になってしまう局面だ。図書館の子供会で流すBGMから連想するあたり、月島も相当混乱していた。
    「いえっ!身体はジョウブですのでお気になさらないでください。それよりも私の方があなたに怪我をさせたのではないかと、…たいへん申し訳ありませんでした」
     謝りながら不自然な格好で飛びのいたため、月島の膝裏には憎ったらしいリクライニングシートがガッと当たった。想定外の方向からの攻撃に膝を折る格好になり、かがんで痛む膝裏を押さえながら前のめりに倒れ、月島の額がゴンと床に当たって除夜の鐘みたいに空気をふるわせる。
    「……ドウカ…オユルシヲ」
    「やめたもんせ、顔をあげたもんせ!!!おいはこれくれで根を上ぐっような鍛え方はしちょらん」
     月島を立たせようと腕をつかむ褐色の左手にはやはり薬指の黄金リングが光っていて、大きなダイヤの粒が照明を反射してやたらまぶしかった。それでも彼が「怪我がなくて良かった」という微笑みの輝きには敗けるのだからダイヤも形無しだろう。
     彼の方言からなんとなく言っている意味を察しつつ、
    「……ありがとうございます。」
     ほうほうのていで月島は立ち上がり、普通に坊主頭を下げて御礼ができた。石頭には自信があるので、床と激突したおでこも赤くなってすらいない。
    「気をつけてくいやいな、また危なかことに巻き込まれなかごつ。良か旅をしたもんせ」
     紳士的だ。あのVIP扱いからしてゴッカムシティでは名の知られた男性なのだろう。
     香水の残り香だけがふわりと香り、彼が居なくなったあと。
     くっくっぐふっ…と一部始終を見ていた隣席の前髪チョロ毛男はこらえきれないという様子で肩をふるわせ喉奥で笑っていたが、ガン無視を決め込み月島は無言で荷物を雑にまとめた。
    「俺のせいでとんだ災難ですなぁ、お詫びに何かさせてください」
    「………。私とあの人じゃなかったら大事故でしたよ。いいですか、もう«人を死なせるような危険なことはしない»と誓ってください」
    「……ははぁ」
     思わず図書館で騒ぐ子供へ言い聞かす口調になってしまったが、チョロ毛の男は気を悪くした風ではなく、どちらかといえば猫のフレーメン反応のような顔つきをしていた。
    「では」
     渾身の愛想笑いで振り切ると、月島は絵本の入ったカバンを肩掛けして新しい席へ向かう。
     先ほど出会った青年の香水は、透明感のあるセクシーな花の香で、時間がたつと遠いどこかの森にふたりきりでいるような温かみのある香りに変わるのだった。残り香をはらうように追い越して、月島は新しく用意された席へいそぐ。

     キャビンアテンダントが「オーイ、ココ!ココ」と馬丁を呼ぶように指した席に座り一息ついてから、あらためて月島は頭をかかえた。
    (――鯉登くん。いや、いま鯉登オトノシンって言ってたよな!?)
     おそらく、今の青年はあの鯉登くんだ。
     ……こんなところで会うなんて。
     俺の身長を優に超すくらい大きくなって――あんなちっちゃかったのに立派に成長したなぁ、とんでもなく男ぶりも良くなって…もう一人前の大人だなぁと親戚のおじさんの気持ちを存分に味わいしみじみとする。
    (俺のことなんか覚えちゃいないようだが、それでいい。)
     十年前の夏、不登校児として鯉登くんは学校に問題児扱いされていた。
     当時大学生だったバイトの教育学部生(の振りをした)月島と音之進、ふたりで取り組んだ紙芝居を作るレクリエーション。
     まず1人が1枚描いて、その次を相手にゆだねて描いてもらい、また戻ってきた物語の続きを1枚ずつかわりばんこに描いてハッピーエンドに導いていく。
     子供の深層心理と、相手と協力することを学ぶレクリエーションだったが、主人公の「竜の王子」は悲惨な最期を迎えたのだ。
     
    『竜の王子は悲しみのあまり正気を失って炎を吐き、何もかもを燃やし尽くしました。王子はさいご、炎にまかれて死んでしまいました。』

     音之進が書いた最後のページ。文字の横には炎を模した赤と、焼かれた肉らしき黒い物体がクレヨンでぐちゃぐちゃに描き殴られていた。
     月島はどうやら音之進を怒らせたらしく、物語のラストはアンハッピーエンド――いやこれ以上ない悲劇で幕を閉じたのだ。
     そのわけを聞く暇も与えられず、音之進は転校し、ふたりは離れ離れになって二度と会うことはなかった。たった今まで。

     薬指のリングを見るに、伴侶かもしくは彼を支えてくれる恋人がいるのだろう。あの紙芝居の一件が彼の心に暗い影を落とすのではないかとずっとそれだけが心配だった。
     なにか長年の心のつかえが取れたような気がする。
     本当に良かった、きっといま彼は幸せなんだ。

    【緊急時には客室乗務員がご案内いたします。お座席近くの非常口をご確認ください。】
    【離陸中は常にシートベルトをお締めください。】
    【間もなく離陸しますので、お座席でおくつろぎください。】

     月島の移動先は通路側だった。夜景を見られないのは残念だが、シートベルトを装着すると、鯉登くんの幸せそうな姿が呼び水になって、ようやく深く息をつきリラックスすることが出来た。月島は次の出張先に思いをはせた。月島の職業は図書館司書であり、荒れたゴッカムシティで未成年者の教育水準をあげるために日々奮闘していた。出張先の大きな図書館で視察がてら、絵本の読み聞かせとさらにいま月島が熱心に取り組んでいる人形劇の講義を受けることができると聞いて楽しみにしていたのだ。

    (クリスマス会のため、絵本をもう一回読みこんでおくか)
     手提げ袋へ手を突っ込んでがさごそしていたとき、それは起こった。

     中央スクリーン――月島の新しい席からはずいぶん遠くなったそこへ、搭乗時の案内が突如切り替わってニュース番組が映し出された。

    アナウンサー『緊急事態です!!みなさん、ただちに安全な場所へ避難してください』
     ニュース番組内で非常ベルが鳴り響く。
     スクリーンへ次に映し出されたのは夜空に投影された「キエンシグナル」だった。客席がざわめきだす。
     キエンシグナルは、もはや十年と半年以上も機能していない救援信号だ。もはや誰も助けに来ない、ミスターモスモスはきっと死んだのだ、我々は神に見捨てられたとゴッカムシティの市民を嘆かせた、いまとなっては弔意をしめすシグナルだ。
     それがいま、なぜ夜空に煌々と――三日月の横に並びたつほど輝いているのか。

    「!!」
     月島は前へ傾いた。滑走路へ動いていた飛行機が急停止したのだ。これは一体、と乗客の緊張と不穏な空気は次の瞬間最高潮に達した。
     銃声の音が間近で響き渡る。
     とつぜんフッと消えた照明、暗闇、そして怒号。
     次に光が瞬いたとき、それは威嚇射撃のマズルフラッシュで、客たちの悲鳴とともにキャビンアテンダントが倒れる音が聞こえた。
     次いでうめき声が聞こえたので死んではいない模様だったが、重症か軽傷かは月島の席からは見えない。
     前方席の一部ライトが付けられ、照らされた影が銃口を客席へ向けながら恫喝したのだった。
    「全員動くな!この機体は我々マッドクォッカが乗っ取った!」
     サングラスをかけた男は、一分の隙も無く、銃口をいまや人質となった乗客へ向けていた。マッドクォッカの仲間たちが機内各所に配備されているようだ。
     月島はゆっくりとカバンからスマホと財布を取り出し、上着のポケットに入れた。これはハイジャックだ。身軽になっておく必要がある、と誰にも気取られないようシートベルトをはずす。
    「キエンシグナルが出ただと――あんな骨董品になにができる?10年以上この都市に助けの手はない。警察に通報したってもう遅い。いまからこの機内へ乗り込んだら乗客全員死体になるぜぇ」
     男の声に乗客の悲鳴がかぶさった。脅しではないようで、言い切ったあと、男はつけたイヤホンに集中した。かすかなイヤホンの音漏れから何か仲間内で連絡が入り、嬉しい報告があったらしく男の口の端がゆがんでいく。
    「たった今機長室を制圧した。このまま一人ずつ乗客を殺していくか、それともゴッカムシティ中の刑務所から囚人を全員解放するか――市長に選ばせてやる。5分以内にな」
     泣く子供の口を親がおさえた。震える手を握りあう年老いたカップルたち。しゃくりあげる友達をささえて庇う女性。隙があればハイジャック犯を取り押さえようと機をうかがう月島。

    アナウンサー『緊急速報です。たったいま、FOX航空1028便がマッドクォッカに制圧されました。ハイジャック犯たちの要求は、ゴッカムシティの囚人たちの解放とのことです。要求を呑まなければ5分に一人ずつ乗客を殺していくと脅迫しています。』
     中央のスクリーンに、さきほど足を打たれたキャビンアテンダントが映し出される。画質のよくない映像だったが、機内の端でうめき声をあげている彼そのものが映った。
    アナウンサー『こちらは犯人がネットで配信している映像です。キャビンアテンダントが銃で足を撃たれましたがまだ息はあるようです。機内には多数の乗客が乗っているとのことです』
     客席の様子もハイジャック犯によりリアルタイムで動画配信されている。
     ゴッカムシティ、いや国全体がハイジャックの動向を固唾をのんで見守っているであろう。

    「――5分経った。次の乗客を殺す!!そうだな、今日は14日だから、D席の1456番だ!」
     教師が生徒をあてるみたいなことするな、とそう思った月島であるが。恐怖と緊張が最高潮に達してざわつく機内で、隣の客がヒィィィィっと金切り声をあげた。彼女は1455番だった。
    「Dの1456…… ――あ、」

     ――俺だ。

     月島がそう思ったときには、腕を掴まれて強制的に椅子から引き上げられた。右通路からやってきたハイジャック犯がこめかみに銃口をゴリゴリあててきた。
     何という不運だろう。移動した席で、ハイジャック犯の気まぐれに生贄にされるとは。

     視線をはしらせたところハイジャック犯の仲間は10名ほど、それぞれが銃を持っているので月島が抵抗すれば別の誰かが代わりに射殺されるのは明らかだった。腕を掴まれ、月島はゆっくりと立ち上がった。ハイジャック犯の誰かが持つ懐中電灯が、月島を照らし出した。ライブ中継、中央のモニター…ニュース映像にも月島が映る。画像の荒さと暗さのせいか人相がとてつもなく悪い。悪人面だな、と月島は写真映えしない自分の姿にぼんやり他人事みたいな感想をいだいた。
    「よし、殺せ。そいつの死体を全世界にリアルタイムで流してやろう。市長の支持率はどんどん落ち、警察の威信は地に落ちる」
     残虐な映像を回避するためか、スクリーンはまたキエンシグナルに切り替わった。

    アナウンサー『キエンシグナルは、気鋭の新人市議会議員、花沢勇作氏の要請で警察が投影したものということです!!市民の皆さんは、決して外に出ず、外にいるかたは安全な場所に避難を――』

     映像のキエンシグナルを見つめながら、月島はなんだ、撃たれるのが俺で良かったじゃないか、と思った。走馬灯はまだ流れてこない。

     母はおらず、父には育児放棄され、孤児同然のあつかいで児童保護施設で過ごした月島は身寄りもなく、恋人と呼べる相手もいない。もしもこの場でそういった境遇のひとが「死んでもいい」と軽く扱われるなら月島は激しく憤って抵抗したろうが、自分が犠牲者に選ばれたいま新鮮な怒りは湧いてこなかった。
     他の人より、いくぶんか生贄としては適任だろうとすら月島は思った。ただ、気になることがある。
    「おい」
    「へッ、見苦しく命乞いかよ、オッサン」
    「俺が脳ミソまきちらした映像を全世界に配信するのか?世界中の子供が見たら刺激が強すぎるから、血と脳ミソにモザイクをかけてほしいんだが――」
    「だ、だまれ黙れッ!」
     威嚇のつもりなのか、ぐりぐりっと銃口をこめかみに押しつけられた。石頭なので痛みはない。余計相手を怒らせる結果となったが、モザイクの件は伝えられて良かった。できれば、図書館に通う子供たちが見ないよう、そして月島の死がやわらかな表現で伝わるよう祈るだけだ。そうだな、遠い国の魔法図書館で働くことになったから転勤したとかがいいな。
     耳のすぐそばで、銃の安全装置を解除する音がした。引き金を引き絞るため力をこめる気配がする。
     人生に走馬灯を流すほどの思い出はないらしく、月島は目を閉じた。キエンシグナルが瞼にやきついたようで、闇の中光っている。
     
     ――前山、忙しいなか迷惑かけてごめんな…来月のクリスマスイベント頼む。江渡貝くん、約束したバーベキュー…俺が野菜と火おこし担当だったのに行けそうもない。あと、最後に…絵本、読みたかったな…ちいさい鯉登くんと一緒、に、…

    「頭を下げろッ」

     その鋭い言葉には、反射的にひとを従わせる『ちから』があった。

     月島は機内に居た誰よりも速く反応し、床へ転がる。坊主頭でなかったら、髪が空を切った『なにか』に削りとられていただろう。事実、ハイジャック犯の頭は半分刈りとられたのだ。生命とともに。
     血と脳漿が床へ飛び散ったなか、すでに絶命した男が手に持っていた懐中電灯が落ち、月島はそれに飛びついた。10人のハイジャック犯を即座につぎつぎと照らし、闇から暴く。
    「一撃でけりをつける!」
     月島が暴いたハイジャック犯の位置へ。まさしく闇にひらめく光というくらいのはやさで、何者かが客席の背もたれへ手をかけ全身を宙に浮かせ、軽業師のように通路から通路へわたっていく。
     足が床についた瞬間、一閃、紫電が天から地へと落ち、またハイジャック犯が床へくずおれる。砂の楼閣が崩れるようにはかなく、ゆっくりと。
     手下たちは闇雲に銃を撃つが、影は疾風のごとき動きで敵へ迫り頭を両断する。

    「なッ、なんだ、何が起こった!?」
     パニックになったのはイヤホンを付けた親玉だ。そいつが後頭部を穿たれてドッと地に伏したときには、手下のハイジャック犯はすべて倒れていた。
    「安心してください、機長たちは無事です。我々が保護しました」
     もう1人あらたに現れた人影によって、非常口が開かれた。外から大量のパトカーのサイレンが聞こえてくる。
     彼の白い顔ばせは半分マスクで隠れている。肩掛けにした白マントのしたには軍楽隊の制服がちらりと見える。青年は、活力とエネルギーに満ちた声をあげた。
    「私の名は――ミスターモスモスJrだ。ゴッカムシティに帰ってきた。父に代わって悪を斬る!!」
     ハイジャック犯の親玉は拘束され、それ以外は即死であった。
     死亡した10人を斬った黒いマスク姿の青年が、モスモスJrのそば、影のように立つ。彼は軍楽隊の制服の上に羽織った黒いインバネスを風に波立たせ、視線を下に向けて気配を殺していた。乗客の中で、月島だけが影の青年を凝視していた。
    「ゴッカムシティの市民を脅かす悪は、ミスターモスモスJrが許さない!!」
     ライブ中継でゴッカムシティ全市民は新たなヒーローを目撃したのだ。
     白いマントをはためかせ、ゴッカムシティにヒーローは帰還し、市民たちに熱狂的な歓声とともに迎え入れられたのだった。


     次の日の各新聞は、ヒーローのニュースで紙面が埋め尽くされた。
     あのあと、ミスターモスモスJrともうひとりは、非常口から身をひるがえすと、やってきたモスモービルと呼ばれる特殊装甲車に飛び込み、そのまま走り去っていった。2人の行方も正体も杳として分からない。
     一応乗客たちは非常口から外へ出て、わらわらと空港が手配したバスに分散して乗って帰った。乗客に怪我人はなし、キャビンアテンダントもすぐ病院へ運び込まれて軽い怪我で済んだと各ニュース番組でアナウンサーが原稿を読んでいる。
     
    「……………」
     月島はうさぎのパペット人形のほつれを縫いながら、新しいヒーロー登場に湧き立つニュース番組に耳を傾けていた。街のひとびとにインタビューし、衣装が素敵、背が高くて格好いいなど口々に感想をのべている。
     うさぎ、きつね、くま、やぎ、こぶた、オオカミ…パペット人形たちにブラッシングをし、ふわふわになるよう手入れをして、月島は図書館の休憩室でひとり遅い昼ご飯を食べている。はしっこに設置された古いテレビには、街頭インタビューとマスクをしても男前と分かるミスターモスモスJrの写真が繰り返し映っていた。
    「……いや、やっぱり……」
     手製のおにぎりをもぐもぐしながら考える。考えれば考えるほど似ている。

     『頭を下げろッ――』

     耳元で弾けたあの声。
     脳さえ揺らすその声に聞き覚えがあった。
    「鯉登くん……――鯉登くんだよなぁ~~……鯉登くんだった…」
     間違いない。月島には確信があった。乗客が機体の非常口から避難したあと、月島は鯉登兄弟を探したが、他のバスに分乗したのか姿が見えなかったのを不審に思っていた。点呼を取らなかったり、荷物を機内に置き忘れた人が乗務員に詰め寄ったりと乗客がごった返していたので、人を探すどころではなかったのもある。

     黒いインバネスをまとってうつむく彼の姿を思い起こす。
     すでに大人になった彼が、どのような道をすすもうと咎め立てする権利はない。かといって月島は見過ごすことが出来なかった。
     危ないことをしている彼を助けなければいけない。いつまで経っても、瞼の裏に子供の彼がちらつくのだ。彼を傷つけてしまった、胸の痛みとともに。
     月島は図書館勤務が終わった後、愛車――1年更新・非正規雇用の上、絵本を買ったり紙芝居を作っているため免許は持っているが車を買う余裕はない――の自転車へ飛び乗って力の限り漕ぐと、鬱蒼とした山の尾根に建っている友人の家を訪ねた。

    「江渡貝くん!居るか!!月島です!!!」
     古びた洋館の前でピンポンピンポンとチャイムを連打していると、渋い顔をした家主がドアの隙間から顔を出した。
    「なんですか、も~~~~~~~~~~~~」
     江渡貝くん。年齢は鯉登くんとそう変わらない21歳、革製品を扱う職人だが、衣服も縫うしコスプレ衣装作成などもお手の物で、月島は彼のファッションショーをよく見学させてもらっていた。被服の歴史やら型紙やら、本を図書館で取り寄せするため月島とは顔なじみで、江渡貝の歯に衣着せぬ物言いや人柄もあってか、ふたりは年齢差を感じさせない良好な友人関係を築いていた。
    「月島さんうるさいです!もうちょっと大人しく来られないんですか!?」
    「すまん、どうも…思い立ったらじっとしていられなくて」
    「なんの用ですか、僕忙しいんです。次のバーベキューパーティーは来月でしょう、その時じゃダメなんですか?」
    「至急、江渡貝くんに俺の衣装を作ってほしいんだ」
    「――はぁ?」
     感情を隠そうともせず、江渡貝が迷惑まるだしな顔になる。

    「――で、僕にコスプレ衣装を作れと?モスモスJrのふたりを手伝いたいから?」
    「そうだ」
     ほかほかと湯気のたつココアを手にして、月島は真面目な顔で頷いた。

     月島の心配とは、危険と隣り合わせの鯉登くんのことだった。
     幼いころに会った自分のことなど綺麗に忘れ去っているだろうが、市民ために闘う彼をどうしても助けたいと思った。いや、どうか無事でいてくれというのが本音だ。
    『その炎は竜の王子さえ燃やして王子は死んでしまいました』
     あの結末が頭によぎる。胸に墨が滲むように広がる不安。あの結末だけはどうしても避けたかった。
     個人的に応援することにしたのだが、正体がバレると鯉登くんにも悪影響だし、何より月島が社会的におかしな立場に置かれる。そこで、思いついたのが変装だった。
     モスモスJr、のファンですという態(てい)でコスプレをし、敵ではないことを示しながら陰に日向に彼らを助ける。という構想を訥々と江渡貝に語った。
     月島の話に耳を傾けていた江渡貝は組んでいた腕をとき、思ったことをそのまま返した。
    「えぇ、そんな…悪人と闘ってる時にへんなコスプレのおじさんがしゃしゃり出てきたら、モスモスJrたちもドン退きすると思いますけど…。最悪、月島さんも悪人の一味と間違われて成敗されますよ」
    「別にうちわを振ったり声援を送るわけじゃないし、俺みたいな弱い素人が加勢しても迷惑をかけるだけだから、闘いへの加勢はしない。最後にすこし手伝うだけだ、逃走する時の交通整理をしたり、囮になったり――」
    「月島さん死にますよ!?…ダメです、僕は友達にそんな危ないことさせられません」
     けんもほろろだ。しかし月島の粘り強さは折り紙付きだ。
    「江渡貝くんの腕を見込んで、頼む!ただ彼らに危険を背負わせてのうのうと安全な場所で見ているなんて、俺にはできないんだ。たとえ微力でも、なにか役に立つことをしたい」
     月島にとっては、鯉登くんはいつまでも我が儘で利発で天真爛漫な小さな男の子のままだ。幼い彼を怒らせてしまった罪滅ぼしも勿論、ある。鯉登くんが選んだ伴侶と幸せになれるよう手伝いたい。彼の幸せがどのようなものか知らないというのにそう願うのは、完全に月島のエゴだが、
    「…………分かりました。」
     はぁ、とドデカいため息をついて江渡貝は折れた。
    「衣装のデザインは僕が決めますから、文句言わないでくださいね」
    「わかった。顔が隠れるやつで頼む」
    「そりゃそうでしょ、顔が出たら子供が泣きますよ。そうだ!先日裏山探索で発掘した鎧がありますから、手っ取り早くソレ使いましょ」
    「助かる」
     険しい顔をしていた月島は、ようやくほっと安心したように表情をゆるめ、ココアに口をつけた。


     FOX航空1028便での闘いのあと、モスモービルはステルス性能を解き、森の奥深く、湖にかかった橋を通って屋敷へ戻る。橋はすぐに湖へ沈み、ただの静謐な森へと戻った。

     モスモービルは庭を走って屋敷へと続くながい道をゆく。父から受け継いだモスモービルは弾丸を弾く装甲、ステルス機能、各種攻撃用武器を搭載した特殊装甲車だ。特別なエンジンを積んでいて、スピードも速く自動運転も可能であり、ボンネットにつけられた「M」のマークが特徴的であった。

     鯉登家の屋敷は、表から入ればお城だが、裏側は要塞という構造をしている。
     湖につながる地下には秘密基地があり、そこでモービルの修理や武器の点検を行う。長兄・平之丞と次男・音之進の父親、平二が使っていた基地を改装し、いまは兄弟が引き継いでいるのだった。
     基地にはいくつもの試作品コスチュームが空間に浮いていた。ナノ粒子で形作られるそれは、着る人間の身体に完全フィットし、防火、防水、そして宇宙空間でも生きられるという優れた科学技術の粋を集めた作品であった。変身装置としてベルトに装着し、変身コスチュームもしくは飛行できるようになる翼のどちらかを身体にまとうことが出来る。


    「音之進、怪我はなかか?」
    「…平気じゃ」

     懐紙にて刀の血をぬぐって鞘へおさめると、鯉登音之進はバックルについたボタンを押した。
     ナノ粒子で出来ているコスチュームは剥がれ落ちるよう解除され、私服姿へ戻る。音之進はじっとりと全身に汗をかいていた。

    「音之進、次はオイも銃を使うて応戦すっ。無理はせんでよか」
     こめかみにも汗が流れ落ち、息遣いも荒い弟へ兄が声をかけると、振り向きざま音之進は叫んだ。
    「兄さあは、血に汚れたらやっせん!ひとを斬っ、そんたおいの役目じゃ。兄さあは、みんなに好かるっ正しいヒーローであっべきじゃ!!」
    「……」
    「おやっどは、…この街で、お爺どんを強盗に殺されて、悪を倒すために私財をなげうってでも闘うと決めた…。そのためにずっとひとりで闘うて怪我を負うた。そして引退を余儀なくされた」
     父が足を怪我して戦えなくなった時、小学生だった音之進が荒れていたのは家族も知っていた。ヒーローの父を誰より誇りに思い、父の足を傷つけた悪人を激しく憎んでいることも。そんな次男に対し、父親の鯉登平二は悪をみずから裁くことを固く禁じていた。ヒーローを継ぎたいとどんなに彼が頼んでも、である。
    「兄さあがヒーローを継ぐと言てくれたとき、わっぜ嬉しかった。…そんな兄さあを守ったぁあたいん役目じゃ。取らじほしか」
     切れ長の目じりからこぼれ落ちたような言葉だった。
     こじれる父と音之進の仲を見かねたこと、旧知の間柄である花沢勇作市議会議員からの要請があったこと、そして何よりいまのゴッカムシティの荒廃ぶりを放っておけず――兄の平之丞が自らヒーローを継ぐと言ったとき、ようやく2人でやるのならば、と父の許しを得られたのである。
     少し足元がおぼつかない様子で自室へ戻っていった弟。その背中を見つめ、憂いに満ちた眉毛と眼差しで兄が父につぶやく。

    「――おやっど、音之進が心配じゃ。あげん人を斬って、正気でいらるっわけがなか」
    「……モス(わかっちょる)」
    「音之進はまだ20歳じゃ。幼いころから修行に明け暮れて、音之進の幸せはどけあっと?」
     
     音之進の自己研鑽のストイックさは家族達も知っていた。それが度を越したものであることも。闘うことを宿命づけられた。それが彼の未来を狭めてしまったのかもしれない、と家族は悲しみ、とりわけ父である平二は、自分ひとりが家業としていたことを息子に押し付けてしまった罪悪感で、次男と正面から向き合うことができずにいた。平二自身が実父を殺されて抱いた憎悪という感情を、自分が足を怪我したことで音之進に継承させてしまった――その負い目を感じ、時に圧し潰されそうになった。
    「……モス(音之進……おいはわいが自分の幸せをつかんでくるっこっが望みだ)」
     白いひげを震わせて語りかけるも、息子にとどくはずもない。

     自室に戻れば、日常が戻ってくるかと思ったが。音之進は息を吐いた。もう戻ることはかなわない、そのはっきりとした痛みが身を刻む。音之進は肉を断つ感触を思い出し、ぎゅっと拳を握った。
     備え付けのシャワールームへ向かい、服を脱ぎ捨てた。

     ――はじめて人を斬った。殺した。
     
     自らの基準で善悪をはかり、人を殺すことの重みは承知しているつもりだった。
     子供の頃、学童で遊んでくれたひとが聞かせてくれたことがあった。『俺はマッドクォッカに日給5万で雇われたことがある。それがないと家賃も食費も払えなかったからな』――貧しい生まれで、選択の余地なく悪の道に入る人間がたくさんいる、と。元から性根が腐ってるやつもいる、しかし、家族を養ったり、ホームレスにならないよう金が必要で仕方なく悪党に囲い込まれるやつもいると。一度道を踏み外して落ちると、もう元のまっとうな道には戻れないとも。そんな奴らも、友人がいたり、誰かにとってはご飯を食べさせてくれる救世主だったりすることも。
     
     頭からシャワーを浴びて血臭をおとし、冷たい水に打たれながら、音之進は目を閉じた。
     ペルセフォネが冥界の果実であるザクロを食べて、冥界にその身を縛られることになった物語を知っている。さまざまな絵本をむかし音之進に読み聞かせてくれたあのひとが、娘のペルセフォネを奪われて嘆き悲しむ母親…大地の女神デーメーテルの気持ちを語ってくれた。
     (こいであたいは、冥界に縛らるっ身となったんじゃな)
     あの機内で、ザクロを10粒食んだ。罪もない人々を助けるためにやったことだから無論後悔はない。昔から望んでいたことだ。
     まして、助けたのが『彼』という状況ならば言うに及ばず、暗い冥界に行くことにも躊躇などない。
     ただ冥界には、月の光は届くのだろうか、それが気になる。一筋でも届くのなら、月の光の慰撫で、自分の心だけは彼のいる地上につながれるのにと思った。

     水に濡れながら、どんなときにも手放さない、左手の薬指に光るリングへ口づけた。右手で左手ごと握りこみ、音之進はただそのよすがにすがって心を押し殺す。自分はもう、人に愛を乞うような綺麗な身ではないのだ。
    音之進が人を斬り一線を越えた日、機内でまた会ったのは天の采配なのだろうか。ふいの出遭いは眩しすぎてよく見えなかったが、彼の薬指にはなにもはまっていなかった。元気な姿を見て、彼の命を救い、身体に触れて、ぬくもりを感じることさえできたのだ。
    (つきしま。いまさら許してほしかなんて、言ゆっわけがなか――もう前にいっきょたおいんこっなんて忘れちょい)
     人を斬っていない自分のまま、会えて良かったのだ。これ以上何も望むつもりはなかった。

    (――血の臭いといっしょに、大切なひとへの想いも流れてしまえばよかとに、…)
     骨の芯から凍える、独り善がりの禊ぎのなか、音之進はそう願った。



     ハイジャック事件から数週間はチンピラの小競り合いだけで過ぎ去り、ゴッカム警察がキエンシグナルを夜空に投影することはなかった。その間、月島はあわただしく江渡貝に採寸してもらい、変装用の軽く動きやすい鎧を作ってもらう運びとなっていた。

     12月に入り、マッドクォッカの首領は、ミスター・モスモスJrを捕らえてマスクをはぎ取り、生きたままはらわたを引きずり出し、犬に食わせてから焼き殺してやると宣言した。組織の殺された10人ぶん、モスモスJrの親類縁者友人どもを見せしめに殺す、とも誓った。悪党どもの世界でこの宣言・誓いは絶対であり、メンツをかけてでも達成すると構成員たちは息巻いていた。
     一方、イマニタスはいまだ沈黙を守っているが、凄腕の狙撃手を雇ったという風のうわさが流れていた。
     
     事件はうららかな、冬にしてはあたたかい昼日中に起こった。
     数十人になるマッドクォッカの一味が、地下のクラブで飲んでいた未成年含む20人の首に縄をつけて、処刑台に立たせたのだ。吊り縄を首にかけ、足場にしている木材を蹴ればそのまま吊られて天に召される中世の遺物。数百年前、政治犯を処刑するためにゴッカムシティに作られた歴史的な遺物であり、我々の愚行を戒めるための展示物だった、はずである。
     しかしマッドクォッカはその愚行を繰り返し、いま市民を危険にさらそうとしている――

     通報を受け、武装した警官とパトカーが現場に急行したが、マッドクォッカは電動垂直離着陸機――イーブイトール機を投入し、機関銃でパトカーを蜂の巣にし、警官たちを皆殺しにした。
     肉片を細断され、ばらばらに千切られた死体が街の歓楽街に血煙とともに散らばるなか、花沢勇作議員は警察にキエンシグナルを要請したのだった。警察署の壁に投影されたシグナルは市民をいくらか安堵させた。もう大丈夫だ、と。
     事件現場はまたもリアルタイムでテレビ放映されており、市民は固唾をのんで見守っていた。

     シグナルを受け、モスモービルが砂埃の舞う現地に着いたとき、薬中毒の中年男がひとり、足が宙に浮いていた。首の骨は折れて、頭部が前に垂れ下がり、目玉と舌が飛び出ていた。最初の処刑は執行されたのだ。

    「きっさまらあああああ!……よくも罪もないひとをッ…!!」
     運転席のミスターモスモスJrの隣、インバネスの青年が激高し、車内でボタンを押すと、モスモービルがその甲殻虫のような車体を折りたたませて、ボンネット上から機関銃がせりあがってくる。
     宙に浮かぶイーブイトール機に向けて射出、応戦した。自動で走り標的を狙うモスモービルにイーブイトール機を任せて、ふたりは外に出て処刑台の人質奪還のため走る。
     音之進は一太刀でマッドクォッカの構成員たちをなぎ倒していき、人質をひとり、またひとりと首にかけられた縄を斬り、解放していく。

     残り、あと5人に迫ったとき――

     処刑台から百メートル離れたビルの屋上で、ひとりの男が伏せていた。髪を額から後頭部まで撫で上げる。
    「フッ… この俺に不殺の誓いだと…」
     ――もう«人を死なせるような危険なことはしない»と誓ってください。
     機内でそうのたまったオッサンを思い出し、男は喉奥を鳴らした。
     まったく、笑わせる。
     PRESSの名札の裏には、写真と名前――『尾形百之助』が記されている。尾形は表の名前、裏のコードネームは『山猫スナイパー』。殺した人数は両手両足じゃ足りない、流れ者の用心棒である。
     あの機内であった一連のことを、尾形は自ら乗客としてそばで見ていた。
     ミスターモスモスJrの傍にいた男の剣さばきでさえもつぶさに観察した。飛び散る血など気にも留めず、瞬きもせずじっと見た。
    「すべてアンタの差し金だろ、花沢勇作…。」
     花沢勇作の父は、尾形の父でもある。尾形の実母をもてあそび、子を産ませた男だ。息子だと認知してほしいと会いに行った母を父は「金の無心にきた嘘つき女」呼ばわりしてすげなく追い返した。保身のため、正妻とその息子である勇作との生活を優先したのだ。尾形の母親は精神を病み――精神病院に入れられ、尾形は児童保護施設でずっと暮らした。母親とは未だに会えていない。
    「花沢幸次郎…お前ら親子の好きにはさせねぇ」
     尾形の傍にはカメラケースが転がっている。ケースに隠し持っていたスナイパーライフルを組み立て、狙撃の体勢に入った。
     スコープの照準をミスターモスモスJrにあわせた。風の流れは近くにある建物の旗を見ればわかる。
     ――まず、足を撃って奴らを恐慌状態に陥れてやる。
     一発撃てば狙撃手の居場所は割れるため、二発目までの時間はそうかけられないが、それでも。逃げ惑う様をさんざん笑ったそのあとでいいだろう、モスモスJrの頭が爆ぜる様を観客どもに見せつけるのは。

     風にのって流れてきた銃声に、音之進の耳が瞬時に反応した。
    (兄さあ!!)と思って振り向いた瞬間、モスモスJrが前のめりに倒れ込むのが見えた。拳銃の弾さえ跳ね返す強度の戦闘服だが、驚くべきことに、はるか遠くから飛んできた弾丸が兄のふくらはぎを貫通したのだった。特殊な銃弾だとすぐ分かった。
     モスモスJrは倒れはせず、この隙にと殴りかかってきたマッドクォッカの手下をふたり撃ち倒したあと、膝をついた。
    「私のことはいい… 逃げろ… 音…」 
     平之丞が歩いてきた道に長くひかれた血の跡を見て、音之進はパニックになった。
     兄に飛びついて、ナノ粒子で傷口をおおう。それでも血が止まらない。平之丞の血の気が引いていき、みるみるその身体から体温が失われていく。

     モスモービルを呼び兄だけ乗せて帰還させるべく、顔をあげた音之進の視界に入ったもの。助けられなかった5人の足場がすべてマッドクォッカによって蹴倒され、彼女ら、彼らが吊るされた場面。縊死に抗うべく、喉へ食い込む縄を引っ掻きながら数秒もがくも、力尽き、みな気道閉塞、頸椎が折れてだらりと両手両足が垂れ下がるさま。
     音之進は怒りと絶望の叫びをかろうじて喉奥でおさえた。
     あらゆる感情が渦巻き、抑えようもなく全身ががくがく震えるなか、ふと上を見ると――
     マッドクォッカの獰猛なイーブイトール機が、モスモービルの自動追尾から逃れて、土ぼこりを巻き上げながら音之進のすぐそばの宙に浮いていた。窓からのぞくサブマシンガンの銃口が二つこちらを向き、一斉に掃射されたのがスローモーションで見えた。
     堅い弾丸が撒き散らされ、音之進の皮膚を引き裂き、あたたかい内臓をぐちゃぐちゃにつぶし、あとから襲ってくる灼熱の痛みさえ予見できた。目を閉じることさえかなわない。

     そこへ、きらりと光る何かが飛んできた。

    「――むんっ!!!」
     
     気合の声が一閃。
     回転しながら新体操のリボンのように黄金の鞭を全身にまとわせ、金属をはじく天上の音を奏でながらひとりの乙女が舞い、太陽光をさえぎるようにして宙に躍り出た。その煌びやかさ、荘厳さに音之進はすでに自分は死んでいて、天の使いが来たのかと錯覚した。

     鞭に弾かれたサブマシンガンの銃弾が雨あられと落ちたど真ん中、ズンッッと大地に着地した太ましい両脚。

    「私はゼウスの娘――…」
     しゅる、と鞭がガントレットに収まり。立ち込めた火薬の臭いが風に流れ、砂埃のカーテンは引かれてその乙女の全身が太陽のもとへさらけ出された。光に縁どられた輪郭、誰もがその眩しさに目を細めた。

     赤く艶めいたコルセット風 ビスチェ。ビスチェの縁を彩るのは金の胸あて。青いパンツスタイルと膝上まであるブーツ。両腕には顔が映るほどぴかぴかに磨きこまれた白銀のガントレット。そして――まんなかに輝石がきらめくティアラのような黄金の額あてと顔の半分が隠れるマスク。
     急いできたのがわかるほどぜぇぜぇ息を乱し、坊主頭で小柄なその人物は、「私の名前はワンダーウー“ム”ン!!」と四方百メートルに響き渡る声で叫んだ。尾形にも聞こえた。
    「私は神の血を引き、この(物理的に殴りつけて)真実を吐かせる鞭で闘う女戦士!!」

          +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO

    江渡貝『男性の衣装はだめです、女性もヒーローにいないと女の子たちがガッカリしちゃうでしょう!ミスターモスモスJr組はふたりとも男なんだから、バランス取って女性の衣装にしないと』
    月島『しかし…俺が着るにはいささか…』
    江渡貝『女の子たちみんな喜びますよ!子供たちのためならポケットマネーでクリスマス会のプレゼントも買う月島さんが何言ってるんです!?』

          +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO

     こうして江渡貝に押し切られたわけだが、親に残酷なシーンを見ないよう止められつつも隠れて闘いの様子をテレビの前で見守っていた女児たちは、女性ヒーローの登場に一気に湧き立ったのであった。
    「きゃー!」「ママー!!パパー!!見てー!!」「わああ!!ティアラつけたお姫様が闘ってる!!」「ひどいことする悪ものをやっつけて!!」

     ゼウスの娘の筋肉の盛り上がり、腕と太ももの逞しさと言ったら尋常じゃない。ぴったりなのは、ビスチェを押し上げる豊かな胸――大胸筋のみ。人間のように歩く毛のないゴリラと言っても違和感はない。しかしコスチュームのせいか、傍からは女性だけが住む島からやってきた高貴な女戦士に見えないこともない。

     鯉登兄弟はあ然としたが、敵のほうも怯んだようだった。
     何より、平之丞――モスモスJrをたったいま狙撃したばかりの尾形が慌てた。
    「クソッッ!ワンダーウームン…けっこうイイ女だと思ったが…、飛行機で隣に座ったオッサン…」
     に、似ている。
     視力両目7.5の尾形のみが、隣に座ったオッサンの姉か妹だというところまでワンダーウームンの正体を絞れた。事実とは違ってはいたが。
     ――ふざけんなよ。…つぎは頭を狙う。
     尾形がまた狙撃体勢に入り、照準をモスモスJrにあわせる。が、チラッチラと赤いビスチェと金のティアラと坊主頭がスコープに映りこみ、動揺か何なのか狙撃銃を持つ手がガタガタ揺れる。
    「邪魔だがらどいでぐれ!!」
     思わず、幼少期を過ごした茨城の方言が出てしまう。
     と、突如吹く暴風にあおられて尾形の前髪チョロ毛が激しくはためいた。チョロ毛で狙撃時に風量を測るふしのある尾形は驚いた。
    「風を操るとは、まさか、本当に神の血を引いているのか――!?」
     尾形は半ば信じかけている。常識的に考えてありえないが、竜巻のような暴風が吹き荒れたのは確かだった。尾形が銃を抱えて屋根の上に伏せる。これでは狙撃できない――

    「モスモスJrを連れて逃げてください!」
     兄を守る音之進に向かって、ワンダーウームンが叫ぶ。
    「あなたは一体――」
    「いいから!後は私に任せてください」
    「す…すまない!!」

     兄に肩を貸し、音之進は右手のブレスレットに向けて叫んだ。「モスモービル!」兄弟の声で場所を察知してGPSを辿り駆けつけるよう設計してある。

     その瞬間、プロペラの爆音が頭上から降ってきた。電動垂直離着陸機――イーブイトールが迫り、猛禽が逃げるネズミを空中から捕食しようとまたもやサブマシンガンを浴びせかけるように撃ってきた。
     遮蔽物に飛び込もうと音之進は左右を見渡したが、見当たらない。このままでは蜂の巣だ、と足が止まりかけた瞬間、ワンダーウームンが音之進たちの前に飛び出した。
     両腕に装着した白銀のガントレットを顔の前にかかげ、交差して構えた。音之進がワンダーウームンへ逃げろという暇もなく、彼女は集中砲火を受けて火花があたり一面に散らばった。
     硝煙が流れていったあと…相当な衝撃を受けたはずのワンダーウームンがびくともせず立っているのが衆目にさらされた。
     ガントレットに弾かれ、軌道をそらされた弾丸がすべて地面に突き刺さっている。
     ワンダーウームンはイーブイトール機をおびき出すように小さな戸板の陰へ飛び込む。

     なんとか足を動かし、音之進は兄を背負い、街の歓楽街の細道へ入った。廃屋とおぼしき家のドアへ体当たりし中へ突入、廊下を走って奥へ立ち入り、兄をここに避難させ、自分はワンダーウームンを助けに行こうと思っていたが――
     先端にドリルをつけた違法改造の軽装甲機動車が突っ込んできた。壁や廊下の調度品ごとくずしながら前進してくる。キャタピラーですべてを更地にしながら突き進む、マッドクォッカの戦闘車両だ。
     兄を背負いながら駆け、ようやく倒れ込んだ居間へ、音之進よりも装甲車よりもはやく突き進んだヒビがイカヅチのようにはしり、ミシとわずかに音を立てたあと、天井は一気に崩落した。割れて巨大な岩となった天井が鯉登兄弟に降り注ぐ。
     音之進はとっさに兄に覆いかぶさったが、身体が岩に潰されると覚悟の上だった。ヒーローである兄さえ助かれば、自分などどうなってもいい。

    「…おうじ!」

     ――遠くから声がする。

    「竜の王子!!」
     叫び声がして、誰かの影が音之進の死をさえぎった。

     竜の王子。家族以外には誰にも明かしたことのない、鯉登音之進のヒーローネームだ。走馬灯にながれた幻聴に違いない、と音之進は思いこんだが、…
     その名をすがるように呼んだ声の主は、太い両腕で巨大な梁を支えて、鯉登兄弟のためにわずかな空間を作っている。
    「は、はやく… 逃げて下さっ…」
     ワンダーウームンだった。両腕の筋肉に這うように太い血管が浮き出ている。ワンダーウームンの処理されていない腋毛がしずかに揺れ、空気の流れを音之進に教えてくれた。瓦礫に囲まれたなか、外へつながる風の通り道を腋毛のそよぎで察知したが、音之進はワンダーウームンの安否を案じて動けない。
    「しかし、あなたを置いていくわけには、」
    「私のことはお気になさらず!ジョウブですので!!はやく!」

     振動が瓦礫を震わせる。軽装甲機動車が奥からくずれた岩を砕き、突き進んでくる音がする。
    「ワンダーウームン!!私の命をもって必ずこの礼はする!!!」
     音之進は兄を抱え、風の元をたどって見つけた穴を通り外へ転がり出る。呼び出したモスモービルがアスファルトへ火花を散らしながら横付けした。
     自動でドアがひらき、兄と音之進がなだれこむと即走り出す。その瞬間、廃屋のすべてが崩壊した。瓦礫の下から軽装甲機動車が落ちた天井をも貫きながら飛び出す。
     振り返った音之進が目にしたのは、軽装甲機動車にしがみついたワンダーウームンの姿だった。外へ出た直後に飛び上がり、空中で逞しい体をそらせて金の鞭を振るう神々しい姿。金の鞭がドリルへ絡みつき、こすれ合い、みるみるうちにドリルの刃先がボロボロに崩れていく様が音之進の瞳に映りこむ。
     自重で装甲車の勢いを止めると、ワンダーウームンは鞭をガントレットに仕舞い、ひらり…ではなくドスンと地に両足をついた。

     そのままくるりと方向を変えてワンダーウームンがドスドス逃げ出す。途中からコスチューム姿で自転車に飛び乗って逃走した。
     装甲車がふたたび動き始め、電動垂直離着陸機が追いついた時には、両者とも姿を見失っていたのだった。

    「はぁ、はぁ…」
     汗と血にまみれ、荒い息をつく兄を音之進が気遣う。
    「兄さあ、だいじょっか。もうすぐ家に着っど」
     兄を撃ったのは手練れの狙撃手だったことはすぐ分かった。あえて最初に足を狙ったことも。
     人質を全員救うことはかなわず、尊い命が犠牲となった。いま悪人たちへ復讐も出来ず、背を向けて逃走していることは音之進にとって足元に開いた深い穴に突き落とされたような――自分自身の存在を否定する、どうしようもない絶望であった。

    「………おいのせいじゃ。おいがおったどんこげん失態をおかしてしもた」
     ハンドルを握りこぶしで叩く。悔やんでも悔やみきれない。押さえきれない怒りと絶望のあまり、音之進の目には憎悪の昏い炎が燃えたぎっていた。それは、自身さえ焼かれるような苛烈な炎となって、音之進の心をも巻き込んでいく。
     兄弟を乗せたモスモービルが自動走行で屋敷へ猛スピードで走っていった。


     数時間後、イマニタス幹部の根城。
     磨きこまれたナイフをもてあそびながら、執務室を兼ねた豪華な客間で、幹部は部下たちに質問していた。
    「オイ、分かるか?マッドクォッカの馬鹿首領が、20人吊るした理由が。そして、最後にのこった――モスモスJrが『救えなかった』5人になんの意味があるか」
     問われたスーツ姿の部下は、モスモスJrのヒーローとしての適性の無さを知らしめた、と答えた。次の瞬間、磨きこまれたナイフの切っ先がスーツ男の腹に食い込んでいた。
    「次」
     あごをしゃくって隣の部下を指すも、また投げナイフの餌食になる。舌打ちした幹部は、客間の窓際、壁を背にして立っている用心棒に話しかけた。
    「お前は?」
     用心棒の男は、10万てとこか、とつぶやいた後、夜景へ視線を向けたままゆっくり話し始めた。
    「――……日給10万で雇ったゴロツキどもを、守備の手薄な場所に配置する。当然守備の薄い場所から人質を救おうと、モスモスJrたちは闘いを挑む。…10万どもを正義の味方に『殺させた』うえ、手薄な場所には金持ちで上流階級のやつらを吊るして、モスモスどもに『助けさせ』た。ありがたいことに払う相手は死んじまってるから日給10万は無し…という筋書きか」
    「よく分かってるな」
    「…――俺にナイフを向けるな。殺すぞ」
     PRESS札を首にぶらさげた用心棒の男は殺気に満ちた声で幹部を脅し、それ以降は沈黙した。
     幹部の上着の内側には、ナイフが何十本も仕込まれている。その一本を抜き取ってもてあそびながら、幹部はつづけた。
    「守備の厚いところには日給2万でも働く貧しい薬中毒のクソ蝿どもを多く配置する。そいつらには貧乏人の人質を守らせて、結果5人が救われず残された。…そしてその『モスモスJrに見捨てられた』5人は改めて処刑台に吊るされ、縊死した。」
     10万の奴らには、〈処刑台で吊るされているやつらは貧乏人だから殺さねぇ、死ぬ気でモスモスJrから守れ〉と命じた。愚かな奴らは死ぬ気で戦って殺された。
     一方、2万のやつらには〈処刑台に残る5人は俺ら貧乏人を苦しめている汚職政治家どもの子息だ、殺せ〉と命じて首吊りの足場をはずさせた。2万のやつらは『復讐を遂げた!』となんの罪悪感もなく同胞を殺したのだ。
    「オイ、金の臭いを嗅がせて飼っている新聞屋どもに、明日の一面は『モスモスJrは差別者だ』と書くよう伝えろ。」
     ウイスキーを煽り、ようやく残った部下たちに核心を話す。
    「そうだな、助けられた面々のインタビューも取ってこい、どいつも政治家の馬鹿息子や金持ちのボンクラ娘だからな、手の上で転がしてやれ。そいつらが地下のクラブでやってた乱痴気パーティーのことも存分に書けよ、そして吊るされた憐れな5人はパーティーの給仕をやっていた貧民ばかりだと書き加えろ。」
     明日の紙面はこうだ――
    『モスモスJrが助けるのは上流階級ばかり、貧民は平然と見捨てる偽善者だった』『飛行機でも、乗っていたのは大半が金持ちだった!!貧乏人は見捨てるヒーロー、モスモスJr』
    『警察と結託して税金を中抜きの疑い、モスモスJr』

    「吊るされた5人――6人だったかな…の写真を使ってバカ市民の同情を買え。モスモスJrを徹底的に叩き、非難しろ。市民の敵だ、とな」
     イマニタスの幹部は笑いながら、ナイフの刺さった部下たちを踏みつけて執務室から立ち去った。
     彼が直接、市民への加害で手を汚すことは永遠にないのだった。
     

     明朝、大通りで配られた号外には、いたましい事件と気の毒な被害者の詳細、モスモスJrへの非難の大きな文字が躍っていた。
    『ミスター・モスモスJrが救ったのは、現市長の息子』
    『市長の息子、地下パーティー会場で薬物使用。その証拠隠滅のためにモスモスJrが派遣された』
    『ミスター・モスモスJrは金持ちしか救わない偽善者』

     パーティー会場ではイマニタス主催の闇賭博が行われており、そこへマッドクォッカが乗り込み、結果場を荒らした格好になってイマニタスのメンツは丸つぶれ…。だがそこへ横やりを入れてきたモスモスJrがふたつの組織の共通の敵となり、双方のメンツは保たれる。
     それがふたりの巨悪が考えた筋書きだった。勿論、手を組んだつもりはない。モスモスJrが消えた後はあらためて市民を巻き込んだ殺し合いだ。どちらが街の覇権をとるか決める。

     大窓からガラスを透かして薄い陽が部屋へ差し込む。食堂でゆっくり鯉登平二が紅茶を飲んでいたとき、躊躇いながらも鯉登家の執事・中山は号外を主へと渡した。
     平二は号外を一瞥し、ため息をつく。次男の様子がおかしい理由がこれで分かった。
     平之丞は鯉登家懇意の病院へ運び込まれ手術により一命を取り留めていた。銃弾が撃ち抜いたのは左足。完治するまでは無論のこと、リハビリの結果次第では今後のヒーロー活動も危ぶまれる状態だった。
     
     事件の次の日、市民の様子を見るため、そしてワンダーウームンを探そうと街へ出た音之進だった。街中で人の群れがあちこちに出来ており、何事かと足を向け、そこで配られていた号外を手にしたのだった。引き裂いて床へ叩きつけたのは言うまでもなく、その日から彼の心にはずっと雨を伴う嵐が吹き荒れていた。
     モスモスJrは街の外からやってきた部外者、追い出せというデモ行進を遠くから見つめながら、これは自分の責任だといくら嘆いても、泣くことなど許されない。

     冬の午後、日差しももうすっかり色褪せたような時間に食堂へ音之進は姿を現した。
    「おやっど。おい一人で行かせてほしか、マッドクォッカはお爺どんを亡き人にした悪人じゃ。おいがひとりで成敗すっ」
     平二は決して首を縦には振らない。許さん、の一点張りだ。
     音之進は逆鱗に触れられた竜のように怒り狂った。
    「ないごて!兄さあを撃たれて、街の人々はモスモスJrを敵じゃといって排除しようとしちょい。こんままではモスモスJrは悪人にされて、マッドクォッカとの闘いに支障をきたすだけじゃ」
     市民達は、市長へ辞任しろと連日デモを行っている。さらに、どちらかの組織か、それとも両方の手の者か、モスモスJrのコスチュームで店や市民の家を襲撃する輩も後を立たないのだ。
    「おやっども新聞読んだじゃろ!?助ける人を選ぶなどと、ひで嘘をかかれた。みっつめの悪の組織とみなされて、おいたちが市民に受け入れられんくなっ。」
     音之進は父に詰め寄ったが、平二は首を横に振るばかり。
    「我々ん力が大きかったでこそ、マッドクォッカとイマニタスの間に火種を持ち込んでしもたんだ、音之進」
     火種は爆ぜて、あとは街を燃やし尽くすばかり。
    「だったら猶更――いま闘わじ、いつ闘うど!市民たちが今度こそ危険にさらさるっ。兄さあが居なくてもやれる、おいは闘うために生きてきた、昔からずっと――復讐の、ため、」
    「音之進!!」
     平二は息子がすべてを発するまえに、それが現実になるのが耐えきれないというように名を呼んだ。すがるような響きさえあったが、音之進は気付かない。
    「……今後、戦闘服の使用は一切禁ずる」
    「ないごて!?」
    「モスモービルや軍刀の持ち出しも禁ずっ!!」
    「………おいは、……そいが無かれば戦えん男じゃち思うちょっと?」
     顔をあげ真っすぐむけた視線が彼の心を雄弁に物語っていた。
     ベルトのバックルから変身用スイッチをはずし、テーブルへ静かに置く。
    「ひとりで闘う」
     息子の覚悟を決めた言葉に、平二は黙った。たったいま食堂に入ってきた平二の妻・ユキが動揺のあまり壁にもたれかかり、がちゃりと手の盆にのったソーサーが音をたてる。
    「すべて置いて出ていっなら構わん。好きにせんか」
    「わかりもした。――いままでお世話になりもした。育ててくれた恩は決して忘れもはん」
     出ていこうとする音之進の腕へすがり、ユキがゆさぶる。
    「音之進、ないをゆちょっと。平之丞がどれだけ心配すっち思うちょっと、怪我をしたあの子の心に、これ以上負担をかけてほしゅうなかど、お願い」
    「……すみもはん、母上。もう決めたことです」

     母の腕をそっとはずす。音之進はそのまま簡単に荷物をまとめて、屋敷を出た。執事の中山が心配そうな顔で、見送ってくれた。


     12月の灰色の空からぽつりと雨が振ってきた。もうあっという間に暗くなり、色とりどりのネオンがひしめき合うゴッカムシティならではの光景が見られるだろう。
     
     屋敷を後にする時、平二はひとことだけ音之進の背に投げかけた。
    「私たちが市民に受け入れられられなくなる、そう言たな。――ほんのこてそうか?みんな敵に回ると本気で思うちょっとか」
     振り返って屋敷を見つめながら心の中で返した。
     (……んにゃ。そげんこっは思うちょらん、おやっど)
     歩き続け、メイン通りからはずれて、スケートリンクが併設されている公園にある芝生広場のベンチにひとり座ると、灰色の空のしたで、ただ気が滅入るような寂しさがあった。母を悲しませ、父に期待されないという失意のせいか。
     雨の雫が頭と丸まった肩をぬらしていった。
     
     一人ではない、味方はいると思う。しかし結果を見れば――
     市民たちとヒーローとの絆、そして、鯉登家の家族の絆。その靭帯を切ろうとする敵の行動にまんまとしてやられたのだ。
     吹きすさぶ冷たい風雨にさらされながらも、音之進は怒りで燃え立ちはらわたが煮えくり返っていた。敵への憎悪は肋骨の中に滾り、目もくらむような心地がする。
     市民のなかには味方もいる、しかしいま、彼のとなりに立つ同行者はひとりもいないのだった。

    「……ツキシマぁっ」
     冷たい風にあおられて叫ぶ。

    「…つきしま。会いたい……わっぜ会おごたっ…」
     弱音と一緒に白い息を吐き、向かい風によって痺れた両手をあたためる。
     会いたいとどんなに願っても、会ってはいけない。触れてしまえばもう自分が自分ではなくなってしまう。
     左手に指輪だけはまっている。これだけは肌身離さず持っていたい。この宝石は行方知れずとなっている通称『ドラゴンの涙』と呼ばれる蒐集家が血眼で探す希少なダイヤモンドだ。角度によって翠に見え、そして紫に輝く。
     拳を握ると、音之進は立ち上がり、荷物を背負いなおした。泣き言はもうゆわん。
     子供の頃、気の荒い子だといわれたことがあった。音之進に剣と体術を教えてくれた師匠からの言葉だ。紋白蝶の乱舞の激しいある島で音之進は修行して、そのとき業物(わざもの)が島のどこかに眠っていると教わった。その刀を手にできるのは選ばれた者だけだとも。

     まだヒーローに助けを求める声はある、だからこそここで足を止めるわけにはいかないのだ。それに――ワンダーウームンという敵か味方か分からないミステリアスな女性に助けられた。彼女の正体も探らなければ。

     音之進は腕時計の通信機能をオンにし、鯉登家の執事につなげる。
     ――もしかしたら帰れんかもしれん。そんときはどこでけし(死)んだか父と母、兄に伝ててもらわんにゃならんせぇ、中山どんには行っ先を伝えちょかんにゃならん。

     暗くなるごとに、また街にはパトカーのサイレンと銃撃、人々の悲鳴がいっそう濃く闇に塗り込められるのだった。


          +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO


     ――10年前のゴッカムシティ。

     大学の誰もいなくなった教室で、月島は緊張の面持ちで電話をかけていた。
    「湖西先輩、すみません、バイトの話ですが、急用で行けなくなってしまい…」
    「あ~、そういう奴なのねオマエって。使えねーなホンっト。いいよ、代わりはいくらでもいるからな、もうテメェの連絡先消すわボケナス」
     言い訳する暇もなく、ブツッと通話は一方的に切られた。月曜日も特別教室へ行くと約束した手前、ダブルブッキングした先輩との予定はキャンセルするのは当然だったが。
    (100,000… 10万… 日給じゅうまんえん… 生活費… 当てに、してたんだが…)
     忘れろ、忘れろ、と念じながらもどこかダメージが残っていたのだろう、ふらつきながら廊下を歩き、手汗のにじんだ手で教室の扉へ手をかける。
     と、ドアを開けた瞬間から待ちきれないと弾けるような声が聞こえた。

    「ツキシマぁ!!やっぱり約束守ってくれた!!」
     不登校の子供たちが集まる特別教室、月曜も日給6,000円でやってきた月島を見て鯉登音之進は一面咲き誇るヒマワリのような笑顔を見せ、突進してきた。身体ごと受け止めて、思った以上に元気な様子に月島は安堵する。ちゃんと学校に来られたんだ、今はそれを喜ぼう。
    「ツキシマ、今日はな、木登りにカードゲームじゃろ、お絵描きとパルクールだ!」
     やたら盛りだくさんなうえ、パルクールと来たか…
     月島は鯉登少年の身軽さと身体能力の高さを出会いがしら知った。
     この場合パルクールとは、学校内にあるあらゆる障害物を、自分の体だけを使ってアクロバティックに飛び越えたり変幻自在に壁を駆け上ったり、ベンチや手すりを滑ったりジャンプしたり、子供にとって冒険の舞台でヒーローになれるスポーツを指すのだろう。
     言うまでもなく危険だ。傍について見ていてやらなければならない。
     こういった身体を使った遊びから、カードゲーム?とやらまで付き合うとは、子供の遊び相手というのがいかに大変か思い知らされる。ケア労働は社会の中で軽視されがちだが、なんと重労働かつ大切な仕事だろうか。

     鯉登くんと遊ぶことに決まった手前、彼のことを知らねばならないと支援教室の担当教師たちに、不登校になった経緯を聞いた。
     話の発端は同じクラスの生徒から父親のことを悪く言われたこと。そして相手を殴った、場所は教室、他の生徒も加わって1対10の大乱闘になった。学級委員の咲良さんが見かねて職員室へ教師を呼びに行き、騒動は発覚した。
     10人の生徒は出血していた。教員が殴った本人と殴られた生徒を別教室に分けて事情聴取する。
     間の悪いことに、その日、別の学年に悪たれがいて万引き事件が発生し、そちらの対処に追われて教師はろくに乱闘事件の生徒たちから話をきかなかった。雑に話を切り上げて、一方的に怪我をさせた鯉登くんに謝れと言ったが、彼は断固として頭を下げなかった。
     教師も人手不足の激務、進学校であってもモグラたたきの如く湧いてくる問題への対処に必死で、ひとりの生徒のメンタルケアには関わっていられなかった。
     周囲にあわせられない生徒とレッテルを張られ、鯉登くんは級友や教師からも疎まれて不登校になった。鯉登くんは子供らしくない一面を持っていたから余計に大人達から反発を受けたのだろう。月島にも悪童だった過去があるので、教師から先入観で見られる…こういったまずい結果に至る事情と子供にとって大人に誤解されることがどれほど辛いのか、その気持ちがよく分かった。


     ――「ぜったいに味方になる」そういう大人が鯉登くんには必要なんだ。
     自分が鯉登くんに深くかかわることはないだろうと思ったが、月島は直感的にそう思った。
     
     それはそれとして、嬉々としてカードゲームをカバンから取り出した鯉登くんに、月島は心配になる。
    「かーどげーむ…はやったことないから、俺じゃ弱すぎて鯉登くんの相手にならないんじゃないかな」
    「お、ぉいも、クラスのみんなとはやったことなか。だから、しょしんしゃだ!教ゆっで一緒にやりもんそ。きっと楽しかやろう」
     どうやらクラスのみんなが遊んで盛り上がっているなか、孤立した彼は一緒にやりたいと言い出せなくて寂しい思いをしたらしい。自分も誰かと遊んでみたかったのであろう。
     月島は幼いころ貧しくて、目新しい玩具やゲームなどでクラスメイトの遊びに混ざることはかなわなかった。だから鯉登くんの苦い気持ちも少し味わったことがある。
    「わかった、一緒にゲームしよう。やり方教えてくれるか?」
    「うん!!」

     しかしひとまず勉強だ。宿題や研究課題をこなすために机へ向かう。鯉登くんは驚くほどの集中を見せ、1時間ですべてを終わらせた。先生の採点も高得点でクリアし、遊んでよいと許可をもらったあと、鯉登くんは春が来て穴から飛び出した野兎のようにきょろきょろ坊主頭の友達を探す。
    「ツキシマあ!!!」
     駆け寄って腕へぶら下がるようにしてじゃれついた。

     ――まずはカードゲームか…俺にできるだろうか。

     鯉登くんが取り出した【竜の騎士王カードゲーム】は某有名玩具メーカーが販売しているゲームである。テレビのCMで月島も見たことがあった。プレイした経験は勿論ない。
     やるしかない、と腹をくくった月島の前に広げられたのは、対面に並べた机へマットを兼ねたコピー用紙を置き、その上にシャッフルされたカードが2セット。1セットずつ互いに持ち、1ターンごとに出したカードでコンボ(=組み合わせ/アンサンブル)を作り、お互い攻撃し合って手持ちカードに設定された体力を削り、勝ち負けを決めるルールだと説明を受け、いちおう納得した月島だったが。
     ゲームが進むにつれて、驚愕の事実が明らかになる。
    「コレ… 鯉登くん、セットのなかに自分で作ったカード入れたの!?」
     基本セットでルールを教えてもらい、いざ対戦を始めて見ると、自分の手持ちにはないカードをばんばん繰り出してくる鯉登くんにたまらず月島が放ったひとことである。
    「そうだ。カードゲームにはみんな拡張パックというものがあるのだから、自分で作ったカードを加えてもいいのだ」
     鯉登くんはフンスと鼻息をたてて得意げな顔だ。あきらかに手で描かれたちょっと形がいびつなカードが対戦の場を荒らす。
     玩具メーカーが二匹目のドジョウを狙って拡張セットを次々出すのは分かるが、それを買えない鯉登くんではあるまい。おそらく好きなキャラクターで戦いたいのであろうが、手作りとはあまりにも力技すぎる。
     彼がバーン!と出した手作りカードにはちょっと変わった眉毛でまっすぐな黒髪、肌が褐色でマントを羽織っている凛々しく格好いい少年が描かれていた。鯉登くんにそっくりで、むろん彼のお手製だ。
    「このカードは“竜の王子”だ! 竜の王子のカードは、周りに置かれた戦士のカードをすべて焼きつくす。もちろん味方であってもだ」
     カードが並べられたなかに置くと、周囲8方向に隣接した敵味方をすべて焼きつくし、体力を半分以上奪うという困った効果をもつカードだった。竜の王子の炎によって月島の出した「土属性の竜騎士」カードが体力0になって鯉登くんに没収されてしまう。
    「俺の貴重な竜騎士カードが……。でも、味方もやられるんじゃ、危なくて使えないじゃないか」
     実際、鯉登くん軍に属する水属性の竜騎士もダメージを負っていた。
    「竜の王子の炎の効力が効かないのは、ムーンパール姫だけだ。」
    「むーんぱーるひめ?」
     誰だそれは。初耳だ。さっきルールを聞いた基本セットにそんなカードみあたら無かったが。
    「おいがいま家で作ってる!竜の王子はムーンパール姫にだけは攻撃ができないんだ。」
    「…………」
     これは鯉登くん製「おいの考えたさいきょうのゲーム」披露の遊びなのだと、すぐ気づくべきだった。だが、いかに鯉登くん有利なアレンジが加えられているとしても、月島も負けを認めたわけではない。すぐ気を取り直してカードの効果を確認した。
    「ムーンパール姫は、弱いカードなのか?」
    「んにゃ、単体で出撃できるし防御も高くて鬼強い。しかもサブ(副官)に竜の王子をつけると王子の炎は味方を傷つけなくなる。姫には爆弾特効がついているから、炎と爆発にも強い。海にも沈まないから水属性攻撃にも耐える。」
    「反則だ……竜の王子とセットで場に出たら無敵じゃないか」
    「なら、ムーンパール姫はツキシマにやっ!(やる)」
    「…じゃあ竜の王子カードも一緒にください」
    「それは、やっせん(だめ)」
     その対戦ではつぎつぎに繰り出される鯉登くんオリジナルカードにやられて、月島のカードも体力もすべて奪われ惨敗となった。

     家で作っているという新作カードは、2日後にまた得意げな顔をした鯉登くんから渡された。
     図らずも期待していた月島は、すぐにカードの表面へ目を走らせる。
     力作であろうムーンパール姫カードには、坊主頭でひしゃげた鼻、目の下から口端にかけて皺があるキャラクターが描かれていた。
    「これ、姫じゃない。ただのオッサンだろ」
    「姫だ!とてもうつくしく、月も嫉妬するほどにきれいなお姫様だ」
     鯉登くんは頬を膨らませてジタバタし、ご立腹だった。確かにティアラをかぶっていて、心臓を守る金の胸当てとドレス姿でかろうじて姫とは分かる…が、月島にはオッサンにしか見えなかった。おかしい、鯉登くんは絵がとても上手なのに、なぜこのカードのキャラだけ老け顔なんだ。
     ただ、カードの左上に描かれている効果をあらわすマークはSランクだし、普通に強い。イラストの是非にこだわっている場合ではない、もうこれで闘うしかないと月島は腹をくくった。
     机をふたつ並べて、月島にとってリベンジとなる戦いがはじまった。
    「いいぞ!この局地戦は俺の勝ちだ」
    「ぐぬぬ…」
     今日は鯉登くんのほうが歯ぎしりしている。
     竜の王子カードを出されても、ムーンパール姫が盾になれば無効化できる。姫には炎も直接攻撃も効かない、というより、竜の王子は単純に姫を敵として認識していないのだろう。だがムーンパール姫は王子に攻撃できるうえに、固い竜の王子の装甲(防御力)も無効にできるので、一方的に体力を削ることが可能なのだ。
     竜の王子は体力0になり、月島に没収されてカードの山に入った。シャッフルして、次はここからカードを取るから、ついに月島にも竜の王子とムーンパール姫の共闘が可能になった。

    「あ~~敗けたぁ~~!!……~~~くやしかっ」
     竜の王子とムーンパール姫のタッグでとどめを刺された鯉登くんは、なぜか少しはにかんで、嬉しそうだった。

     パルクールで学校中引きずりまわされるのにも慣れた頃、子供の深層心理とパートナーと協力し相手にあわせることの困難さ、そして達成の喜びを学ぶためという名目で「ふたり一組で紙芝居」を作るというレクリエーションへの取り組みが学級内ではじまった。想像のお話をつくり、言葉を使うことで子供たちの「気持ちの屈折」を消化するとか何とかいう説明だったが、月島は鯉登くんは無事にお友達とこなせるかな、と彼の心配ばかりしていた。

     ふたり組の選別は少し揉めた。
     教室の端っこにぽつんと立ち、最後まで首を横に振り続け、誰とも組もうとしない鯉登くん。彼に前山はかがんで目を合わせ、誰か一緒にやりたいお友達いる?と尋ねる。鯉登くんはにこりと笑って「ツキシマあ!!」と元気よくハッキリ答えた。
     パートナーは月島の意思もへったくれもなく決まった。
    「ここは同い年の友達との協調性を学ぶ局面だろ!」
    「え~~だってほらぁ~~ここ奇数人数のクラスだし」
     と前山と月島が揉めて取っ組み合っているところへ割り込むように、ぎゅっと後ろから抱きつき。鯉登くんはちいさな手をお腹へまわしたままぐっと引っ張り月島だけひきはがす。
    「ん、ツキシマは、おいと紙芝居!な!!」
    「…………………」
     応える義務もないが、この級に鯉登くんと組みたいという生徒もいなかったので話はまとまってしまったのである。

    「主人公は『竜の王子』だ」
     画用紙にカラーペンと色鉛筆で描き出された少年に対し、月島は素直に賛辞を述べた。
    「…鯉登くんに似て格好いいよ」
    「そうじゃろ!」
     1~2枚ずつ交換する形でストーリーを創っていく。厳命として、とにかくハッピーエンドで終わるよう、教師たちから月島たちアルバイトは「幸せな結末」を強く言い含められていた。子供と接触する経験が浅い彼には、荷が勝ちすぎているといえた。

     ためしに描いた月島の絵が壊滅的だったのもあり、話しあいするまでもなく、紙芝居のイラストはすべて鯉登くんが担当することになった。まず1ターン目は鯉登くんがお話を作り、それから月島のターンとなり、交互にお話を組み立てていくと決まった。

     鯉登くんはまるで見てきた話のように、すらすらと読み上げる。

     ――はるか遠いむかしのお話です。世界に住まうひとびとが生活を豊かにするために試行錯誤するうち、村が出来て、町が出来て、国ができて、自分たちの特権をより多く持とうと、互いに争うようになりました。
     そんなニンゲンたちを光のあたらぬ陰から見ていたのは強いちからを持った人ならざるモノたちです。そのひとつ、ドラゴン族はひっそりと小国を作り暮らしていました。ドラゴン族はふだん人間と変わらぬすがたをしていましたが、ちからを解放すると鋼鉄よりもかたい鱗を持ち空を飛ぶドラゴンになるのです。
     ドラゴン族のお城には、兄弟のドラゴンが住んでいました。ふたりの王子は、協力し合って一族を守ろうと約束していました。
    「『ドラゴン族の涙は宝石になるのです。その宝石のために人が争うので、竜の王子は決して泣くなとおやっどから言われて育ちました。』」

     鯉登くんが1巡目に出来上がったストーリーを音読してくれた。
    「………ドラゴン族の国では、こいとくん…じゃなかった竜の王子のお父さんが王様なのかな?」
    「おやっどは引退して、兄さあが王を継いじょる。続きを読むぞ」

     ――『成長するにつれて、歳の離れた弟である竜の王子は、出来が悪いと一族から陰口を言われました。ある日王子は、学校で暴れた罪で、暗くて光の一筋もささない塔のなかに閉じ込められました。』

     鯉登くんがつくった物語のはじまりを聞いて、月島は話の接ぎ穂を失ったように、黙ってしまった。
     物語をつくることで児童の心理を垣間見るというのは、正しいことのようでいて、辛い記憶を再度思い出させて傷付けてしまうかもしれない、と月島は胸が痛むのだ。
    「次はツキシマの番だ」
     画用紙とカラーペン一式が託された。絶対ハッピーエンドで終わらせる、と意志を強くして、月島はペンを握った。

    ――『竜の王子は塔の中で長い間暮らしましたが、とても賢く、美しく、そして強い青年に育ちました。自由に竜に変身することが出来て、力強い翼で空を駆けて、その炎はすべてを焼きつくすほど熱いのです。ドラゴンの王国のひとびとは、彼がとても素晴らしい人だということを知らずにいたのです』

     ここまで月島が書ききったあと、鯉登くんへ紙芝居のストーリーテラーとしての権利がわたる。ちらっとツキシマを見て、鯉登くんは口を両手で押えてくふふと笑い声をもらしながら上半身を嬉しそうに揺らした。
     目を輝かせながら、鯉登くんが画用紙にささっとペンを走らせる。

    ――『ある日、孤独な竜の王子の元へ、遠い国のお姫様が結婚のためドラゴン王国へやってきました。お姫様の名前はムーンパール姫。月光に輝く真珠のような美しい姿をしていて、月と真珠みたいにまあるい坊主頭です。姫は目が見えないため、真っ暗な塔の中でもふつうに暮らせるだろうと遠い国から花嫁に選ばれたのでした』」

     やっぱり登場。カードでもお馴染み、ムーンパール姫。またもや、画用紙にオッサンの絵が描かれた。ティアラをつけて、綺麗なドレス姿の目を閉じた坊主のオッサンだった。教会らしきところに立っているふたりは指輪をつけている。小型トレーディングカードサイズの時は気づかなかったが、紙芝居になって拡大されると分かる。このオッサン、どこかで見たような…馴染みのある顔をしている。坊主、意志の強そうな太い眉、目元から頬へかけた窪み、低い鼻。
     朝よく見かける気がする。朝つけるテレビのキャスターにこんな奴いたか?と考えかけてハッとした。月島が鏡で一番見る顔だ。

    (――この姫、俺にそっくりだ!!この話、どうやってハッピーエンドにするんだ…!?)

     月島顔のオッサンが嫁になる王子がどうやったら幸せになる?ミッションインポッシブルだ。 
     そのまま月島のターンになった。「えー………と、」としどろもどろになりながら、ぶるぶる震える手で文字を書く。

    ――『ムーンパール姫はゴリラ…(二重線で消した跡)…じゃなくて大変頑丈かつ屈強で、竜の王子を守ることができました。ただ顔とからだが大変ゴツいうえにドラゴン族に嫌われる人間族なので、王子の花嫁としてみんなにお披露目もされませんでした。故郷の国でも、大変強すぎて鼻もちょっと普通ではなかったので、長らく孤独でした』」
     そこまで何とか話を絞り出すと。
     へたくそ、貸せ、とばかりに鯉登くんはペンと画用紙を奪いとっていった。鼻も普通ではないのくだりをぐちゃぐちゃと線を引いて、消した。相手の話を無かったことにするってそんなの有りか、と月島が目を剥く。

    ――『ムーンパール姫は、故郷の国でもひとりで寂しく暮らしていたのですが、竜の王子と結婚することになり、孤独ではなくなりました。竜の姿でいる王子の固いうろこに触れても、あたたかさを感じるくらいに、しあわせだったのです。竜の王子もムーンパール姫に一目惚れしました。姫の性格もとてもやさしく愛情にみちていたので、ふたりは塔の中で一緒にいてしあわせでした』」

     どういう好みしてんだ、竜の王子。月島は心のなかでごつ。塔の中は暗いから、オッサン顔がよく見えないのか。
     内心焦るものの、相手の話に口を出すのは(本来は)ルール違反だ。月島は黙って見ていることしかできない。
     月島に創作の神の権限がまわってきた。竜の王子のような素晴らしいひとが、なんでこんな坊主頭のゴリラと結ばれるのか。
     (――どうにかしてこのふたりを引き離せないか?王子にふさわしい、美しいひとと結ばれてほしいんだが…)

    ――『ところが!ムーンパール姫の故郷は、隣の国から攻め込まれたのです。ムーンパール姫は王子に言いました。「王子、私と離婚してください、私はひとりでこの王国を去ります。故郷の国を助けにいきたいのです。ドラゴン一族は人間の国と関わってはいけない掟があるはずです。…さようなら王子、今までありがとうございました。もうお会いすることはないでしょう。お元気でいてくださいね」』
     よし、これでムーンパール姫は円満に退場…と月島が自分のいい仕事に満足したときだった。

     熱心に紙芝居に取り組む生徒みんなへ教師たちが声をかけた。
     今日は近所の自治会で夏祭りと小規模な花火があがるから、みんなで観に行こうということだった。

     親御さんたちが迎えに来るのが18時。夏祭りが始まるのが17時。
     すこしの間ではあるが、夏らしいイベントで楽しい思い出作りをしようという教育の一環だった。
     
     特別クラスみんなで夏祭りに繰り出す。ぎゃーと騒いだりする子は少ないが、集団についてこられない…つまり適切な行動が取れないでいる様子の子は多いため、教師たちと月島達アルバイトはそんな子にかかりっきりになった。

     ツキシマは他の子どもたちを引率しているから、少しつまらない気持ちになり、音之進はお祭りのお神輿を別の場所で見ていた。というのも、蟻が夏祭りのお客たちのこぼした甘いものを神輿さながらに担いで穴へと戻っていく様を追っていたのだ。囃子が聞こえてくるぐらい、蟻たちは何匹も連なってかしましく運んでいく。土の上の夏祭りに音之進は心が躍った。ツキシマにも見せたい。

    「――オッ、コイトじゃん」

     呼ばれた声には聞き覚えがないが、振り向くと、何人か見知った面子が下卑た笑いを顔の下半分に張り付かせていた。記憶から消してしまっていたが、同じクラスの奴らだと思い出した。先日ボコボコにした首魁と、取り巻き4人。まだ懲りずにつるんでいるらしい。
     奴らに手を引かれていたのは、ひとりの浴衣姿の女の子だった。手に水風船を持っている。友達とはぐれて、こいつらに案内してもらっているのか?と音之進は一瞬思ったがすぐ内心かぶりをふる。この下衆どもがそんな親切なことするわけがない。
     浴衣姿の女の子にも見覚えがあった。生徒同士で乱闘していた折り、職員室まで先生を呼びに行ってくれた学級委員の咲良さんだった。
    「鯉登くん… …」
     口を開けても恐怖で声が出せない様子で、怯え切っている。望んでこいつらと一緒にいるわけではないのだろう。
    「……その子、どこへ連れていくんだ」
    「ドーテーのオマエには分からねぇことだ、なぁみんな?…エロいことのぞき見したいからってついてくんなよコイト、教室にも来られない負け犬めが」
     取り巻きのひとりが咲良さんの浴衣の合わせ目に手を入れている。音之進は顔をしかめた。
     奴らの行き先には暗い森がある。どんなに悲鳴をあげても、祭りばやしと花火にかき消されるだろう暗い場所が口を開けている…。
    「………」
     何も答えず、音之進は一歩踏み込んだ。
     
     
     少し殴られて顔が腫れたので、みんなの元へ戻る前に頬を冷やす必要があった。またあいつらは親に泣きつき、鯉登が悪いと騒いで、教室へ戻れないよう画策するんだろうと思った。
     遠く離れた場所、テトラポットがいくつも並んでいる海辺へたどり着いて風に前髪があおられ、襟がばたばた揺れた。海の水で顔を濡らし、月光にきらきら光る海岸をふらつく。
    「お!光る石はっけん」
     ポケットに入れて、音之進はおびえた咲良さんの顔を思い出した。音之進が首魁を殴りつけ、逃げろと叫んだ瞬間、彼女はあいつらの手を振り切ってお祭りの光の中に消えていったが、無事に帰れただろうか。落としていった水風船をあいつらの誰かが踏み割り、水たまりは蟻の進行を阻んでしまった。蟻には悪いことをした。
    「……はぁ…痛て」
     海辺にある巨きなテトラポットの上をぴょんぴょん飛び、寝床にちょうどいい場所をさがすと、すぽっとテトラポットの隙間にはまる。喉をそらして頭を固いセメントに預けて昔を思う。波が荒れているらしく、あっという間にテトラポットの下まで水が迫った。思い立ったらすぐにジャンプして逃げられるので、音之進はセメントに背を預けたままじっとしていた。
     ひとりがいい、そう思っていたのは支援学級に入る前のこと。
     いまは、そう思わない。なぜ変わったかは考えるまでもなかった。ツキシマの存在だ。
     テトラポットの隙間から暗くなる夜空を見上げた。ドンっと腹が揺れるような音がして花火があがった。風にのって花火の煙が流れ、観客の歓声が聞こえてくる。
     パルクールが得意であり夜目の利く音之進にとってここはおあつらえ向きの隠れ家だ。特等席で花火を見物してやろう。安定する姿勢を見つけて暮れなずむ空を見上げて考える。夏も終わりに近づいている。夏季アルバイトのツキシマと、ずっと一緒にいたいけれど、どうすればいいんだろう……。

     花火がドンドン上がっていた時のことだった。

     ――いとくーーーーん… 

     ――いとくーーーーん… 

     打ち上げ音にかき消されながらも、その声は音之進の耳にはっきりと届いた。
    「!!」
     飛び起きて、テトラポットの上で跳ねる。
    「ツキシマああ!」手を振った。無邪気に、探してくれたんだと嬉しくて飛び跳ね回った。
    「こいとくん!!危ない!!!!じっとしてて」
     ツキシマの身体は汗でTシャツが張り付き、顔は汗みずくで、顔色は――真っ青を通り越して、灰色だった。
     尋常じゃない様子を見て、音之進はじわりと心臓近くのシャツに血がにじむような思いがした。おいを探していたんだ。勝手にいなくなったから。
     後悔と激しい胸の痛みに、音之進が戸惑っているうちに、ツキシマはテトラポットへ足をかける。
    「そこに落ちちゃったんだな。待ってろ、すぐに助けに行くから、じっとしていて」
     消波ブロックは4つ足の立体型だ。防波堤から越波した波に濡れていて、滑って隙間に落ちたらとても自力では這いあがれない。無論、底にはツキシマの身長以上の水たまりが溢れて迫っており、もしテトラポットの間に足でも挟まれたら、溺れて死ぬ以外になく。
     すぽりと奥へ入ったらもうクレーン車だって引き上げられない。

     サンダル履きの月島がテトラポットに足をかけて、暗がりのなか覚束ない足取りで音之進へ近づこうとする。
    「…ツキシマ!!来るな!!!」
     吠えるように叫んだ。ぞっと音之進の全身が総毛立つ。
     闇そのものの海のなか、落ちたらもう助からない、遺体すら引き上げられない場所だ。そこへあんなプラスチック製のサンダルで波しぶきに濡れたテトラポットの滑らかな表面を一歩、また一歩、ぬめる足場を踏ん張りながらすすんでくる。
     手を伸ばし、音之進を安心させようと「だいじょうぶだよ、必ず助けるから」ツキシマはそう声を掛けながら。逆の手に懐中電灯を持っているせいか、壁へ体重をかけられず、何度もツキシマはバランスを崩し、音之進はそれを見て恐れるあまり涙があふれた。
     彼を止めなくてはと思う、そのために音之進はテトラポットの壁面を蹴って宙へ跳ね上がり、くるくる回転しながら地上へ軽々ジャンプして着地すれば良い。普段の音之進ならそんなこと、寝起き30秒後でも簡単にやってのけたろう。
     だがそれを見て、ツキシマが自分のために足をもし滑らせたら――
     そう思うと胃液がせりあがってくるような思いがする。怖くてもう身体が動かなかった。
    (考えろ。ツキシマをどうやって助ける、おいはヒーローなんだ、助けなくては…大切な、友達なんだ)
     脂汗がどっと出て手のひらがぬめる。ふるえて足が動かない。
    「鯉登くん!!大丈夫だから、じっとしてて…」
    (やめてくれツキシマ――)
    「一人でも、おいは一人でも平気だ!」
    「…っ平気なわけ、ないだろっっ!!!そんなところに落ちてしまったのは、俺のせいだ、鯉登くんを一人にしてしまったんだから」
    「違う、ツキシマ――おいのせいじゃ、おいが勝手に」
     ツキシマが、ついに音之進がへばりつくテトラポットへ足をかけた。
    「ほら、もう大丈夫だ。怖かったな。遅くなって…ごめんな」
    「……………」
     手を掴むと、懐へ引き寄せてぐっと音之進を抱きしめてくれた。
    「良かった、鯉登くん…怖かったな、すぐ来られなくてごめんな」

     安心して気が緩み、音之進の目からどっと涙があふれた。おやっどから、絶対に薩摩の男は泣くもんじゃなかと厳しく言われていたにも関わらず。
    「うっ…うぅぅっ… ごめん、なせ… ツキシマあ」

    「月島さぁん!鯉登くん引き上げるから手を貸して!」
    「前山!来てくれたのか、助かる」
     ロープに体を巻かれて縛られると、ゆっくり地上へ引き上げられた。ツキシマもロープで体を巻き、命綱として壁を登る。
     遠くでお祭りの喧騒が風に乗って聞こえてきた。


    「鯉登くん、これ、俺からのプレゼント。さっき生徒たちを引率していたとき、屋台で見つけたんだ。」
     フリーサイズの安っぽい指輪だった。紫色のイミテーション宝石がついている。変わっているのは、プラスチック宝石の土台がちょっとドラゴンの口に見えなくもないところだった。
    「あいがと!!…さっき、おいも見つけた。光る石!」
     角が丸くなったシーグラスだった。オレンジ色だ。すごいもの見つけたな、とツキシマは驚いて笑った。
    「宝物の交換だな」
    「ずっと大切に持っちょい」
     手をつないだ。音之進は胸がどきどきして苦しくて、心臓がはちきれそうだった。ツキシマが、好きだった。

     夏祭りから戻り、学校前まで迎えに来た音之進の親へ。
     月島は体を360度に折り曲げて、頭のてっぺんを地面に向け謝罪した。
    「申し訳ありませんでした、私の監督不行き届きでお子さんを危険な目にあわせてしまい…」
     声が震えている。それは鯉登の父親に叱責されるからというより、音之進を泣かせたからに他ならない。痛いほど、音之進にはそれが分かった。
    「…ツキ、シマぁっ…」
     怖いのは、自分が死ぬからじゃない。大切な人を危険にさらしたから。その恐怖を同じく味わって、音之進の身体も震えが止まらなかったのだ。
    「……ツキシマどん、顔をあげてください」
     夏祭りの今夜、息子の迎えに来たのは鯉登家の主である平二だった。
    「いえ、このまま…」
    「……もうご存知と思いますが、せがれは特別な訓練を受けちょりもす。年取ってから生まれた子だから、本人の望みを何でも聞いて甘やかしてしまいました。どんなことでもかなえてやりました、強くなろうとすることも、学校に行きたくないなら…行かなくてもよいと言ったことも」
    「………」
    「音之進が自分の力を過信したのでしょう。蛮勇のその罰はもう充分に受けたようです。」
     ツキシマの横でうなだれた音之進は、嗚咽をこらえながら何度も平二の言葉に頷いた。
    「……もう二度とやりもはん」
    「ツキシマどん。…あなたに怪我がなくて、本当に良かった」
    「私は失態を犯しました。気遣われる立場ではありません。ただ、鯉登くんにさびしい思いをさせて危険なめにあわせたことが…指導者としてふさわしくありませんでした。もう教員として彼を担当することはありません。バイトだとしても、私には責任があり、その重さを理解していませんでした。鯉登くんとは会わない方が彼のためでした」
    「ちがう!いやだっ!!先生じゃない、友達だ…っ。」
     音之進は魂の内から叫び、声を震わせた。
    「ツキシマのこと好いちょ、会わないほうが良かったなんて言ってくれるな」
     必死になってとりすがるようにツキシマへ抱きつく息子の姿を見て、平二は目を細めた。
     迎えに来た運転手に促され、鯉登親子が校門から立ち去るとき、平二はツキシマへ声をかけた。
    「ツキシマどんは、奨学金授与の時、紫のリボンを受け取っているそうじゃな。」
    「え、…は、はい…」
    「その奨学金は、返さなくていいものです。……ツキシマどん、好きに生きやんせ」

     言葉を残し、平二は車へ乗り込んだ。

     ――失敗した、俺の失態だ。
     鯉登くんの泣き顔を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。
     特別教室のバイトなんて受けるべきじゃなかった、自分には向いていなかった。
     そう自分を責めるだけ責めて、疲れ切って帰宅した月島は、何気なくテレビをつけた。冷蔵庫から缶ビールを取り出す。前後不覚になるまで酒をあおって寝てしまおうと思っていた。
     テレビ画面では、メガネをかけた女性アナウンサーが、ゴッカムシティ警察署の前に立っている。『本日、一般家庭への強盗殺人の容疑で午後7時に捕まったのは、湖西(こさい)淳輔(じゅんすけ)26歳と、山口博20歳、ほか十五歳の未成年2名とのことです。事前に車や住民の服装から資産の下調べをして強盗に入るマニュアルを所持しており、余罪があるとみて警察が捜査しています』
     ビールが変なところに入って、月島は盛大に咽せた。湖西先輩の本名が、テレビに流れている。しかも、一般市民への強盗殺人容疑とは、とんでもない話だ。

     ――まさか、あの日給10万の仕事って……

     特別教室のバイトで行けなくなったと断ったら、「代わりはいくらでもいる!もうお前に仕事は振らねぇよ」と関係と通話を一方的に切られたのだった。あの時は損した気持ちになったが――今思えば、命拾いをしたのだ。
     人生丸ごと、拾ったのだ。
    「…そう、か、鯉登くんは、助けてくれてたんだな… 俺を…」
     知らないうちに助けられていた。
     奨学金のこと、日給10万の危険なアルバイトの事。今まで俺は、知らないうちに、知らない誰かに助けられて生きていたんだ。
     月島はビール缶を握りつぶさんばかりに強くつかんでいた。
     猛勉強しよう、と誓った。3年からのゼミは、厳しいと有名な鶴見教授のところへ行こう。受け入れてもらえるか分からないが、自分なりに死に物狂いで勉強して、自分もいつか、誰かを助けたい。たとえ相手に感謝されなくても、疎まれても、手助けがしたい。

     月島は気を取り直して、残りの夏季バイトにも顔を出すことを決めた。

     今日は紙芝居の続きを各々作っていく。
     まずは前回のおさらい、と紙芝居で月島がつくったページを読み上げた。

    ――『ところが!ムーンパール姫の故郷は、隣の国から攻め込まれたのです。ムーンパール姫は王子に言いました。「王子、私と離婚してください、私はひとりでこの王国を去ります。故郷の国を助けにいきたいのです。ドラゴン一族は人間の国と関わってはいけない掟があるはずです。…さようなら王子、今までありがとうございました。もうお会いすることはないでしょう。お元気でいてくださいね」』

     これでムーンパール姫は円満に退場…と月島がフンスと鼻息をふいて自分のいい仕事に満足して前回は終わったが。
     今日はのっけから鯉登くんがペンを奪うようにして握りこみ、瞬息で書き始める。

    ――『竜の王子は言いました。ムーンパール姫、私たちは片時も離れてはいけない。私も一緒に行ってあなたの故郷を救いたいと思う。掟を破って、ドラゴン族から追放されようとかまわない。さあ、私の力を使う時だ、背に乗るのだ、大好きな姫』」
     
     エッ、と月島は思わず声をもらした。炎のドラゴンだったろ?能力全開にしたら背も相当熱いだろ…。でも姫は屈強だから平気なのか。だが姫は普通の人間設定だったはず。カードでSランクだから強いのか。月島は頭がごちゃごちゃしてきた。

     月島のターンは回ってこず、鯉登くんは書き続けた。

    ――『塔から脱出し、姫の故郷へふたりは駆けつけました。ムーンパール姫は弾丸のように敵陣へつっこみました。散り散りになった敵兵たち、そこへ竜の王子は炎を吹きました。一日で敵は退却し、もうムーンパール姫の国には攻め込まないと約束しました』

     そこまで鯉登くんが一気に書いた。強すぎる、ムーンパール姫と王子のタッグ。カードゲームの通りだ。姫、ほんとうに人間なのか?
     月島のターンが回ってきた。――考えれば考えるほど頭がこんがらがった。

    ――『故郷には、ムーンパール姫の目を封じていた呪いが残っていました。その呪いの代償によって守られていたのは、天空にある国の宝物庫です。姫の父親はたくさんの黄金を独り占めするために、姫の光を犠牲にしていたのでした。姫は王子の涙が宝石であることを強欲な父親に絶対に知られてはならない、と王子に伝えます。』

     くびっきりで月島の文字を目で追っていく鯉登くん。
    「じゃあ、おいが宝物庫を壊す」
     月島の書いた物語を読んだ後、おい=竜の王子が力強く宣言した。月島は物語の続きを震えるペン先でつづっていく。

    ――『高い建物の上にあった宝物庫へ、竜の王子は一息で飛んでいきました。その硬い爪でまたたくまに破壊し、呪いの封印を解きます。きっと地上で待っている姫の目を閉ざしていた呪いも解けたでしょう。『私の姿を見たムーンパール姫は、なんと言うだろう。嫌いにならないといいが』王子は急に心配になり、心臓がどきどきしました。』

    「それで、それでっ!?」
     目をキラキラさせた鯉登くんが身を乗り出す。
     月島はごくりと息を飲んだ。これもすべて、竜の王子が幸せになるためだ。

    ――『姫の父親は、自分の宝物庫にある黄金すべてよりも、ドラゴン族の流した涙のほうが価値があると知っていました。そして、仲睦まじいふたりの様子を見て、おそろしい考えを思いついたのです』」

     ⇒次のページへ進む。月島は画用紙をめくった。

     ――『ムーンパール姫は、遥か上空へ飛んで行った竜の王子を心配していました。瞳に何も映らなくても、姫にとって王子さえ無事ならそれでいいのですから。――わずか一瞬のことでした、空の上で小さく爆発がおこると、ムーンパール姫のかたく閉ざされた瞼がふいにゆるみ、閉じ合わさった両目がひらき、そとの光とさまざまな色がぼんやり透けて見え始めました。ムーンパール姫のうすい翠の瞳には、光はとても眩しく、手は王子を求めて、地面をつまづきながら辺りをさまよいます。』

    「…うん、…うん」
     鯉登くんは息をつめて話に聞き入っていた。うっすら両目に水の膜が張っているくらい、話にのめりこんでいたことを月島は気づけなかった。
     月島は罪悪感を感じながらも、ハッピーエンドのためには仕方がないと拳をかためた。

    ――『「王子、あなたがどんな姿でも、私はずっと傍におります」そう言いながら愛する王子をもとめて、優しく握り返してくれる手をさがす姫の心臓を、――剣が、貫きました。』

    「!!!」
     限界まで目を見開く鯉登くん。驚きに喉がふさがれて声も出ない様子だったが、月島は気付けないまま、ハッピーエンドへ向かってペンを走らせ続けた。

    ――『ムーンパール姫の父親は、背後から娘を刺しました。視力が戻ったばかりで光に目がくらんだムーンパール姫は攻撃を防げず、非情な剣に倒れ、血を流しました。「これでドラゴンの涙はオレのものだ!」父王は笑って血にまみれた剣をふりかざしました。「いいえ、…王子は決して泣きません。強いかたなのです」ムーンパール姫は苦しい息のもと、言いました。
     姫の故郷には、もうひとり、母親の違う、美しいちぢれた髪のお姫様がいたのです。その義妹の腕の中で、ムーンパール姫は言いました。『これからはあなたが王子を支えて、愛してください』。ムーンパール姫は涙を流して、息を引き取りました。
     戻ってきた王子は姫の亡骸を見て、父王を罰しました。王子は深く悲しみましたが、強かったので泣きませんでした。ムーンパール姫の遺言を叶えるため、美しい妹姫を妻とし、竜の王子はムーンパール姫の故郷の新しい王となったのです。みんなに祝福されて迎えられました』

     よし、次に鯉登くんが「王子と姫は長い間、幸せに暮らしました」と書いてハッピーエンドだ。ちぢれた毛のお姫様というのは、月島の幼馴染である少女をイメージしたキャラクターであった。綺麗で心もやさしく、誰もが認める自慢の幼馴染は由緒正しい生まれであり、婚約が決まりいまは大学へ通っている。月島にとっては切ない初恋の相手である彼女だが、今は心から結婚と彼女の幸せを祝福していた。

    (これで、竜の王子…鯉登くんは幸せになる。オッサン顔のゴリラより、美しく優しい姫のほうがいいだろう)

     当の鯉登くんが、月島からペンと画用紙を奪い取る気力さえ蒸発したように失われ、両手をだらりと下げてがっくりうつむいていたことに月島は不幸にも気付かなかった。
     ――そう。
     月島は、物語の力を知らなかった。彼の荒んだ生育環境のなか、絵本など、児童文学など、小説など、古典文学などに、深く触れあったことがなかったからだ。現代文の問題も、論文や評論が得意である性質だった。
     月島は、親が子を愛するものだと知らなかった。親が自分の欲望のために子を手に掛けるのは当然だと思っていた。自分がそう扱われていたから。
     月島は幸せがどんなものか知らなかった。想像では、【多くの人が求める】存在を手にして、みんなから祝福を受けて、みんなが羨むような暮らしを幸せと呼ぶのだと思っていた。
     鯉登くんにとっては、トロフィーのような幸せなど全く価値がないのに。

     つまり、月島と鯉登くんは、決して交わらぬ、住む世界の違う人間どうしだった。

    「……………… ……」
     鯉登くんは黙ってしまった。呆然としている。その瞳は、ただ光をすべて吸収し黒く塗りつぶす闇だけがあった。
     ふいに教室のドアが開いて、鯉登くんのお母さんがお迎えに来たと声掛けがあった。
    「続きは明日にしようか、鯉登くん」
    「………… ……」
    「鯉登くん…?」
     急いでくださいと迎えに来た教師に急かされて、月島は鯉登くんの背を支えて立たせた。
     かろうじて自力で歩き、教師に手を引かれ、心ここにあらずな様子で帰宅する鯉登くんを見送りながら、月島は日給6000円のバイトもあと残り1日だということを思い出した。

     週が明けて、授業が押し特別教室へ行くのが遅れてしまった月島は、遅刻を詫びながら教室へ入った。

     生徒たちが机を並べて紙芝居をつくるなか、鯉登くんを探してあちらこちら回るも、姿が見当たらない。

    「月島くん!」
    「前山、遅れて悪い。鯉登くんは今日休みなのか?」
    「それがね――さっき」

     月島は教室を飛び出した。
     手に握り締めているのは、紙芝居の最後のページ。

    『――竜の王子はムーンパール姫を失って悲しみ、泣きました。自分のからだを岩にうちつけ、骨がみえるまで、自分を責めました。

     竜の王子は悲しみのあまり正気を失って炎を吐き、ムーンパール姫の故郷もその敵も、何もかもを燃やし尽くしました。
     空から宝石がこぼれます。たくさんたくさんこぼれます。
     この世界にある宝石はすべてぜんぶぜんぶ、竜の王子がムーンパール姫を思って流した涙なのです。
     王子はさいご、炎にまかれて死んでしまいました。』

     文章はこれで終わり。ただ塗りつぶすように描かれた朱色の闇。

     鯉登くんが残していった最後のページだ。
     親の教育方針で、全寮制の学校へ転校することになったのだという。
     教室へ最後のお別れに来て、家で書いた紙芝居を残して帰っていったそうだ。

    「鯉登くん!!!」

     王子は悲しみですべてを焼き尽くし、自らの炎によって死を迎えた。
     何でこんな結末になるんだ、竜の王子はぜったいに幸せにならなくちゃいけないひとじゃないか。
     ムーンパール姫は髭のオッサンだったじゃないか、そんな奴連れていたら絶対に王子の足かせになるだろう。優しくてきれいなお姫様のほうがぜったい王子を幸せにしてくれるのに。

     ――いったいどんな結末なら、鯉登くんは幸せになったんだ。
     けれど今は、さようならも言えずに別れてしまうことが何より悲しい。
     
     鯉登くんがいつも乗っている車を探して、走って走って、鯉登家のお城みたいな豪邸についたとき、門をたたいても、執事のひとに追い返された。
     音之進お坊ちゃんは屋敷にはおられませんという答えだけが残された。
     あとで特別教室の先生たちから聞いた…夏祭りの夜に以前と同じ生徒たちと喧嘩して、その保護者達から責められ、学校を変えることになったと。

    (――俺は、鯉登くんの「ぜったいの味方」でいることが、できなかった)
     その事実は、思っていた以上に月島を打ちのめした。


           +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO

     
     あれから10年経つ。

     ――どうして、鯉登くんは炎ですべてを焼き尽くしたんだろう。
     月島にとって苦しい思い出だった。あれから色々な物語を読み、絵本を研究して紙芝居もたくさん読んだ。子供たち相手に紙芝居を読み上げ、反応を研究した。
     鯉登くん本人に聞かないと分からないのに、俺はひとりで思い悩み、後悔して、彼の心の傷になっていなければいいとずっと願っていた。
     鯉登くんだって、子供のころ少し遊んだ相手のことなんて、覚えているはずもないのに。物語の最後をもう一度一緒に作りたい、とそう願ってしまう。
     
     ――たとえ彼が月島のことなど覚えていなくても、力になりたかった。ぜったいに味方でいる、大人でありたかった。

     10年前にも拒絶された巨大な門。鯉登家の屋敷は城とは言っても砦そのもので監視カメラをかいくぐって入ることなどできるわけがなかった。
     だが月島は忍び込んだ。ワンダーウームンの装甲の一部、ブーツとガントレットを身につけている。カメラは人間の侵入経路しか映さない、つまりパルクールみたいに人間離れした動きをすれば良いのだ。小学生の鯉登くん直伝パルクールをロープを使ってやってのけ、屋敷の中にさえ入ってしまえばこちらのものだ。プライベート空間のためカメラは無いし、こう広くてはでかいネズミが潜り込んでも気づくのが遅れる。イモリが迷い込んでもすぐに気付いて外へ放してやれる月島の六畳一間のアパートとは違う。
    (――忍び込んだはいいものの、どうやって鯉登さんを探すか…)
     廊下をうろうろ歩いてみたが、当の鯉登さんの姿は見えない。
     なにか鯉登さんの情報がないかと当てもなくうろつき、エントランスまで出てしまった月島だが、大声が聞こえて、慌てて廊下に置かれた彫像の陰に身をひそめる。

     執事の中山へ、松葉杖をついた若い男性と着物を着た婦人が詰め寄っている。
    「出て行ったあの子から行き先を聞いたというのは本当?中山さん」
    「は、いえ… その、はい…」
     しどろもどろで、知っているのか知らないのかはっきりしない返答をしている中山執事。
    (ん!?あのご婦人は鯉登さんの御母堂だ。教室に迎えに来たことがある。とすると、横の男性はお兄さん…ミスターモスモスJr…か…?)
     月島が推測しているすぐ傍で、ミスターモスモスJrが血相を変えて中山へ迫る。
    「頼みますから、行き先を教えてください!!音之進はきっと無茶をする。分かり切っているじゃないですか、お願いです、止めないと本当に命が危ない」
    「いえ…音之進坊ちゃんと約束をしました、決して誰にも教えてはならないと。すみません、奥様、平之丞様、どうか、どうかお許しを…。音之進坊ちゃんの、自分一人で闘う決意を無下にしないでくださいませ」
     このまま責め続けたら舌を嚙み切りかねない中山執事の様子に、ユキと平之丞は引き下がるしかなかった。

     中山執事がひとりになった時を見計らって、月島はワイシャツの袖をめくった。白銀のガントレットから、しゅるりと黄金の鞭を出す。触手のようにうねうねしている。
     どういう理屈か分からないが、別に物理的に拷問しなくても、これで巻かれると自白剤を打たれたみたいにみんな隠し事を話すのだという。心の最奥に秘めたことだけを。
    『月島さん、古代語で書かれていますよ、これは真実の鞭だって』
     裏山からこの鎧一式を掘り出した江渡貝が告げた言葉にも「誰かが落書きしたんだろう」と取り合わなかった月島だが、試してみる価値はあった。
     背後から忍び寄り、中山執事の腕に鞭を巻きつける。
    〈う…!!なにやつ!?〉
     鞭から中山執事の意思が伝わってきた。
    「…さっき音之進さんが出て行ったと聞いた。音之進さんがどこに向かったのか教えてください」
    〈い、いやッ…ムムッ… う、ぅ、…、そ、それは、それだけは〉
    「頼みます、音之進さんの行き先を教えてください」
    〈クッ……〉
     がっくりと敗北したように膝をつき、中山執事が漏らしたのは、縄文杉が生い茂る、砂と木の島だった。半面はオアシスと森、半面は砂漠だという本州南にある奇異な島で、月島も文献で読み言い伝えとしては知っていたがまさか実在しているとは初耳だった。
    〈音之進坊ちゃんは、幼いころそこで師より剣技を習った――その島には伝説が…あって… 化け物を封じた竜の化身と言われる刀がある…と〉
    「その刀を取りに行ったということですか。その島はどんな場所なんですか?」
    〈島は化け物がうじゃうじゃ居る恐ろしい場所だ…。かつて修行中に命を落とすような怪我をしたことも何度か…坊ちゃん…どうかどうか御無事で…ひとりで闘うなどおっしゃらないでください…、ご家族を置いて… いかないでください… … 音之進坊ちゃんを誰か… 助けて……〉
    「わかった。ありがとう…苦しませてすいません」
     鞭をほどくと、本音を苦悶のうちに漏らしたせいか中山執事は気を失ってしまった。そっと壁にもたせかけるようにして寝かせる。
     月島は、不登校だった鯉登くんのことを思い出した。あの時も家族みんなで心配していた。また、ひとりで闘っているのだろうか。
     もう月島の心は決まっている、島へ向かい鯉登さんを助けるのだ。月島は、ポケットに入れておいた新聞を取り出した。ミスターモスモスJrへの罵詈雑言、そして助ける人を「選んでいる」という謂れのない中傷が紙面に大きな字で書かれている。新聞を握りつぶすと、月島は、
    「……荷造りだな、まずは」
     有休の残り日数を頭で計算しながら呟いた。


     ――竜が刀となって化け物を封じた伝説がある、砂と森の島。

     “妖精の煙突”と呼ばれる奇岩地帯がつづく、乾いた大地。軟質の凝灰岩が雨風に削られ侵食され、残された岩があちこちに立っている。遠目には石像のように見えた。ひとつひとつが意志を持った人間のように個を主張してそびえ立っている。
     音之進は大地を削る砂嵐のなか、灼熱の太陽に焼かれながら石像の間を歩いている。土色とかなたのオレンジ、青空のコントラストの激しさに目が痛む。音之進の上半身はむき出しで体中に切り傷が刻まれており、血と汗が全身を濡らしていた。
     沼と砂漠の両方を匂わせる風、なんという蒸し暑さだろう。肌を生暖かい手でなでられるだけで体力を持っていかれる。
    (――今日も、駄目だった)
     今日も成果は持って帰れず、ただ無益な一日を過ごした。一刻の猶予もないというのに。

     乾いた土を踏みしめ、絶えず血を滴らせながら体温より熱い息を吐いて嘆く。いまだ武の絶技に至らず、いや、武の深淵をのぞくことすら叶わない己に嫌気がさす。

     長く歩き、樹齢5000年ほどの縄文杉へたどり着く。島のシンボルであるその下には清涼な水源があり、あふれて小さな池となったそこへ音之進は倒れ込んだ。飛沫が身体を濡らし、口へ水が勢いよく入り込んでくる。体中の血を洗い流すようにして全身が水場へ沈み込んでいく。
     しばらく浮いていると、苔のうえを滑りながら走ってくる足音を聴覚が捕らえた。おそらく師だろう。音之進の遠縁でもある彼は髭が父親の平二にそっくりで、鯉登の血を感じさせるいぶし銀の伊達男だ。普段は冷静な彼だが、足音のもつれ方で分かる――なにか心の乱れがあるのか今日はいちいち大仰な身振りで忙しなかった。

    「音之進、おまえに客人が来ているぞ。女人(にょにん)だ。外套の上からでもわかる、ものすごい筋肉で…毛の無いちいさなゴリラみたいな女だ」
     女性の容姿を揶揄するのは感心しない。咎めようと思ったが、口唇と舌の根が乾いてひび割れ言葉を発することが出来なかった。がぶがぶ水をさらに飲み喉を潤す。
    「…女性をそのように言うのはやめてください。それに、私に客など来るはずもない」
     枯れた声でそれだけ返す。
     そもそも、こんな危険で辺鄙な場所にやって来られる女性に心当たりもない。
    「島の船着場からここまで、盗掘目的のならず者や化け物に狩られず女がやって来るのは至難の業だ。女のひとり歩きなど出来ない、ゴッカムシティ以下の治安だからなあ。だが、連れもいないようで…ひとりなんだ。やはりゴリラの化身かもしれないから音之進、会ってみてくれ。化け物なら叩っ切ってくれんか」
     音之進はさらに水で干上がった喉を潤すと、酷使した体に鞭打ち、借りものの刀を杖にして立ちあがった。
    「……様子を見てきます」

     原生林の端っこに建つ、補修だらけの屋根と壁、小さなひらだての家が、師の居宅だ。
     そこへ転がり込んで居候している音之進である。家まで戻り、門とは言えない木でできた鳥居の前まで来て辺りを見回す。髪の先からもぽたぽた水が滴り、全身ずぶ濡れのままである。
     ふと、巨鳥の羽ばたきが聞こえて空を見上げる。こんな場所には居られない、と慌てて飛び立ったようだった。家畜や人間をも餌にする巨大な怪鳥であるが、急いで飛び立ったのはいったい何故なのか…解せない。
     風で木々の葉がこすれ合うように鳴り、安全になったと池で水浴びしに小鳥が数羽舞い降りて、可愛らしくさえずりながらじゃれあっている。巨鳥を恐れて近づかなかった小鹿や野兎がやってきて、草を食み始めた。ちいさい鹿がいた!と音之進は内心小躍りしたいくらいだったが――そこへ空気を凛と揺らす声が響く。
    「音之進さん」
     そこにいたのは、背は低いががっしりとした肩幅をもつ、屈強なシルエットだった。
     砂嵐よけにまとったフード付きマントをするりと肩から滑らせると、あらわになった白い肌に夕陽が反射して音之進は目を細めた。ゆっくり目を開くと、見知った姿であることに気付いて驚く。

    「あなたは…!!」
     こくりと頷く彼女は、かつてワンダーウームンと名乗り、鯉登兄弟を救ってくれた屈強な女性だった。仮面をつけてはいるので人相は分からないが、初めて会った時と同じく、謎めいた瞳をしていた。
    「ワンダーウームン、どうやってここを知ったのです…いや、それ以前にいったい私になんのご用ですか。ここにあなたが来るわけが思いつきません」
    「音之進さんのお手伝いをしたいんです」
     ワンダーウームンに変身した月島は、女性らしく聞こえるよう声色を変えてしゃべった。紙芝居で一人何役もこなす技術がこのような場所で生かされるとは、人生なにが起こるか分からないものだ。
     月島のなかでは彼は今でも小学生の『鯉登くん』だが、大人の男として接する意味も込めて『音之進さん』と名前で呼ぶことに決めたのだった。
     当の音之進はにべもない。
    「お帰りください、ここは危険な場所です。それに、私は他人の手伝いを必要としていません」
     音之進は冷たく突き放すように告げて踵を返したが、ワンダーウームンは諦めない。
    「お願いします。何でもいいんです、掃除でも飯炊きでもします。お世話をさせてください」
    「私を追ってここに来たと言うことは、……つまり、私の正体もご存知なのでしょう。新聞やテレビに告げればよいのです、罪のない人を犠牲にした愚行はすべて私がやったことで、――私は弱者を厭う差別者だと」
    「いいえ!!違います。あなたはそんなことは決してしません。」
     必死に取りすがるような声に、わずかに音之進の心が揺れる。しかしその揺れを否定するため声を荒げた。
    「出会ったばかりなのに、…あなたに私の何がわかるというのですか。帰ってください」
     言い返して肩で息をしたとき、全身に刻まれた傷が一斉に音之進を苛むように疼きだし、思わずよろけて膝をついた。まるで自分の身体に、『彼女に酷いことをするな』と抗議されているようだ。刀の柄を握る力も湧いてこないとは、音之進にとっては余程のことだった。
     ワンダーウームンが駆け寄るも、音之進は手で制して拒絶する。
    「……音之進さん、私は街で新聞を読みました。嘘ばかり書かれた新聞を読んで悲しくなりました。あなたがあれを読んで、深く傷ついているのではないかと思うと居てもたってもいられなかった」
     音之進は刀を手に立ち上がると、ワンダーウームンから力を尽くして目をそらした。そうでもしなければ、彼女の瞳をのぞき込みたい欲求に抗えなかったからだ。ワンダーウームンからは高貴で清廉な、邪気を払うような気がたちこめていた。坊主で小さいゴリラなのに、まるで本物のお姫様だ。子供のころ夢に見て、カードに描いたお姫様… ツキシマを想って描いたムーンパール姫が、そっくりそのまま絵から飛び出てきたようだ。
    「……お心遣いは感謝します。ですが、私の手伝いが目的でしたら、必要ありませんのでお帰りください。あとで船着場まで送ります」
    「いいえ、帰りません。あなたはおっしゃいました、「命にかえて礼をする」と。」
    「そんたそうだが…っ!」
     自分が言ったことを一言一句覚えている。『命にかえて礼をする』つまり彼女には音之進の生命に匹敵する借りがあるということだ。
    「音之進さんは約束を違える方ではありません。私の望みはひとつです。お世話するため、一緒にいさせてください」
     ワンダーウームンがきっぱりと力のこもった声音で言い放つ。絶対に帰らないという烈火のごとき意志がにじんでいた。
    「なぁ音之進、連絡船ももう出港したことだし、明日にならないと船が出ない。ワンダーウームンさんとやら、むさくるしいところですまんが、今夜はここに泊まって、明日帰りなさい」
     見かねて後からやってきた師匠が口をはさんだ。突然やってきたのにすみません、とワンダーウームンは恐縮し、音之進は背を向けたままため息をつく。
    「命に代えて礼をすると、確かに言いました。私は中途半端な約束などしません」
    「それでは…いいのですね、おそばに居ても。…よかった」
     ここに居ていいと許されて、ワンダーウームンは嬉しそうに両手を胸に重ね合わせた。ほんとうに良かった、と声を和らげたワンダーウームンを見たいという眼球を、またしても音之進は全力で瞼へ力を込めて封じなければならなかった。こんなことは初めてだ。

     多少のわだかまりはあるものの、3人で囲炉裏を囲み、備長炭で起こした火で焼いた魚を食べつつ音之進は師匠に今日の進捗を報告した。何も成果なし、と。そうか、とだけ師は返答した。成果を得ることがどれほど困難か分かり切っているためだ。
    「ワンダーウームンさん、あの原生林は観に行ったかね、帰る前に見物していくといい。」
     師匠はワンダーウームンへ気さくに話しかけた。
    「樹齢5000年の縄文杉ですか」
    「ほとんどが樹齢3000年くらいの紀元杉だけどね、朝には霧が出て見応えがあるよ。どうだね、一緒に見て回るかい? ここは亜熱帯気候の島。黒潮はあたたかい空気をもたらし、時に大雨を降らせる――だが明日はきっと晴れだ」
    「観光で来られたなら、ぜひ拝見したかったのですが。私は…」
     彼女がちらとこちらを見た気配を感じ、何だか耳のあたりが熱っぽくなる音之進であったが。
    「なに、音之進は明日も『都市』に行くだろう。埋まっている財宝が数多あるから、盗掘目的でやって来るならず者が多いが――『都市』の主(あるじ)にもてなされて、二度と地上には戻る気がなくなるそうだ」
    「音之進さんひとりで行かれて、戻られないのではないかと心配です」
    「こいつは朴念仁だから、主にコナかけられても気付きもしない。だから平気だ」
    「コナをかけられる…?」
    「明日は原生林を一緒に回ろう、な?案内するから」
     ふたりの会話が弾んでいるのがなんとなく面白くなく、音之進はごちそうさまでした、と手をあわせて自分の食器を引き上げる。
    「おふたりも食べ終わったら出しておいてください。私が洗います」
    「お世話になるのですから、雑用は私にさせてください、音之進さん」
     ワンダーウームンが追いすがるのを振り切り、音之進は外に出た。
     落ちてきそうな満天の星の下で、日課の素振りを始める。
    「食休みもなさらないんですか」
     追ってきた彼女の問いかけにも答えず、素振りを繰り返す。
     昼間の暑さに反して、夜は急激に冷え込む。過酷な環境だ。
     風を切る音が続く中、彼女は危険だと、音之進の本能が告げていた。ワンダーウームンに必要以上に関わると、自分が自分でなくなるような気がした。不埒な考えを持つ男になってしまいそうで恐ろしい。
    「終わったら声をかけてください。手ぬぐいで汗を拭いてさしあげますから」
    「ひっ…必要なか!ワンダーウームンさんは、部屋で休んじょってくれ!!」
    「お世話をすると約束しました」
     少し離れた石の上に腰かけて、彼女は音之進の素振りを眺めている。
    (――気にするな、このくらいで心乱されていてはあの刀を手に入れることなど到底できはしない)

     そうは思ったが、音之進は素振りの数をかぞえ間違え、余計に100回振ることになったのだった。ちなみに、途中でくしゅっと小さなくしゃみをしたワンダーウームンを「風邪をひいてはいけん」と強引に説き伏せて部屋へ戻らせた。そのため、汗はちゃんと自分で拭いた音之進であった。…



     明朝。
     まだ日も昇らぬころ、ワンダーウームンはふと目が覚めた。
     誰かが外へ出ていく気配がしたが、すこしまどろんで寝てしまった。次に目を覚ました時、布団を跳ね上げて飛び起きた。あわてて身支度し、外へ出ると師が鍬を持って持って畑にいくところへ遭遇した。
    「あの…」
    「スマンな起こさなくて。朝飯は台所に置いてあるから食べなさい。…音之進ならもう行ったよ。島…『都市の主(あるじ)』――そいつが持っている刀を取りにでかけていった」
    「……!!」
    「今日を勝負の日にすると言っていた。あなたが来て、踏ん切りがついたようだよ。自分の命と力を賭ける踏ん切りが…ね」
    「音之進さんは昨夜、何も進展がないとおっしゃっていました。勝算はあるのですか」
    「音之進は、主に勝ったことがあるどころか――触れたことすら無い。主にたどり着く前に生命の危険を感じて逃げ帰ってるからな、毎日。今日は帰らないと言っていた。連絡船へはわたしが送ろう」
    「……いえ、音之進さんを追いかけます。――失礼します!」
     ワンダーウームンは外套をひるがえし、朝ごはんを持って音之進を追う。
     燃えるような黎明の空へ向かって、ワンダーウームンは駆けた。

     花崗岩の上を走っていると、途中から石の質が変わったことにワンダーウームンは気付いた。
     乾いた土の彼方には、険峻な山々が見える。
     足を止めず走っていると、石像のような岩がたくさん建っているエリアにたどり着く。音之進の師の話では、財宝の盗掘目的でやって来るならず者が多いということだった。そして『都市』の主に彼らはもてなされるのだとも。
     ワンダーウームンが盗掘者か音之進のものか不明の足跡をたどっていくと、岩窟集落がかつてあったのか、幾何学模様の壁や煙突のようなものがそびえている区域に出た。
     どこかから、獣の雄叫びのような声がした。耳をそばだてると、人の悲鳴も混じっているような気がする。
     急ぎ足で壁をたどると、シェルターの入口のような洞穴があった。この穴のなかでかつて人々が暮らしていたのだろう。ここから滑り落ちて『都市』に入るようだが、入ったら最後、もう二度と戻ってこられないかもしれなかった。
    「…行くしかない。俺は、音之進さんをひとりにしないと決めたんだ」
     月島――ワンダーウームンは穴へ飛び込んだ。

     滑り落ちていき、ようやく足がつくと、そこは竈(かまど)や井戸の跡など集合住宅のような設備があちこちにあった。ほぼ朽ちて崩れ落ちている。5階層はあるかもしれない。ところどころ階段が崩れており、ワンダーウームンは鞭を壁の突起に巻き付かせながらワイヤーロープのようにして身体を浮かせ、階層をおりて行った。
     2階層ほど降りた時、脇の壁にあく通気口を伝って、下から絶叫が聞こえてきた。ワンダーウームンの背中にじわりと汗がにじむ。密封された空気の中で、激しい音を出し響かせて集落の皆に伝達するシステムのようだったが、いまはただ恐怖をあおるられるだけだ。下でどんな恐ろしいことが起こっているか想像もつかない。
     音をたどっていくと、円盤型の、横へ転がして開ける扉の前に出た。たとえ成人男性3人がかりでも動かせないであろうそれを、ワンダーウームンは自らの膂力で開け、扉を抜ける。背後で石扉は閉まり、退路は断たれた。
     薄暗いなか、こつ、と足元にあたったのは人間の頭部だった。小さな蜘蛛や蟻がうじゃうじゃ集(たか)ったそれは、まだ新鮮だった。虫が皮膚内で蠢くにつれ、瞼が震え唇が動き、生首状態でも生きているように見える。思わず息を止めるも、かろうじて判別できる人相から音之進ではないと分かってようやく呼吸が出来た。
     さらに進むと、『都市』の集会所らしき広い一角に出た。切削されたように崩れ落ちた赤土に亀裂が入ったその場所に、糸が所狭しとはりめぐらされている。
     小さな蜘蛛が出す糸は、傍から見れば1本に見えるが、その実何百本もの糸の寄り合わせだ。集会所に張られた糸の太さから見るに、それを生みだした蜘蛛の体長は推定2メートル…ありえないが、そう推測せざるを得ない。
     蜘蛛は円網のように太さと性質の違う糸を縦横に張り巡らせる習性のため、蜘蛛が足場にするくっつかない「横糸」があるはずだった。縦糸には盗掘者と思われる人間がぶら下がっていたが、ワンダーウームンは横糸を探しながら潜り抜けていく。
     びっしり張り巡らされた糸をかいくぐって走り、5階層までの天上をぶち抜いた広い空間までやってきた。
     ――その奥に、ひときわ大きい、横幅3メートルほどの巨大蜘蛛が居た。
     オオツチグモのような外見をしたそいつは強(こわ)い体毛に全身びっしり覆われており、頭の前に単眼が8個鈍く光っていた。この眼によって、頭を動かさずともすべての方向を見通すことが出来るのだ。
    「こいつが、都市の主…」
     目を凝らすと、その巨大オオツチグモの身は一本の刀に貫かれ、身体ごと地面に縫い付けられていた。あの刀こそ、音之進さんが求める刀だと瞬時に分かった。反射的に近づこうとしたとき、ビュルっと主の顎から粘ついた白い塊が勢いよく飛び出て、あわてて屈んでやり過ごしたが、ワンダーウームンの背後にいた盗掘者が粘液に捕らわれて地面へ横倒しに転がった。
     と、空間の天井、暗闇にうごめく気配を感じた。主の上に、2メートルほどの比較的ちいさな蜘蛛がいる。ジョロウグモに似たそいつは、ゆっくりと天井から糸を垂らしてやって来ると、白い粘着物に絡まった犠牲者を上あごの鋭い牙でくわえこみ8本の肢をからめて捕らえる。そのまま素早い動きでオオツチグモに寄り添うと、相手の口元へ人間――エサを置いた。
     オオツチグモがエサを頭から丸かじりして、骨を砕く音が鳴り響く。ワンダーウームンは理解した。あの小さな蜘蛛は都市の主の番(つがい)なのだ。刀で縫い付けられ、動けない伴侶を食わせてやるために、こうして罠を張り餌を調達しているのだ。
     敵は二匹。あの粘着液にやられたら元も子もない。音之進さんはどこに、とワンダーウームンは辺りを見回し目を凝らす。どこにもいない。
    「キエッ!!!」
     聞きなれた猿叫が聞こえた瞬間、ワンダーウームンは探し人を見つけた。天井に鎖のように編んだ荒縄が1本張られており、そこを足首に器用に絡めて綱渡りしている。まるで軽業師のような身軽さだ。
     刀を正眼に構えると、そのまま荒縄を蹴って落下する。番の蜘蛛を一刀両断するため、その鎧のように硬い頭胸部を斬ろうとひといきに飛び込んだのだ。
     一般的に、網を張る蜘蛛は視力が弱いといわれる。音之進はその弱点を突き、声の起こった場所から高く飛翔して、一気に刀を振り下ろした。
    「キエエエエッ!!!」
     自顕流は一太刀で勝負が決まる。番の蜘蛛に渾身の力で刀を打ち込むも、殻が砕けた音とともに左の第三歩脚部の頸節がひん曲がったが、残り7本の脚を操って天井近くへ逃げた。天井にロープで張り付いていた盗掘者が、ひぃぃっと叫び声とともに落下し、糸の上へ落ちると――すぱっと上半身と下半身がまっぷたつに分かれた。すさまじい切れ味だ。
    「音之進さん!!」
     音之進は身体を回転させながら着地していたが、宙にも隙間なく張り巡らされた糸へ触れずに落ちることはかなわず、肩にも脇にも背中にも、あちこちに切り傷を負っていた。傷口から血が盛り上がって滴り落ち、その臭いを嗅ぎつけた小さな蜘蛛たちや虫が肉片を嚙みちぎろうと音之進の肌を這いあがる。
    「…傷は浅かようじゃな」
     音之進は番の動きを見てそう断じた。足の一本を傷付けたので動きは鈍くなったが、怒りに火を注いだ結果になったようだ。
     番は鋏角という毒のある牙を持っていた。それを蠢かせると、音之進にターゲットを絞る。
     ビュッと白い粘液がオオツチグモから放たれ、音之進は脇へ飛ぶ。張り巡らされた糸を刀で斬りながら距離を取ろうとした。
     番の蜘蛛は気分をたいそう害したようで、鋏角をもたげて素早く近寄ってきた。音之進をとらえて直接毒を注入するつもりのようだった。
     二匹相手に、音之進は刀を構え、番の二本目の足を砕くつもりで迎え撃つ。が、
     番の腹にある絹糸腺から糸が勢いよく出て刀へ絡みつく。力比べのようになったが全身を子蜘蛛に噛まれて踏ん張りがきかず、音之進は刀の柄から手を離してしまった。番はトドメの第二撃を放とうとしたが、
    「!!音之進さん!」
     壁の突起に鞭を絡めると、ワンダーウームンは空中へ身を躍らせた。音之進の身体を抱えてそのままさらう。と、またも白い粘液がオオツチグモから放たれ、ワンダーウームンは身をよじって避けると、音之進だけを糸のない場所へ落とした。
     しかし、バランスを崩したその身は番のつくった円網――切れ味鋭い縦糸の上へと落ちていく。
    「ワンダーウームン!!!」
     音之進の喉から迸ったのは、炎を吐くような絶叫だった。自身の痛みよりも遥かに深い苦痛をもたらし、闇の深淵をのぞいたような恐怖さえ感じた。
    「むんっっっ!!!」
     ワンダーウームンは身体をひねり、ドスンと直立で――縦糸いっぽんの上に、足をひらいて踏ん張った。間髪入れずに鞭を飛ばすと、壁面の突起を先端がくるんと掴んでワイヤー替わりに空中へ飛び、音之進の傍へ降り立つ。
    「ワンダーウームン…!!危ないことはやめてくれ!!!」
     両手で体を掴み、音之進は咆哮した。もしも死んでしまったら…そう思うと、悪寒が背筋を這いずり回る。
    「………すみません」
     その剣幕にすこし面食らって、ワンダーウームンが思わず謝ってしまうと、
    「…いや、謝らせたかったわけじゃない。…私を助けてくれたのは分かるが、頼むから無理はやめてくれ…」
    「音之進さん、お小言は後で聞きますから、私のアイデアを聞いていただけますか。」
    「…?」
     刀もないこの状況、周りは切れ味鋭い糸に囲まれ、絶体絶命。ここからどうやって勝機を見出すというのか。
    「私が履いているこのブーツ、どうやら頑丈で…先ほどご覧になった通り、縦糸の上でも切れません。糸へ絡む、ねばりつく液体にもくっつきません。音之進さんなら、これを履いて糸の上を走れますよね?」
     糸を伝ってあのオオツチグモのところへ行ってください、とワンダーウームンが告げる。
    「番のほうは私が相手をします。時間を稼ぐぐらいしか出来ませんが…。お忘れなく、私たちの目的は刀を手に入れることであって、都市の主と番を『倒す』ことではありません」
     いつになく謎めいた瞳を、音之進はようやく間近に見つめることが出来た。翠がかったその色は、夜の森、エメラルド、南国を飛ぶ鳥の鮮やかな緑の羽、陽に透かした月桂樹、いや、自然界にあるどんな美しい色でも比べられないほどに澄んで輝いている。
    「すまんが靴をお借りすっ」
    「はい。御武運を」
     ブーツを急いで装着した音之進は一息に跳躍すると、縦糸の上にぴんと真っすぐな姿勢で立った。体幹と重心を瞬時に悟ると、そのまま躊躇なくオオツチグモまで一直線に駆ける。飛んでくる粘液の攻撃にもひるまず、落ち着いてすべて避ける。
     オオツチグモの触肢が、怒りに震えている。動けない己に対しての怒りか、伴侶を傷つけられたことによるものか、両方か。
    「蜘蛛の化け物、いま楽にしてやる!!」
     音之進はオオツチグモの背へ飛び乗ると、刺さった刀の束へ両手をかけた。
     その刀をさらに奥へ突き立てられればオオツチグモの命が無い。助けに行こうとする番をワンダーウームンが鞭で牽制し、にらみ合う。
     刀へ手をかけ、音之進は身体に残った全膂力を爆発させた。
    「キエエエエエエエエエッッッッッ!!」
     番が、その単眼に人間の感情でいう『悲しみ』を宿す。

     ――竜が天へ向かって飛翔したような光が迸った。その光で天井は崩落し、暗い地下に太陽光が救いの手のように差し込まれた。
     明るくなり、人骨が山ほど積まれているのに気付く。それは主が犯した罪の証しであった。

     音之進の手に刀が握られている。オオツチグモの身体からとん、と飛び下りると、刀を横に軽く一閃させた。
     一度薙ぎ払っただけで、広間に張り巡らされた糸は引きちぎられたように細切れになり、炎に燃やされたように塵になった。その圧に、ワンダーウームンもガントレットで顔前を覆ったほどだ。
     音之進が蜘蛛たちを睨みつけると、番は怯えたようにすぐオオツチグモの傍へ近づき、庇うようにして前へ出る。

    「――行け。おまえの番を殺してはいない、刀を引き抜いただけだ。お前たちもこの島の生命のひとつ、もう無暗に人を殺さないというなら今回だけ見逃す」
     人間の言葉を理解できるのか、それとも殺気が消えたことに気が付いたのか。慌てて番がオオツチグモの身体と地面との間に身体を割り込ませ、肩を貸すようにして二匹が都市の奥へと潜っていく。命拾いするという感覚を、生命を脅かされる恐怖を、生まれて初めて味わったのだろう。
    「…ワンダーウームン!無事か!!」
     音之進はすぐに踵を返し、裸足でムキムキの前脛骨筋と腓腹筋をさらすお姫様に駆け寄った。
    「お見事でした。音之進さん」
     マスクに隠れてワンダーウームンの表情は見えないが、祝福の空気がふんわりと音之進を包んでこそばゆい。
    「いやあたいん力だけでは勝てんやった。あたん靴を借りられたおかげじゃ。」
    「ふふ…」
    「すまん、訛ってしもた。ワンダーウームンが靴を貸してくれたおかげで勝てました。」
    「ちゃんとお話は分かります。…訛っていても、なんとなく意味が分かることに驚いていたんです。不思議ですね、自然と気持ちがつたわってくるみたいです」
    「……………………………………………………………」
     いや、むぞすぎる(可愛いすぎる)。と音之進は一発でノックアウトされて白目になりかけ、慌てて柴ドリル――犬が回転して首や頭がドリルのように回って見える現象――のように上半身をブルンブルン振る。いけない、何を不実な、私には愛する人がいるのだぞ。不埒な男になってしまう。
    「大丈夫ですか、蜘蛛が傷を…」
     音之進の奇行も、裂けた肉を食べようと傷口へたかっている虫を振り払う仕草に見えたらしく、彼女が傷に手を添えて心配してくれる。
    「痛みはありません。…帰りましょう、目的は果たしました」
     刀を手に持って、音之進は決意を新たにする。
     すべては、ゴッカムシティの悪を斬るため。

     ふたりが戻ってきたときにはもうとっぷりと日が暮れていた。
     師匠が、ふたりはいつ戻るかと家と門をうろうろし、天に祈って待っているところへやってきた――音之進とワンダーウームン。ふたりの間にあった緊張感は雪どけを迎えたように消え去っており、春を迎えた山の綿穂がきらきらと光りながら二人を取り囲んでいる。…ように見えた。
    「ワンダーウームンは、はよ休んだ方がよか。疲れたやろう」
    「音之進さんの傷を洗って、消毒するのが先です」
    「こげん傷は傷じゃなか。自分で治療すっ」
    「いけません、きちんと消毒しなければ化膿してしまいます」

     師へただいま戻りました、ご心配おかけして申し訳ありませんと二人が謝罪したのち、ワンダーウームンが救急箱を取りに家へ入っていく。その背をやわらかな視線で追う音之進に、師匠はガタガタ震えながら尋ねた。
    「オイ… 生きて帰ってこられたのは僥倖だったが、大丈夫か、正気か音之進ッ」
    「なにがですか」
    「お前ほどの男ならどんな相手でも選り取り見取りなんだから、くれぐれも早まった行動をとるなよ。一度の過ちでも、責任を取れなどと言われたら大変なことになるぞ」
    「だから、何の話ですか。それよりも、これを――都市の主を封じていた刀です」
     剝き出しの刀身は氷るような冷たい光を放っており、一目で業物と知れた。地金にのびやかな竜の絵姿が金色に浮き出ていて、それだけで刀工の銘切りもない。これが本当に、竜がその身を変えたといわれる刀なのだろうか。
    「よくやった。誰も成し遂げられなかったことを、まさか音之進がやり遂げるとはな。思いの強さが相手の力量より勝ったのだろう」
    「……はい。と言えたら良かったのですが、ワンダーウームンに助けられました」
    「ああ、それであんなに近く…フゥ――…ゥウ――ン…」
     ざっざっと足のつま先で地面に線を引きながら師匠がごちた。
    「竜の化身だといわくつきの刀だが。…島にはな、自らをも燃やして骨にする、呪われた刀だという言い伝えも残っている。強い力を振るうには、同じだけの代償があるものだ。くれぐれも用心を怠るなよ」
    「はい。マッドクォッカとイマニタスを倒したら、刀を島へお返しします。」

     師匠は刀を明るいところで見たいと言って家の中へ入り、入れ替わるようにしてワンダーウームンが飛び出してきた。
    「お待たせしてすみません。」
    「ないごてじゃろうか、待つとも楽しか。焚火をおこしたで、火にあたってあたたまりたもんせ」
    「ありがとうございます。」
     焚火の炎がしずかに揺れて、二人の影を重ね合わせ、そして離すように彩った。
     ワンダーウームンは自前の外套を羽織り、音之進にはワンダーウームンが包み込むように毛布を掛けてくれたので寒さは感じない。
     ワンダーウームンが音之進の身体につけられた傷をひとつひとつ、血を洗い流し、消毒し、ガーゼをあてて軽くテーピングしていく。丁寧に、傷付けることのないよう繊細な動きをする彼女の指先から「あなたがとても大切だ」という気持ちが痛いほど伝わってきて、音之進は高山病に罹ったように気怠くなり、どっと疲労感が増した。いや、彼女の気持ちを死に物狂いで拒もうとするから苦しいのであって、もし受け入れられたら――これほど甘く幸せな時間はなかっただろうと思えた。
    「一晩休めば、もう明日には動けます。刀を持ってゴッカムシティへ戻るつもりです」
    「………無理はしないでくださいと言いたいですが…音之進さんの行動を止めたくはありません。私もついていきます」
     音之進が頷く頭上で、星が輝いていた。原生林の木々は川のやさしい流れのようにさらさら音を奏で、隣に座る彼女が息づくたびに、まとっている黄金の胸当てから垂れた飾りが水のようにきらめく。全身で一番ぬくもっているのは、傷口でも火に当たった皮ふでもなく、心臓だと音之進は知った。
     ひとりでゴッカムシティを出てきた夜とはまったく違う、美しい夜。あの時と違うのは、いまは、隣に…
     抑えに抑え込んでいた震えが一瞬、音之進の口をついた。
    「寒いから、もっと…私の傍へ」
     彼女の頭を自分の肩へもたせかけるようにして、音之進が筋肉の張った逞しい肩を抱き寄せる。
     大人しく引き寄せられるまま。音之進を見上げる瞳には星々が映っているが、どこか寂し気に見えた。
    「その目を見ていると私は…おかしくなる。」
     閉じていてほしい、とねだる様にそっと目蓋に接吻る。罪深いくちづけだ。一番に愛しているのは彼女ではないのに。
    「触れてんよかろか…?」
     ワンダーウームンは耳を疑った。普段は悠然とした佇まいの青年が、自信なさげに捨てられた子犬みたいに触れてもいいかと許しを乞うてくるその声。
    (――駄目に決まっているでしょう!!)
     『あなたがいま唇で触れたのは三十過ぎのオッサンですよ!?』早急に止めるべきだが正体をバラす訳にはいかない。目を閉じたまま、ワンダーウームンが音之進の左手を求めてさまよう。音之進が彼女の手を逃さないというように握ると、自然と指が絡まった。左手の薬指をきゅっと強くはさむと、ワンダーウームンは惑いながらつぶやいた。
    「指輪をつけていらっしゃいます。大切な方が…いるのでしょう?」
    「こん指輪は……初恋んし(初恋のひと)を忘れんためにつけちょい」
     指を深く絡め、竹刀ダコのできた音之進の手がさらに密着してくる。「触れてもいいか」の返答がないことを了承と受け取り、音之進は握った彼女の手指に口唇を寄せいったん離すと。手を背にあてて支えるようにして、ゆっくりワンダーウームンを仰向けに横たわらせた。
    「あぁ…音之進さ、ん…」
     熱のこもった接吻けが白い首筋をなぞる。乱暴だったら跳ねのけられた。だが想いのこめられたやさしい触れ合いに、ワンダーウームン――月島は頭と背をそらしてわななき、身体の下に敷かれた外套が乱されるまま乱れて。ふたりとも激しい鼓動に身を震わせながら、音之進はさらに深くワンダーウームンの身体を知りたいと触れたが――月島は彼の広い胸に手を添えてそっと押した。
    「いけません。あなたの心には、まだ…初めて好きになった方がいらっしゃいます。私に触れれば、きっと後悔します。…私はあなたを傷付けたくないのです」
    「後悔など…せん」
    「いいえ、私が…後悔します。いま、あなたに触れられて気が付きました。胸が苦しいのです。あなたの心にまだ大切な方がいらっしゃる。それなのに、…触れられることが…私にはどうしても辛いのです。」
    「……!」
     雷に撃たれたように、音之進は身を離した。
    「……すまんやった。きちんとあたん気持っをきいちょらんじゃった。それなんに触れてしもた。ほんのこて……不実な行為やった。あたん心を考えちょらんじゃった、許したもんせ。」
     音之進は両手と頭を床にこすりつけて謝罪した。
    「怒っては、いません。悲しかっただけで……。」
     身体を起こして外套を羽織りなおすと、ワンダーウームンはうつむいた。音之進が白い首筋にくちびるを寄せて付けた赤い花びらのような痕は、じょじょに幻のように薄くなり、はかなく消え去る。
    「音之進さんに想われるかたは幸せですね。大切に思えるかたとあなたが結ばれて幸せになることを…心から祈っています」
     鯉登くんの幸せ。それは、紙芝居の最後を間違えたあの日から、月島にとっての大きな願いだ。
    「………………………」
     音之進は無言になる。初恋の人と結ばれることは決してない。だが、この指輪をくれたひとを忘れることもできない。
     10年前、ツキシマに夏の縁日でもらったドラゴンの指輪を純金でコーティングし、宝石をつけて音之進は肌身離さず持っていた。もう身体の一部なのだ、想いを引きはがすことなど考えたこともない。
    「音之進さん、休みましょう、明日も早いですから」
     彼女を傷つけたことを心底後悔しながら、音之進は自分の苦しい初恋にどう決着をつけるか計りかねていた。気をそらしていたせいで、ワンダーウームンの呟きは聞こえなかった。

    『音之進さんにとって何がハッピーエンドか、俺には分かりません…昔も、いまも、きっと間違った答えしか出せないんです』

     押し殺した思いを、触れあえない悲しみをのせた声を、音之進は聞き逃したのだった。



     音之進が去ってから。
     何日も何日も鉛の雫がゴッカムシティを濡らし、ほの暗くうごめく黒雲が不吉な予感を市民たちに抱かせた。
     ゴッカムシティはモザイクの如く、多様な民族が混在する街だ。歴史的な建造物群とオフィスビルが雑多に立ち並ぶ。警察や市庁も密集しており、文化の中心となる劇場やシアター、市民の居住区もある。
     カジノや歓楽街、刑務所に至るまでスケールが大きいのは、マッドクォッカとイマニタスによる二つのグループの息と資金がそれぞれかかっているせいだ。新聞社のビルも勿論いくつかある。
     摩天楼に一際高くそびえるのは「クオッカクイーンズ」という70階建て、尖塔は鏡張りで、朝夕には光に反射してマーメイドの鱗のような輝きを放つビル。無論、その名前からマッドクォッカの資本が建てたビルであることは明白であり、大きな道路を挟んだその真向いにゴッサムシティを守る市長が政務を行う市庁がある。
     クオッカクイーンズの70階には展望台とパーティー会場がある。そして今、展望台から眺められるのは、遥か下の地上にて厳戒態勢を敷く警察の機動隊一群と――そして向かい合う一触即発のマッドクォッカグループの荒くれ者の一群であった。
     今日は新しい市長…資産家花沢幸次郎氏の『長男』である「花沢勇作」氏の就任パーティが開かれるのだ。前の市長は、息子が違法カジノ、薬物に手を出したことで辞任し、市議会議員であった勇作氏が立候補して当選したといういきさつである。

     そして。敵の懐である、クオッカクイーンズ70階のパーティ会場で、あえて就任式が執り行われるのだ。事実上の宣戦布告といってよいが、市庁の真ん前にビルを建てたマッドクォッカこそが先に吹っ掛けてきた喧嘩というものだろう。
     ようやく晴れたその日は、街が平和へ向かって刷新されるいちにちとなる、市民たちはそれを願いながら就任式の生中継を見守っていた。
     鯉登平二も就任パーティに呼ばれ出席していた。妻のユキは音之進が出て行ってから床に伏せっており、また平之丞は怪我をしており出席を辞退していた。
     
     空港のディスプレイ、エレベーター内のサイネージ、カジノ、酒場、刑務所内にいたるまで、あらゆる場所で就任式はライブ配信されている。
     15時に、花沢勇作氏の市長就任演説が始まった。
    『親愛なる市民の皆さま、本日、わたくし花沢勇作はゴッカムシティの未来を担う責任を胸に、ここに立っています。このゴッカムシティに、麻薬も暴力も必要ありません。私たちは、安心して暮らせる街をつくるため、断固たる決意をもってこれらの脅威と戦います。私が目指すのは、誰もが生活に不安を感じることなく、ひとりとして見捨てられることのない、平和で福祉の充実した街です。子どもたちが笑い、働く人々が誇りを持ち、高齢の方々が安心して暮らせる街を、皆さんと共に築いていきたい。しかし、これを成し遂げるのは私ひとりの力では到底できません。市民の皆さまお一人お一人の協力が必要です。ともに手を取り合い、支え合い、明るい未来へと歩んでいきましょう。』
     割れんばかりの拍手が起こった。
     
     いつまでも鳴りやまない拍手を、脚にギプスを付けた平之丞はユキのベッドの脇で椅子に座って聞いていた。寝室に設えてあるディスプレイには中継が映っており、それを母親と息子が一緒に観ていた。
    「勇作どん、立派な演説じゃなあ」
    「ほんのこてご立派になりもしたね。お父上も安心しちょっやろうね」
     ユキが仰臥位のまま、音声だけを聞いてほぅっと息をつく。
     ――と、平之丞がびくりと肩を震わせて身を乗り出す。映像に乱れがある。ノイズのような横線が混じり、真っ暗になったあと…
     ブツッと画面が切り替わる。
     平之丞の両目が限界まで見開かれる。
     中継に割り込んできた画像には、ミスターモスモスJrのコスチュームを着た男が立っていたからだ。
    「だいじゃ、こん男は…おいん偽物じゃ!」
     怒りに震える平之丞などお構いなしに、ニセモノは綽々たる態度で話し始める。
    『親愛なる市民の皆さま、ごきげんよう。今日はこの私、ミスターモスモスJrが花沢市長へお祝いをするために参上いたしました。』
     胸に手を当てて優雅にお辞儀する。ここまでは、映っているミスターモスモスJrを「ほんもの」だと信じた市民も居たかもしれない。だが次に続けた『予告』は、ヒーローどころか悪魔の所業、身の毛もよだつものだった。
    『市内の二か所にプレゼント――時限爆弾を設置させていただきました。広範囲を焼け野原にしますので素敵な祝砲になるでしょう。』
     各テレビ、ディスプレイ、メイン通りの広告サイネージで見ていた市民たちが恐怖にざわめく。空港や駅のターミナル地点では恐慌が巻き起こった。乗り物に爆弾が仕掛けられていた可能性を考えると居てもたってもいられず、職員たちに詰め寄りパニックになった。押し寄せるひとに倒され泣きだす子供、その子をかばう女性、しかし二人とも圧し潰されてそのまま上を群衆が踏みつけていく。
     警察は群衆事故をおさめるため、クオッカクイーンズ前に詰めていた機動隊に要請を出した。
    『親愛なる市民の皆さま、落ち着いてください。爆弾設置箇所は、秘密ではありません。この場で特別に公開いたします。』
     肩掛けマントを翻し、背中を見せたニセモノはコツ、コツ、とブーツを鳴らしながら画面の奥に進み、もったいぶる。この上なく紳士的なのに、まるで堕落した悪魔の傀儡のような所作である。
    『ひとつは、今華やかな就任式――パーティが開かれている場所へ。お祝いなのだから当然ですね♪』
     それを聞いた警察関係者が気色ばむ。機動隊を他に移そうとした命令を止めようと伝令を飛ばす。
    『そしてもうひとつは、児童保護施設「米の子学園」です。どこにあるかは子供たちで探してみてください。みんな、楽しいお宝探しだよ♪――さあ、ゴッカムシティ市長と警察はどちらを優先して守るのカナ?それではお祝いを楽しんでくださいね。…ああ、言い忘れましたが祝砲は今から30分後、です。ばいばーい~♪』
     こちらを振り返ってニセモノがバイバイして両手を振る。はじまったときと同じく、唐突に映像は切れた。
     ノイズが走り、生中継が市長就任式につながる。来賓たちがおろおろし、政治に携わる人々、地元の名士と云われる人々が我先に逃げ出そうとしている図が容赦なく映し出され、市民たちの目にさらされた。
     就任式に出ていた花沢市長が市民へ呼びかける。
    『市民の皆さま、落ち着いてください。大丈夫です。慌てずに、まずは周りの状況をよく確認してください。不審なものや異変を見つけたら、すぐに知らせてください。専門の機動隊が対応し、必ず皆さんを守りますので、安心して警察の指示に従ってください。冷静に行動することが、ゴッカムシティ、ひいては皆さんの安全につながります。私はこの場にとどまり、会場に仕掛けられた爆弾を探しますので、警察は市民の安全を優先してください』
     市長の声は、終わりの方は叫び声だった。
     警察は不審物の連絡への対応、群衆事故への対応に人員を割かれ、動ける人間は少なかった。そもそも本当に、爆弾は二か所にしか仕掛けられていないのか?他にもある可能性は捨てきれない。
     自然と選択肢が限られる。犯人の言い分を信じるならば時間は30分しかない。まず、どこにある爆弾を優先して探すべきか。
     ――当然、就任式の会場だ。
     市長は市民を優先しろと命じたが、会場には街の名士、資金を寄付する富豪、政治に携わる人々がいるのだ。警察は檄を飛ばし、地上の機動隊に命じた。いま現場で暴動にあたっている警察はすべてそこから引け、街で騒ぎをおさめるより先に、市長たちを優先して守れ、と。
     児童保護施設「米の子学園」は、マッドクォッカとイマニタスの抗争に巻き込まれて親を失った子、虐待から逃げて保護された子、親に捨てられた子たちが寮に暮らし、併設された学校で学んでいる。
     爆弾を探すべく機動隊がクオッカクイーンズに突入しようとしたとき、それまで動かなかったマッドクォッカの一群が動いた。背後から機動隊へ襲い掛かり、銃の発射音と鈍器での殴り合いに血煙が巻き起こる。
    「わたしも、爆弾を探します」
     鯉登平二は若い花沢市長へ進言した。
    「しかし、平二どん。危なか。いつ爆発すっか分かりもはん。逃げたもんせ」
     親同士が旧知の仲で昔から知っているせいか、思わず地元の方言で話してしまう花沢勇作だったが、
    「けしみ(死ぬ)場所がここなら名誉なことじゃ。皆どんを守るっとじゃで」
     平二はかすかに笑うように息をつき、踵を返した。マッドクォッカのビルである以上、仕掛けられているのは70階と見るべきだが、犯人がイマニタスならその限りではない。このビル全体が探す範囲となるのだ――。

    「平之丞さま!お待ちください」
    「中山どん、モスモービルを出してほしか。すぐに出る!!」
     鯉登邸では、平之丞が出撃のため準備をしていた。
    「そのお怪我では、平之丞さまが危険です。それに、外はミスターモスモスJrが爆弾犯人と勘違いしている市民たちであふれています。警察も味方ではありません、いまやゴッカムシティ全体が敵となっているのですよ」
     中山執事の身体を張った決死の制止を聞きながらも、平之丞はベルトにつけているナノ粒子変身ボタンを押し、コスチュームをまとった。
    「それでも…行かんにゃならん」
     声に死をも恐れぬ決意をにじませ、モスモービルへ乗り込むと、ハンドルを握る。
    「米の子学園へ向かう。――中山どん、すみもはん。子どんのころからお世話になりもした。今まで……あいがと。」
     平之丞が見せた優しい微笑みに、中山執事がくずおれるように膝をつき、涙を流す。
     モスモービルは爆速で地をすべるように出発すると、脇からウイングを出した。ジェットエンジンノズルを出し、ジェット気流を噴出すると小型飛行機となって舞い上がり、旋回しながら空を切り裂き突撃していった。「目標地点まで7分です」無機質で感情のないコンピューターの声が、脳が煮えたぎるような今はかえってありがたい。平之丞はまず、自分が冷静にならなければと努めた。これからの判断が子供たちの生死を分けるのだ。

    「ンン~~ミスターモスモスJrも焦らしますねぇ。30分も待っていられません。警察とマッドクォッカが共食いしている間に、すべてを破壊しましょう。あの糞のクォッカビルが崩れるシーンは歴史に残りますよ、新聞社にも連絡して撮影するよう伝えなさい。ああ、市庁も背景にいれて撮りなさいね。あいつら市長らがどれだけ汚い連中かを、市民を見捨てて我先に逃げ出すウジ虫どもだと皆に知らしめなさい。ここは悪徳の街――裁きがくだるのは今日、いま、これからなのです」
     イマニタス幹部が椅子に座り、心が浮き立つあまりせわしなく足を組み替えながら部下へカーテン越しに指示を飛ばす。軍用ヘリを出撃させよ、と。
     部屋の片隅に控えていた、報道パスを首にかけた男へ顎でつかう。
    「お前も――行け。手筈通りに動けよ」
    「……………」
     男は無言でカメラバックを肩掛けし、頭を撫でつけながら部屋から出て行った。

     あの悪夢の映像が切れて10分後、放火か事故か不明だが、街に火が放たれた。爆弾の火だと群衆は勘違いし、それぞれ所属の違う――モザイクの如く、多様な民族が混在する街ゆえに――相手を犯人とみなして殴りかかり、高いところから突き落とした。
    火は業火となり、街全体をのみ込むように広がっていく。

    「ねぇ、どこ行くの江渡貝くん!!図書館でじっとしてなよ、外に出ると危ないから」
     温厚な風貌ながら腕っぷしの強い前山はなだれ込んできた暴力を入口で抑え、助けを求めて逃げ込んできた人を、所属など関係なく保護して街の図書館でかくまっていた。
    「月島さんをずっと探してて…ああもう、こんな時に限って長期休暇なんてとってるし!!」
    「月島さんなら、強いから心配しなくても大丈夫だよ。ほら、こっちに来て座りなよ。僕が江渡貝くんを守るからね」
     そこまで言ったとき、ガシャンと大きな音を立てて図書館の壁、はめ込みガラスが同時に複数割れた。斧を持った大柄な男が3人乗り込んでくる。
     腕をまくり、前山はパイプ椅子を手にしてゆっくりと3人の方へ向かっていった。

     きっかり7分後、平之丞は米の子学園の上でモービルをホバリングして土煙をあげながら地上へ降り立った。
     周りには誰もいなかった。警察もいなければ、爆弾が仕掛けられていると分かっているので暴動の波もここには来ないのだ。
     ひとりも取りこぼさず秩序立って逃げるために校庭に子供たちが整列し点呼を取っている途中で、まだまだ全員が出てくるには時間がかかると思われた。
    「何の用だ!警察に何度電話してもつながら――… あッ、あんたはッ!!」
     何人かの教師が出てきて、ミスターモスモスJrのコスチュームを目にするなり殴りかかってきた。刺股(さすまた)を手にして抑えにかかろうとする教師もいる。
     殴りかかって拳が当たったはいいが、ぐきっと手首のほうをひねった教師をなだめるようミスターモスモスJrは説得にかかる。
    「話を聞いてください。あの画像のミスターモスモスJrはニセモノです。…私は、爆弾を止めに来ました。先生方は迅速に子供たちを避難させることに集中してください。どんな奴が襲い掛かってきても、私が闘って追い返します」
     ミスターモスモスJrを目ざとく見つけた子供たちが、皆一斉に窓から手を振る。
    「見てー!来てくれた!!」
    「やったーミスターモスモスJrだ!!助けに来てくれたんだ!!」
    「だから言っただろ、ミスターモスモスJrが爆弾なんて仕掛けっこないって」
    「足を怪我してるけど、強いよな!!!」
     ミスターモスモスJrの足にはめられたギプスが生々しい。先日の戦いを知っている者からすれば、ミスターモスモスJrが足を狙撃されたことは揺るぎのない事実であった。
    「刺股をおろしなさい」
    「学園長!」
     今にもモスモスJrへ飛び掛からんばかりの先生たちをとめ、今年定年の学園長がやってきた。
    「警察にも見捨てられて、爆発まで残り20分もない今、子供たちを逃がすため手伝いに来てくれる人を信じなくてどうするのです。ミスターモスモスJr、わたし達にできること、すべてお手伝いいたします。」
    「……ありがとうございます!!」
     全力で平之丞は頭を下げた。信じてくれたことが何より嬉しい。
     ミスターモスモスJrは時限爆発を探すための探知機を起動させ、反応をさぐりつつ松葉杖を器用に操って学園を急いで駆けまわった。怖くて動けず、うずくまったままの子供に励ましの声を掛けながら。
     探知機は3つあり、学園長は学内を、もう一人の教師が寮をあたってくれている。
     ――と、そこへ、ものすごい振動が起こり、学園の屋根が一部崩落したのだった。教師は校庭に並んだ子供たちを守るため覆いかぶさり、子供たちはお互いだきあって空を見上げる。学園の上空に、ホバリングする巨大な影。裁きの炎が近づいていた。
     

     鯉登邸の前にも、マッドクォッカかイマニタスか、または扇動されたとおぼしき市民たちが簒奪のため押し寄せてきた。頑丈な門がすべての攻撃を防いでいるが、音だけは消すことが出来ない。鯉登ユキは寝ることも許されず細く咳き込みながら居間で気をもんでいた。息子二人は出ていき、夫は爆弾のしかけられている地にいる。夫の性格では、逃げるなどはなから選択に入っていないだろう。
     ディスプレイに映るのは、街の暴動のありさまと、就任式会場で「我々は助かるのか!?」と恐慌状態に陥り、市長を責める政治家たち。米の子学園は一度も映されない。子供たちのプライバシーに配慮という名目だったが、そこまで報道人員が避けないのが現状のようだった。ここでも児童保護施設が「後回し」にされているのだ。
     米の子学園には、ユキが何度も寄付のため訪れていた。時折りやってくる学園のOBだという青年が、とてもうまく絵本や紙芝居を読んできかせてくれるので、子供たちが喜んでいたのが印象的だったのを覚えている。ユキも観賞会に参加して、話に引き込まれて最後まで聞き入ったことが何度もあった。確か『ひゃっくんのたいせつなわすれもの』という名前の絵本だった。青年の顔は、本に隠れて見えなかったけれど――…
    「平之丞、母は心配などしちょらん。必ず子どんたちを助くっとじゃ」
     両手を祈るよう組み合わせ、頭をのせて強い声音で告げる。
     そこへ大きな爆発音がして、ユキは顔をあげた。ディスプレイから聞こえるそれは、軍用ヘリが何機も空中を席巻し、街を、クオッカクイーンズを、市庁を、警察署を、そして…米の子学園を砲撃する映像だった。地獄だった。30分後の爆発宣言を待たずして、街は火の海だった。
     圧倒的な暴力の前に何もできず、ただ呆然とするユキのもとへ、中山執事が転がり込んできた。
    「奥様!GPSの圏内に、坊ちゃんの車の反応が――はぁっはぁっ、反応が、あり――ましたッ」
    「え、………?」
    「音之進坊ちゃんが、ゴッカムシティにお戻りになられました!!」



    「――つまり、音之進さんが主から刀を引き抜いたとき、ある心象風景…が視えたということですか」
    「ああ、光のなかでおいはいっきょた……刀に宿った幽霊かもしれん」
     猛スピードでゴッカムシティへの帰路を急ぐ車内で、ワンダーウームンと音之進が会話している途中、つけていたラジオの音楽が途切れ、『親愛なる市民の皆さま、ごきげんよう。今日はこの私、ミスターモスモスJrが花沢市長へお祝いをするために参上いたしました。』という音声が流れ始めた。
     ラジオをジャックされて、ニセモノがモスモスJrの名を騙ったとすぐ分かったが。次の予告は残忍極まりないもので、音之進は額に血管を浮かび上がらせてアクセルをより深く踏み込んだ。
    「ゴッカムシティへいっき(すぐに)戻っど!!アクセル全開にしてん、もうしばらくかかっどん」
    「はい!!」
     モスモービルならもっと早く戻れたが、これは特殊な改造をした車ではない。焦りながら、音之進はハンドルをきった。兄さあ、おやっど、おっかん、…ゴッカムシティを守るため、みんなおそらく個々に闘っているだろう。
     気がはやる音之進の隣で、竜の刀が鈍く光った。まるで力を貸す代償に足る――人型を探しているというような趣で。
     力のない者が我を振るうのは冒涜だ。相応の罰を与えるのを鞘の中でまどろみながらじっと待っている。

     クオッカクイーンズの70階がヘリから機関銃に撃たれ、窓ガラスがすべて砕け散る。細かいガラスの破片が散らばった。悲鳴とともに人々はうずくまったが、強風が部屋を荒れ狂い、紙や装飾品など軽いものはすべて外へ吹き飛ばされていった。
     会場内の豪奢なシャンデリアは大きく揺れ、根元からちぎれて落下した。テーブル上に粉々になり、逃げ遅れた来賓者が下敷きになり、怪我を負った。
     花沢勇作は肌をかすったガラス片により血にまみれながら、叫んだ。
    「私のいのちが目的か!なら差し出そう、もう罪のない人を巻き込むのはやめろ!!」
     鯉登平二はガラスが割れた気圧の変化でバタバタと開閉を繰り返す扉を押さえながら、腕時計から目を離さない。時計に仕込まれているのは受信機。監視カメラや小型コンピュータが近くにあれば探知できるアイテムだ。
    「あと少し離れたところにあっ。ここを離るっこっが出来れば…」
    「平二」
    「!!幸次郎、ないごてこけきた!? 病にふせっちょったんじゃなかとか」
     現れたのは学生時代からの親友、花沢幸次郎だった。激務で体を壊し、療養していると聞いていたが…どうやらエレベーターが停止し70階まで歩いて来たらしく、もう体力を振り絞った後のようで、足取りもおぼつかない。
    「……勇作……息子が困っちょっときに、助けてやれんなら父親じゃなか」
     どさりと倒れて虫の息ではあるが、親友の前では虚勢でも何でも張りたいらしく、幸次郎は胸をどんと叩いた。
    「………ここはおいがおせる(抑える)で、わいは自分の仕事をせんか。いけ!!」
    「わかった。任せっ」
     平二は走りながら腕時計を見る。近い、あとわずか走った先に…爆弾は、ある。


     火花を散らし、音之進は後輪を回転させながらスピンカーブで止まらず走り抜いた。しかし前方に架かる巨大な橋には、ゴッカムシティから逃げ出そうとする者たちが玉突き事故を起こしたらしく、上りも下りも渋滞が長く続いている。これ以上はいくらアクセルを踏みこんだところで意味もなく、ゴッカムシティへは自らの足で走るしかないと考えていた時、車内のナビゲーションシステムに点滅する光が現れた。
    「これは、… モスポッドのGPS。鯉登家の持ちもんじゃ。近ぢてきちょい」
     モスポッドは特殊装甲オートバイだ。もともとモスモービルは平之丞が使っており、モスポッドこそが音之進の愛車といえた。
    「どなたが乗っているのでしょうか。それに、この渋滞です。どうやって近づいて…」
     獰猛なアクセル音が響く。なんと、橋の欄干の上を走って、モスポッドが音之進の車の傍へ到着した。操縦席に乗っている女性がヘルメットを外したのを見て、ワンダーウームンはあっと驚く。鯉登ユキ、音之進さんの御母堂だ。御母堂の後ろに張り付いている男には見覚えがある、鯉登家執事の中山氏。ゆっくりの走行だからタンデム出来たが、生きた心地がしなかったであろう、中山氏は青ざめ頬がゲッソリこけていた。
     ユキはバイクスーツに身を包んでいる。ワンダーウームンは急いで車の窓を開け――そしてユキは音之進と視線を交わし、“なにか”を投げた。パシッと小気味よい音をたて、落とすことなく一発でつかみ取ると、音之進はあいがと、と告げた。ナビゲーションシステム脇のボタンを押すと、車の窓ガラスが閉まり、すべて磨りガラスに変じる。
     シートベルトを引きはがし、音之進はナノ粒子ボタンによって一瞬で――『竜の王子』へと変身する。開けた窓から両足を突き出し、逆上がりの要領で一瞬で車体上へ飛びあがる。車の磨りガラスは元に戻り、刀を手に地へ舞い降りた彼へユキはモスポッドを譲り渡した。
    「兄は米の子学園へ行きもした。あたはクオッカクイーンズへ行きやんせ」
    「了解しもした」
     音之進――竜の王子は頷き、モスポッドへ乗り込む寸前、開けた車窓から心配そうに見つめるワンダーウームンに優しいまなざしを向ける。触れるか触れないかの距離で彼女の頬へ手をかざし、感謝の言葉をそっと告げた。
    「ここまで、あいがと。…安全な場所で待っちょってくれん。必ずあたん(あなたの)もとへ戻っ。」
    「……1人乗りでなければついていきたかったです。必ず、また会えますよね。」
    「約束は守る。安心したもんせ」
     音之進はモスポッドへまたがると、前輪を大きく跳ね上げさせてポッドの巨体そのものを宙に浮かせた。積んでいるエンジンの出力は想像もつかない。まるで飛び跳ねる暴れ馬だ。巨大な鉄馬を手慣れたようすで扱い、幅1メートルもないであろう橋の欄干の上へ後輪を着地させ、ここへ来た時より3倍のスピードを出して爆走する。欄干からすこしでも車輪が外れれば橋の下へ真っ逆さまだが、蜘蛛の糸さえ渡り切った音之進にはどうということもない。
    「…御武運を…」
     音之進さんをお守りください、と。両手を組んで祈るところを横からじーっと見つめる視線に気付き、ワンダーウームンはぴゃっと飛び上がった。
    「はぁ~~~~~~…気難しいあん子がなんのためれ(躊躇い)もなっ人前で変身ボタンを使うた…。音之進は、けね(家族)以外は絶対に信用せんとじゃ。あたはよっぽど信用されちょっじゃなあ。」
     ユキは嬉しそうに口元をほころばせた。
    「あ、あの、はじめまして。道の途中で行き会ったので、ゴッカムシティまで一緒に乗せてもらっただけです。」
     ユキと初めて会うわけでもヒッチハイクで乗せてもらったわけでもないが、ワンダーウームンは咄嗟に嘘をついてしまう。音之進との間柄は第三者には説明し辛い。
    「おっ、奥様、平之丞坊ちゃんから連絡が…!」
     中山は青から赤に顔色を変えてあわただしく進言する。
    「米の子学園に爆弾が… 2つ、あった、と……」
    「なんやって!?」
     青ざめたユキが叫ぶ。
     中山執事は腕時計へ耳をつけている。時計を通じて平之丞と連絡をとっているようだった。
    「同時に止めないと爆発する仕様のようですが、いま、米の子学園はヘリから襲撃を受けていて……離れた場所にある2つを運べず、連携が取れないと」
     爆発まで残り、10分。
    「私が行きます!!」
     ワンダーウームンは車から飛び出した。月島は、米の子学園の寮で子供の頃暮らしていたのだ。図書館司書になったあとも、紙芝居を読みに何度か通ったこともある。すぐにでも行きたい、しかし、移動手段はどうする。走っていっても到底間に合わない…
    「あの、…よろしければこちらをお使いください。総力戦と聞き、私もモスモス執事として変身するため持ってまいりました」
     中山執事は、執事服の内ポケットから――ナノ粒子変身ボタンを取り出した。

     数秒後。
     渋滞でイライラし、焦燥に駆られて前の車へ喧嘩を売りに出、また喧嘩を買いまくって酔いながら殴り合いしていた荒くれドライバーたちは見ることになる。
     宙へ飛び立ち。黄金の胸当てにナノ粒子ボタンをつけ、押した刹那、全身が真っ白な光につつまれ、蝙蝠のような羽が背に生えたと思いきや… 次の瞬間、蝙蝠の羽は金の粒子をまとった天使の翼にかわって。まるで最初からあった翼を背から解放したような――屈強で筋肉隆々の女戦士が、空を飛び滑空していく神々しい姿を。


     音之進はクオッカクイーンズまでやってきていた。
     59階までモスポッドで階段を駆け上がったが、そこから先はヘリの銃撃により階段は崩落していた。もちろん窓ガラスも粉々になっており、ホール内の豪奢な調度品はあちこちに倒れ、紙や小物が散らばっている。
     モスポッドから降り立ち、気を抜けばビル外へ引っ張られ、まともに目を開けていられないほどの強風に煽られながら、音之進は70階を見上げる。躊躇っている時間はない。
     ――階段、かいだんを探さなければ。
     ふと、爆音をあげてホバリングする軍用ヘリが視界に入った。2機、62階と67階あたりの空中に駐留している。
    「何だ、あるではないか。――”かいだん”が」
     薄く笑うと、音之進は腕をあげ、ワイヤーロープを手首から射出するため構えた。
     地上との気圧の差を考えれば、普通の人間ならば自殺行為である。しかし音之進は躊躇いなく行動に移した。
     先端の尖ったワイヤーロープが、ヘリの脇腹に突き刺さる。そのままロープを繰ってビル外へ躍り出る。耳がおかしくなるほどの風圧、強風による体温の低下、すべてをものともせず、音之進は振り子のように数10メートルを舞った。体躯のバランス、腕の動き、わずかでも操作が狂えば、59階から落ちて地上にたたきつけられるこの目の眩む高さで。
     最高点に達したとき、ヘリに刺したワイヤーロープを引き抜く。そこで異変に気付いたヘリが、その首を音之進へ向けた。操縦桿を握る男が、信じられないという顔で口を開けている。旋回しながら突風に揉まれる音之進は、竜巻に飛ばされた小さな木の葉も同然だった。常人ならばGにより身体にかかる負荷で、とっくに脳への血液供給が途絶えていただろう。しかし音之進ははっきりと意識を保っていた。
     体勢をいったん立て直すと、ワイヤーロープをもう一撃――67階に浮くヘリへと突き刺す。
    「っ!!」
     誤算だった。数ミリ手元が狂ってガソリンタンクに突き刺したらしく、穴から吹き出したオイルが音之進の服や体に降り注ぐ。だが微塵も動揺を見せず、音之進は振り子の要領でさらに身を高く跳ね上げた。
    「見えた!――68階!!」
     ワイヤーを身体から切り離し、そのまま窓ガラスへ肉薄すると、手にあった刀を一閃させてガラスをすぱりと切り抜き、飛んできた勢いを殺さずビル内へ転がりこむ。猛烈な風が背を押し、受け身をとっても勢いは止まってくれず、部屋内の調度品に体をしたたかにぶつけた。痛みを感じ一瞬気が遠くなりかけたが、打撲を気にしている暇はない。俊敏な動作で音之進は遮蔽物の陰に飛び込んだ。次の瞬間には、軍用ヘリ2機からの一斉射撃が68階の切った窓ガラスを粉々にし、音之進が転がり込んだあたりの調度品を蜂の巣にして、ただのひん曲がった板切れと木屑に変えてしまう。
     全身を疼かせる痛みなど物の数ではない。68階から70階までの階段はまだ使える、ガソリンを垂らしながらもひと息に駆け上がり、ようやく音之進は70階までたどり着いたのだった。
     就任式会場まで駆け、市長と――父、そして死にそうな顔をした幸次郎や負傷者が部屋のすみに横たわっている現場へ踏み込んだ。
    「!!あなたは!!ミスターモスモスJrのお友達のお方ですね!」
     花沢市長が血まみれで、ぱっと明るい笑顔をみせる。
    「……!おと、…… いや、……竜の、王子。」
     平二が目を見開いて、それでもかすかに笑った。
    「……全員御無事…とはいかなかったようですが、大事はありませんか」
    「よく来てくれた。あなたが来てくれれば、安心だ。なにより心強い」
     平二はそうはっきりと告げ、息子の目をみつめた。
    「ミスターモスモスJrのお友達のかた、こちらが平二殿が発見した爆弾なのですが――」
     花沢勇作市長が、音之進へ爆弾を見せようとした刹那、
    「!!みんな、伏せてください!」
     竜の王子の怒号が響く。侵入者を追って68階、69階を丁寧になぶり尽くしたヘリによる機関銃の集中砲火が、70階にも容赦なく降り注ぐ。
     その一発が、爆弾のつまったメタルケースに直撃した。…が、爆発することなく逆に銃弾がひしゃげてケースに張り付く始末だった。
    「はぁっはぁっ…皆さん、無事ですか!」
     花沢市長が頭をかばい伏せた体勢で、みんなの安否を確認する。皆、声を出す元気もなかったが、平二は床で「モス!」といい、竜の王子はケースへ近づくことで無事であると返答する。
    「ケースには継ぎ目もなく、開けられません。何をしても…先ほど見たように、機関銃をもってしても、開けられないのです。おそらく爆発の時間にならないと開かない仕様かと思われます」
     花沢市長が暗い声で告げた。秒針が刻まれているかすかな振動だけがメタルケースから伝わってくる。
     これほど頑丈な箱が四散するという…中に入った爆弾の威力というのはいったいどれほどのものか。
    (おいの刀なら斬れる…が、もしも中身に傷をつけたや、爆発ん恐れがあっど…)
     皆の命がかかっている以上、賭けにでるわけにはいかなかった。
    「…花沢市長、お願いがあります。」
    「何でもおっしゃってください!」
    「あの軍用ヘリ2機を、1分で私が始末します。その隙に、急いで負傷者も含めた皆を、なるべく早く避難させていただきたいのです。」
    「え、ええ… わかり、ました。しかし、あなたは…?」
    「――ここへ残り、私が爆弾を斬ります」
     ふたりのやり取りを、生中継で市民全員が固唾をのんで見守っていた。


    尾形百之助の請け負った仕事というのは、米の子学園爆撃の援護だ。
     万が一、ミスターモスモスJrが来たら狙撃するというのがメインのミッションでもある。
     ミスターモスモスJrの殺害命令。本物を殺して、ニセモノを本物として仕立て上げる。ミスターモスモスJrの崇高な思いを踏みつけ汚い足跡をつけて、決して皆を救うヒーローなどにはさせない、というイマニタス幹部のゆがんだ執着を感じさせた。だが、狙撃手である尾形には任務の内容などどうでもいいことだ。雇い主の命令に従うだけだった。
     クオッカクイーンズ周辺の阿鼻叫喚と、燃える家々、天井知らずに増える犠牲者の人数、もはや政治家一家の花沢市長の威光は地に落ちたと言っていい。これはまぎれもない人災なのだから。
    「……来たか」
     ビルの屋上に陣取った尾形は、双眼鏡をのぞきこみ呟く。
     予想にたがわず、ミスターモスモスJrはクオッカクイーンズではなくこちらへ現れた。双眼鏡で観察している限りでは、教員たちと手分けして爆弾を探っている様子だ。イマニタス幹部から聞いた話によると、爆弾は二つ。同時に破壊しなければ解除できないという、仲の良い兄弟のような…爆弾と云えた。
     ――くだらねえ。とっととミスターモスモスJrを撃てばいい。
     手分けして探している相手と通話をしているらしく、電波を拾うために窓際に立っているとは、ミスターモスモスJrは何とも迂闊な奴だ。それほど切羽詰まっているのだろうが、敵はどんな手段も選ばない相手だと識っておくべきだったのだ。狙撃銃を構えると、スコープの照準に捕らえ、狙いを定めて引き金に手を掛ける。
     ヘッドショット。一撃で決める。尾形が引き金を絞るため指を動かそうとした瞬間――スコープに、ふんわりとした白い翼が視界いっぱいに…… 見えた。


     同時刻、ミスターモスモスJrは舞い降りた天使に驚愕していた。
    「あなたは、もしや…ワンダーウームン!!!」
     平之丞と直接の面識はないが、弟から具体的に外見の特徴を何度も聴いていた。ティアラと胸当てをつけた坊主の屈強な女戦士だと。
     降臨した天使に、学園の子供たち――とりわけ女児たちは大はしゃぎでテンションマックスだった。
    「ワンダーウームンだあ!!可愛い!!!」
    「助けに来てくれた!!」
    「翼ついてる!!きれい…しょうたいは天使だったんだあ…」
     ナノ粒子が形成した疑似翼ではあるが、しっかり仕事をしてワンダーウームンを米の子学園へ運んでくれた。
    「竜の王子はクオッカクイーンズへ向かわれましたので、代わりに私が。中山さんから聞いております。爆弾を二つ同時に破壊すると」
    「ええ、私が見つけたこの爆弾… 中を開けたところ、ここに二本コードがあります。このコードの切除により爆弾は機能停止する。つまりもう一つの爆弾と合わせて四本のコードを同時に切る…それが爆弾解除の条件です」
    「もう一つの爆弾はどこに?」
    「それが…」
     ミスターモスモスJrの手にある学校のスマホから、学園長の声が聞こえた。
    『見つけた見つけた!そっちに持っていきたいが、天井が崩れたせいで階段が通れなくてな。その、なんたらコードを同時に切るっていうのは……ちぃとワシには難しい』
     ワンダーウームンは事の次第を把握すると頷いた。
    「承知しました、すぐ行ってここまで爆弾を運んできます。」
    「危険です!行くまでにあなたが機関銃に撃たれる。それに、ここまで運ぶ過程で少しでも揺らしてしまったら、タイムリミットの前に爆発する仕掛け…なのです」
     動かしてはならない――
    「…でしたら、私が飛んで行って、コードを切断します」
    「機関銃の一斉射撃をかいくぐっていくなど、不可能です!私があちらへ取りに行きますので、あなたはここに、」
     そこまで言ったとき。
     学園全体を揺らすような爆発が間近で起こった。とっさにワンダーウームンは爆弾を抱きかかえ、揺れから守る。同時にきゃー!という生徒たちの声が聞こえてワンダーウームンは一気に肝が冷えた。まさか、子供たちに害が。
     だが、即座に窓辺へ張り付いて状況確認するミスターモスモスJrによって、それが杞憂だったことがわかる。
    「え…まさか… 敵の軍用ヘリが、墜落しています…」
     きりもみ回転しながら地上へ落下し、煙を撒き散らし炎に包まれている。
     二撃目が、学園門の前に停めてあった装甲バスのエンジンを貫き、またも爆炎とともに金属が四散した。なかに乗っている武装した悪党の肉体とともに。
    「誰かが… 狙撃した…!?」
     ミスターモスモスJrが呆然と言葉をこぼす。
     いったい誰が、なんの目的で。それが判明しないうちは動けない。次は爆弾を撃ち抜く算段かもしれないからだ。ミスターモスモスJrが腕時計に設えてあるコンピューターで周辺の地図を出す。ヘリと敵のバスを一撃で撃ち抜いた弾道から判断すると、
    「――あそこにある、ビルの屋上かもしれません。狙撃をした人間がいるのは」



    「ははあ、ワンダーウームン。あんたに惚れました。つきあってください」
     髪を前から後ろにせわしなく何度も何度も撫でつけて照れを隠しているのか。
     狙撃の弾道から割り出し、ワンダーウームンが駆けつけると、狙撃手はそんなことをうそぶいた。冗談を言っているようにしか見えない。
     飛んできたワンダーウームンには、尾形百之助と名乗った男に見覚えがあった。あの飛行機で隣り合った、怪しいPRESS札を下げた報道機関の男――
     周囲にある狙撃ライフルを見て正体が判明したが、男の言っていることはまったく分けがわからないし、信用も出来なかった。 
    「会えなかった間にも、あんたのことが頭から離れなくて、どんどんハマっちまいました」
    「……いまは冗談を言っている時ではないでしょう」
    「…冗談では、ねえです」
     ゴッカムシティはいまこの時も火の海に飲み込まれている。
     この街のどんな福祉も幼い尾形百之助には手を差し伸べず、それどころか疎外して奪うだけ奪ってきた。だから誰が苦しんでいても興味のないことだったが、――米の子学園だけは違った。尾形を受け入れて、寮に住まわせてくれた。そしてOBだという、ワンダーウームンにそっくりな男が絵本を読み聞かせに来たのだ。タイトルは今も覚えている。『ひゃっくんのたいせつなわすれもの』。飛行機で隣り合ったとき、そのボロボロになった絵本があの坊主頭の持っていたトートバックからのぞいていた。
    「本当に冗談ではないです。あんたにはそっくりのお兄さん…か弟がいるでしょう?今度3人で飲み行きませんか。いろいろ知りたいんです、あなたたちの事」
    「何を訳の分からないことを言っているんです。」
     この切羽詰まったときに付き合っていられない。無視して飛び立とうとも思ったが、しかし“そっくり”とは何をもって?ワンダーウームンは素顔を隠しているというのに。
     それに、この狙撃の腕前から、このまま泳がしておくには危険な相手といえた。そのためどう扱うか決めかねていると、狙撃手はどんどん話を進めてきた。
    「つきあってくださるんなら、有益な情報を幾つもお教えしますよ」
    「…………内容によります」
    「つれないですなあ。そんなところもいいですが」
    「冗談など聞きたくありません」
    「嘘ではねえです。」
    「もし、誠意を見せていただけるなら…、私のお願いをひとつ、聞いていただけますか。」
    「……」
     内容を聞くと、尾形は胸をのけぞらせて、フンスと息を吐いた。そんなことは朝飯前だと言いたいらしい。

    「ミスターモスモスJrさん、学園長さんへ指示いただけますか。3階東側の窓際に、爆弾の箱を開けて、コードが二本直列に…窓から見て重なるよう置いてくださいとお伝えください。その際、窓を開けていただけると助かります」
     中山執事から借りた腕時計を使い、ミスターモスモスJrと連絡を取る。
    「学園長さん準備できましたか。…ん、なに、ああ… あの、こちらは、3秒で片をつけてやる、とのことです。私が3からカウントします。1の段階でモスモスJrさんはコードを切断していただけますか」
     尾形が腹ばいになり、狙撃用ライフルのスコープをのぞきこむ。前髪のチョロ毛で風の流れを測定――…
    「カウントを開始します。さん、に、…」
     いち、という前に、スナイパーライフルは火を噴いた。まっすぐに飛び、ミスターモスモスJrが鋏をつかってコードを切断したときとまったく同時に、弾丸が学園長の手元にある爆弾コードを引きちぎった。わりと近くにいた学園長がひえええええーと叫んだが、これは誰にも聞こえなかった。
     はぁっ、はぁっと肩で息をしたミスターモスモスJrが、コードを切った後も沈黙を続けるかつて爆弾だった物を見て、ほー……っと力を抜き、額に流れた汗をぬぐった。

     ビルの屋上で、得意げに胸を張る尾形。
    「ね?誠意をみせたでしょう。俺とつきあってください。大事にします」
    「なぜ、軍用ヘリを落としたのですか。あなたに得は無いはずなのに」
    「得はすこしあります。…俺は米の子学園出身ですから」
    「……!私も、です」
    「やはり必然の出会いですなあ、我々は。」
    「……つきあうか決めるのは…まず食事に行って、話をしてからですね」
    「分かりました。一張羅を準備しておきますよ。ああ、有益な情報ってやつ、まだ言ってませんでしたね。お教えしますよ」
     今度こそ自信たっぷりに、髪を前から後ろへなでつけると、尾形はある場所を告げた。


     ひとりに爆弾を任せ、市長たちが逃げ出す――という様相を映し出す、就任式会場の生中継は、またもや画像が偽ミスターモスモスJrにのっとられた
    『みんな楽しんでるかな?大事なひとを失ったり、大事なひとだったのに信じられなくて殺しちゃったり、みんな違ってみんなクソ!楽しいね♪』
     両手をこすりあわせてご満悦の偽ミスターモスモスJrは、懐から紙幣の束を取り出した。
    『さぁ、宴もたけなわ、あと3分でばくはーつ!!みんなで花火を一緒に見たそのあとは仲間たちで偽物のミスターモスモスJrを捕まえよう!五体満足で生け捕りにした人には賞金100万$!リアルなマンハント!!正体を暴くゲームに突にゅッ……ッッッッ…』
     突然、モスモスJrのニセモノは腕と身体をよじらせ、首を90度曲げ、奇妙なうめき声をあげた。下手な操り人形のようだ。荒い解像度のため画面にはハッキリ映っていないが、上から垂れ落ちてきた黄金の紐…のようなものが偽ミスターモスモスJrの首に巻き付いていた。
    『すべて“真実”を話せだと…誰がそんなバカなことを――…い、嫌だ!――…――うぐゥッ、……ぉおおぉぉおおぉ… 、』
     ガクッと首を前に落として数秒後、ゆっくりと顔をあげる。声には憎悪がこもっていた。
    『――お、俺は… 俺はモスモスJrみてぇな偽善者は大っ嫌いだ!!どうせ金持ちのうしろめたさから来る道楽なんだろうが!!』
     勢いよく、偽物のミスターモスモスJrはマスクに手をかけ自らはぎ取った。イマニタス幹部の顔がゴッカムシティ内中にある、いまだ機能しているテレビに大きく映し出される。
    『ゴッカムシティは腐っている、政治家も警察も腐敗している。悪徳の街が焼かれるために、悪徳を見過ごし、何もしなかった奴らが多少焼かれても仕方なかろう?…裁きの火を持って破滅を受け入れ、無垢な人間を贄として再生しなければ我々の新しい道はない――!!犠牲を、痛みを、受け入れろ、弱者ども!!』
     自分は高みの見物をしながら、大口をあけてがなり立てると、酸蝕症により溶けた歯と新しく入れた白い歯の交互に入り混じった口腔内が丸見えになった。
    『ああ、いいことを教えてやる。――クオッカクイーンズ70階に設置した爆弾は、決して解除できない。特殊合金の箱に入れてあるからな。全員神による裁きを受けてふっとべこの悪魔どもが!!――ゥッ…』
     があああ… と藻掻き苦しみ、しまいにはパンツの股に黒い染みがにじむ。失禁するほどの葛藤の末、最後に、イマニタス幹部は胸の最奥に隠した秘密を洩らした。
    『は、は、… 内緒だけ、どぉ~ あの爆弾、バクハツ時間、早めに、ずらしてあるんだよ、ね…… … …サプラ~~~~イ……ズ』
     瞬間、真実の鞭は首からしゅるりと解けた。イマニタス幹部が気絶してどさりと横倒しになる。中継はそのまま、気絶した男を映し続ける。
     尾形と名乗る…例の狙撃手が教えてくれたのは、イマニタス幹部のアジトだった。ワンダーウームンはカメラに映らない死角に降り立つと、窓際まで駆け抜け、顔の前に腕を交差しガラスを割ってそのままビル外へ飛び立った。
     敵の言うことが本当ならば、残り時間は2分もない。
     決して解除できぬ爆弾のそばにいるのは――彼なのだ。

     
     クオッカクイーンズ70階。
     割れた窓から跳躍し、音之進はビルの周りをハエのように鬱陶しく旋回するヘリの一機に飛び乗った。ガソリンが漏れているのでそう長くは飛んでいられまい。ヘリの壁面を蹴り十メートル離れたもう一機のヘリへ飛び移ると。回転翼を根元から斬った。もちろん飛ぶことは出来ず、重力に引かれ落下するのは必定だ。その縁を蹴り、宙へ飛び上がると――もう一機の桿を握る操縦士を、壁面へ刀をつきたて脳天ごと串刺しにする。肉を断つ感触、生命を奪うことの罪悪感はとうに捨ててきた。壁から引き抜いた刃は血にまみれており、一瞬遅れてヘリの窓ガラスへ血飛沫が散った。
     音之進がヘリから飛び離れ、もう片方の腕から出したワイヤーをビル壁に突き刺し70階に戻ったころには、2機は激突して爆発炎上し、きりもみ回転しながら落ちていく。花開く爆炎に、だが音之進の眉間に緊張がはしった。肌や髪に付着していたオイルが発火し、火炎の花が閃く。いつか血に穢れた己へ罰がくだるとは思っていたが、あと爆弾を斬る時間だけ、残して…欲しい。
     がなり立てる声に眉をひそめて就任式場ディスプレイへ視線を送ると、ミスターモスモスJrのニセモノによる常軌を逸する行動と言動が映る。のこり1分と思われた爆弾に猶予はないと知ったのだった。
     皆がすでに避難し終えて70階には誰もいないが、大所帯で怪我人もいるためおそらく68階あたりで退避は滞っているだろう。火だるまとなった音之進は爆弾を前に呼吸を整えた。左腕がやけただれ、必殺の一太刀を繰り出す力はもう残っていない。沸々と胸に沸く思い。
    「…ツキシマ」
     それは声という音をしていただろうか。煙はすでに喉を焼きつくし、インバネスの布地は火の帳となって音之進の生命へ覆いかぶさり消そうとする。音之進は力を振り絞り、爆弾を抱えて全速力で駆けた。70階の割れた窓ガラスの縁を強く蹴りそのまま遠くへ跳躍し重力に身を任せた。
     歯を食いしばって全身を焼く苦痛に耐える。肌を焼いて発する焦げた匂い。そして合金に包まれた爆弾は、光を発して静かに破裂した。68階より遥か下で。
     音之進の半身は千切れ飛び、左手に付けた指輪も灰塵と化した。猛火は音之進をなぶり尽くした。顔の半面は焼けただれ、左目を奪った。体内に燃え広がり、臓腑さえも焼き尽くし全身の神経さえ破壊した。もう苦痛さえ意識へ届かなくなったせいで、穏やかに音之進は片眼で世界を見わたすことができた。幼いころから暮らしてきたゴッカムシティ。大切な人たちと暮らし、愛するひとと出会えた街。
     地上にたたきつけられる前に、脳が壊死して意識は途絶えるだろう。そのとき鯉登音之進という人間もこの世から消滅する。

    「――音之進さん!!」
     聞いているだけで、心臓が悲しみで締めあげられるような声が音之進の聴覚を震わせ意識を引き戻した。
     翼を使い、強風をものともせず飛んできたワンダーウームンは、炎にまかれて焼けただれ、身体も半分に千切れ――爆弾にその美しい姿を蹂躙された竜の王子を、両腕で抱きとめた。
     慈愛といたわりをこめて、抱きしめる。
     遅かった。ワンダーウームンは間に合わなかったのだ。後悔してもしきれない。
     思えば、月島にとって、この身も心もすべて彼を優先して彼の苦しみを癒すために、捧げるべきだったのに。それなのに、もう…すべてが遅かった。
     月島が伸ばした手はあまりにも弱く、何もつかめず、炎のなかで全てが朽ちていく。音之進が右手に握り締めた刀だけが、炎になめつくされても形を損なうことなく鈍く光っていた。
     突風に背をおされながら、ワンダーウームンは尋ねた。
    「…どこか、行きたいところはありますか」
    「…… うみ、じゃな。指輪をもろうた、特別な場所じゃっで」
    「はい。お連れします」
     肌が焼けるのも構わず、ワンダーウームンは音之進を大事に抱きながら海辺へ向かって飛んだ。
    「離して、くれ… あた(あなた)まで焼けてしまう」
    「いいえ。…一緒に、います」
     人の形をした消し炭と化していく音之進にとって、言葉を発することさえ奇跡のようなものだった。
    「…やっせん(だめだ)、いまこん時でん、あたを愛しちょっとは言えん…。おいは不実な男じゃっで、捕らわるっ必要はなか」
    「いいんです、あなたが私を想っていなくても」
    「いまも忘れがならん… 最後に会おごたった … … ツキ、シマ……幸せに暮らしちょっか… 見届けよごたった……」
     いまも忘れられない。最後に会いたかった。ツキシマに。幸せに暮らしているか見届けたかった。
     多くの人を救おうとその身を捧げた音之進の最後の希みに応えるように、炎はワンダーウームンへも燃え移り、顔を覆っていたマスクを糸くずに変える。もはや熱にまかれた片目ではとらえられないというのに、素顔を目にして音之進はつぶやいた。
    「ツキシマ… !!」
    「…鯉登くんは本当のヒーローだ。ずっと傍にいる。もう離れないよ」
     言葉通りに胸へ抱きしめて、月島はもう正体も何もかも隠すことなく真意を告げた。
    「うふふ…嬉しかぁ。正体がツキシマなら、あたを好きになっとも仕方なかった…な… 」

     音之進は「離れない」という言葉に安心して眠りにつく。
     海のなかへ流星のように飛び込み、ふたりは沈んでいった。
     
     ゴッカムシティに隠された爆弾は、これですべて解除された。
     炎に巻かれて落ちていく息子を68階から見送り、平二は何も言わなかった。しかし苦衷に顔をゆがめて、父をうしなったときと同じ絶望をもう一度受け入れることはこの身にはもう無理だと悟った。
     花沢市長は、焼けた街のなか機動隊員とマッドクォッカたちが殺し合い、市民が巻き込まれるゴッカムシティの地獄の様相に、涙をこらえきれなかった。嗚咽をもらし、それでも70階へ戻り、市民へと呼びかけようとマイクの前に立つ。
     
     音之進が飛んで行った、割れた窓から、穏やかな空と海が見えた。































     穏やかな空が一天にわかに掻き曇り、雷が落ちた。
     いや、落ちたのではなかった。千本の稲光が束になったような閃光が、海から天へと飛翔していく。

    『ここは亜熱帯気候の島。黒潮はあたたかい空気をもたらし、時に大雨を降らせる――』

     音之進の師がそう言っていた。
     その空気を島からつれてきたように、黒雲がゴッカムシティを覆いつくし、激しい大雨を降らせる。豪雨によって街のあらゆる場所をなめつくしていた炎は鎮火していく。雨はすぐにやみ、しばらくするとあたたかい風が吹き、濡れて冷えた市民たちの衣服を乾かしていった。
     雲があたたかい風に流れて消え去ったとき、市民たちは差し込んだ眩しい陽光に目をすがませて、ありえない物を視界におさめることとなる。
     わずかに残った雲間から陽光を跳ね返すのは、黄金の鱗だった。のびやかに天を翔ける、数百メートルにおよぶ長大な影が地上に落ちている。
     天に浮かぶその「生き物」の鼻先には、比較すると…シロナガスクジラと並んだハチドリみたいに小さな翼をもった誰かがふわりふわりと揺れている。ハチドリと戯れている巨大な生き物は上機嫌らしく、そのハチドリをくるくる取り囲むようにして長大な体躯を優雅にくねらせた。まるで求愛のダンスだ。必死にハチドリを口説いているようでもあった。
     尾が海を叩けば数百メートルの波しぶきがあがる。世界全てを睥睨し、自由闊達に跳ね回る――剛毅そのものの飛翔は空の主のようだ。
     東洋の竜。竜の全身を覆って燦然と輝く黄金の鱗は、太陽よりもどんな宝石よりも美しく、眩しい。
     しかし相変わらずしつこくハチドリに絡もうとして、バシッと鼻先をはたかれると、竜は一気に拗ねたようにしょげて下を向く。涙をこらえているようにも見えた。どうも力関係は大きさとは逆らしい。
     ハチドリは竜の涙をそっとぬぐうと、慰めるように触れ、そのあと竜の角をつかむ。それを確認してから、竜は飛ぶ高度をどんどん下げた。
     天から近づいてきて、あらためて気付く、竜のあまりの巨大さに悲鳴と叫び声がまき起こる。街ごと陽はさえぎられた。マッドクォッカ達の戦車と装甲車が竜のひと息、いや鼻息にも足らない炎ですべて燃え尽きる。ほうほうの体で転がり出たマッドクォッカの一味たちが、市民たちによって消火栓で火を消されるも、負傷者が続出する。イマニタスの軍用ヘリは言うに及ばず、雷が落ちてひとつ残らず墜落した。市民たちがいないところに落ちたヘリは炎上し、イマニタス一味も逃げ出した。
     武器をもっていると竜に狙われるので、全員武器を放棄するしかなかった。
     逃げ出す者、祈る者、手を振る者とさまざまな市民たちの上を飛翔し、竜は首をもたげるとまた遥か上空へ飛んで行った。
     
     また空は雲におおわれ、今度は稲光が空から海へ落ち、竜は忽然と姿を消したのだった。

     花沢市長が信じられない様子で街を眺めていたが――真っ先に我に返ると、すぐに警察と市庁、各病院へ指示を飛ばして怪我人の収容と治療、悪党どもの拘束にとりかかったのである。

          +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO


    『――つまり、音之進さんが主から刀を引き抜いたとき、ある心象風景…が視えたということですか』
     ワンダーウームンがゴッカムシティへ急ぐ車内で問いかける。
    『ああ、刀を持ったとき、光のなかでおいは…… 左頬に傷のある男にいっきょた(会った)。不思議なことにおいと同じ顔で…。試すごつおいを見ちょった。多くんしん(人の)ために、愛すっしんために限界を超えられるなら、力を貸すとゆちょった。あん男は刀に宿った幽霊かもしれん』
    『それはまた、面妖な…。お体になにか変わりはありませんか。痛みや、気怠さなど、憑りつかれた形跡は』
    『んにゃ、なんもなか。ただ、自分の身体が作り変えられたような感覚があったな。鯉が滝を登ると竜になるという言葉がある。刀に浮かび上がる竜の文様も、多くの人を助けるためなら限界を超えられるはずだという隠喩かもしれんな』

          +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO +゚.。oO



     握った刀以外何も持たず、海を泳いで裸でざぶりと浜辺へ出てきた音之進だったが。
     彼を探しながら海上を飛んでおり、浮き上がった音之進を見つけ出したワンダーウームンはすぐに自分の翼を解除し、持っていたナノ粒子ボタンを渡した。変身し、コスチュームに全身包まれた音之進は、焼け落ちた肌も元通り再生しており、手も足も爆発で飛ばされるいぜんの姿のままである。ただ、大切にしていた指輪は消失してしまい、それはひどく音之進の気分を落ち込ませた。
     だが、その一億倍、いやそれ以上に嬉しいことがあった。音之進は夕陽に照らされ、素顔をさらしたワンダーウームンを見つめる。炎は黄金の胸当てが防いでくれたらしく、すこし布が焦げただけで傷はないようだったので、音之進は心底安堵した。春の草花を食みに来た子兎を怖がらせないよう、細心の注意をもって近づくように――寄せては返す波打ち際をゆっくり歩み寄る。

    「ワンダーウームン。いや、ツキシ……」
     その手に触れようと、おそるおそる手を伸ばすと…

    「竜の王子!!兄はほんのこてわいが誇らしかど!!」
    「とりあえず生きちょってほんのこて良かった!!」
    「モス!!!!!!」
     ナノ粒子ボタンにはすべてGPSが組み込まれているらしく、モスモービルに乗って鯉登家のみんなが賑やかに浜辺へと迎えに来てくれた。
    「おやっどん、おっかん、兄さあ、中山どん!!無事でよかった!」
     4人が音之進を取り囲み、抱き合い、無事を喜び合う。
    「みんな、こちらはワンダーウームンさんじゃ。大変お世話になった、命の恩人じゃ」
     『ほんのこてあいがと。改めて御礼がしよごたっじゃ』『素晴らしかおごじょじゃ』『モス!』と鯉登家の面々は嬉しそうに迎えてくれて、月島は少々面映ゆい。

    「ほんのこてようやった。モスポッドはあとで回収すっど、心配すっな」
    「母は音之進の強さを信じちょった」
    「モス…モス!!!!どれほど心配したか……いまになっておじゅう(怖く)なった。しかし、燃えてん生き残っとはすげね」
    「坊ちゃんがおひとりで修行に行かれると聞いたときは、涙を流してお止めしましたが…このようにご立派になって戻られて…中山は嬉しいです」
    「みんな…。修行んため自由にさせていただき、申し訳あいもはんじゃした」
     涙ぐんで再会を喜ぶ「家族」の姿を見て、月島は、ふとこのまま自分は消えていなくなった方がいいと思った。音之進さんにはこんなにも、愛してくれるひと達がいる。部外者の自分はお邪魔だし、せっかくの喜びに水を差すと思ったのだった。関わらないほうが、音之進さん、ひいては鯉登一家のためだ。そもそも、黄金の胸当てとティアラをつけ、鞭を振り回すオッサンなど異物以外の何物でもない。
     月島は鯉登くんが幸せかどうか、確かめたかった――そしていま、幸せだと分かったのである。充分、目的は果たされた。刀を手に入れるお手伝いも出来たし、少しは役に立てた。有休はもう全て無くなってしまったが…月島は満ち足りていた。前山と江渡貝くんと図書館がどうなっているのかも心配だし、自分は自分の居場所に帰ろう。音之進さんと決して交わることのない、もとの日常へ。
     
     少しずつ距離を取り、それから静かに背を向けて立ち去ろうとする。

    「――ツキシマ?どけいっとな」

     悲嘆をにじませた声に、びくりと月島の肩が震えた。その悲痛な声に身体が縛り付けられる。ちゃんと気付いていたらしい。ワンダーウームンと呼ばず本名で声をかけたことで、音之進の焦燥がうかがえた。月島は振り向かずに最後まで言い切ることにした。
    「私は、ここで失礼します。…さようなら、もう会うこともないでしょう。お元気でいてください」
    「なっ… ないごて… ないごてそげんこっを言ど」
     怯え、畏縮し、やつれ切った声。普段の彼との違いに驚いて月島が思わず振り返ると。視界に飛び込んだのは、一切の感情が消え失せた、瞳が闇に塗りつぶされた虚無の表情だった。

     ――あ、…。

     小学生の鯉登くんがどんな表情で紙芝居の最後の1ページを朱色の闇に塗りつぶしたか。『何もかもを燃やし尽くしました。王子はさいご、炎にまかれて死んでしまいました。』と書いたのか、月島は今、知ったのだった。
     大切なひとを、ずっと味方でいたいと思った子を、一番泣かせていたのは誰だったのか。

    「ツキシマ、ないか悪かことをしたなら謝(あやま)っ…」
    「音之進さんは何も悪くないです。これは…俺の…問題で…」

     月島は、いま、紙芝居最後の1ページのターンが回ってきたことに気付いた。
     もう決して間違えてはいけない。10年前の紙芝居の結末が、どれほど音之進さんを傷付けたのか分かっている。それなのに、月島には物語の幸せな結末が、いまだに分からない。自分は何も持っていない、最後のページに書く言葉は月島のうちにはひとかけらもない。

    『ツキシマのこと好いちょ、会わないほうが良かったなんて言ってくれるな』
     夏祭りのあと、泣いている鯉登くんを思い出した。
    『――自由に、生きやんせ』
     鯉登平二氏の言葉が、胸によぎった。

     月島には、鯉登くんのハッピーエンドが分からない。家族がいて、愛されていて、強くて、格好良くて、ヒーローで、でも、いまどうしてあんな悲しそうな、すべてを失ったような表情をするのか分からない。

    「おいに悪かところがあったや直すで、ゆてほしか。悪かところばっかいかもしれんけれど」
    「そんなことないです!」
    「頼ん、お願いじゃ、――ツキシマ」

     音之進さんがそんなに差し迫った、悲しい顔をするなんて、何がいけなかったんだ。俺はまた間違えているのか。もう、遅いのか――わからない。
     分かるのはひとつだけだ。

    「俺、…なにも持っていないんだ。いい歳した大人なのにいまだに仕事で失敗するし、何も思い通りにいかないし。」

     月島に分かるのは、――月島自身の幸せだけだった。

    「会った時からずっと思っていた。鯉登くんは…何をしでかすか分からない子だったから。大人になっても怪我しているんじゃないか、またひとりで突っ走って、ひとりで泣いているんじゃないかって、心配で心配でたまらなかった。」
     音之進の目をまっすぐに見つめた。
    「ほんとうは俺…鯉登くんが幸せでいるか、傍で見ていたいんだ。泣いていたら慰めたい。困っていたら力になりたい。…ずっと一緒に… 並んで生きたいよっ…」

     物語の最後は、ムーンパール姫のまっすぐな願いで幕を閉じる。

     ――ツキシマああああああああああッッッッ!!

     水飛沫を跳ね上げて駆け寄った音之進が飛び、月島の上半身に勢いよくしがみついた。体格のいい成人男性ひとり分の体重を受け止めてもびくともせず、月島はびしょ濡れになって棒立ちのまま、音之進から一方的な抱擁を受けた。
    「おいも、おいもじゃ、ずっと一緒におろごたっ、生きよごたっ、ツキシマと一緒に…ずっと… 10年ずっと想うちょった!!!!!」
     10年前からずっと、ぎゅうぎゅう力任せに抱きしめても、びくともしない屈強なツキシマことムーンパール姫を想っていた。

    「けねが増ゆったぁ喜ばしかこっじゃ」
    「母は嬉しかあ…」
    「モス… モス…」
    「坊ちゃん… 良かった…」
     家族たちのまなざしは優しい。
     音之進のうちにある心の鋼。いずれ自らをも切り刻み、滅ぼすと思われたそれは、いま希望の結晶にかわったのだ。



              ――エピローグ――

     ――それからしばらく後。

    「月島。12月23日と、24日と、25日の予定はあけちょってたもんせ」
     仕事が終わって図書館からでてきた月島を待っていた音之進は、声を弾ませてそうお願いした。
     まるでハチドリにくるくる求愛のダンスを踊る竜のように、音之進は月島のまわりを舞い遊ぶ。
    「…23日は何か特別な日なんですか?」
    「そん日はおいの誕生日じゃ!」
    「ええッ!?――そんな特別な日に、俺と会っていいんですか」
    「よかに決まっちょっじゃろう、月島は自分をないじゃち思うちょっど」
    「あの、24日と25日は、図書館で…子供会を兼ねたクリスマス会があります」
    「~~~~~~くっ、そんたぁ……仕方がなか。子どんたちには譲っ、あたいは大人じゃっでじゃ」
    「夕方には終わりますから、両日…夜に会えますか?」
    「!!!もちろんだ!!」
    「声が大きいです、音之進さん」

     ゴッカムシティは花沢市長の指揮のもと復興を急ピッチですすめているが、なかなか市民の居住地まで資材が回らない。少しでも子供たちに喜んでほしいと、月島は紙芝居と、長らく練習していた人形劇の披露を考えていた。
     モザイクのように多くのルーツを持った人々が暮らす街だ。人形劇ならば言葉は通じずともジェスチャーや小道具で感情をあらわすことが出来、たくさんの子供たちに見てもらえると、月島は以前から練習していたのだ。

    「きゅ(今日)はもう帰っとじゃろう、おいん家に寄っていってほしか。劇ん練習を手伝う」
    「ありがとうございます」
    「月島の役に立ててうれしか!!月島は図書館のヒーローだ!!」

     ――年上の伴侶は金の草鞋を履いてでも探せ、と云うが。

     音之進にとってそれは、少し違う。
     年上でむぞうて屈強で、おいがどれほどきばって高みに行ってん、涼しか顔でつっ(隣)に立っちょい、そんな尊敬してもし足りない素晴らしか伴侶を見つけたいなら。

     ――黄金の竜になってでも探せ、が正しいと


                      (おしまい)



    2025.3.26 ハナモゲラ/花もげら制作。
    素敵な軍曹会議9をお過ごしください!!

    ■こちらのお話は、2025~2026年に登場人物の後日談を加筆して本にする予定です。情報につきましては、ポイピクプロフィールのXアカウントにて公開していきます。
    ■薩摩弁に関しましては、
     https://www.8toch.net/translate/
     恋する方言変換 様を参照させていただきました。ありがとうございました。
     
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