悪い男「一郎くんよお……今日はちゃんと身につけてんのか?」
左馬刻の問いに一郎は唇尖らせる。
「穿いてっけど……」
「じゃあ見せてみろや」
周囲を窺うがあいにく人の気配はない。それが良いのか悪いのか。左馬刻を待たせるのも厄介なので一郎はいつものように少しの羞恥心を押し殺してベルト緩めた。
左馬刻はズボンのウエストに人差し指を引っ掛けると中を覗き込む。
中腰の姿勢で顔を上げた左馬刻は下から一郎を間近で見上げながら満足そうに笑う。
「ハハッ。可愛いな」
それは左馬刻が確認した一郎のパンツと一郎自身とどちらへの感想なのだ。
一郎の頬は赤く染まっていた。サウナで一緒になった事も多いし下着姿なんて着替えの時に見られている。それでもこの行為は羞恥心を伴う。それとも恥ずかしいのは左馬刻の尊顔が近いからだろうか。
「人がやった物をちゃんと使ってて偉いな、一郎くんは」
こんな事、つまりは左馬刻が一郎のパンツを会う度に確認してくるようになって久しい。こうなるに至るまで色々あったが、一郎は自身のせいだと思っているので左馬刻の言われるがままである。
「これ、バックデザインも凝ってただろ?」
「え? あぁ」
「ん」
「え? は? 何?」
「後ろ向けよ。見てやるから」
デザインを覚えてるなら確認しなくても良くないだろうか。
「ほら、早くしろ」
急かされるままに一郎は左馬刻に背中を向ける。
「上着上げてろよ」
その言葉にも従うと、左馬刻はまたズボンを引っ張った。
背中に目は付いていないが覗き込まれているのがわかる。
「よお、くま公。一郎の尻守ってるか?」
プリントのくまに挨拶しないで欲しい。俺の尻の番人なのかそのくまは、と一郎は思った。
「ねぇ、二人ともこんなところでな、に……やっ……」
二人だけの空間だったところに乱数の声が割り入る。
ここはイケブクロのライブハウスの中の廊下の奥まった所だった。二人のプライベート空間ではないので人が来ても不思議はない。
このライブハウスのオーナーからの頼みで一夜だけのTDDの復活ライブの予定があった。
……TDDの復活ライブだと思っているのは一郎だけである。今は梅雨だ。梅雨があければ一郎の誕生日がくる。一郎へのバースデーサプライズが計画されていて、簓と空却も当日は来る予定である。
今日はその打ち合わせで左馬刻、一郎、乱数、寂雷が集まっている。一郎がいるので表面上の打ち合わせではあるが、ライブは実際に開催されるので打ち合わせは必要だった。
目的の打ち合わせは終わっていて、その後、早々に挨拶もなく消えてしまった左馬刻と一郎を探すともなくライブハウスの中をうろうろとしていた乱数は一郎のズボンの中を覗き込む左馬刻という理解出来ない場面に遭遇してしまったのだ。
「え? 本当に何してるの?」
乱数は可愛い顔を顰めて訊いてくる。一郎と左馬刻は答えあぐねた。
「…………パンツ見てもらってる……?」
しばらく続いた沈黙を破ったのは一郎だった。
その答えを聴いた乱数はポケットの中から紐のついたプラスチック製の小さな機械を取り出した。
そして紐を引っ張ろうとするので、一郎は慌ててそれを止めに入る。
「何でそれ鳴らそうとするんだよ!?」
「一郎、もう僕一人じゃさばききれないよ! これは皆呼ぶ案件!」
揉み合う二人に左馬刻は蚊帳の外だ。別にそれは構わないが、一郎のズボンが落ちそうなので揉み合うのは止めたい。
争いの原因らしいプラスチックの塊をひょいっと奪う。
「何だ、これ?」
左馬刻はくるくると手の中でそれを検分する。くっついている紐が抜けそうなので抜いてみる。
「あ! 左馬刻!」
一郎の慌てた声がする。
物体からブザー音が鳴る。防犯ブザーのようなものだが防犯ブザーにしては音が小さい。
すぐにバタバタとした足音が聞こえてきた。それに加えて乱数のスマホに着信が入る。
『おい! 乱数! 大丈夫か?!』
乱数がスマホを取ると、受話口から大きな声が聞こえてきた。
「帝統〜。助けて〜」
『意識はあるんですか? そばに誰かいますか?』
帝統のそばに幻太郎もいるようだ。
一郎は乱数からスマホを取り上げる。
「有栖川と夢野か? 心配かけて悪い。ちょっとした手違いで鳴らせちまっただけだ」
『……そうなのか?』
『大丈夫なんですか?』
「おぉ。心配すんな。近くに寂雷先生もいる」
「大丈夫ですか! 飴村くん!」
バタバタとした足音は寂雷だった。
通話口から寂雷の声を聞いたらしい帝統が乱数を呼ぶので一郎は怒った顔を作って乱数にスマホを返す。
「二人ともごめん。僕は大丈夫」
一言二言話して乱数は電話を切る。
「左馬刻くん、それは……」
「何なんだ、これ?」
手の中の物と今の状況を見て左馬刻はただただ目を眇めた。
□
「びっくりした〜」
あれから一郎が乱数に拉致されるように連れて来られたのは個室のカフェだった。
「こっちの台詞だぜ?」
注文を終えて嘆息しながら話す乱数に一郎も呆れた溜息を吐く。
中王区政権の崩壊の後、乱数は寂雷の診療を受けている。もし何かあった時の為にと持たされているのがあのブザーだ。あれを鳴らせば寂雷とポッセの二人に連絡が行くようになっているし位置情報も発信される。
乱数を心配する寂雷から相談されてそれを一郎が三郎に話したところ、三郎が開発し、一郎の伝手で作ったものだった。
「あれは緊急事態用なんだからむやみに鳴らすんじゃねぇよ」
一郎が怒るのに対して乱数は殊勝に「ごめんなさい」と謝った。ちゃらけずに謝ったので一郎は「もうするなよ」と念を押してこの話を終わらせる。
「じゃあ今度は一郎の番だよ」
「……あ、あぁ。そうだな」
寂雷が駆けつけた後「寂雷〜、一郎がヤクザにブブゼラでパンツ見せて身売りしてるー。叱って!」と乱数が話してまた事態はややこしくなった。
「飴村くん、体調が悪いんではないんですね?」
冷静な寂雷が乱数に問いかけると乱数は頷いた。
左馬刻の手の中で鳴っていたブザーは寂雷により回収されて乱数の元に戻る。
「うん。体は大丈夫だけどメンタルがダメ。この二人わけわかんな過ぎてダメ。一郎が左馬刻にパンツ見せてブブゼラしてるから寂雷怒ってよ」
「飴村くん、音しか覚えてませんね……その言葉は間違ってますよ。まぁそれはそれとして身売りとは聞き捨てなりません」
「ちげぇよ、先生。身売りなんてさせるか。乱数の勝手な思い込みだ」
左馬刻の言葉に寂雷の視線が一郎に移る。
「いや、マジ、乱数の誤解なんで!」
「何がどう誤解なの?」
乱数は一郎の顔を硝子玉のような青い瞳で見つめてきた。
「ちゃんと話すから……」
一郎がそういうと乱数は一郎の手を取って走り出した。
「じゃあ僕は一郎の言い訳聴くから、寂雷は左馬刻をよろしく!」
そう言い残した乱数に連れ去られた一郎は今に至っている。
「何で一郎はブブゼラみたいな事してるの?」
乱数お兄さんは悲しい、と乱数は泣き真似をする。
「何なんだよ、さっきから。そのブブゼラって?」
言葉そのままチアホーンの事を言っているのではないのは解る。
「うーん、例えばパンツ見せたりしてお金もらうシステムの事だよ?」
「いやいや、パンツは見せてたけど金は貰ってねぇから」
「え?」
「金なんて貰ってねぇよ?」
「じゃあお互い納得のプレイって事?」
乱数は体を仰け反らせて引いている。止めて欲しい。そういうものではない。
「プレイって言うな。違うから。こうなったのには色々あったんだよ」
一郎が話始めるのを目をキラキラさせて乱数は聴き入る姿勢だ。特に面白い話でもないが、この状況は誰かに聞いて欲しいとも思っていた。一郎は順を追って話始める。
■
事の発端は萬屋への依頼だった。
依頼としては普通のもので五歳の女の子を二時間預かるという子守りだった。
その女の子は今はもう開催されていないディビジョンラップバトルのファンだったという。母親から依頼相談の段階で娘が一郎に会えるのを楽しみにしてると言われて、一郎自身も子供のファンは嬉しく楽しみだった。
一緒にラップしてたら二時間なんてあっという間だろうなと思っていたのだ。
だがしかし、そうはいかなかった。
その女の子はディビジョンラップバトルの中でも乱数のファンだったのだ。
一郎に会えればディビジョンの代表の他のメンバーにも会える、乱数にも会えると思っていたらしい。
『あああ。可愛くないー。乱数ちゃんが』
まさか二時間泣かれ続けるとは思わなかった。
その家族はイケブクロ在住で、ブクロの住民全員がバスブロ推しと傲るような事は思ってはいなかったがここまで拒絶されるのは悲しい。
何より子供に嫌われるのが悲しかった。
一郎は子供が好きだ。萬屋の依頼で子守りがくれば嬉しいし、養護施設への訪問を依頼だけでなく無償でやるのは、自分が施設出身だったからだけでなく、子供が好きという事が大きい。
子供の世話を焼くのは楽しいし、一緒に遊ぶのも好きだ。勉強だってある程度人に教えられるくらいの勉強はしてきた。
もし将来萬屋が出来なくなるような事になっても子供の役に立てるような仕事に就きたいと思うほど一郎は子供が好きだった。
その母親からの依頼は元々その日ともう数回ほどあった。母親は一度目がそんな様子だったからか、二回目以降はキャンセルにしようか悩んでいるようだったが、これから別の預け先を探すのも大変である。
一郎は何とかするので、次もうちに預けて欲しいと頼んだ。嫌われたまま終わりたくはなかった。
一郎がその女の子から泣かれない為に頼ったのはそのまま乱数である。
『乱数、俺をお前の色に染めてくれ! 頼む!』
色々誤解を生みそうな文句で、特にどこぞの若頭が聞いたら怒髪衝天だろう台詞で頭を下げてきた一郎に乱数は笑いながら頼みを引き受けてくれた。
そして一郎は乱数プロデュースの出で立ちでその女の子に再会した。
結果女の子には大好評を博した。
終始ご機嫌だった。一緒に習い事の宿題もこなした。
母親が一郎が面倒をみやすいように機嫌良く過ごす為にと持ってきたおもちゃセットも、その子自ら宝物だと紹介してくれた。
それからまあ女の子の面倒をみていると時々起こる事が起こった。
その子は乱数のファンらしくファンシーなおしゃれが大好きだった。そして宝物のヘアピンやらヘアゴムを一郎に付けて遊び始めたのだ。
これがどう可愛いかと説明しながら一郎を着飾っていく女の子のノリに一郎もついつい呑み込まれてしまい、迎えの時間を忘れてしまったいた。
女の子は着飾らせた一郎を得意になって母親に紹介した。母親は申し訳ないと謝るのに、一郎も片付けが出来ていない事を謝った。これからすぐに用があるという事でおもちゃセットは次の依頼まで預かる事になって親子は帰っていった。
仲良くなれて良かったと思っていた一郎だが、この後、左馬刻と夕飯を食べに行く約束をしていた事を思い出した。
女の子に付けられた髪留めを外そうとしたのだが、小さな女の子がやったものなので絡まっていて簡単には取れそうにない。それならばとまず服だけはいつもの物に着替えた。
女の子と遊んでいたリビングに戻って髪留めを外す作業に取りかかる。
ピンクや黄色、水色という明るい色が散らばるテーブルの上で折り畳みの鏡だけが無骨な黒の山田家のものだった。
そうこうしている間にインターフォンが鳴った。左馬刻が来たらしい。
急ぐと余計に髪留めのゴムが絡まる。扉の開く音と足音がした。
左馬刻と度々会って出かけるようになってから左馬刻が一郎を迎えにくる事も多く、左馬刻は鍵が開いていれば入ってくるようになっていたし、一郎もそれを許していた。
「おい、一郎。準備できて……何やってんだ、お前?」
リビングに入ってきた左馬刻が訝しげに訊いてくる。
絡まる髪留めに一郎は軽くパニックだった。こんなおもちゃを広げて子供に媚びてるなんて嘲笑われるんだろうかなんてマイナスな考えばかり浮かんでくる。
「何だ、これ?」
左馬刻がテーブルの上のプラスチック製のアクセサリーを手に取ろうとするのを一郎は慌てて制止する。
「触らないでくれ! 宝物なんだ!」
左馬刻が乱雑に扱うとは思わないが大切な預かり物である。
「おう。……そうか」
左馬刻はおずおずと手を引っ込めた。
「すまねぇ。ついデカい声出しちまって。すぐ準備すっから待っててくれよ」
一郎はまた髪留めを外す作業に戻る。
「……お前、不器用だな」
一郎の様子を見ていた左馬刻は小さく笑う。
「待たせて悪いけど、放っといてくれ」
一郎の返事に左馬刻はまた笑った。
「拗ねんな。ちょっと貸してみろ」
左馬刻は一郎の後ろに回りこむと細い指先で髪留めを外し始めた。
難攻していた作業は瞬く間に終わっていく。
「一郎、こういうの好きだったんか?」
「あぁ。似合わねぇのは解ってるけどな」
左馬刻と一番過ごした時は尖っていた自覚がある。子供好きなんて柄ではないだろう。それともガキがガキを好きって馬鹿にされるだろうか。
「別にいいんじゃねぇの? 好きなもんは好きでよ」
左馬刻から出た言葉に一郎は顔に熱が集まっていくのを感じた。この男はこういう人間だった。普段は揶揄したりする癖に人が本当に好きなものは真っ直ぐに応援してくれるのだ。
けれど二人の話はすれ違っていたのだった。
左馬刻が勘違いをしているのに気付いたのは次に左馬刻に会った時だ。
左馬刻が車を出してくれて、大型スーパーに食料の買い出しに行く約束をしていた。
普段の買い物は地元の為に近所の商店街や馴染みの小売りのスーパーを利用するようにしているが、たまの楽しみで大型スーパーに行く。そんな話をしたら左馬刻が車を出してくれると言い、左馬刻と時々大型スーパーに出かけるようになった。キロ単位で売られる食材や珍しい果物や野菜は一人で見ててもテンションが上がるのに二人なら楽しさは倍増だった。はしゃぎながら店内を回るのが楽しい。
一郎はカートいっぱいに買い込むが、左馬刻はエコバッグ一袋ほどの買い物しかしないので、帰り際は申し訳なくなるのだが、こういうところは回るだけでも楽しいと言われて左馬刻もこの時間が楽しかったのだと思うと面映ゆかった。
今日もよく笑って買い物した帰りの車の中で、左馬刻が助手席に座る一郎にダッシュボードを開けてみろと言った。
中にはラッピングされた包みが入っていた。
「やる」
左馬刻から言葉短に告げられた。
別に今日が何か特別な日というわけではないと思う。左馬刻はこうして一郎にぽんと物をくれる事がままあるのでもう「何で?」と訊くのは止めてしまった。
随分と可愛いラッピングだなっと思いつつ開けてみると、中から出てきたのは可愛いらしいヘアピンだった。
「何で?」と訊くのは止めたはずなのに口から出そうになる。
「好きなんだろ? そういうの」
一郎の頭の中にはハテナがたくさん浮かぶ。
この可愛いらしいヘアピンは一郎の趣味ではない。付ける自分も想像出来なかった。
「前、集めてんの広げて付けてただろ?」
集めてる? 広げて? 付けて?
思い出されたのは前回左馬刻が萬屋を訪れた時、子守りの依頼の片付けが終わらないまま会った事だった。
「悪い、趣味と違ったか……」
ちょうど赤信号で停まっていたので、左馬刻は一郎に向かって手を伸ばした。
一郎は手の中のヘアピンを取られまいと身を捩る。
「いや、びっくりしただけだから! 凄い、可愛い……気に入った!」
一郎は自分の口から咄嗟に出た言葉にどうしようかと思った。
けれど左馬刻が一郎の為にと選んでくれた物を、その思いが嬉しくて、例えくれた本人にでも取られたくなかったのだ。
「素直に喜べや」
左馬刻はわがままな子供に呆れるように、それでもそれを甘やかして許してしまうように笑った。子供信号が青に変わり、左馬刻は前を向いてアクセルを踏み込む。
一郎は真実を話さなかった事に罪悪感を抱きながらヘアピンを胸に抱え込んだ。
■
一郎の話の途中で注文していた料理と飲み物が届いた。
小休止に二人はそれぞれ頼んだものに手を付ける。
「ちなみに左馬刻との初ちゅーはやっぱり夜景の見える公園?」
乱数は話を聞きながらも気になってしまった疑問を口にする。好奇心が疼く。
「いやいやいや、乱数……俺の話聞いてたか?」
「うん。聞いてたよ。だから気になっちゃて。あ! それとも観覧車のてっぺんとか?」
話を聴いていたらこの二人は何となくベタなキスをしていそうだと思った。
「あのなぁ、乱数、俺は恋バナなんか全くしてなかっだろ?」
仕事終わりに夕飯を食べに行くデート、休みはお買い物デート、あげく毎回プレゼントくれる格好いい彼氏の惚気しかしていないと乱数は思った。
乱数の瞳から輝きが失われていく。冗談だろう。
「あはは。一郎ってば面白い」
初キスの話は素面ではしてくれないか。別の機会にするか。
「面白くねぇよ。ちゅーとか……俺と左馬刻は何でもないんだからありえねぇし。それに本題はここからだしな」
一郎の言葉の情報量の多さに乱数は押し黙った。
何でもない? ってことは付き合ってない? それだけデートしといて?
その上本題はこれから? この惚気はまだ続くの? あ、そうだ。パンツの下りは謎のままだった。
乱数はピンクレモネードを啜った。甘酸っぱさが美味しいはずなのに甘さしか感じない。
一郎はシカゴピザを食べながら続きを話し始めた。
■
それから左馬刻はヘアピンのように可愛らしい小物を一郎にくれるようになった。
自分の格好には合わないのでそれらを使う事はないがそのプレゼントたちは一郎のお気に入りのフィギュアと一緒に棚に並べて部屋に飾っている。
時々手に取って眺める事もあった。
あの左馬刻がこんな可愛い物を選ぶのにどんな顔をしているのだろう。合歓がいるからそんなにおかしな事もないか。何をしても様になるし。
物も可愛いのだが、そこに詰まってる想いが、可愛いというか温かい。一郎はその想いを胸に抱いている時が幸せだった。
けれど真実を言わず左馬刻を騙している事に変わりなく、その報いを受ける時がやってきた。
「お前、俺がやったもん、一回も使わねぇな」
今日は二人で映画を観にきていた。映画の感想を一郎が言い終わり途切れた会話の後、左馬刻の言葉は投下された。
一郎はぎくりとした。十代から色々な仕事に就いてる事は伊達ではない。内心はおくびにも出さなかったが。
「気に入ってるから、部屋に飾ってる」
「物は使ってなんぼだろ。使えよ」
「使うったって、俺には……似合わねぇじゃん」
「おい、一郎……」
一郎の長い映画の感想も付き合って聞いてくれていたし、近頃の左馬刻は穏やかな方であった。それがどうだ。ガチギレのトーンだ。
「好きなものを好きつうのに人の目なんざ気にするんじゃねぇ。自分を貫けや。正直に生きろ」
説教じみた言い方に一郎は後ろめたさはあるもののムッとした。自分はもう説教されるほどの子供ではない。
「こういう服が好きな俺も俺なんだよ。それに合わせられない、だから自分でも困るってか……」
最後は後ろめたさから口ごもりながらも一郎は反論を口にした。
「……そうか。でも俺もやった物使われねぇのは淋しいもんなんだよ」
左馬刻の怒りはもう鳴りを潜めていた。一転、哀しそうな口調で言われてしまうと一郎も勢いを失くす。
「それは、ごめん……でも大事に飾ってあるから」
「俺がやったもんは身に付けて使って欲しいんだ」
また左馬刻の表情が変わる。感情の起伏の激しい男だ。今度は何故か楽しそうだった。
「その格好に合うもんならいいのか?」
「あぁ、うん……」
「わかった」
そうして左馬刻が次に寄こしてきた物が下着のパンツだった。
いつも通りの可愛いラッピングから出てきたのは苺の総柄のボクサーパンツで、一郎は言葉を失った。
「それなら服に影響しねぇだろ?」
得意気に宣う左馬刻に一郎は無難な返事しかできなかった。
「おう、そうだな」
「だろ? だから次会う時はそれちゃんと穿いて来いよ」
何だって?
「お前の趣味両立してんだからいいだろ?」
確かに今の外見を維持したまま可愛い物を身に着けられる。名案だった。いや、名案か?
「あ、穿いてるかどうか確認すっからな?」
一郎はまた言葉に詰まった。
こんな時に思い出すのは前回左馬刻が哀しそうに「使われねぇのは淋しい」と言っていたシーンだった。
今までの物を使っていなかった前科がある。確認されるのは仕方ない事なのかもしれない。ここは受け入れよう。
こうして会う度に一郎は左馬刻からパンツ、しかも可愛いらしい柄物の物を貰い、前回貰ったパンツを穿いているか確認されるようになったのだ。
■
「なあ、乱数この状況どうすりゃいいと思う?」
「セックスすればいいと思うよ!」
乱数ははきはきと言い切った。
「そうだよな。俺が正直に話して謝る……は?」
「うん。左馬刻とセックスすればいいと思う」
「いやいやいや、何で?」
「二人って勘違いしたらもうなかなか戻れないでしょ? だったら肉体言語で語りあった方が早いって」
「そうだな……。肉体言語か、ラップバトルでも」
「マイクなんて使わなくていいっば!」
乱数は一郎の言葉を遮って叫ぶ。
買い物デートだって一郎は弟たちと行っていたはずなのに左馬刻と行くようになり、時間が合えば食事しながらデートして、一郎の趣味の映画にだって左馬刻は付き合ってデートして、これは付き合ってない方がおかしい。
「もうセックスしちゃいなよー」
既成事実を作るのが一番の近道のはずだ。
「ちょっ、乱数! 声デカい!」
口の前で人差し指を立てる一郎に乱数は大きく溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはこっちだと一郎は思った。
恋愛に関しては得意分野だと自負していたし、一郎から話を聞く前までは何か役に立とうと考えてはいたのだ。でも話を聞いて呆れてしまった。もう両思いな事は確実だった。
どちらかが「好き」の一言を言えば解決するだろう。
初心な一郎が悪いのか。いや、左馬刻の方が罪深いか。左馬刻はきっと全部気付いている。そんな意地悪な男には協力する気は起きない。
乱数は匙を投げた。
□
「全く飴村くんは……」
寂雷は憂いた表情で溜息を吐く。
「先生があいつを甘やかし過ぎてんじゃね?」
「そんな事はありません!」
うってかわって厳しい表情になった寂雷に左馬刻は吹き出す。
「あの防犯ブザーみたいなやつまで持たせといてか?」
「甘やかすのと心配するのは別でしょう?」
「ハハッ。素直じゃねぇな、先生」
「そういう左馬刻くんも素直になれてないのでは? あまり一郎くんにいじわるをしてはいけませんよ」
むっとした表情の寂雷が左馬刻に矛先を向けてきた。
「いじめてねぇよ」
左馬刻は煙草を取り出したがここには灰皿がない。
「灰皿のある場所に移動しましょうか」
「あ? 先生は吸わねぇのにいいわ」
「いえ、君からじっくり話を聴くには喫煙出来る場所の方が良いでしょう」
乱数に言われた通り寂雷は左馬刻から話を聴く気らしい。左馬刻は口には出さなかったが、本当に乱数に甘いのでは? と考える。
「言っておきますが、飴村くんに言われたからではありませんよ? 私も一郎くんの事は気にかけているので一郎くんが理不尽な事をされてないか確認したいんです」
見透かされたような言葉に寂雷から逃げるのは無理そうだと左馬刻は観念した。
■
「下着のパンツを見ていたとは……?」
一つ咳払いをした寂雷が厳かに訊いてくる。
二人は場所をカフェバーに移した。寂雷と一緒にアルコールのある店に行くのは勇気が必要だったが、喫煙可能な店となるとアルコール提供している店ばかりで、このカフェバーに落ち着いた。
二人が飲むのは寂雷がほうじ茶ラテで、左馬刻はエスプレッソである。
「あいつが素直になんねぇんだよ」
左馬刻は一言断ると煙草に火を点ける。
「素直に? 嫌ならはっきり言えと?」
「ちげぇ。一郎は嫌だったらそこははっきり言う奴だろ?」
確かに一郎は簡単に自分を曲げない。嫌ならば言うだろう。
「あいつが俺の勘違いを正そうとしてこねぇんだよ」
「勘違い?」
「あいつには密かな趣味があるって勘違いしてたんだ」
「趣味、ですか?」
一郎の趣味は多い。ラノベ関連のオタク趣味は幅広いし、音楽も雑多に聴く。
「ひょんな事であいつが可愛い物が好きだって思っちまったんだよ。で、良かれと思ってそういう物をやってた」
可愛い物が好きというのは他の趣味とは趣の異なる趣味だ。けれど多趣味な一郎がそういう物を好きだとしてもまた新しい趣味が加わったと思うくらいで受け入れるだろう。
それが何故パンツに繋がるのか興味深いが、話の腰を折らないように寂雷は続きを促すに留めた。
「一郎くんはその間違いを訂正してこなかったわけだね」
「しばらくあいつの様子見てたら違うんだなって気付いたんだけどな」
「左馬刻くんが勘違いだと気付いたならそこで君から告げてあげてもよかったのでは?」
「そこだよ、先生。俺が気に入らないのは」
「気にいらない?」
「あいつ、俺に遠慮してんだよ。それが気にいらねぇ」
寂雷は顔に指を添えた。左馬刻の気持ちがわかってしまった。
一郎は思慮深い。
けれど自分たちは仲間だったわけだ。
思いやりがあるのと遠慮は違う。それは嫌だと寂雷も思う。
そして左馬刻にとってはそれだけではないのだろう。仲間だった頃、一郎は左馬刻に欠片だって遠慮などせず、甘えていた。それが失われたのだ。左馬刻の思いは大きいだろう。
「それが何故、下着に繋がるのかな?」
考えても解らない。
左馬刻は煙草を灰皿に押し付けながらニヤリと笑った。
「牽制と役得」
左馬刻の気持ちは薄々解ってはいたが、下着を見る行為を役得とするならばそれは性的な意味を含んでいる事、つまりは恋愛感情として一郎を好きだと左馬刻ははっきりと口にしたのだ。
それに牽制とは。TDDの頃も一郎の耳には左馬刻からのプレゼントのピアスが光っていた。あの頃は恋愛感情を表に出す事はついぞなかったが、自分からの贈り物を身に着けさせる事で一郎が自分の物であるとは主張していた。やり方や考え方は変わってないらしい。
けれど下着というのはどうなのだろう。
「左馬刻くんそれはセクハラでは? やっぱり一郎くんにいじわるをしてるじゃありませんか」
「だから素直にならないあいつが悪いんだよ」
「それは加害者の理屈です」
寂雷は毅然と左馬刻を断罪する。しかし左馬刻には響かない。
「……あいつ可愛いんだよ。俺があいつが選ばないだろう可愛い可愛い柄のパンツ買って渡すとよ、毎回律儀に穿いてくんだ。そんで俺に見せるんだぜ?」
左馬刻は一郎が自主的に見せているような言い方をするが寂雷にはそれが本当かは解らない。ただ寂雷は呆れてしまった。子供のような言い分だ。
「先生、俺よぉ、今が楽しくてしょうがねぇんだ」
子供ような言い分をしていた男が少年のように無邪気に嬉しそうに話す。
中王区政権下で何もかもに噛み付いていた左馬刻が今を楽しいと言う。
「一郎くんをからかって楽しむのは良い趣味とは言えませんね」
「楽しいのはそこじゃねぇよ」
「では何を?」
「一郎が素直になる瞬間が楽しみで仕方ねぇ。俺に遠慮もなんにもしねぇでぶつかってきて、そんであいつ自身の気持ちもぶつけてくるの待ってんだ」
奪い取ると歌っていた男が待つというのか。一郎の気持ちを尊んであえて待つのか。
その姿勢は良いかもしれないが、どうにも今の状況も楽しんでいる左馬刻が悪趣味な事は否めない。
「君は、悪い男ですね」
左馬刻は「ハッ」と笑い飛ばす。
「褒めんなよ、先生。照れるわ」
「褒めてませんよ」
左馬刻はエスプレッソを呷った。
恋の病は医者の専門外であるし、寂雷にもやれる事はないのだった。
恋の行方は二人次第である。