藤丸立香と世界最後の一日「いらっしゃーい、いらっしゃーい!」
威勢のいい男性の嗄声に、思わず目を向ける。オレンジ色のカゴに詰められた大きな白菜。太くて真っ白な大根。山積みのさつまいも。玉ねぎ。かぼちゃ。『大安売り』と赤字で書かれた黄色い厚紙を持ち店頭に立つ白髪交じりの店主が目に入った。
「今年最後の大安売り!安くて新鮮な野菜だよー!年越しそばの具材にぴったりだ!」
その声につられ、その八百屋の前にはすっかり人集りができていた。
帰宅中の足は止めずに、その様子を横目で見ながら通り過ぎる。ちょうど、腰の曲がったお婆さんがビニール袋に入った商品を受け取っているところだった。
「いつもありがとなあ。気をつけて帰りなよ。良いお年を」
「ああ、はいはい、ありがとねえ。良いお年を」
そんな会話が聞こえてきてほんのり温かい気持ちになりながら、店の前を過ぎ、角を曲がる。ほとんど沈みかけた夕日が真正面で金色に輝いて、その眩しさに目を細めた。歩く度、それに合わせてかしゃりかしゃりと手に持ったコンビニのレジ袋が音を立てる。年末の特番を見ながら食べるためのお菓子やジュースが入っていのだ。一人で食べるには多すぎる量を買ってしまったが、きっと家族も食べるだろうから、少ないよりはいいはずだ。
「あら、こんばんはー。今からどこか行くの?」
「ええそうなの、息子が年明けにお雑煮が食べたいって言い出して……お餅がないのに今更気付いちゃったのよ」
「あらそう……でも、あそこのスーパー今日は閉まってるわよ?」
「え、やだ、本当?どうしましょ」
確かに年末年始は営業時間が変わってたり、休業してたりするもんなあ。
餅の入っていないお雑煮はさすがに物足りないかも、と考えながら、自転車を止め会話をしている二人の女性の横を通り過ぎた。
少し行くと、家が見えてきた。冬は日が落ちるのが本当に早い。帰ってくる間に日が沈んでしまって、もうかなり薄暗くなっている。
「ただいまー」
玄関を開けてそう言うと、奥から「おかえりー」と母さんの声がした。そのまま自室のある二階へ上がる。手に持っていたビニール袋を机の上に置き、上着を脱いでハンガーに引っ掛け、どさりとベッドに横たわった。
ブー、ブー。
ポケットに入れていたスマホが震えた。引っ張り出してベッドに仰向けに横たわったまま画面を見ると、『俺たち年明けたら初詣行くけど、立香も来る?』の文字。少し考えて、『ごめん、寝ちゃいそうだから遠慮しとく。来年もよろしく!』と返信した。
「……元気だなあ、あいつら」
自分も同じ年なのだが、つい年寄りめいたことを呟いてしまった。しかし、年明けまで引きこもるつもりでコンビニに出向いたのだ。今から外出する方向に気持ちを切り替えるのは、流石に気が重い。
ぱたりとスマホを持った手がベッドに沈む。 年末……年末か。なんだか、あまり実感がない。思い返すと、なんとなく去年も一昨年もそうだった気がする。来年は一体どんな年になるだろう。楽しいことが、たくさんあるといいな。
またスマホが震える。画面に表示された『了解!良いお年を〜』という文字と、それに続いて送信された不細工な猫のスタンプに、思わずふっと笑みが溢れてしまった。
▼
なんとなくつけたテレビからは、賑やかな笑い声と音楽が流れている。黒の紋付羽織を着た司会と、ゲストタレント。雛壇の芸人。年明けまで生放送され続けるバラエティ番組だ。毎年なんとなくつけて、結局だらだらと最後まで見てしまう。
「じゃあ友達と初詣行ってくるからぁ!」
「気をつけるのよー」
「はあい」
玄関先から妹と母さんの声がした。俺はめんどくさがって断ったというのに、フットワークの軽いやつだ。尊敬する。
こたつに入ったまま、天板の上に並べたスナック菓子を口にする。あまり食べると年越しそばが食べられなくなってしまうから気をつけないとと思いながら、結局そこそこ食べてしまった。
『さあ、年明けまであと……あ、もう1分ですかー!あっという間ですね!皆さん準備はいいですかー?』
わあっと歓声が上がる。
いよいよ年越しだ。元日はどうやって過ごそうか。特に予定もないけれど、少し人がはけた辺りを狙って初詣もいいかもしれない。年末年始くらい神様だって、きっと寛容だろう。多少の挨拶の遅れは許してくれるはずだ。
『ではカウントダウン始めます!10!9!8!7!』
なんだか、急に目蓋が重くなってきた。
抗いきれず、目を閉じる。
かくんと頭が舟を漕いだ。
『6!5!4!』
ものすごく眠い。こんなタイミングで眠くなるなんて、やっぱり初詣は断っていて正解だった。
カウントダウンの声が、微睡む頭の中で反響する。
『3!2!1──────』
ああ、年越しの瞬間くらい、見ていたかったのだけど。
抵抗虚しく、そこで俺の意識は途絶えてしまった。
▼
すっかり日が傾いてしまった。
夕日が鮮やかなオレンジ色に雲を染めていて、明日も晴れそうだと気分が良くなる。
ひゅうと冷たい風が吹き抜けた。思わず肩をすくめて、むき出しの首元を埋める。マフラーもつけてくればよかった。風邪をひく前に早く帰ろう。
少しだけ足を運ぶスピードをあげると、一定間隔に鳴っていた手元のビニール袋の擦れる音も、同調するように早くなった。
街には活気が満ちていた。この辺りは住宅街で、近くに大きなスーパーがあり、昔からの商店街もある。ちょうど夕飯の材料を買いに来ている人も多いのだろう。古いアーケードに差し掛かると、多くの人で賑わっていた。
「いらっしゃーい、いらっしゃーい!」
威勢のいい男性の声がする。
「今年最後の大安売り!安くて新鮮な野菜だよー!年越しそばの具材にぴったりだ!」
大安売りと赤字で書かれた黄色い厚紙を持って、店頭で呼び込みをしている白髪交じりの店主が目に入った。
八百屋さんか。彼の呼び込みに引かれて店頭は人で溢れていた。
「いつもありがとなあ。気をつけて帰りなよ。良いお年を」
「ああ、はいはい、ありがとねえ。良いお年を」
通り過ぎざまに、そんな会話が聞こえた。腰の曲がったお婆さんが、白いビニール袋を受け取っている。きっと、常連さんなのだろう。
温かい気持ちになりながら、角を曲がる。真正面で金色に輝く沈みかけの夕日が眩しくて、思わず目を細めた。
かしゃり、かしゃり。手に持ったビニール袋の音。一人では食べ切れないくらいのお菓子とジュースを買ってしまった。きっと家族も食べるから、多いに越したことはないのだけれど。
「あら、こんばんはー。今からどこか行くの?」
夕日の眩しさに視線を地面に落としていると、少し前の方から女性の声が聞こえた。友達にでも会ったのだろうか。明るく、嬉しそうな声だ。
「────あらそう……でも、あそこのスーパー今日は閉まってるわよ?」
少し間があって、そんな声が聞こえた。
奇妙に思って顔をあげる。
女性がひとり立っていた。夕日に照らされて顔は見えない。
──電話でもしているのだろうか。しかし最初の声のかけ方からは、そんな感じはしなかったけれど。
眩しくてよく見えないが、あまりジロジロと見るのも悪いだろう。また目線を外し、地面にやる。女性はまた少し間があってから「コンビニとかにも売ってるんじゃない?最近のコンビニは何でもおいてあって便利よねえ」と笑っていた。
すれ違いざまに、ちらりと横目で見る。
彼女は自転車のハンドルを両手で握っていた。
スマホは、持っていなかった。
「ただいまー」
「おかえりー」
玄関を開けてそう言うと、奥から母さんの声がした。そのまま二階へあがり、自室へ入る。手に持っていたビニール袋を机の上に置き、上着を脱いでハンガーに引っ掛け、どさりとベッドに横たわった。
……あの人、誰と話してたんだろう。
ぼんやりと天井を眺めながらそんなことを考える。
ハンズフリーで通話していたのかな。いや、でも、そんな雰囲気ではなかったし。まるで、あの人の目の前にもう一人誰かいるような────
ブー、ブー。
ポケットのスマホが鳴って、びくりと肩が跳ねる。見ると、友人からの初詣の誘いだった。少し考えてから、断りの返信をする。返ってきた不細工な猫のスタンプに思わず笑ってしまった。
▼
「じゃあ友達と初詣行ってくるからぁ!」
「気をつけるのよー」
母さんの声に続いて、妹の「はあい」という間延びした返事が玄関から聞こえてきた。相変わらずフットワークの軽いやつだなあと思いながら、こたつに入り、買ってきたお菓子を摘む。
テレビでは年越しのカウントダウンが始まっている。ぼんやり眺めていると、くあっと大きな欠伸が出てしまった。
眠い。眠すぎる。いよいよ年越しというタイミングでこんなに眠くなるなんて。
そのまま目を閉じる。テレビから聞こえる楽しそうな秒読みが、遠くなっていった。
▼
夕暮れに染められながら、家路につく。
コンビニで買ったお菓子とジュースの入った袋を片手に、歩き慣れた古いアーケードに差し掛かった。
「いらっしゃーい!今年最後の大安売り!安くて新鮮な野菜だよー!年越しそばの具材にぴったりだ!」
見ると、白髪交じりの店主が店頭に立ち、よく通る声で呼び込んでいる。しかし年末だからだろうか、人の入りはあまり良くなかった。見渡してみると、そもそも、なんとなくいつもより人気がない……ような気がする。
「いつもありがとなあ。気をつけて帰りなよ。良いお年を」
常連のお客さんでも来たのだろうか。そう思い、視線を戻した。
「…………え?」
目に入った光景を理解することができず、思わず足を止めてしまった。
店主はにこやかに微笑んで、野菜の入ったビニール袋を差し出している──しかし、そこには誰もいないのだ。誰もいない空間に向かって、彼はそうしている。周りを見渡すが、誰も不思議そうな顔はしない。この状況に戸惑っているのは、俺だけのようだ。
ドサッ。
何かが地面に落下した音が聞こえて、はっとそちらを見る。何事もなかったように呼び込みを再開した店主の足元に、野菜の入ったビニール袋が落ちていた。店主は勿論、客の一人もそれを気にかける様子はない。
得も言われぬ気持ちになりつつも、見て見ぬふりをすることもできない。このままでは踏まれてしまう。近付いて、落ちていた袋を手にする。軽く土を払ってから、呼び込みを続ける店主に声をかけた。
「あの、すみません……これ……」
「いらっしゃーい、いらっしゃーい!安くしてるよー!」
「えっ……と……」
聞こえなかったのかともう一度「すみません!」と声を張る。しかし、こちらを見ることすらしてもらえない。自分よりもっと向こう側に向かって声をかけているような。まるで、見えてすらいないような。
「……ここ、置いておきますね」
店舗の隅の方に、袋を下ろす。ここなら踏まれることはないだろう。売り物になるのかは置いておいて、やはりあのままにしておくことは忍びない。
不安感を感じつつ、帰路につく。店を出て、通りを抜け、角を曲がる。正面から夕日が顔を照らす。その眩しさに目を細めた、その時だった。
「……?」
金色の夕日が、うっすらと縦に長く、空の彼方まで伸びているように見えた。金色の大木か、柱のようにも見える。
強い光のせいで目がおかしくなってしまったのかと、両目を軽く擦ってみる。もう一度目を開けると、そんなものはどこにもなく、ただ綺麗な夕焼けだけが広がっていた。
「疲れてるのかな……」
そう呟いて歩き出した途端、自転車を押した女性とぶつかりそうになって慌てて「すみません!」と謝罪する。しかし、彼女も俺に目をやることもなく、誰もいない場所へ向かって、「それじゃあね、良いお年を」と手を振っていた。
何かおかしい。そう思うと、自然と家に向かう足の運びが早くなる。
家に着き、玄関を開けようとしたところでポケットのスマホが震えた。
『俺たち年明けたら初詣行くけど、立香も来る?』
画面に映し出された文字に、少し安心する。あいつらは相変わらずだな。だが、今は返信している余裕はない。一度自室へ戻って落ち着いてから返信しよう。
「ただいまー」
玄関を開けて、いつも通りそう言う。しかし、返事がない。
「母さーん?いないのー?」
靴を脱ぎながらもう一度声をかけるが、家の中はしんと静まり返っていた。まるで消えていなくなってしまったような、あの、店主が向かい合っていたはずの、誰かの よう に
そこまで考えてぞっと全身に鳥肌がたった。いや、そんなはずない。考えすぎだ。
「っ母さ……、」
ブー、ブー。
唐突に、手に持っていたスマホが震えた。
『了解!良いお年を〜』
そのメッセージに続いて、ピロンと、不細工な猫のスタンプが画面に表示された。
「な……、んで、俺、何も返信してない、のに」
持っていたレジ袋を床に落とし、そのまま家中の部屋を見て回った。どこにも母さんはいない。明かりはついているのに。きっと、さっきまで家族が、ここに……
「あ、れ」
家族……って、どんな顔していたっけ。
母さんと、あと、誰だっけ。
この家に、住んでいる、のは
「っ、……」
ずきりと頭が痛む。
いや、きっと、出かけているだけだ。待っていればそのうち帰ってくるはずだ。
玄関で落とした袋を拾い上げ、二階の自室へ向かう。上着を脱ぎ捨て、そのままベッドの上に倒れこんだ。
「どうなってるんだ、一体……」
おかしなことが起こりすぎて、なんだか頭が疲れてしまった。目を閉じるとうとうとし始めて、何度も浅い眠りを繰り返した。
そうして待っていたが、もうすぐ年越しという頃合いになっても、母さんは帰ってこなかった。こたつに入り、小腹を満たすためにしばらく買ってきたお菓子を摘んでいたが、不安からその手も止まってしまった。
テレビもつけず、ぼんやりと真っ黒な画面を見つめる。もう少ししたら、探しに行こう。そう思っていたときだった。
「じゃあ友達と初詣行ってくるからぁ!」
聞き覚えのある声が、前触れもなく玄関のほうから響いた。
呆気にとられていると、
「気をつけるのよー」
という声も続く。
今のは、母さんと妹の声だ。どうして、家には誰もいなかったはずなのに。「母さん!」と呼びながら、リビングのドアに手をかける。「はあい」という間延びした妹の声が聞こえた。ドアを開け、廊下に飛び出す。廊下の先はすぐ玄関だ。
「……なんで」
そこには誰もいなかった。母さんも、妹も。どこにも姿はない。玄関が開いた音すら聞こえなかった。
俺は、何かに背中を押されるように、外に出て走り出した。まだ妹が近くにいるかもしれない。妹が……妹の……、名前、は
「っ、ぁああ……!」
焦燥感を振り払うように声を出す。
妹の名前も顔も思い出せない。母さんの顔も、思い出せない。そんなこと信じたくない。だけど、わかっている。心の何処かでわかっている。おかしかったのだ。今日はずっと……いや────
おかしかったのは、いつからだったのだろう。
思い出せない。何一つ。この街の名前も。メッセージを送ってきた友人の名前も。家族の名前も。自分が、いつからここにいるのかも。
人気のない真っ暗な夜道は、この世界で自分一人きりになったように錯覚させる。……これは錯覚なのか?それとも本当に?
不安と孤独感に潰されそうになる。迷子になった子供のように、ゆく宛もなく走り続けた。
息が苦しい。真っ暗な街。真っ暗な空。
泣き出しそうになるのを堪えながら、走って、走って、遂に限界が来て足を止めた。
──ああ、そうだ……俺は、はじめからひとりだった……。
そう気付いた瞬間、辺りが昼間のように明るくなった。白金色の光が体を包む。俯いていた顔をあげると、いつも日が暮れていく街外れの丘の上に、光の柱がそびえ立っていた。空の闇を貫くように、どこまでも高く、煌煌と。
俺はそれに引き寄せられるように歩き出した。
冬の冷たい空気に、走り続けて荒くなった呼吸が白く溶けて消える。
輝き続ける光の柱は轟々と唸り、振動がびりびりと肌を震わせた。ゆらり、ゆらり、と細い光の束が紅炎のように表面で波うっている。
いつからあんなものが、ここにあったのだろう。なぜ、今の今まで気付かなかったのだろう。あれは一体、何なのだろう。
そればかり考えながら、街を抜け、背の低い草花の生い茂る緑の丘を登る。
丘の一番上。一番高いその場所に、光は突き立てられていた。
表層の光がうねる度に、ぶわりと風が吹き抜ける。強烈な白金の光と、嵐のような風に目を細めながら、その足元まで近付く。
そこに、ひとつ。影が立っていた。
逆光でよく見えないが、馬のような真っ黒なシルエット。その上に、誰かが跨がっている。
「…………っ」
それと向き合う。
その顔を見る。
獅子の兜。金色に照らされた白銀の鎧。
騎士は、同じように鎧を身に着けた白馬に跨がって、光の前に佇んでいた。
頭が痛い。明らかに異質なものだとわかっているのに、俺はどうして“彼女”を知っているのだろう。
「……あのまま何も気付かずにいればよかったものを」
淡々とした声が聞こえた。
頭の中で、断片的な記憶が蘇る。だが、うまく繋がらない。それでも、必死に記憶を手繰り寄せる。
「アル、トリア……?」
聖剣を振るい、ブリテンを治めた、伝説の騎士王。
その名を呼ぶと、騎士はゆっくりと兜に手をかけた。ガチャリ。金属のぶつかる音がする。外された獅子の兜は、騎士の手の中で金色の粒となり、解けるように消えていった。
閉じられていた目が開く。碧色の瞳が、真っ直ぐにこちらを向いた。柱の光に照らし出された彼女の輪郭は白金色に輝いて、神々しく、恐ろしいほど美しかった。
「……はい。私は貴方のサーヴァント────」
ひりつくような高潔さに、無意識に体が強ばる。硬直し、何も言えない俺を見据えたまま、彼女は静かにその名を名乗った。
「ランサー、アルトリア・ペンドラゴン」
▼
2017年12月31日。
カルデアは突如黒い兵と謎のサーヴァントの侵攻にあい、占拠された。シャドウ・ボーダーに乗り込み、俺たちはカルデアを脱出。敵から逃れるため、ペーパームーンを展開し、虚数潜航を行った。
「シャドウ・ボーダー、現実退去。虚数潜航────ゼロ・セイル、敢行する!」
それから4日。俺たちは虚数空間を漂流していたが、浮上の時はダ・ヴィンチちゃんの一声によって唐突に訪れた。
「いい潮流が来てる!次にここまでのが来るのはおそらく、二週間後だ!」
「な、なんだと!そこまでは電力も食材も保たんぞ!」
「今すぐ浮上するしかないってこと!?」
「そういうこと!話が早くて助かる!」
「しかし、どこへ浮上する?虚数空間から現実へ戻るには現実との『縁』が必要だ。地上の様子は未だわからないが……この中の誰かとできるだけ深い縁のある場所を選ぶのが得策だろう」
ホームズの言葉に、「任せて、決めてあるとも!」とダ・ヴィンチちゃんが答える。
「日本────東京だ!」
「東京、ですか?」
「それって俺の……」
「そうさ、藤丸くん。君の故郷だ」
「なるほど、それならば浮上する場所としては最適と言えるだろう」
「ちなみにペーパームーンによると、この波に乗れば地上との時間誤差は30日分ほどだ。地上に出た瞬間、そこは2018年2月初頭、ということかな」
「は!?待て待て待て!たった数日の差でそんなに誤差が出るものなのか、虚数潜航というものは!?」
「むしろ30日程度で済んだと考えてくれ。浮上したら100年後、なんてことも可能性としては十分にあったんだからね!」
「ぐう……」
「さあ、行くよ!みんな席について!」
マシュと目が合う。お互い黙って頷くと、座席に座りシートベルトを締めた。
全員が席についたのを確認し、シャドウ・ボーダーにアナウンスが響く。
「ペーパームーン惑星航路図プラスマイナス収束開始!」
深く息を吸って、長く吐く。
大丈夫、きっとうまくいく。世界がどうなっているかわからないけれど、なんとかしてみせる。今度も、みんなと、一緒に。
「実数空間における存在証明、投錨。対象を日本、東京に固定」
シャドウ・ボーダー全体が、がたがたと揺れ始める。衝撃に備えて足を踏ん張り、肘掛けを掴む手に力を入れた。
「虚数潜航、終了。これより実数空間へ浮上します────」
▼
浮上して最初に見たものは、『根』だった。空を覆う根。這いずり回る根の先端が、人間を、生命を追いかけ、一つ残らず刺し殺していく。
『根』が現れて一ヶ月。世界の人口は既に半分以下になっていた。東京都心も以前の賑わいはなく、人々は息を潜めながら生活している。
「ただいまー。とりあえず、食料は手に入ったよ」
「おかえり!マシュ、藤丸君!」
東京の地下に存在する発電所。人のいなくなったその場所と、ダ・ヴィンチちゃんに託された霊基データを使い、サーヴァントを召喚して、残された人たちを救うために戦い続けていた。マシュも戦闘に復帰したものの、根の侵攻は留まることを知らず、消耗戦となりつつあった。辛うじて助けた人たちを発電所内に保護しているものの、ここが攻め落とされるのも時間の問題だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「いいえ、たくさん食べてくださいね」
マシュは避難していた親子に食料を手渡し、笑顔で手を振る。だが、二人が見えなくなると、ふとその表情が曇った。
「……食料も水も、かなり確保が難しくなってきました。こちらの戦力もかなり削られて……このままでは世界は……人類は、全滅してしまいます」
「そうだね……なんとか、あれを倒さないと」
「ちょっといいかい、ミスター藤丸」
後ろからホームズに声をかけられ、振り返る。何か深刻そうな雰囲気を感じ、改まって彼と向かい合った。
「君ももう気付いていると思うが、あの根を倒すことは現状不可能だ。あれはここではない空間から根を伸ばしている。我々がいくら迎撃しようとも、あちらにとっては少しのダメージにもなっていないだろう」
「ホームズ、でも、それじゃあ世界は……」
「ああ、今こうしている間にも、人間は一人ずつ殺害され、地球はその表面のテクスチャごと引き剥がされるように漂白され続けている。浮上して一ヶ月、我々は戦い続けてきた。しかし、恐らくもう一ヶ月もすれば地球は完全に漂白され、人類は滅びるだろう」
「…………」
「何か他に手立てはないんですか!?このまま滅びを受け入れるだけなんて、私は……」
「ああ、そこで、一つ提案がある」
「提案?」
ホームズの提案。
それは、とあるサーヴァントの宝具を使い、引き剥がされる地球のテクスチャ──その一部を繋ぎ止め、そこに生き残った人間を保護するというものだった。
「私は反対だぞ!!宝具の中に人間を格納し、管理するだと!?そんなもの、保護ではなく、まるで標本のようではないか!!」
ゴルドルフ新所長の怒声に、思わず下唇を噛み締めた。自分もかつて同じことを考えていた。だから、理解できる。それでも、そうしなければ人類は滅びるのだ。このまま今生きている人たちを見捨てることなんてできない。
だが、俺が選び取ろうとしている方法は、本当にあっているのだろうか。これに、本当に、意味などあるのだろうか。
「……聖槍が繋ぎ止めた世界の中では、みんな普通に生活できるんだよね?」
その問いに、俺たちの押し問答を黙って聞いていた当該サーヴァント──アルトリア・ランサーは、目を開けた。
「わかりません。第六特異点で獅子王がやろうとしていたことは保管と管理まで。仮に世界を繋ぎ止め、その僅かな範囲で生活できたとしても、保管したものをロードして元の人間に戻せるのか、それは、やってみなければ何とも」
「そんな不確定なものに身を任せろと言うのか!?」
「それなら君だけこのままここにいてもいいよ。生き残る可能性はそれこそ0だと思うけど」
「ダ・ヴィンチちゃん、新所長、ちょっと落ち着いて」
「私は落ち着いているとも」
頬を膨らましつつも、ダ・ヴィンチちゃんはそれ以上何も言わなかった。
みんな疲労からかピリピリしている。限界だ。この選択があっているかなんて、誰にもわからない。ひとつだけ確かなことは、悩んでいる暇はないということだけだ。
「……俺は、みんなが一人でも多く生き残れる可能性がある方にかけたいんだ。獅子王の──ロンゴミニアドのやり方を、あのとき俺は否定したけれど、もしもそれで人が生き残れる可能性があるなら」
ぐっと、右手を握りしめる。
覚悟を決め、アルトリアと向きあった。
「やろう、アルトリア。力を貸して」
「了解しました、マスター。貴方のためならこの力……たとえ世界の果てまでも、存分に奮ってみせましょう」
その言葉に頷くと、みんなの方を向いた。
「正気か貴様!」
「君はちょっと黙ってて!」
新所長はまだ納得がいってないようだったが、マシュ、ダ・ヴィンチちゃん、ホームズ、そして他のカルデアメンバーは俺を見て黙って頷いてくれた。
そこから、みんなで話し合い、地下に保護していた人たちへこれからのことを説明し、希望する人だけをロンゴミニアドへ保護することにした。
ここではない場所で生き残っている人たちにも無線で呼びかけ救出し、可能な限り多くの人を集めた。それでも人数は1000人にも満たなかった。
どこかでまだ、助けを求めている人がいるだろう。
俺たちの声が届かなかった人もいるだろう。
この作戦は、その人たちを見捨てることになる。
それでも、助けたい。手の届く人たちだけでも。俺たちに、その力があるのなら。
作戦当日。カルデアメンバーと避難していた人たちが全員地下発電所の一番広い空間に集まった。
「ダ・ヴィンチちゃんとホームズとは……本当にここでお別れなの?」
俺の言葉に、ダ・ヴィンチちゃんは眉を寄せて微笑んだ。
「ああ、寂しいけれどそうなるね。方舟に乗れる人数は限られている。その貴重なひと席を我々が使うことはできない。それに、サーヴァントは“かつて”を生きた者の記録。いわばゴーストみたいなものだ。だから、そんな風に気にしないでくれたまえ」
「……うん、」
「……過去があるから、未来があり、未来があるから、過去がある。かつての私たちが今の君たちの礎になったように、君たちがこの先を生き抜いて、私たちのことを覚えていてくれる限り、私たちは不滅なのさ!」
「うん、今までありがとう。……今度はちゃんと、お別れを言えて良かった」
そう言って右手を出すと、碧眼が丸く見開かれてから、ダ・ヴィンチちゃんは少女らしい可憐な笑顔を浮かべた。そして、ぎゅっと強く俺の手を握り返した。
「ホームズも、今までありがとう」
「ああ、健闘を祈るよ。ミスター藤丸」
アルトリア以外のサーヴァントはここから先に同行できない。聖槍の世界ではマシュも再び普通の人間に戻る。だから、この先何かあっても戦えるのは俺とアルトリアだけだ。
「マスター」
声をかけられ、振り返る。聖槍を手にしたアルトリアと目が合った。
「何があろうとも、私が貴方を守ります。だから、貴方は私に力を」
それだけでいいのです、という言葉は冷たくもとれるものだったけれど、それが励ましと、俺の不安や緊張を和らげるためのものだということは、よくわかっていた。
「ありがとう、アルトリア」
「……先輩」
「マシュも、ここまでありがとう。あとは任せて!」
俺がそう言うと、マシュは泣き出しそうに笑って「はい!」と頷いた。
「よし、それじゃあ、やろう!」
俺の言葉にアルトリアが頷き、背中を向けた瞬間、周囲に向かってぶわりと強い風が吹き抜けた。聖槍に絡みついた拘束の隙間から、白金の光が溢れ出る。アルトリアのサイドに下ろした金色の髪が巻き上げられ、その一本一本が、キラキラと光を反射していた。
「十三拘束解放(シール・サーティーン)──円卓議決開始(デシジョン・スタート)」
呼応するように、聖槍が唸り、輝く。
「是は、生きるための戦いである──承認、ケイ」
「是は、己よりも強大な者との戦いである──承認、ベディヴィエール」
「是は、人道に背かぬ戦いである──承認、ガヘリス」
俺は、右手を突き出した。
誇り高き騎士王の背中に向かって。
「是は、精霊との戦いではない──承認、ランスロット」
「是は、邪悪との戦いである──承認、モードレッド」
「是は、私欲なき戦いである──承認、ギャラハッド」
「是は、世界を救う戦いである──承認、アーサー」
封冠が解かれた聖槍が輝く。前が見えなくなるほどの強烈な閃光。その中で、鱗状の光の粒が、螺旋の円を描いて広がっていく。
「令呪を持って命ずる!!アルトリア、世界を護れ!!」
令呪が一画、赤く輝いて失われる。
大きく息を吸う。続けて叫ぶ。
「重ねて命ずる!!アルトリア、未来を護れ!!」
二画目の令呪が消えた。
一気に魔力が持っていかれて、体中が悲鳴を上げている。それでも、倒れないように足を踏ん張る。マシュの手が後ろから腰に回って、体を支えてくれた。
負けられない。諦められない。生きたいと願う人がいる限り。絶対に!!
「重ねて命ずる!!アルトリア、人類を────人を、護れ!!」
最後の令呪が、輝く。
応えるように、聖槍が更に輝きを増した。
「聖槍抜錨!!」
白金の光と嵐のような風の中で、アルトリアの声が響き渡った。
「最果てより光を放て!其は空を裂き、地を繋ぐ!嵐の錨!────最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)!!」
☆
────この槍は、いつも戦いの中で振るわれてきた。
悪を滅し、善を生かすために。
穢れを払い、美しいものを護るために。
力を持たぬ者を救い、誰もが幸福にその営みを続けられるように。
そう願っていた。そのために戦い続けた。
しかし、長い長い戦いのその果てに、この槍は、遂に大切なものまで貫いたのだ。
血に塗れたこの槍を、どうして、聖槍などと呼べようか。誰も救えぬ戦いに、意味など、あったのだろうか。
その後悔も窮愁も、神に近づいてしまった“私”には、もうわからない。
それでもこの槍は輝くのだ。
いつも誰かを────人を救いたいと。
最果てにて、輝き続けるのだ。
☆
「────思い出しましたか?マスター」
その問いかけに、無言で頷く。
俺の最後の記憶はアルトリアがロンゴミニアドを発動させたところだ。そのあとの記憶は『今日』のものしかない。それが、全てを物語っていた。
「……うまく、いかなかったんだね」
ロンゴミニアドの内部に人間を保管し、地表を繋ぎ止めたあとで解放する。そういう作戦だったはずだ。
ロンゴミニアドは、世界の楔。表層のテクスチャを毟り取られ、漂白されていく世界の一部分だけを繋ぎ止め、外部からの干渉を断ち、そこで生き残った人たちだけで暮らす。だが、俺が、今日見たのは
「それは、半分正しく、半分間違っています。ロンゴミニアドは、確かに世界の一部を繋ぎ止めました。そして根の攻撃を間逃れた。しかし……」
「みんなを、聖槍から出すことはできなかった?」
「……はい。その表現が、一番近いでしょう。聖槍の中で、彼らの魂は眠っている。それを記録として出力することはできても、肉体を与え、元のように生かすことが、できなかったのです」
「そっ……か……。でも……俺は?こうやって、アルトリアと話せてる」
「貴方は私のマスターですから。貴方まで聖槍の中で眠ってしまうと、魔力が途切れてしまう」
「じゃあ、俺だけが……」
「……はい、肉体を持つ人間としては、貴方が最後のひとりです」
「…………」
敵の攻撃はもうない。みんなの魂はまだ、ロンゴミニアドの中で生きている。マシュも、新所長も、ムニエルも、あそこにいたみんなも。だけど、肉体はなく、もう目覚めることもできない。
──そうか。あの街にいた人たちは、聖槍内の魂を……投影しただけのものだったのか。
「……アルトリアが、俺の記憶を操作してたの?」
「はい。貴方にはずっと認識阻害をかけていました。この世界を繋ぎ止めるロンゴミニアドを視認できないように。そして、『今日』を終える瞬間、記憶がリセットされるように」
「そうやって何度も、俺は『今日』を繰り返していたんだね」
「その通りです」
そう言ってから、アルトリアはふと視線を落とした。
「……私のやり方を、非道だと思いますか?貴方の記憶を操作し、幻影だけの世界で貴方を生かし続けた。そうすることでしか、私は人を守れなかった。話に聞いた、獅子王と同じです。そして、私はそれを間違っていたとは思えないのです」
首を横にふる。
確かに驚いたし、作戦が失敗したことは悲しい、けれど、非道だなんて、思うはずがない。
「思わない。これは、あなたの優しさ、だから」
ぎゅうと、胸元を掴む。
記憶があるままこの世界にひとりで放り出されていたら、きっと、正気ではいられなかったと思う。アルトリアも、それをわかっていたのだろう。
逆光で陰るアルトリアの表情が、少し和らいだように見えた。
「アルトリア。俺の認識阻害が解けたことと、『今日』に違和感があったのは、関係がある?」
「……はい。貴方には、最後まであのままでいて欲しかったのですが……もう、それも難しい状態になってしまいました」
「この世界に、何かが起きてるの?」
「簡潔に言えば、この世界はまもなく“剪定”されます」
「せん、てい……?」
「この『ロンゴミニアドが繋ぎ止めた世界』には先がない。残された人類が貴方だけでは、たとえ聖槍内に人間の魂が保管されていたとしても、歴史は続かない。だから、切り落とされてしまうのです」
「誰に?」
「世界に」
呆然とする俺に向かって、アルトリアは構わず続けた。
「いくらロンゴミニアドで繋ぎ止めているとはいえ、世界相手ではどうしようもない。この世界はもう、少しずつ綻び始めているのです。貴方はその綻びに気付いてしまった。だから、認識阻害は解け、貴方はここへ至った」
八百屋の店主と、自転車を押した女性のことを思い出した。
そうか、あの空間には、やっぱり誰かがいたんだ。『今日』より前の『今日』には、きっと、その人たちがいたんだ。
それが、この世界が崩壊を始めたせいで正しく投影されなくなってしまったのだろう。
ここまでやってきたのに、世界の方から切り離される、なんて。
俺の選択は、やっぱり間違っていたのだろうか。俺は、もっと他に、何かできたのではないだろうか。
じわりと、視界が滲んだ。みんなの顔が次々と浮かんでは消えていく。
「マスター」
ゆっくりと、顔をあげる。いつの間にか近づいて来ていた白馬が目に入って、そのまま、騎乗しているアルトリアを見上げた。
「結末はどうあれ、貴方はあの場でできる最善の選択をした。私は、貴方を肯定します」
「……ありがと、う」
泣くな。最後まで、自分のしたことに、誇りを持っていたい。目を擦り、ぐっと歯を食いしばる。
そんな俺を見て、アルトリアが柔らかく微笑んだ。
「この世界は何もせずともあと数日で消滅します。勿論、聖槍内の彼らも、私も、貴方も。ですが、我々はまだ選択できる。このまま滅びを待つか、自分たちの手で世界に別れを告げるか」
「滅びを待つか……、自分たちの手で……」
ふと、手綱を持つアルトリアの手が目に入った。僅かだがその輪郭が光の粒となって揺らいでいる。
そうだ、アルトリアは、あの時から宝具を展開しつづけているのだ。
令呪も三画使っている。アルトリアの霊基は、もうとっくに限界を迎えているのだろう。
一度、深呼吸をした。
目を瞑り、今までのことを思い返して。それから、俺は選択した。
「もう終わりにしよう。この世界の終わりを最後まで責任を持って、見届けたいんだ。自分の目で!」
「……了解しました、マスター。この聖槍は、世界を繋ぎ止めている楔。これを抜けば、世界は形を保てず崩壊します」
「うん……わかった。でも、その前に、街を見たいんだ」
「街を、ですか?」
「うん。もう誰もいないけど、誰かがいたってことは、ちゃんと感じておきたいんだ」
「……わかりました。では、手を」
「え?」
「騎乗の経験は?」
「あ、あるけど……」
手を取られ、白馬に跨り、アルトリアの前に座る。俺の後ろから、アルトリアが手綱を握った。
「行くぞ、ドゥン・スタリオン!」
白馬が嘶く。光が突き立つ丘を一気に駆け下りる。聖槍の光を背に、冬夜の凍てついた空気を振り払いながら、疾走する。
見上げると、群青の空を背景に、金色の光が蛍か星のように煌めきながら流れていた。
────きれいだった。これが、世界最後の夜空だなんて。あまりにも美しくて、苦しくなるほど寂しくて、ぽろりと一粒、涙が落ちた。
街まで下りてくると、白馬はゆったりと歩き出した。
自分が住んでいた家だ。二階には自室がある。声だけの家族。優しい母さんと、活発な妹。
自転車を押した女性が誰かに手を振っていた場所。きっと、ふたりとも仲の良い友人だったのだろう。
角を曲がる。商店街に差し掛かる。かつて、人で賑わっていた場所。沢山の人が生活していた場所。八百屋が見えてきた。あの威勢のいい店主の声が聞こえた気がした。
ああ、ただの投影だったのかもしれない。それでも、みんな笑顔だった。優しかった。それは偽物ではない。偽物では、なかった。
「人の営みとは、尊く美しいもの。私は、この美しい世界を護りたかった。人を、護りたかった。それはかつての私にとっても、今の私にとっても、叶うことのない願いでしたが」
「……確かに、俺たちは、世界を護れなかった……けど、俺は、俺たちがやってきたことが全て無駄だったとは思いたくないんだ」
人気のない住宅街。夜の静けさの中、白馬の蹄が地面を打つ音ばかりが聞こえる。
振り返って、アルトリアの顔を見て、続けた。
「一時的なものだったかもしれない。はじめから、意味はなかったのかもしれない。でも、あなたの槍は、確かに人を護ったんだ!今、この瞬間も。それは事実だ!俺は、ここでこうして、それを見ている」
透き通るような碧色が、丸く見開かれた。
それからふっと、アルトリアは笑った。撫でるような優しい瞳で俺を見て、小さく頷いた。
「そうですね、この槍で、私は人を……。ありがとうございます、マスター。貴方にそう言っていただけて、私は嬉しい。驚きました。こんな感情が、まだ人並みに残っていたなんて」
「アルトリアは結構表情豊かだと思うけど」
「そ……そうでしょうか」
「そうだよ」
ほんの少し頬を赤く染めたアルトリアを見て、そう頷く。視線を前に戻す。一通り街を見終わり、その足は光の柱が立つ丘へ向かっていた。
「マスター、この世界が剪定事象として消えるということは、そうでない世界もまた存在するということなのです。未来はまだ、何処かで続いている。……私は、そう信じています」
「うん、そうだね。……ありがとう、アルトリア」
俺たちはここで終わりだけれど、きっとまだ、世界は続いている。俺も、そう信じていたい。そうあって欲しい。
丘の上。突き立つ光の足元で、白馬の背を下りた。
たったひとりで世界を繋ぎ止め続け、人の営みを見守り、最後まで俺に安息を与えようとしてくれた、どこまでも優しくて、高潔な王を見上げる。
彼女は、穏やかに微笑んで、俺を見つめていた。
「藤丸立香。貴方のサーヴァントであれたこと、私は誇りに思います」
「こちらこそ、今までありがとう、アルトリア」
俺がそう言うと、アルトリアはそっと目を閉じた。
不意に、その顔が聖槍のものではない光に照らし出された。
振り返る。街の向こう。夜と朝が混じり合った彼方の空に、朝日が昇り始めていた。
柔らかく温かい光に目を細める。吹き抜ける風が、草丘をさらさらと撫でた。
アルトリアが目を開けた気配がした。
彼女の方を向く。
真っ直ぐに朝焼けを見つめるその瞳は、曙光を反射して、キラキラと美しく輝いていた。それは、まるで彼女が見つめてきたものを映し出しているかのようだと思った。
すぅ、と呼吸音がした。
世界の終わりを告げるその声は、いつもと変わらない凛とした彼女の声だった。
「 聖槍、抜錨 」