第9回お題「可愛い子」 赤井が降谷を本格的に口説きはじめたのは、組織の主要メンバーを逮捕した日の翌日からだった。
もちろん、いきなりホテルに誘ったりはしない。まずは食事からだと、降谷を昼食や夕食に誘うことにした。日本に滞在している食通のFBIの同僚から、おすすめの店はいくつも聞き出している。ネット上で評価が高い店もリサーチ済みだ。
いつかは朝食もともにできる関係になれればいい。そう願いながら、赤井は降谷のいる警察庁へと向かった。
「降谷君、今日の夜は空いているかな?」
彼を食事に誘うのは、これが初めてではない。しかし、親密な関係になりたいという明確な意志を以って誘ったのは、これが初めてだった。
普段通り話しかけたつもりだが、彼なりに何か違和感を覚えたのだろう。降谷はしばらく思案するような仕草をみせたあと、こう言った。
「……今日は少し調べたいことがありまして」
赤井はもちろん、降谷がその日空いていることを事前に把握した上で誘っている――にもかかわらず、降谷は今この場で用事を作り出し自分の誘いを断ってきた。用事もない日に断られるとは、これはなかなか手強そうだと赤井は思った。
二度目の食事の誘いも、あえなく失敗した。しかし、降谷を食事に誘いはじめて三度目のある日。赤井が驚くほどあっさりと、降谷は首を縦に振った。
場所は夜景の美しいレストランが良いだろうか。様々な選択肢を脳裏に巡らせていたが、降谷のおすすめの店があるというので、今回は彼の提案に乗ることにした。
退勤後。待ち合わせ場所となっている警察庁の玄関前へ向かうと、降谷が自分より先に到着しているのが見えた。
自分の姿をとらえた彼の目が、すっとやわらかく綻ぶ。誘ったのは自分の方であるはずなのに、降谷はまるで待ち人が来て嬉しいとでもいうような反応をした。胸がくすぐったくなるような心地を覚えながら、赤井は降谷のもとへと急いだ。
降谷に連れられて訪れたのは、年季の入った定食屋だった。夕飯時のせいか、人の入りも多い。「ここのカツ丼がおすすめなんですよ!」と降谷が言うので、彼と同じカツ丼定食を頼むことにした。
二人分の定食が届き、「いただきます」とお互いに両手を合わせてすぐ、余程腹が減っていたのか、降谷はとてつもない勢いでカツ丼を食べはじめた。まるで絵に描いたような、豪快な食いっぷりである。
ムードには欠けるが、今日はこの店で正解だったと赤井は思った。コース料理のように少しずつ料理を出されるよりは、一気に食らいつけるカツ丼の方が、ひどく腹を空かせた今の彼には合っている。
彼はいつも自身が周囲にどう見られているのかを気にかけているが、今はそんなことはどうでもいいようだ。とにかく腹を満たそうと彼は必死である。色恋とは程遠い雰囲気だが、降谷零のこんな姿を見られるのはおそらく自分だけだろう。赤井は心地よい優越感に浸った。
その後、赤井は幾度も降谷を食事に誘った。降谷の空いている日を狙って誘っているが、断られる日の方が多かった。今のところ、三回のうち二回は断られている計算になる。
はじめは偶然かと思ったが、しばらく経って、二回断られた後には誘いに乗ってくれていることに赤井は気がついた。
たとえば昼と夕方に誘って断られると、翌日の昼には誘いに乗ってもらえるというように。彼の真意はよくわからないが、二日に一度は食事をともにできるようになった。
いわば三度目の正直を繰り返しているようなこの状況に、かつての彼の言葉が赤井の脳裏に甦った。
それは、バーボンと出逢ってしばらく経った頃。
会談の誘いをバーボンが断るのを見て、なぜ絶好ともいえる機会を逃したのかと問いかけたことがあった。彼を責めるつもりはなく、標的としている相手からの誘いをわざわざ断った理由を聞いてみたいと思ったのだ。互いにうまい酒を飲んで気分がよかったからか、会話は和やかに進んだ。
『あの人は、素直に誘いに乗る相手にはあまり興味がないと思うんですよね。追いかける方が好きって男いるでしょう?』
『……だからわざと断ったのか』
『ええ。でもきっとまた誘ってくると思うので、そのときはOKするんです』
『それで、その次は?』
『OKしますよ』
『その次は?』
『断ります。だいたい三回に一回は断るんです』
『ホォー……』
『これくらいがちょうどいいんですよ。断り過ぎるのも良くないし、いつもOKするのも自分を安売りしているように見えてしまう……』
まるで恋の駆け引きのような考え方だ。誰かに入れ知恵でもされたのかもしれないが、バーボンはあくまで組織の仕事に懸命に向き合っているだけである。
そこでふと、脳裏に“ある疑問”が浮かんだ。仕事ではない、ただのプライベートの誘いであれば、バーボンは別の行動を取るのだろうか。
普段ならば彼個人の領域に踏み入ることはないが、酒のせいで少し自制がきかなくなっていたのだろう。気づけば、バーボンに問いかけていた。
『君自身はどうなんだ? 意中の相手から誘われたら、君はどうする?』
『僕のプライベートってことですか?』
『ああ』
バーボンは顎に手を当てて、斜め上を見た。思い描いている人物でもいるのだろうか。
『三回のうち二回は断るでしょうね』
『そんなに断るのか』
スケジュールが空いていればOKするのかと思いきや、仕事のときよりも断る回数が増えている。意図して断る回数を増やしているのは明白だ。誘う側にしてみれば、三度目の正直を繰り返すようなものである。
バーボンはウイスキーの入ったグラスをくるくると回しながら言った。
『だって……暇な人間だと思われるのも嫌だし、そんなに頻繁に会っていたら、もっと好きになってしまうかもしれないでしょう?』
バーボンと目が合う。目がとろりと潤んでいて、彼が少し酔っ払っていることがわかった。まるで、恋をしてはいけない相手のことを思い浮かべているようにも見える。
彼は、叶わぬ恋でもしているのだろうか。
妙な胸のざわつきに気づかぬフリをして、ライは酒を喉に流し込んだ。
三回のうち二回は断る。
昔、バーボンが口にしたそのルールを、降谷自身は無意識に実践しているのだろうか。それとも、意図して実践しているのだろうか。
もし後者だとすれば、自分は降谷の意中の相手ということになってしまうのではないのか――あるひとつの可能性に思い至って、胸の奥が熱を帯びる。
今すぐにでも答え合わせがしたいと赤井は思った。しかし、タイミングが悪く互いに仕事が忙しくなり、外で食事をしている余裕はなくなってしまった。
一ヶ月ほど降谷と食事をとれない日々が続き、ようやく束の間の休日を得た日。赤井は降谷を食事に誘うために警察庁へと向かった。前回食事に行ってから、赤井はまだ一度も降谷を食事に誘っていない。つまり、あと二回、降谷に断られなければ誘いには乗ってもらえないということになる。
今日を逃せば、次はいつ誘えるかわからない。赤井は考えに考えた末、賭けに出ることにした。
警察庁の玄関で待ち伏せしていると、しばらくして降谷が姿を見せる。降谷は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、迷いなく赤井のもとへと近づいてきた。
「久しぶりですね、赤井。今日はこちらもだいぶ落ち着いていましたよ」
「久しぶりだな。今日はこちらも大半の人間が休みを取ったよ」
「それはよかったです。またすぐに忙しくなりますからね。今のうちにお互いゆっくりしましょう」
「ああ、そうだな……。ところで今夜、時間は空いているかな? バーボン」
赤井が話を切り出すと、降谷がぴくりと眉を動かすのがわかった。「いったい何のつもりだ?」とでも言いたそうな顔をしてすぐ、降谷はさっと表情を変える。
「あなたと違って僕は忙しいんですよ、ライ」
今日は落ち着いているのではなかったのか、と問いたくなる気持ちを抑えて、赤井は続けた。
「良いイタリアンの店を見つけたんだが、一緒に行かないか? 安室君」
彼が訝しげにこちらを見てきた。バーボンから安室へ、呼び名を変えたことを明らかに怪しんでいるが、彼はすかさず安室を演じて言った。
「昼食がイタリアンだったので、僕は遠慮しておきます。FBIの皆さんと一緒に行かれてはどうですか?」
ポアロの賄いパスタでしたけどね……と小さく呟く声が聞こえて、赤井は微笑む。この状況がよくわからなくなったのか、降谷はムッとした表情をして自分に背を向けた。「じゃあ、僕は帰りますので」そう言って歩き出した彼の腕を、赤井は逃さないようにしっかりと掴んだ。
「今夜、君の時間を俺にくれないだろうか。……降谷君」
降谷君、と呼びかけたことで、彼がはっとしたようにこちらを振り返る。
誘いのバリエーションを増やすために、呼び名を変えていたことに気づいたのかもしれない。
「……」
「君の作ったルールでは、次はOKする……だったかな?」
降谷はくしゃりと顔をしかめて目をぎゅっと閉じた。彼の中で激しい葛藤があるのか、それとも恥ずかしいのか、降谷の顔は赤い。
過去のバーボンの言葉通り、彼は三回のうち二回断っている。彼の反応を見るに、降谷は、自分がこのルールを思い出すのを待っていたのかもしれない。なんといじらしいアピールだろうか。
「……い、いいですよ。あなたに僕の時間をあげても」
あまりにも愛らしいその姿に、赤井の口からは本音が零れ落ちた。
「君は本当に可愛い子だな」