荀令十里香「荀彧殿。」
「無名殿、こんな時間にお伺いして申し訳ありません。」
荀彧は無名の部屋に入るなり、すぐに一礼し謝罪した。
この深夜に訪れることの無礼は荀彧自身も十分承知していた。手紙では訪問の旨を伝えていたが、公務が多忙を極め、なかなか時間を作ることができなかったため、こんな時間になってしまったのは本意ではなかった。
「気にするな、それより荀彧殿、お体は大丈夫?こんな時間までお仕事して…お食事をとった?厨房に肉まんがある」
「無名殿のお心遣いありがたいですが夕食はすでに済ませましたのでお気持ちだけで嬉しいです。」
無名が部屋を出ようとするのを見て、荀彧は慌てて答え、彼の前に立ちふさがった。
「ところで、無名殿。以前私が言ったことを覚えていますか?」
「覚えている。」
荀彧の言葉を聞き、足早に厨房へ向かおうとしていた無名は歩みを止め、代わりに荀彧を自分の寝台の端へと誘った。
「いつも私の弱さを受け入れてくれるあなたに、改めて感謝します。」
そう言うと、荀彧は帽子を外して横に置き、穏やかな微笑を浮かべながら無名を見つめた。
「…」
無名はじっと荀彧の顔を見つめた。
「王佐の才」と呼ばれる彼の目の下には、うっすらとクマができている。
この数日、きっと公務に追われて夜を徹していたのだろう。
そう思いながら荀彧を見つめていると、ふとあることを思い出し、口を開いた。
「荀彧殿。」
「どうしましっ…無名殿!?」
無名は急に荀彧に身を寄せ、ほとんどぴったりとくっつくような距離まで近づいた。何かを嗅いでいた後、顔を上げ、荀彧と真正面から視線を交わす。
その瞬間、ほぼ寝落ちしかけていた荀彧の意識は、一気に取り戻した。
「荀彧殿はいつもほのかにお香の匂いがする。」
「無名殿?」
「前にお会いした時から、ずっと気になっていたのです。この香りを嗅ぐと、なぜかいつも安心した。」
その特別な目(霊鳥の目)を持つ無名が、好奇心に満ちた眼差しで見つめてくる。その視線を受けた荀彧は、思わず動揺した。
「た、確かにこれは私が調合したお香です。しかし、無名殿がそこまで興味を持たれるとは…もしよろしければ、調合の作り方を教えてもいいのです…」
「いらない」
「無名殿?」
「荀彧殿が来てくれれば、それで嗅げるから」
「無名殿…」
「それより、荀彧殿。そろそろ休んだほうがいい」
荀彧は、無名の耳がわずかに赤くなっていることには気づかないまま、彼に押されるように寝台へ一緒寝る。
その後、無名と共に行動しているある医者が「最近紫鸞殿の部屋にはいつもと違うお香の香りが漂っていますね、三日間まで続けています一体どんなお香ですか?」と聞かれた無名は何も言わずに逃げた。