AM5:31 音もなく瞼が開く。
カーテンの隙間から射し込む薄明るい光が、ゆったりと空気を泳ぐ埃を照らし出していた。
ダイヤモンドダストみたい。
目を開けた、そのままの状態でぼんやりと思う。そういえば、いつから窓を開けてなかっただろう。よく覚えていないけれど、弱設定のクーラーは、もう長い間働きつづけているような気がする。
目は開いているけれど、頭も、体もまだ眠っている気がした。こういう感覚が所謂、金縛りというやつなのだろう。別に、幽霊とかのせいでも、構わないけれど。
多分、もう動かそうと思えば体は動かせた。
足の指先を確かめるように動かして、手のひらをゆっくり握って、また開いて、固まった肩と背中を伸ばすように肩甲骨を寄せて、埃臭い部屋の淀んだ空気を大きく吸って、吐いて。
そうすれば、きっと体は目覚めるだろう。そんなこと、よくわかっていた。でも、そうしなかった。
理由は簡単だ。体が目覚めたところで、私の頭は目覚めないからだ。
湖の底に沈み込むような静けさが、惰性で眠る体に浸透する。窓の外からは鳥の声ひとつしなかった。時間が止まってしまったのかもしれない。
だから、それに合わせて、呼吸を止める。そうしてみると、クーラーの小さな作動音が聞こえて、なんだやっぱり時間が止まったわけではなかったのかと、少しだけ落胆した。
時間が止まってくれればいい。
いや、違う。もしそんな非現実的な願いが叶うのだとしたら、私の願いは、そうじゃない。
時間が、巻き戻ってくれれば、いいのに。
そうしたら、鮮やかでキレイなものを全部集めて、それを束ねた花束みたいな、幸せだったあの時間を抱えて生きていたい。あの時間の中に、ずっといたい。
それが叶わないと理解するたび、私は死ぬ。体が引き裂かれて、心臓が冷たく凍りついて、息が止まって、脳が麻痺して。
そうやって何度も死んでいるのに、今も体はここにある。ああ、そうだ、私は、まだ死ねていない。
ぼうっと、どことなく天井を見つめる。
──すると、不意に光に照らされ揺蕩う埃の中に、黒い煤のようなものが混じっていることに気がついた。数mmほどの小さな黒い粒が、白い天井を背景にふわふわと踊るように舞っている。
ひとつ、ふたつ。目を凝らすと、それはどこからともなく数を増やして、私の足元の方へ流れていく。そのうちのひとつを目線だけで追いかけると、視界の一番下に、黒い塊がもぞもぞと蠢いているのが見えた。
一瞬、心臓が跳ねて、息が止まる。見つめていたらまずいのではないかと思いながらも、体は本能的にこの得体の知れない物体が一体何なんなのか見定めようとしていて、視線をそらすことができない。黒い塊の輪郭が、ぞわぞわとぼやけて波のようにうねりをあげている。空気中の黒い煤がそれに吸い寄せられように集まって、くっついて、どんどん大きくなっているようだった。
心臓がどくどくと音を立てて、口の中が乾いて張り付く。それを気にする余裕は、今はない。
音を立てないようにゆっくりと枕から頭をあげると、私のベッドの足元から、黒い影のようなものが立ち上がっていた。人のかたちではない。常に膨らんだりくびれたりして、形が複雑に変化し続けている。
ベッド脇の窓から射し込むぼんやりした光の向こう側。まだ薄暗い部屋の中で、うねうねと、炎か煙かのように輪郭を揺らしながら、何をするわけでもなく、それはそこにいた。
意外にも、その全容が確認できると、私の心はすっと落ち着いてしまった。幽霊、化物、死神。これがなんだかわからないけれど、正直何でもいいのだ。今すぐ危害を加えてくるわけでもなさそうだし、仮にそうなったとしても、私は別に、構わなかった。
でもどうせ命を奪われるのだったら、苦しみたくはない。なるべく、ひと思いにやってほしい。
そんなことを考えていると、その黒い影の中に、丸いビー玉みたいな目が2つ、ぱちりと開かられた。
これにはさすがに驚いて、喉の奥から短い悲鳴が漏れる。その音で私を認識したのか、目玉はこちらをぎょろりと向いて、二、三度ゆっくりとまばたいた。
「オ、は、よ」
拡声器を通したような、ザラザラとした音。それは、確かに影の中から聞こえたものだった。口はないのに、どこから出した音なのだろうか。
そして、あろうことか、私は挨拶されたのだ。普通の人間なら、必ずしたことがあるであろう、朝の挨拶。
おはよ。おはよう。おはようございます。グッドモーニング。
こんな物体に声をかけられたら、普通はパニックになりそうなものだったが、私の頭は目覚めていないからか、意外に冷静だった。
意思疎通できるタイプの化物かあ。それが最初に思ったことだった。
「······おはよう、ございます······」
そうなると、無視するのは感じが悪いし、そのせいで激昂されて私の死に方がえげつないものになるのは、極力避けたい。
そう思って、私はこの化物に挨拶を返した。
私の声を聞くと、化物の輪郭がぞわぞわ、うねうねと一際大きく揺れる。しまった、対応を間違えたかもしれない。
頭の中のコマンドは『はなす』以外には『たたかう』『にげる』くらいしかないが、どちらも現実的ではないから、これがだめなら何にせよゲームオーバーだ。
「たべ、た?」
主語のない問いに、困惑する。
食べた?誰の、何をだろう。もしかして、この化物の食料を勝手に奪ったやつがいて、その相手を探してここに来たのかもしれない。
もちろん、私に心当たりなどない。そもそも、化物の主食とはなんだろうか。やはり、人間?魚?鳥?それとも、プリン、とか?
どれにしても、私は何も食べてなどいない。正直に答えるしかないだろう。
「食べてない、です」
「たべて、ない?ずっと?」
「食べて、ないです、よ」
そう答えると、化物はじっとこちらを見つめてきた。まるでエメラルドみたいな碧色の瞳、その真ん中を縦に割る細い瞳孔。
疑われているのか。それとも、じゃあ、お前を食おうとでも言うのか。
反応を待っていると、化物はウーンと低い声で唸り出した。
「ごはん、とっても、おいしいよ。たべな、よ」
「······へ?」
まさか化物に食事を促されるなんて夢にも思わずに、馬鹿みたいな声が口から漏れる。
化物は固まる私を差し置いて、首を傾げるようにぐにゃりと曲がった。
「おニクは、すき?おサカナは、すき?」
「······魚は好き」
「アはッ、なかま」
化物が、ふるりと、嬉しそうに震えた。
それを見て、ゆっくり上半身を起こす。ずっと頭をあげていたから、首の筋肉がもう限界だった。
ベッドの上で膝を抱えて座る。体を起こして改めて見ると、思ったより化物は小さかった。私を見つめて、陽炎のように不安定に揺れている。
もう、怖さはなかった。
「なんのお魚が、好きなの?」
「おサカナ、なんでも、うまい。おまえ、は?」
「私?······うーん、サンマかな」
「サンマ、どんな、やつ?」
「え?えっと······、細長くて、銀色の魚、かな?このくらいの」
「おれ、それ、すき!」
碧眼が眩しそうに細められた。笑っている、ように見える。
「おまえ、あと、なにすき?おれは、あったかいところでねるの、すき」
「私、は······そうだな、なんだろ」
麻痺した頭で考えてみる。私の好きなこと、なんだっけ。
「お菓子を作るのは、好きだったかな」
「なぜ、すき?」
「んー、作ってておもしろいし、食べておいしいし。あと、あげた人にも喜んでもらえるから、かな」
「そ、うかあ」
「あなたは、好きなお菓子ある?」
「おれ、クッキー、すき」
「そうなんだ。クッキー、おいしいよね」
化物の好物はプリンじゃなくて、クッキーだったか。
そういえば、最後に作ったのは、いつだっただろう。思い出そうとするけれど、脳が痺れて、記憶が浮かんでは滲むように消えてしまった。
こんなふうに、誰かと会話するのは久しぶりだった。久しぶりの相手が化物というのも、おかしくはあるけれど、むしろちゃんと会話ができるのはそのせいなのかもしれない。
ベッド脇の窓につけられた、小花柄のカーテン。その少しだけ開いた隙間から、ふと外を見る。
夜と朝が混ざった空の色。きっと、もうすぐ日の出なのだ。
暁。東雲。黎明。かわたれ時。この時間にはたくさんの名前がつけられている。
───それならば、私が戻りたいあの時間には、一体なんていう名前がつけられるのだろう。
楽しくて、幸せで、穏やかで、賑やかで、愛しくて苦しいあの時間。
ああ、思い出したくない。
思い出したら、過去になってしまう。もう戻れないと理解してしまったら、私はまた死んでしまう。
「ど、うした?」
化物のぎこちない声がする。視線を戻すと、相変わらずそこには、うねうねと揺らぐ黒い影が立っていた。
「······戻りたいの」
ぽつりと口から出た言葉は、抑揚のない無感情なものだった。
「もどり、たい」
二度目の言葉は、凍えたように、震えていた。
じんと痛んだ目の奥に、水が溜まっていく。
あの頃に戻りたい。
戻って、ずっと、あの、優しくて温かな時間の中で生きたい。
「っ、······あいた、い」
瞼の縁から溢れた涙が、まばたきのたびにぼろぼろと弾き出されていく。
喉の奥で空気が震えて、苦しい。一度そうなると、わななく体を抑えることもできずに、膝に顔を埋めて嗚咽をあげることしかできなくなってしまう。
「かなしい?」
さらりと髪が撫で付けられる感覚に、ゆっくりと顔をあげる。
化物から伸びた、腕くらいの太さの影が、そっと私の頭を撫でていた。
「おれも、かなしい」
ぽろり。丸い瞳から、雫が落ちる。
それにつられて、私の目からも、また涙が落ちた。
「かなし、いね」
その声を聞いたら、苦しくて、耐えられなくなって、わんわんと子どもみたいに声を上げて泣き出すと、化物も一緒に泣き出した。
涙が落ちるたびに、化物の体がその反動で湖面のように揺れる。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。私と化物の目から、涙は落ち続けた。もう、クーラーの作動音も聞こえない。ただ、私と化物の泣き声だけ、夜明け前の薄暗い部屋に溶けるように広がっていった。
泣いて、泣いて、泣いて。
どのくらい泣いたかわからないくらい泣いてから、私はやっと、泣き止んだ。
たくさん泣いたのに、何故か頭はすっきりしている。きっとまた死んでしまうのだと思ったのに、私は死ななかった。
あの日以降、こんなに泣いたのは初めてだった。
泣いてしまったら、悲しんでしまったら、それを過去だと受け入れてしまうような気がして。そんなことをしたら、本当に死んでしまいたくなるから、ずっと、泣かないでいたのに。
私と一緒に泣いていた化物も、いつの間にか泣き止んでいて、私の顔をじっと見つめていた。
濡れた碧色が、キラキラと宝石のように光る。こんなに綺麗な目をしていたのかと、今更になって気がついた。
「おまえ、ずっとここに、いるのか?」
「······そう、ずっとここに、いるの。しばらく外、出てないんだ」
「おそと、も、たのしい、よ」
「そうかな」
「かぜ、きもちいし、おひさま、あったかい」
「······うん」
「ごはんも、おいし、いよ。あと、えーっと、あたらしい、おもちゃも、あるよ」
「うん、そう、だね」
化物があんまり一生懸命にそう言うから、おかしくなって、笑ってしまった。久しぶりに使った頬の筋肉が引き攣って、多分ものすごく不細工だと思う。
それなのに、私を見た化物の瞳は柔らかな弧を描いた。
「おまえの、わらったとこ、すき」
その、弾むような声に、胸がぎゅうと音を立てた。
「おれ、おまえのこと、だいすき」
ぽろりと、涙が一粒だけ、私の目から零れ落ちる。でも、それはさっきまでのものとは違って、あたたかくて、やさしいものだった。
「ありがとう」
「クッキーより、すき」
「うん、ありがとう」
「おサカナより、うーん······ちょっと、すき」
「あはは、ちょっとかぁ」
「だから、だからぁ、えーと」
「うん、もういいよ、······もう、大丈夫」
私が笑うと、化物はふるりと震えた。
「そっかぁ」と穏やかな声が聞こえて、うねうねと揺らいでいた輪郭から、ひとつ、ふたつと黒い煤がバラけて、部屋の空気の中に還っていく。
ベッドの上を這って、少しずつ小さくなっていく化物に近づくと、そっと手を伸ばした。触れたところからハラハラと散ってしまうけれど、丸い碧眼が気持ちよさそうに閉じられる。
「私も、きみが、大好き」
「アはッ、なかま、だ」
そうしてまた、部屋の中は静かになった。窓の外からは、鳥の声ひとつしない。
だけど、私の頭は、ようやく目を覚ましたように動き始めていた。
カーテンを開けて、外を見る。
すっかり夜が明けて、高く澄んだ青空が広がっていた。
▼
「おはよ」
私の言葉に、振り返った母さんは目を丸くして固まった。
「······おはよう、どうしたの?」
「あさごはん、食べたい······」
「え!食べれるの!?」
オーバーなリアクションに、苦く笑う。まあ、もう何週間もまともに食べてなかったのだから、仕方ないだろう。
「あと、今日、学校、行こうかな」
「ええ!?」
無理しなくていいのよ、なんて、母さんは困ったように眉を顰めていたけれど、私が大丈夫だと答えると、それ以上は何も言わずに嬉しそうにキッチンへ向かった。
その背中を見てから、長い間近付けなかったリビングの隅のキャビネットの前に立ち、そこにある写真たてを手にとった。
四角いフレームに収められた、黒くて艷やかな毛並。人懐っこそうな顔。エメラルドみたいな、丸い碧色の、瞳。
棚の上に置かれた大好きだった猫じゃらしと、新品のねずみのおもちゃ。
塞ぎ込む私にと、友達が描いてくれた可愛らしいイラストも一緒に並べられている。
「ごめんね、ずっと、会いにこれなくて」
写真立てを元通りに戻すと、それに向かって、手を合わせた。
「また、クッキー作ってあげるね」
ニュースを伝えるテレビの音。
ご飯を温める電子レンジの音。
母さんのへたくそな鼻歌。
外から聞こえる電車の音。
通りすがりの誰かが会話する声。
あの、嬉しそうに弾む鳴き声はもう聞こえないけれど。
私は、あの子がくれた色鮮やかな思い出と一緒に、生きていける。