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    mikan__kankitsu

    落書きとか成人向けとか

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    POIPOI 13

    mikan__kankitsu

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    ラギ監♀ オメガバースパロディ
    ラギー(α)×監督生(Ω)です。

    2話→https://poipiku.com/1480272/5780800.html(まほばん当日に公開)

    運命なんて食いちぎって①「ユウくん、貴方はオメガですね」
    「おめが……」
     小一時間前に知ったばかりのその単語を口にした時、この異世界での生活の難易度が一段跳ね上がったのだと悟った。

    ***

     目が覚めたら放り込まれていた異世界、ツイステッドワンダーランド。そこは魔法だけでなく、私の元いた世界とは、人の作り自体も異なっていた。
    「学園に通うなら把握しておきたいのですが……ユウくん、バース性はなんですか?」
     雑用係でなく生徒として身を寄せることになり、必要な諸々の手続きを進めている最中、おもむろに学園長に問われた。聞き馴染みのない言葉に、「バース性……?」とおうむ返しで答える。
    「えぇ。女性であることはどうしようもないですが、バース性については必要であれば対策を……」
    「……?」
    「……その顔、もしやバース性を知らないのですか?」
     肯定の意で深く頷くと、学園長はがっくりと肩を落とし「貴方、本当にどの世界から来たんですか」と大袈裟に嘆いた。そんなこと私が聞きたいです、という言葉を飲み込んで、学園長の説明に耳を傾ける。
     いわく、バース性とは男女とは別の〝第二の性〟で、生まれながらに頭脳や身体能力に優れた希少なアルファ、一番数が多く特徴のないベータ、アルファと同じかそれ以上に数の少ないオメガがあるという。アルファの優秀さ以外の大きな違いは妊娠に関する身体構造にあり、アルファは男女ともに妊娠〝させる〟ことができ、逆にオメガは男女ともに妊娠〝する〟ことができるそうだ。
    「妊娠、ですか。学生生活の間は縁遠いものだと思いますが……」
    「そうですね。ハメを外さなければ、そこは問題ないでしょう。むしろ気をつけるべき点は他にあります。例えばオメガの〝ヒート〟などは、その最たるものです」
    「ヒート?」
    「ま、いわゆる発情期ってやつですね」
    「は、発情期!?」
     とんでもない単語に、思わず声がひっくり返る。少なくとも私が生きてきた世界では、その言葉は動物にしか使われていない。
    「えぇ。頻度としては三ヶ月に一度程度ですが、これが非常に強力でして。個人差はあるものの、抑制剤なしには活動できないほどの高熱や様々な欲求が出てしまう上、アルファを誘惑するフェロモンが分泌されてしまうのです」
    「な、なんだか大変そうですね……」
    「詳しくは貴方のバース性の検査中にでもお話ししましょう。ま、ユウくんはアルファってことはないでしょうし、おそらくベータでしょう」
     言外に〝頭脳も身体能力も優れたところはない〟と言われ若干ヘコみたくなったけれど、実際そうなので仕方ない。平々凡々なのが私の売りなのだ。
     学園長が電話で何やら指示を出すと、数分もしないうちに保健担当の教師がやってきた。身体構造を確認する魔法と血液検査でバース性は判別できるそうで、テキパキと採血の準備が整えられていく。左腕から抜いていった血液を携えて、あっという間にその教師は部屋を出て行ってしまった。
     さて、と学園長がこちらに向き直る。
    「先ほどの説明の続きをしましょうか。本来はこんな内容、エレメンタリースクールで全員が知ることですが……なんせ私、とびきり優しいので!」
     ツッコミを入れると学園長が拗ねてしまうので、形ばかりの拍手を贈る。学園長は満更でもなさそうに口角を上げて、滔々と説明を始めた。
     オメガのヒートは十代の半ばから現れるようになり、本人の意思に関係なく、三ヶ月に一度くらいの頻度で一週間ほど続く。この期間は様々な欲求が現れるが、そのほとんどは性的なもので、誰彼構わず欲情し、生殖行為のことしか考えられなくなってしまうそうだ。またその期間は本人に影響が出るだけでなく、特にアルファに対して非常に強力なフェロモンを撒き散らし、それが催淫効果を発揮してしまうのだという。ただ現在は多様な抑制剤が開発されており、ヒートが現れる年齢になると、それらを少しずつ試しながら相性の良い薬を絞り込んでいくのが通常の対策らしい。幸い抑制剤が効けば軽い風邪のような症状に抑えられるため、普段通りの日常生活を送ることもできるという。
    「ま、他にも色々ありますが、細かいことは追々理解していけばいいでしょう。そろそろ検査結果も出るでしょうし」
    「は、はい……」
     正直なところ、その申し出はありがたかった。この話以外にも、これから始まる学園での授業についていくための最低限の知識や、ここで生きていくための常識など、覚えなければいかないことが山ほどある。すでに情報を詰め込みまくった頭はパンク寸前で、これ以上なにかを聞いたら最初の方に聞いたことから忘れていきそうだ。
    「失礼します」
    「あぁ、噂をすればですね」
     ノックの音に続いて学園長室の扉が開けられ、先ほど採血をしていった保健教師が、検査結果らしき紙を一枚手にして戻ってきた。チラリとこちらに向けられた視線が、なんだか厳しいような、同情しているような気がして、嫌な予感が広がる。いやいや私は平々凡々。まさか。まさかね。
     学園長が手渡された用紙を一瞥して、深いため息をついた。
    「ユウくん、貴方はオメガですね」
    「おめが……」
     学園長が「平々凡々なのに、変なところだけ引きがいいのはなぜですか」と肩をすくめたので、そんなこと私が聞きたいです、と今度は我慢せず口にした。

    ***

     あっという間に季節は巡り、底冷えする冬が訪れた。と言っても学園内は快適さが保たれていて、冷えるのはたまに空調が壊れるオンボロ寮だけの話だけど。
     愛すべき親分とマブ二人が頭の上にイソギンチャクを生やしていたのは記憶に新しい。先日ようやくその呪縛から放たれた二人は、リドル寮長から大目玉をくらい、ウィンターホリデーまでの期間、放課後に図書館で勉強するよう厳命されていた。私も図書館にはよく通っていたので、グリムも一緒に固まって皆で勉強するのが最近の放課後の恒例だ。
    「ユウ、まだ何か調べてんの?」
    「オレ様もう疲れたんだゾ」
    「うん、あとちょっとだけ。先に帰ってていいよ」
    「あんまり根詰め過ぎないようにな」
     リドル寮長から言い渡された勉強時間を終えると、エースとデュースはさっさと帰っていく。グリムはその時間になるずっと前から勉強に飽きているので、嬉々として二人にくっ付いて行く。いつも、ここからが私の本当の調べ物の時間だ。目当ての本を探しに行くため、私は気合いを入れながら席を立った。
     皆で勉強している時は授業の予習や復習にあてている。それ以外の、授業に直接関係しない、この世界の常識や歴史、元の世界に関係のありそうな話などは、一人になってから調べるようにしていた。特に入学当初に説明を受けたバース性については、皆でいるときに調べるのは気まずい。一応ジャンル的には性教育なわけで、同世代の異性と話したい内容ではないからだ。
     この世界に来て、オメガだと診断され、すでに数ヶ月が経過していた。まだ〝ヒート〟らしき予兆はない。鞄の中に忍ばせている抑制剤入りのピルケースも、今のところはただのお守り状態になっている。その間に授業の合間を縫って、身体的なことは先生たちからレクチャーを受けた。自分で調べているのは、主に社会的な話だ。手元には、エレメンタリースクールで使用されている保健体育、歴史、道徳の教科書と、バース性を題材に扱った数冊の本がある。本といっても、絵本に近いようなものだけど。
     身体に関する話を聞く中で、バース性をめぐる歴史についても軽く教えてもらった。アルファがその有能さを発揮して支配階級として大成していた時代や、多数派のベータがアルファとオメガを弾圧していた時代、オメガがヒートを理由に冷遇されていた時代……など、その対立を紐解くとキリがないらしい。ただそれも抑制剤の発展にともない表面上はマシになっているそうで、それが私にとっては逆に厄介だった。
    ――いまいち温度感がわからないんだよなぁ……。
     最初に話を聞いたときは、これは相当センシティブなやつなのではと慄いたのに、いざクラスメイトと顔を合わせれば「お前のバース何?」なんて普通に会話していたり、「ヒートきついわ〜」とボヤく人がいたりと、想像以上にカジュアルな感じだったのだ。その割に先生からは、私がオメガであることは隠すよう言われているし、時折バース性を悪口に使う会話も耳にする。この温度感を掴めないと喧嘩の種になりかねない。ただでさえ入学から今日に至るまでトラブルに巻き込まれがちなのだ。避けられる火種は遠ざけておきたい。
     席に戻り、手始めに道徳の教科書をパラパラとめくる。全部で六章に分かれているうち、一章分は丸々バース性を扱ったものだ。低年齢向けのポップな字体で〝バースせいってなに?〟というタイトルから始まっていた。平易すぎる文章が読みにくくて、つくづく世界に馴染めていないのを実感してしまう。教科書をめくり気になるところをノートに書き留めながら、ぽろぽろとため息が零れた。
    「なぁに辛気臭い顔してんスか?」
    「うひゃっ!」
    「シシシッ、変な声」
    「ら、ラギー先輩、びっくりさせないでください!」
    「いやー、反応がいいと驚かし甲斐があるッスねぇ」
     特徴的な笑い声に合わせて、小刻みに肩が上下する。可愛らしい顔にいたずらっ子の笑みを浮かべたラギー先輩が、いつの間にか背後に立っていた。やめてくださいよ、と抗議の声を上げてはみるものの、大して怒った声音になっていないことが自分でもよくわかる。ラギー先輩も特に気にすることなく、隣の席に腰を下ろした。
    「今日もお勉強ッスか?」
    「はい。エース達はもう帰りましたけど」
     マジフト大会のときこそ一悶着――どころか、五悶着くらいはあったものの、先日のイソギンチャク事件でお世話になったのもあり、今では仲の良い先輩の一人だ。ラギー先輩は図書館に本を借りにくることが多く、よくこうして顔を合わせている。入学当初は授業についていくのに苦労したそうで、オススメの参考書を教えてもらったことは一度や二度ではない。引き換えに、と購買のドーナツ等の対価を要求されるものの、いつもお願いした以上に色々と教えてくれるし、無償で助けてもらうより気が楽で、ついつい頼ってしまっている。
    「今日は何を、って、それ道徳ッスか。……バース性について?」
    「あっ」
     気が緩んで開きっぱなしになっていた教科書を腕で隠してみたけれど、完全に後の祭りだ。慌てて栞を挟んで教科書を閉じたものの、ばっちり内容を見られてしまった。
    「珍しいッスね、授業に関係ないやつ読んでるの」
    「そ、そうですかね。えへへ」
     微妙な気まずさに焦って、変な笑いが漏れる。幸いラギー先輩は特に気にする様子もなく、いつもの調子で話を続けた。
    「そんなの読んでも大して意味ないッスよ。つーか読まない方がいいと思う」
    「そうなんですか? こっちに来て始めて触れた概念だから、いまいち扱いがわからなくて」
    「ユウくんの世界にはバース性ないって言ってたもんね。でもユウくんベータなんだから、そんな関係ないんじゃないッスか?」
    「そう、ですね」
     さらりと言われ、少しだけ良心が痛んだ。
     先日、サバナクローに泊まることになった際、念のためにと確認されたバース性は、先生に言われた通り偽って伝えている。入学当初から訊かれる度に嘘をつき続けてきた結果、何かにつけて考えていることが顔に出やすい私でも、この嘘だけはバレないようになってしまったのが若干物悲しい。とはいえ、察しの良いラギー先輩にこれ以上深掘りされたら誤魔化し続ける自信はなかった。
    「まぁ、なんというか、常識がないと困ることもありますから! あ、そういえばラギー先輩は何なんですか?」
     話題の矛先を変えるため、少し強引に明るい声で自虐しつつ訊いてみた。バース性を訊くこと自体は問題ないというのは、この数ヶ月で学んだことの一つで、自分に向いた矛先を逸らすにはちょうどいい返しだ。
    「オレは……アルファ、ッスよ」
    「おぉ、レアキャラだ」
    「レアキャラ?」
    「あっ、すみません! 言い方悪いですよね」
     キョトンとしたラギー先輩を見て、慌てて頭を下げた。
     人口に占めるアルファの比率は一割以下らしく、アルファだと聞くと、それを聞いたこと自体が貴重な体験なような気がして、ちょっと浮ついてしまう。いつもは心の中で小さく歓声をあげるのに留めているのだけれど、気の緩みがこんなところにも出てしまった。人の性をレアだ何だと言うのは、あまり品が良くない例えだということは自覚しているのだけれど。
    「そんな気にしてないんでいいッスよ。実際レアだしね」
     色々と、と仄かに含みを持たせて、ラギー先輩が笑う。その笑い方がどこか自嘲的に感じられるのは、気のせいだろうか。今まで出会ったアルファの人は、それを誇らしげに話す人ばかりだったから、油断していた。これは、ラギー先輩の気を悪くしてしまったかもしれない。
    「ごめんなさい。本当に、他意はなくって。なんというか、左利きの人に会った時みたいな感じで、嬉しくなっちゃうんですよね」
    「左利きッスか」
    「はい……」
     左利きの人からすれば、生まれてこの方、嫌になる程「左利きなんですね」と言われ続けているだろうから、たぶんこの例えもあまり適切ではないのだろう。ただ平々凡々で、当然のように右利きな私からすると、その違いがカッコ良く見えて、左利きの人に会うと嬉しくなってしまうのだ。アルファも、私の中では同じところにカテゴライズされている。しどろもどろになりながら、そんなことを話し終える頃には、ラギー先輩がまとう空気はいつもと変わらないものになっていた。
    「そっか、左利きかぁ」
    「すみません、変なこと言って」
    「いや、うん、いいと思うッスよ。……ユウくんはそのままでいてね」
     何が面白かったのか、ラギー先輩はぐしゃぐしゃと私の髪をかき混ぜた。本日二回目のやめてください、は相変わらず聞き入れられなかったけれど、楽しそうなラギー先輩が見れたのでホッと胸を撫で下ろす。
    「そんな常識知らずなユウくんには、こっちがオススメッスよ。はいどーぞ」
     ずい、っと差し出されたものに目を落とす。いつの間にか、手元にあったはずの教科書たちはラギー先輩の横に移動していて、代わりに美味しそうな料理の写真が並ぶ本が置かれていた。
    「『猿でも作れる★超基本から学ぼう★毎日の節約料理 百選』」
    「そそ。生きてくには、まず衣食住ッス!」
    「さすがにこれはバカにしてますよね!? 私これでも一応自炊してるんですよ!」
    「いやいや、基本を笑うものは基本に泣くんスよ。こっちの本はオレが返しとくから、ユウくんはそれ見て今日の献立でも考えてて」
     言うが早いか、ラギー先輩は教科書たちの山を抱えて本棚の間に消えていった。もー、と口を尖らせながらレシピ本をめくる。解説役のお猿くんが紹介する料理は、どれも思ったより本格的で美味しそうだ。教科書たちを返して席に戻ってきたラギー先輩にそのことを伝えると、先輩は「オレのオススメに外れはないッスよ」と得意げに笑った。



     レシピ本を挟んで談笑してるうちにすっかり日は落ちて、図書館を出る頃には空に星が瞬き始めていた。冬本番を前にして、夜が訪れるのが随分早くなったように思う。
    「それじゃあラギー先輩、また明日」
    「うん。じゃあね、ユウくん」
     オンボロ寮と鏡舎は方向が逆なので、図書館の前で手を振ってラギー先輩と別れた。ご機嫌そうな尻尾がゆらゆら揺れるのを少しだけ見送って、薄暗い帰路に着く。図書館の裏手から崖に沿う、ゆるやかな傾斜をのぼったところにオンボロ寮はある。校舎の横からロープか何かで降りれないかと思案し続けて数ヶ月。馬鹿なことするなとエースに止められ、毎日グリムを抱えて歩いているおかげで、妙に体力がついてしまった。
     図書館から借りてきた『猿でも作れる★超基本から学ぼう★毎日の節約料理 百選』をめくりながら、歩みを進める。今日の夕飯はツナ缶のツナ部分とオイルを別々に使って、パスタとサラダを仕上げるレシピにしようと決めた。
    「……あれ? 栞がない」
     ページを見失わないように挟もうとした栞が、鞄を漁っても見つからない。その場にしゃがみ込んで鞄の中身をかき回してみたものの、ノートの合間にも筆箱の中にもそれらしいとのは見当たらなかった。どこだどこだと記憶を探る。
    「あ、道徳の教科書……」
     ラギー先輩に声をかけられた時、慌てて栞を挟んだことを思い出した。教科書にそれを挟んだまま、ラギー先輩に返却されてしまったのだ。
     栞自体はミステリーショップで買い物のおまけにもらったもので、大した思い入れはない。後日取りに行っても、最悪処分されてしまったとしても心残りはないのだけれど、あの本の、あの箇所を私が読んでいたと万が一誰かに知られたら、それなりに気まずい。なんだかんだと言っても名門校であるナイトレイブンカレッジで、買い物のおまけで貰った栞を使っていて、エレメンタリースクールの道徳の教科書を読んでいる人物なんて、そう多くはない。というかたぶん、私しかいない。
    「取りに戻るかぁ」
     誰ともなしに呟くと、一気にそれが億劫に思えてくるから困る。じっとり重い気怠さを感じつつ、目鼻の先にあるオンボロ寮に背を向けて、図書館までの緩い下り坂を早足で降りていく。夕飯が少し遅くなりそうだけど、ツナ缶を使ったスペシャルメニューならグリムの機嫌も悪くはならないだろう。
     いそいそと歩みを進める。早足のせいか、すぐ息が上がってきた。太陽がほとんど沈み、辺りを闇が覆い始めている。照らす灯りもない道は足元が見えにくくて、ちょっとした出っ張りに躓きそうになる。じわじわと汗も滲んできた。
    ――汗? 冬なのに?

     どくん。

     周りに人がいたら聞こえそうなくらい大きな鼓動の音がして、急激に体が熱くなってくる。嫌な予感とともに吹き出した汗が止まらず、握り締めた鞄の紐を湿らせていく。足が小刻みに震えて立っていられなくなり、崩れるように座り込むと、地面に滴り落ちた汗が点々とシミを作った。吸い込む空気は冷たいのに、体温で一瞬にして温められたそれが真っ白な塊となって、次から次へと空中に溶けていく。
    ――なにこれ。なにこれ、なんなの!?
     混乱する頭の片隅で、なけなしの思考が答える。ヒートがきたのだ、と。
    「く、くすり……」
     どうにか力を振り絞って鞄に手を伸ばすも、先程栞を探してかき回したせいで、小さなピルケースは行方不明になっていた。全開まで広げた鞄をひっくり返す。中身があたりに飛び散って、薄暗さのせいで何が何だか余計にわからなくなってしまった。ただでさえ速い呼吸が、焦りで更に浅く速くなる。手足が痺れて動かなくなってきた。
     誰か助けて。薄れる意識の中で暗闇に手を伸ばす。でもこんなところ見られたら、一発でオメガだとバレてしまう。誰も来ないで。見ないで。助けて。助けて。

    「……ユウくん?」
     暗闇の中で、ブルーグレーが瞬いた。

    「ちょ、ユウくん、大丈夫!?」
    「らぎ、せんぱ……」
    「どうしたんスか!? っ、熱い!」
     バタバタと駆け寄ってくる聞き慣れた声に、ほんの少しだけ意識が浮上する。抱き上げてくれた腕と頬に寄せられた手のひらが、氷のように感じられるくらいひんやりと冷たい。
    「……、これ、ッ、ヒート……!?」
    「せん、ぱ、ごめ……なさっ……くすり、が」
    「……っ」
     ぐるりと周りを見渡して、散乱した荷物を一瞥したラギー先輩は、すべてを察したように唇を噛んだ。先輩は私の体を地面に戻すと、ひくりと鼻を動かし、睨みつけた視線の先をめがけ、掴みかかるように手を伸ばした。
    「ユウくん、これ! 飲める!?」
    「あ、……ぅ」
     ラギー先輩の手には、お守りと化していたピルケースが握られていた。縋り付くように手を伸ばす。ただ、伸ばしたつもりの手はほんの少し地面から浮かび上がっただけで、すぐに重力に負けてまた地面の上に落ちてしまった。
    「ユウくん! ……っ、くそ!」
     薄れゆく意識の端で、何かがバキッと音を立てて砕けた。

     誰かが私の頭を持ち上げている。浅い呼吸を繰り返す唇が柔い感触で塞がって、薄く開いた隙間から温かい液体が流れ込んでくる。甘い。美味しい。今まで口にした何よりも。搾りたての果汁みたいに瑞々しいのに、砂糖たっぷりの生クリームのように濃厚な甘さで、なんとも言えない多幸感が広がる。鼻腔をくすぐる芳しさで酔ってしまいそうだ。呼吸するのも惜しくなって、貪るように目の前の何かを押さえ込んだ。
    ――もっと。もっと飲みたい。
     その甘美な液体を一滴たりとも逃すまいと舌を差し出した瞬間、ドンと身体に衝撃が走った。
    「……っ、いったぁ……」
    「はっ……、ぐ、ぅ」
    「あれ、ラギー先輩……?」
     その衝撃が、突き飛ばされたことによるものだと理解するのにかかったのが、数秒だったのか数分だったのか、よくわからない。尻餅をついている私の足元で、ラギー先輩が丸くなり蹲っている。いつもぴるぴると忙しなく動いている耳も、ゆらゆら揺れている尻尾も、針金が通っているみたいにピンと伸びて、ふわふわのはずの毛が全て逆立っている。
     そうだ。ラギー先輩が、薬を飲ませてくれたんだ。ようやく思考が現実に追いついて、状況を飲み込み始めた。まだ体は熱くて息も荒いままだけれど、どうにか正気でいられるのは、ラギー先輩が飲ませてくれた抑制剤が効き始めたおかげだろう。そして逆に、私のヒートのせいで、ラギー先輩が苦しんでいる。
     どうにか体を起こして、まん丸に蹲っているラギー先輩に近づく。
    「ラギー先輩、大丈夫ですか!?」
    「触んなっ!!」
     地を割くような大声に、びくりと体が固まった。さすろうとして背中に伸ばしかけた手が中空を彷徨う。
    「っ、ごめ、ユウくん。近寄らないで……」
    「で、でも、ラギーせんぱ……っ!?」
     蹲り、頭を抱えるようにしていた腕の隙間から覗いた瞳が、ぎらりと光った。それはいつもの見慣れたブルーグレーの瞳ではなく、瞳孔が開いて、夜の闇に溶けていきそうな暗く深い青色に染まっていた。血走った白目には赤い筋がいくつも刻まれ、対照的な色の瞳のをくっきりと浮かび上がらせている。グルルルと断続的に上がる呻き声につられて口元を見れば、剥き出しの歯茎から鋭い牙が伸び、その牙がラギー先輩の左腕に突き刺さっていた。
    「ラギー先輩、腕が……血が!」
    「大丈夫、ッスよ」
     ふぅふぅと荒い呼吸の合間に、掠れた声で「慣れてるんで」とラギー先輩が呟いた。
     こわい。普段あんなに優しいラギー先輩が、野生の獣のような獰猛さを顕にしている。今にも喉元に噛みつかれ、肉も、骨も、血も、すべて喰らい尽くされそうな気がして、頭のどこか冷静な部分が、早く逃げろと警告し続けていた。でも。でも、それ以上に、
    ――ラギー先輩に、触りたい。
     胸の奥の奥にある、柔らかくてあたたかいところが、ラギー先輩に触れようと、手を伸ばそうとしている。固く縮こまった体を、逆立った毛を、剥き出しの牙を、撫でて、抱き締めて、どろどろに溶かしてしまいたい。そうしたら私の体も一緒に溶けて、ひとつになって、何か別のものに生まれ変われるような気がする。
     行き場をなくして彷徨っていた手を、今度こそ、ラギー先輩の背中に伸ばす。
    「ユウくんっ!」
    「――……!」
     どこかに飛びかけていた思考が、ラギー先輩の叫び声で現実に戻された。
    「お願い、さすがにキツい……早く帰って……」
    「あ……っでも、ラギー先輩……」
    「いいから!」
     ラギー先輩の腕から、どくどくと血が流れ続けている。でも私がここにいる限り、先輩は腕を噛むことを止めないのだろう。あたりに散らばった荷物を適当にかき集めて鞄に詰め込み、ふらつく足を叩いて寮へと走る。途中で一度だけ振り返って目を凝らしたけれど、夜の闇が深くなってしまったせいで、ラギー先輩の姿はもう見えなかった。
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