陽だまり 放課後の公園には子供たちの姿が多い。娘のイナはもう遊具のある公園で遊ぶような歳ではない。友達の弟を公園で遊ばせるのに付き合っている。迎えに来た父親のサンウォンはその姿をベンチに座って眺めていた。
天気はいい。午後の明るい日差しの中、イナの友達の弟という少年は奇声を上げながら巨大な滑り台にとりついていた。イナにもそんな時期があったのだろうか。思い出そうとしたが、そもそもその当時自分は子育てに無関心ですべて妻に任せていた。深夜に帰宅しすでに寝ている娘の寝顔を見るのが日課のようなものだった。休日も平日の疲れを癒すことが最優先で、仕事の付き合いででかけることも多かった。
自分は娘のことを何も知らなかった。きっと妻のことも。分かった気になっていたが、知らなかったことも多いだろう。
思い返せば苦々しい記憶につながり、その忌々しさを振り払うように小さく首を振った。視線の先では滑り台の下で少年を迎える娘とその友達の姿がある。平和だ。それでいい。
「平和な光景だな」
「何ですか?」
思ったことを口に出してみると、隣に座った男がゆったりとした口調で聞き返した。
「子どもたちが楽しそうに遊んでいる。平和だろう?」
「ああ、そうですね」
サングラスの下の表情はよく見えないが口元が少し皮肉気にゆがんだ気がした。ホ・ギョンフンは事件後もふらりとサンウォン親子のもとを訪れてくる。図々しく居座ることもあるが、突き返した請求書はその後出し直されてはおらず、あまり無下にもできずにいた。大怪我をしても連絡する家族も同僚もいないと平然と言ってのけた相手をなとなく気にかけているのはもしかすると幼いイナときちんと向き合ってこなかった罪滅ぼしのような気持ちもあるのかもしれない。罪滅ぼし。もしくは埋め合わせ。
ギョンフンにはイナも懐いていた。口八丁の胡散臭い男は存外子どもの興味を引くらしい。食事の準備をするサンウォンを他所に二人がゲームの勝ち負けで大騒ぎをしている時など、一人が欠けた一家に一人増えたような気持ちになった。食事だけでなくそのうち酒を飲むようにもなった。そんな時のギョンフンは祓魔師などという得体の知れない存在ではなく、ただの気のいい陽気な年下に見えた。「家族団欒て、いいですねえ」さほど酒に強くないのか、目元を赤くしてへらへらと笑う横顔はどこか寂しく、サンウォンは母を亡くしたというギョンフンの言葉を思い出す。
だがふらりと現れるギョンフンはいつもへらへらと曖昧な笑みを浮かべていて、中々真意を読み取らせない。なぜ自分たち親子の元を訪ねるのかも。
今もその男はもの言いたげにサンウォンにむけていた視線をゆっくりそらした。その先には遊具で遊ぶ子どもたちがいる。ゆっくりとサングラスを外して目を細めた。
「平和に見えても見かけだけで安心するのは危ないですよ」
「何?」
不穏な物言いに、咄嗟に目が娘を探す。変わらず滑り台の周りではしゃぐ娘の周囲を確認する肩を「まあ落ち着いて」とギョンフンの手が叩いた。
「イナちゃんは安全ですよ」
「……」
「ほら、よく見てください」
納得していない表情のサンウォンにギョンフンがゆったりと促す。ギョンフンに倣って公園をぐるりと見渡した。色とりどりの遊具。それに集まる子どもたち。見守る親たち。花壇。植木。特に危険を感じる要素はない。
「何があるんだ」
「あるんじゃなくて、ないところがあるんです」
「……?」
理解できないという表情のサンウォンにじっと視線を送ると、ぐるりと首をめぐらせる。ある一点で目を止めた。
「あそこです。誰も人が行かないでしょう? あそこはよくないんです」
ギョンフンが示す場所は公園の中ほどにあるのに確かにそこに人はいない。子どもたちもそこになにかがあるかのようにふわりとその場を通り過ぎてゆく。ないものを見ようと目を凝らすサンウォンの肩に再びギョンフンがその手を乗せた。
「あまり見ない方がいい。呼びますから」
「呼ぶ?」
「ええ。よくないものを」
実はもう来てるんですけどね。その言葉のせいか、陽光に満ちた公園でサンウォンは急に冷気を感じた。口の中で何事かを唱えギョンフンはおかしな風に片手を振る。急に視界が明るくなった気がしてサンウォンは瞬きする。
「今、祓いました」
狐に摘まれたような気持ちでサンウォンは隣の男の顔を見る。視線を受けてギョンフンの口元が笑いの形に弧を描いた。笑う男と目が合い、サンウォンは再び背を粟立てる。隣にいるのは、ただの陽気な年下の男ではない。いつもへらへらと曖昧な笑みを浮かべる男はこちら側ではなく、向こうとこちらの狭間にいるということを思い知らされる。一度だけ垣間見たあの場所に近い場所。
そのことは既に知っている筈なのに、目の当たりにするたびサンウォンの背筋は冷えた。
「僕は憑依体質なんで、ほっとくと寄ってくるんです」
サンウォンの恐怖に気づいているのかいないのか、常と変わらぬのんびりとした口調でギョンフンは歌うように言った。口の端を緩ませるそこに、先ほど感じたあちら側の気配はない。
その手首でじゃらりと「お守り」が音を立てた。そういうものがあっても何者かが「寄って」来るということなのだろう。
「それで、その、あそこにいたのは……」
「今はいませんよ。でもしばらくしたらまた別のが寄って来るでしょう。そういうものが溜まりやすい場所がたまにあるんです」
ほとんど害は無いので気にしなくて大丈夫ですよ。いつぞやの営業トークのように妙な明るい口調で話す。
それは先程自分の怯えを感知したからだろうか。ギョンフンのわざとらしいまでの明るさには諦めの気配がある。イナとはしゃいでいる時にも滲み出るその気配はサンウォンを切なくさせる。
おれにまでそんな風に話さなくていいのに。
ギョンフンの見る世界は生者の世界だけしか知らずにいたサンウォンにとって恐ろしい物ではあった。だが、それはギョンフンを恐れているということではない。
どう伝えたら傷付けずに済むのだろうか。
再び遊具に目を向けると視線に気づいたイナが大きく手を振る。娘に手を振り返しながら立ち上がり「夕飯を食べていけよ」と隣の男に告げた。
「ありがとうございます」
背中で嬉しいなあとはしゃぐその笑みが屈託の無いものだといい。走り寄る娘を迎えながらそう思った。