お題「夢」 組織が壊滅したあと、まだ後始末に追われている頃のことだ。
ある日。降谷は赤井とふたりきりでいた。赤井に連れて来られたのは、夜景の見える洒落たバー。男二人で行くのには場違いとも思えるような場所である。その証拠に、カップルと思しき男女ばかりが視界に入ってきた。
しかし、杯を重ねてゆくうちに、そんな些細なことはどうでもよくなってくる。酒に酔うことを自分自身に禁じ、ある程度の緊張感は保っていたはずだが、隣に赤井がいることで、その緊張感とやらもいくらかやわらいでいた。赤井と一緒ならば、何が起きてもきっと大丈夫。そう思ってしまうほどには、自分は赤井を信頼していた。
度数の高い酒を口にしたせいだろうか。身体がぽかぽかとして心地よい。身も心もほぐれてゆくにつれて、自制心も砕けてゆく。
ちょうど、「コナン君の将来の夢はやっぱり探偵になることなのかな。いや、もうすでに探偵か」などと話が盛り上がっていたときだ。「将来の夢」を語れるほど、自分たちはそう若くはない。特に赤井は、成熟しきっているように見える。しかし、組織が壊滅した今。ふと、降谷は赤井の夢をきいてみたくなった。
「あなたの夢って何ですか?」
そう問いかけると、赤井はゆったりとした仕草でバーボンを口にしたあと、降谷をまっすぐに見つめてこう言った。
「夢は……君を攫うことかな」
「……へ?」
酔いが醒めるほどの衝撃。いや、酔っていたせいで、幻聴が聞こえていたのかもしれない。
早く酔いを醒まそうと、降谷が自分の頬をつねっていると、その手を制するように、赤井の掌が降谷の手を覆った。
「俺と駆け落ちしてみないか? 降谷零君」
翌日。降谷はいつも通り仕事があった。だが、朝からずっと昨日の赤井の言葉を反芻しては、頭を抱えている。
あれは自分の幻聴ではなかった。あのあと、「もちろん、君の時間が許すときで構わない。だが、しばらくは東京に帰れないと思ってくれ」と続けた赤井に、降谷は「本気ですか?」と問い返した。静かに頷いた赤井に、降谷は何もこたえることができなかった。
そして今。スマホには赤井からのメッセージが届いている。
『昨日のこと、少し考えてみてくれないか』
赤井のことになると、どうしてもうまく考えがまとまらない。そもそも駆け落ちとは、愛する男女がするものである。赤井と自分は、愛し合う関係――いわゆる恋人同士でもなんでもない。だが、赤井にとって、自分はそういう対象にあるということなのだろう。
「どうかされましたか? 降谷さん」
いつしか唸っていたようで、運転席の風見に問いかけられる。降谷は昨日の出来事を風見に話すことにした。
「……というわけなんだが、風見、君はどう思う?」
「どうって……有休がたくさん溜まってましたよね。これを機にたっぷり休みをとって赤井さんとゆっくり過ごされてはどうですか?」
風見には、ただ二人で旅行に行くだけの話として受け取られてしまっていた。
「ただの旅行じゃない……駆け落ちだぞ」
「旅行のことをただ“駆け落ち”と表現しただけでは? 組織の人間がよく使う、詩的な表現ですよね。ただ恋人を旅行に誘っただけでしょう」
「誰が恋人だって?」
「…………もしかして、お二人はまだお付き合いされてなかったんですか?」
「赤井と僕は、そんな関係じゃない」
風見が「ええっ」と声を上げる。本気で驚いている声だ。風見にとんでもない誤解をされていたことがわかり、降谷はさらに頭を抱えたくなった。
「それは……失礼しました。でも、行ってくればいいじゃないですか、旅行。業務の調整はこちらでしますから」
「いや、だがな……」
赤井の提案を受け入れること。それはすなわち、駆け落ちを受け入れることになる。
赤井とふたりきりで。
自分は、赤井の恋人として。
ぶわりと顔が熱くなり、降谷は自分の顔を掌で覆った。そうこうしているうちに、自分たちの乗る車は目的地に到着する。
「嫌ならお断りされればよいと思いますが、その様子だと……降谷さんは、攫われたいんですよね。赤井さんに」
風見がとんでもない爆弾を落として、ブレーキを踏んだ。
翌週、降谷は赤井と一緒に東京を離れ、北上していた。
前日、大雪が降ったようで、道端では大規模な雪かきが行われたようだった。雪が端に寄せられて、道が作られている。
風見から爆弾を落とされたあと。降谷は悩みに悩んだ末、赤井に返事をした。
『数日間の旅行なら、付き合ってもいいですよ。ちょうど有休も溜まってましたし。ただ、海外渡航はできません。何かあればすぐに戻らなくてはいけないので。僕はこの国から出られないんです』
けっして、風見の言うように、赤井に攫われたかったのではない。有休を消化させるために、旅行という名の息抜きをしたかっただけだ。
そんな言い訳を繰り返し、様々な条件や注文までつけ、赤井と旅行へ行く約束をした。
赤井の愛車に乗せられてやってきたのは、雪国だ。東京からは距離があるので、旅館に到着する頃にはもう夕方になっていた。今日は移動で終わったが、明日からは少しばかり観光をする予定である。
旅館の女将に案内されて、自分たちの部屋に入る。しばらくの間、この部屋で赤井と二人きりで過ごすのかと思うと、降谷は緊張した。
女将が緑茶や茶菓子を用意して、部屋を出て行く。部屋に二人きりになると、赤井が苦笑して言った。
「何をそんなに緊張しているんだ、君は」
こんなときでも赤井は余裕たっぷりに見えて、降谷はおもしろくない。
「あなたが“駆け落ち”とか、変なことを言うからですよ!」
旅行に行く返事をするまで、散々悩まさせられた腹いせに、降谷は声を上げた。周囲がひどく静かなので、声量はおさえめに。
「他にふさわしい言葉が見つからなくてな」
「ただ、一言、“旅行に行こう”じゃダメなんですか」
旅行に行こう。ただそれだけの言葉だったら、こんなに悩むこともなかっただろう。旅行のガイド本でも見ながら、どこを観光しようかなどと、今日この日まで楽しく過ごしていたに違いない。しかし赤井は、ただの旅行にするつもりは最初からなかったらしい。
「それはダメだ。君には、しばらく仕事のことも何もかも忘れて、俺のことだけを考える時間を作ってほしい。そう思って、君を誘ったんだからな。君がどう思うかは自由だが、俺の口からは“ただの旅行”とは言えんよ」
降谷は息を呑んだ。
赤井が考えている以上に、自分は赤井のことばかりを考えているのだが、まさか仕事を忘れろとまで言われてしまうとは。赤井の口からこんな言葉が出てくるとは、まったく思いもしなかった。
「……あなたでも、そんなこと言うんですね」
「これまでもこれからも、君にだけだと言ったら?」
「……」
赤井の目は真剣だ。
「君の心は、この国とともにある。そんな君を攫うんだ、それ相当の覚悟はしたつもりだよ。もちろん、この旅行が終われば君を手離すつもりだがな」
手離す、と言われて、降谷の胸はぎゅっと締めつけられた。
この旅行が終われば、赤井は自分のことを諦めるつもりなのだろうか。自分のことを攫っておきながら、赤井はもう、手離すことを考えている。
自分の心の中に沸き起こってきた感情に、降谷は混乱する。と同時に、怒りにも似た感情がぶわりと身体の中心からせり上がってくるのを感じた。
「駆け落ちの最中に、別れ話なんかしないでください」
そう告げると、赤井が目を見開く。
降谷が、本当の意味で、“駆け落ち”を受け入れる覚悟を決めた瞬間だった。
赤井は目を細めて、そっと自分の手をとりながら言った。
「ありがとう、降谷君。まるで、夢を見ているようだよ」