灰武オメガバぱろ導入部「なんだ、お前…オメガなんだ?」
背後から突然に公の場所で口にするのは憚られるようなことを言われた。
武道が驚きに振り向く間もなく大きな掌に顔を掴まれる。
後ろから抱き竦められて身体を強張らせると、一瞬うなじが総毛立った。
その後に、熱いものを押し付けられたような強烈な痛みが襲って来て、全身が痺れる。
指先まで、びりびりと熱が伝わり、うなじは燃えるように熱く熱くなった。
噛まれた。
身体の力は抜けて、その場に崩れ落ち、全身に広がった熱が身体の中心にも集まって来る。
「兄ちゃん!こんなとこで噛むなよ…」
「悪ぃ…すげぇ良い匂いで我慢できなかったわ」
「…兄ちゃん…ラトってね?!」
「りーんど…ホテル探して…後、タクシー」
「あー、もう!めんどくせー!!」
蹲る武道の耳には近くにいる二人の会話はほとんど入って来ない。
身体が熱くなるのと同時に頭の中も茹ったように何も考えられなくなった。
噛まれた瞬間は確かに恐怖を感じていたが、今は熱くなる身体が思考を鈍らせ、しかも近くに物凄く良い匂いがする心安らぐ存在があるのが感じられて、気持ちは穏やかに落ち着いていく。
オメガの武道の身体は、アルファにうなじを噛まれることで、つがい関係を成立させ、発情期のヒート状態になっていた。
そして、武道のつがいとなった相手のアルファは、自分のオメガがヒートになったフェロモンの匂いに誘われて発情するラットを起こしている。
つがいのアルファが発するラットのフェロモンの匂いが武道の精神に恐ろしいほどの安心感を与えていた。
こんな路上で、突然にうなじを噛まれて、つがいにされて発情期に入ってしまったのに、安心している場合ではない。
しかし、そんなことは何も考えられなくなるのが、オメガのヒートだ。
誰かに身体を持ち上げられる。
それは、つがいのアルファではなかった。
でも、近くにいる。
フェロモンの濃い匂いが辺りに充満している。
それなら何も怖いことはない。
脳が溶けるような幸福感に満たされる。
そして正気に戻ると、一週間が過ぎていた。
「え?!…いや、…ええ?!…いやいや……え…?」
一週間の出来事は頭にショッキングピンクの霞が掛かっているように記憶がぼんやりしていて思い出せない。
ヒート明けのすっきりした目覚めを迎えたのはキングサイズの大きなベッドの上で、自分だけではなく裸の男が二人寝ていた。
二人いるのである。
一人は、武道のつがいのアルファで、もう一人は…もう一人は、その弟だったはず。
派手な色の髪と美しい寝顔。
見間違えようがない。
六本木のカリスマ、灰谷兄弟だった。
裸体の二人には、同じ模様のタトゥーが入っている。
めちゃくちゃ仲が良いことはうかがえた。
武道の記憶にある限りでは、二人はいつも一緒にいるし、一人っ子の武道にはわからないが、兄弟というのはそういうものなのかも知れない。
ベッドの上は行為の跡が生々しく残っているし、兄弟の裸体にも痕跡が残っていた。
何なら今も、少し勃っている。
ヒート中の記憶は曖昧模糊としていて、はっきりしないが、その切欠となった出来事までは覚えている。
背後から捕まった灰谷蘭に、うなじを噛まれた。
ずいぶん、気軽に噛んだよな…と思う。
確かに、つがいの関係はアルファからなら一方的に解除することができる。
オメガにとっては、つがいになるアルファは一生に一人だけで、武道にとっては、もう灰谷蘭しかいない。
これから、武道のオメガとしてのフェロモンは蘭にしか感じ取れなくなるし、ヒートになった武道を性行為で静めることができるのも蘭だけだ。
しかし、アルファはつがい関係を同時に何人とでも結ぶことができるし、それを解除することもいつでも自由にできる。
それでも、つがいでいる間はオメガのヒートに対してラットを起こして自分も発情状態になってしまうのだし、誰とでも気軽につがい関係になって良いものでもない。
倫理的には当然ダメだし、当人的にも不便なはずだ。
オメガのヒートは個人差はあるものの大体3ヶ月周期でやって来るし、その間は一週間ほど性行為をし続けることになる。
武道は普通の男で、六本木のカリスマと呼ばれる美貌の男が願って抱きたいと思うような存在ではない。
つがいになって得をすることなど、何もない。
何で噛んだんだ。
頭がおかしい奴の考えることは、よくわからない。
今は、武道にとって何よりも大切なつがいのアルファになった相手だが、ヒート明けでスッキリした頭では相手のことを冷静に判断することができる。
相手は何を考えているのかわからない、何をしでかすのかわからない凶悪犯罪者だ。
武道の今後の計画、マイキーを救って、ヒナも救って、何か色々の命を全部助けて、良い未来にするという使命にとっては邪魔になるのは間違いない。
つがいはアルファからなら解除することができる。
解除されたオメガは、新しいつがいを作ることもできず、相手のアルファを求めて気が狂うような苦しみを味わうと聞く。
武道は未来においてもつがいを持ったことがなく、抑制剤を飲んで抑えられていたので、今回のヒートが初めてのヒートだった。相手のいないヒートがどれほど苦しいのか経験がない。
でも、狂うほどの性欲なんてあるんだろうか?
それは、隣で親友が撃ち殺させるよりも、大切な女の子が目の前で炎上する車で焼け死ぬよりも辛いことなんだろうか?
あらゆる苦しみを目の当たりにしても、武道はまだ正気だ。多分。
それに比べたら、性欲くらいで、狂わなくない?
「あの…つがい解除してください!」
目が覚めた灰谷蘭に向かって一番にそう言って頭を下げた。
「はあ?…何だって?」
蘭は形の良い薄い唇に綺麗な笑みを浮かべたまま、恐ろしい殺気を放出した。
灰谷蘭は常時、何人ものオメガのつがいを飼っていた。
アルファの蘭にとって、つがいはいる方が便利である。
つがいがいる間は、知らないオメガのヒートのフェロモンに誘発されてラットを起こすこともなくなるし、何より発情期のオメガとのセックスはラブドラックを使ったセックスよりもぶっ飛んでいて気持ちが良く、気に入っていた。
オメガもアルファも人口の1%程度で珍しいが、東京に集まって来る傾向があるので都内に住んでいれば出会う確率は高いし、オメガはアルファのフェロモンに魅かれて自然と集まって来る。
気に入ったら好き勝手にうなじを噛んで、飽きたら捨てる。
自分が捨てたオメガがどうなっても知ったことではない。
例えそれがオメガにとっては死活問題だったとしても、他人の都合なんて蘭にはどうでも良かった。
何人ものオメガを使い捨てて来たせいで、一人のつがいに対する執着は薄れている。解除してしまえば、思い出しもしない。相手がどれほど自分に焦がれて狂ったとしても全く気にならない。罪悪感も覚えない。
灰谷蘭にとって、それは行使してきた数多の暴力の一つに過ぎなかった。
「解除って…どうなるかわかってんの?解除されてもオメガはつがいのフェロモンに支配されたままなんだぞ。ずっとオレのフェロモン求めて苦しむんだからな」
「わかってますけど!オレ達がお互いに支配されてたからって、なんか良いことあります?」
少なくとも、武道にとってはあるだろう。
蘭に影響を及ぼすことができる。
「一回切ったら、二度と結び直せねぇんだぞ?」
「それって…別にどうでもいいことですよね?」
蘭にしてみれば珍しく親切に武道にとってのデメリットを説明してやっているのに、あっさりと答える態度はつれない。とても、つがいになりたてのオメガとは思えない冷淡さだ。悪気がなさそうなのが、なお悪かった。
「だって、解除してもしなくても、オレの方はあんた以外に反応しないのは変わらないし、解除したら、オレのヒートであんたのラットが起こることがなくなるなら、その方が安全じゃないですか!」
要するに武道は、蘭に影響を与えられる方が危険だと主張している。
それは、実のところは客観的に正しいのだが、初めて一緒にヒートを過ごしたつがいのオメガのセリフとしては、いささかクール過ぎる。
生意気だ。どうしてやろうか。
蘭は殺意すら覚えた。
六本木のカリスマは求められることに慣れていて、存在を無視されたり、いらないと拒否されたりしたことがない。
どうやって痛めつけてやろうかと、暴力的な気分が膨れ上がった。
しかし、背後から弟の爆笑が聞こえてきて、気が削がれる。
目が覚めると、誰からも一目置かれる兄が、自分のつがいに振られているという光景が広がっていて、竜胆は耐えきれずに笑ってしまった。
ベッドの上で、全員全裸で何の話をしてるんだという面白さもある。
それに、竜胆は兄の非情さを知っていた。
武道が言うのは至極もっともな話で完全に的を得ている。正論だ。
どうせ、兄はすぐに飽きて、つがいを解除してしまう。
灰谷蘭は目立つ男で敵も多い。そのつがいのオメガには、それなりの危険もある。
近い内に解除されるなら、早い方が危険は少ないだろう。
笑いながら竜胆は、かわいそうに…と武道に同情した。
武道が解除して欲しいと言っている間は、蘭は面白がって絶対に開放しないだろう。
そうかと言って、こんなに解除して欲しがっていた武道が解除しないで欲しいと望むようになったら、それはそれで面白がりそうな気がする。
蘭が飽きるまで飼い殺され、飽きたら無情に捨てられるのが、蘭のつがいの運命だった。