第8回お題「温泉」 思いがけない出来事というのは続くものである。
一つ目は、組織の人間を監視するために、しばらく地方に滞在することになったこと。
二つ目は、赤井が一緒についてきたこと。
三つ目は、滞在先のアパートが、築四~五十年は経っているかと思われる年季の入った木造アパートだったことだ。六畳一間、風呂はない。
部屋を用意したのは自分の部下だ。監視対象の人間が住むアパートと向かい合わせのアパートの一室を用意したとは聞いていたが、まさかここまで古ぼけたアパートだったとは。あたりを見渡しても、このアパートが一番監視しやすい位置にあるので、部下の判断は間違ってはいない。
しかし、こんなところに赤井を住まわせるわけにはいかないと降谷は思った。
赤井は左腕を負傷し療養中の身でもある。いつ害虫が出るかもわからない、古びたこのアパートにいるよりは、近くにある旅館に宿泊してもらったほうがいい。幸い温泉街かつ観光シーズンでもないので、泊る場所には困らないだろう。
部下が契約した部屋のドアを開けてすぐ、降谷はスマホを手に取り、赤井に言った。
「……すみません、別で宿を手配します。僕はここに残りますが、あなたはそこに――」
言い終えぬうちに、赤井は言った。
「いや、ここで君と一緒に住むよ」
「ええっ」
「何か問題でもあるのかな」
「だ、だって、こんなに古い部屋なんですよ。それに、二人で住むには狭すぎます」
六畳一間。天井もやや低く感じる、畳の間。日本ではありふれた間取りだが、赤井がこれまで経験したことのない狭さだろう。大の大人、しかも平均よりはるかに背の高い赤井にとっては窮屈に違いない。もちろん部屋に仕切りなどないので、プライベートな空間もないに等しい。
ところが、赤井はこの部屋の状態をあまり気にしていないようだった。気にするどころか、どことなく楽しそうにしている。
「いいじゃないか、いつでも君がそばにいる」
部屋が狭いとそんな利点もあるのか。赤井の口説き文句に自分の顔が赤くなるのを感じて、降谷は赤井から顔を逸らした。
「……。この部屋、浴槽どころかシャワーもなさそうですよ。かろうじて台所とトイレがあるくらいで」
「それだけあれば十分だよ。シャワーを浴びたくなったら、近くにある温泉に行けばいい」
「……そ、そうですか」
赤井が問題ないのなら、これ以上、何も言うことはない。降谷はふたりでここに住む覚悟を決めた。
早速部屋の中へ入り、窓を開けて換気をしながら、部屋の中を慎重に調べていく。盗聴器の類はない。一方で、生活に必要な用具や飲食類もある程度揃えられていることがわかり、降谷は安堵する。
休憩もかねて、台所で湯を沸かし、急須に茶葉を入れた。畳の上にふたりで腰を下ろし、温かい緑茶を飲む。ちゃぶ台に乗せられた急須とふたつの湯飲みを見つめていると、赤井と一緒に住む実感が急にわいてきて、降谷は緊張した。
監視は二十四時間。話し合いの末、赤井と交代で対象を見張ることになった。一緒に暮らしてはいるが、起きている時間も、温泉に行く時間も、それぞればらばらである。布団が一組しかなかったので、睡眠が交互になるのはある意味ちょうどよかったが、どことなくさみしさを感じるときもあった。もちろん自分は仕事でここへ来ているので、その感情はすぐに捨て去った。
一週間経つと、監視対象の生活リズムだけではなく、行動範囲もわかりはじめていた。対象がアパートを出ると、自分の部下があやしまれないよう後をつけ、関係者に情報が共有される。対象の部屋に来客があれば、自分たちの部屋から望遠カメラで動向を探り撮影する。初日に対象の部屋のドアに盗聴器を仕掛けておいたので、ある程度声を拾うこともできた。
そうして関係者に情報を送り続け、二週間が過ぎた。対象を捕獲すべきかどうかの判断を上層部に仰いだが、今回は“まだ泳がせておく”ことに決まった。明日の夕方には帰京するよう指示があり、それまでは自由時間となった。
午後五時。日が暮れはじめた頃。降谷は赤井と温泉へ行くことにした。いつもはひとりで歩いていた道を、赤井と一緒に歩く。温泉街なので、温泉に入れる施設は複数あり、道中どこへ行くのかを赤井と話し合った。話し合いの末、ふたりともまだ行ったことのない温泉へ行くことが決まった。
「ここへ来てから、あなたと一緒に温泉に入るのは初めてですね」
「ああ、そうだな」
脱衣所で衣類を脱ぎ、洗い場へと向かう。周囲から多くの視線を感じたが、降谷はあまり気にしないことにした。仕事柄、自分たちの身体には傷が多いので目立ってしまっているのだろう。あとは、赤井のように体格の良い人間がこのあたりでは珍しいのかもしれない。
身体を洗い終え、誰もいない露天風呂へ入ると、温泉特有の熱と匂いがじんわりと伝わってくる。隣にいる赤井は、気持ちよさそうに目を閉じていた。温泉には不慣れだったはずだが、この二週間である程度楽しみ方を覚えたのかもしれない。
「温泉は傷の治癒を促進する効果もあるといいますが、腕の怪我の具合はどうですか?」
「ああ、治りが早くなったような気がするよ」
降谷は赤井の腕の傷へと目をやった。赤井の言う通り、傷が薄くなっているような気がする。
「良かったです」
「君の腕の傷はどうだ?」
赤井に問われて、降谷は少し驚いた。何の因果か。三ヶ月ほど前に自分も同じように腕を怪我した。包帯は一ヶ月ほど前に取れているが、赤井がずっと気にしてくれていたことがわかり、胸がくすぐったくなる。
「まだ少し痕は残っていますが、仕事に支障はありませんよ」
「それは良かった」
腕を上げて、怪我を負った場所を赤井に見せる。赤井はしばらくそれを静かに見つめたあと、突然そこへキスをしてきた。
降谷は身体にぶわりと熱が走るのを感じた。温泉の湯は確かに熱いが、それだけではない理由で、のぼせてしまいそうになる。
「ぼ、僕、そろそろあがります!」
「では俺もそうしよう」
二人揃って脱衣所へと向かう。人も増えはじめてきていたので、帰るのにちょうど良い頃合いだったのかもしれない。火照った身体は水分を欲していて、赤井はミネラルウォーターを、降谷はコーヒー牛乳を売店で購入した。赤井が不思議そうにこちらを見るので、「温泉あがりは、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲むのが定番なんですよ」と教える。赤井にコーヒー牛乳をひとくち味見させてあげると、「甘いな」と赤井は笑った。
近くにある食堂で夕食をとり、アパートへ帰る頃には、夜空にたくさんの星々が輝いていた。このあたりは街灯が少ないので、星がよく見えるのだろう。
「このアパートで過ごすのも今夜が最後ですね」
「ああ。悪くない滞在だったよ」
この二週間を振り返りながら語り合っていると、あっという間にアパートの部屋の前に着く。
部屋の鍵を開けると、当然のごとく部屋は暗い。靴を脱いで、部屋の中へ入る。窓から微かに差し込む月の光を頼りに、円形の蛍光灯の下にぶら下がっている引き紐に手を伸ばす。しかし、引き紐に手が触れる直前、電気をつけるのを阻むように、赤井に腕を掴まれてしまった。
「えっ?」
もしや、部屋を明るくしてはいけない状況にあるのだろうか。まさか、部屋の中に侵入者でもいるのだろうか。
降谷が目を凝らし周囲を窺っていると、突然、赤井の手に頬を撫でられた。咄嗟のことで抵抗できずにいると、大きな手にそっと引き寄せられて、唇を塞がれる。赤井が電気をつけさせなかった理由に思い至り、降谷は顔が熱くなるのを感じた。
一つ屋根の下。まるで同棲をしているような状況でありながら、自分たちは恋人同士らしいことを一度もしなかった。一度行為に及んでしまえば、監視を忘れて行為に夢中になってしまう――そんな予感がお互いの心の中にあったからなのかもしれない。
その代わり、仕事から離れれば、自分たちはいつだって恋人同士だ。“仕事の仲間”と“恋人同士”、すぐに切り替えられないこともあるけれど、そんなときはいつも、赤井が手を引いてくれていた。
「もう、いいだろう?」
許しを得るように、赤井が問いかけてくる。激しい胸の鼓動を自覚しながら、降谷は返事をした。
「……はい」
壁は薄く、振動は下の階に響く。赤井もそれを理解しているからだろう。畳の上に、ゆっくりと押し倒された。
赤井の身体は熱くて、いい匂いがする。温泉の匂いに混じる赤井の匂いに、降谷はどうしようもなく興奮した。
すぐに呼吸ができなくなるほどのキスがはじまって、降谷は目を閉じて赤井の背に腕をまわす。
温泉で火照った身体は冷めることなく、さらに熱を帯びていった。