夜に駆ける 「さよなら」だけだった。その一言で全てが分かった。
真夜中、駆けつけたビルの屋上で彼はフェンスの外側で虚な目をして立っていた。この光景を見るのはもう何度目だろうか。
一彩は死の欲望「タナトス」に支配された人間だった。
「タナトス」は死に魅入られ彼らにしか見えない「死神」の元へ行こうとする。どうやら「死神」は見える者にとって魅力的な姿をしているらしい。「死神」の事を話す一彩の顔は言わば恋する乙女の様で、好きな人を見るような目も恋慕が篭った声も燐音は嫌いだった。俺の方が一彩の傍に居るのに。俺の方が一彩の事を想っているのに。でも、繋ぎ止める術を知らないからこうやって連絡が来る度に一彩を引き止めるしか出来なかった。それに、本当は引き止めて欲しいと思ってるのだと都合良く解釈していたのだ。
「一彩。もうこんな馬鹿なことは止めろ」
「どうして?「死神」が僕のことを呼んでいるんだ。ひとりぼっちは寂しいから、僕が行かないと」
「……「死神」なんて居ねェよ」
「居るよ。どうして信じてくれないの?」
信じられるわけない。愛する弟を連れて行こうとする「死神」のことなんて。
「僕ね。もう嫌なんだ」
俺も嫌だよ。こんな事するお前もどうすることも出来ない自分も。
「もう疲れたんだ」
俺も疲れたよ。何度助けたと思ってる。連絡が来る度に階段を駆け上ってお前を引き止めた。あと何回これを繰り返せばいいんだ。
「もう死にたいんだ」
「……俺だって死にてェよ」
無意識に口をついて出た言葉に一彩は優しく微笑んだ。何で……。あぁ、そうか。
「やっと気付いてくれたね、兄さん」
「ごめんな、こんなお兄ちゃんで」
「ううん。それは僕も同じだから」
お前が俺を呼ぶのは助けて欲しいからじゃない。一緒にいきたかったからだった。俺の「死神」は一彩だった。
「…行くか」
「うん」
二人の間にフェンスはなくて手を繋いだ二人が人知れず夜に駆け出した。