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    ほうれん草鍋

    いかがわしい絵を描く

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    ほうれん草鍋

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    カズヒヨ dom/subユニバース小説
    自分がsubな事がコンプレックスなヒヨの話

    ※ヒヨがsubに否定的・あまり合意ではない描写アリ

    嫌悪と本能 最悪だ。
     路地裏に座り込みながら、ヒヨシは頭を抱える。ぼんやりとした思考では、ここがどこなのかも分からない。マントに泥がついて不快だったが、身じろぎするほどの体力も残っていなかった。

     吸血鬼の退治をしてほしい、と自治体から依頼があったのが今から数時間前。ヒヨシが現場に向かうと、ラフレシアのような巨大な花が大通りを塞ぐように咲いていた。道路のコンクリ―トを突き破って生えた花は、中央のくぼみをのぞき込むとビッシリと尖った牙が生えている。植物が何らかの要因で吸血鬼化し、急成長したらしい。
     念のためVRCの到着を待ち、調査をしてもらおうとした矢先。花が大きく蠢動し、赤い霧のようなものを吐き出した。霧はたまたま側に立っていたヒヨシに降りかかり、ヒヨシは大きく咽た。「毒かもしれない」と慌てる研究員をよそに、所長のヨモツザカは淡々と吸引機で霧を採取し、分析器にかける。グラフの印刷された長い紙が吐き出され、ヨモツザカは顎に手を当てた。
    「花粉だな。ただ、元の構造とはかけ離れている。……ふむ、一部のホルモンに対して活発な動きをするな」
    「つまり?」
    「すぐさま死ぬような毒ではない」
    「しばらくしたら死ぬんか」
    「言葉尻を捕らえるな愚物が。死にはせんが、何が起こるかはまだ分からん。無能な退治人は家に帰ってさっさと寝てろ」
     花と花粉を採取できたら、人間には用無しと言わんばかりにヨモツザカは帰っていった。

     思えば、あのまま真っすぐ家に帰れば良かったのだ。いや、せめてシャワーさえ浴びていればこんな事には……。
     動かない体では何もできず、意味のない後悔ばかりが頭を巡る。花粉を被ってもすぐには異常がなかったことと、花はVRCが採取したため退治らしい退治をしなかったこともあり、ヒヨシはナンパをしたりバーに顔を出したりとフラフラ夜道を歩いた。歩いて、足がもつれると感じ始めたのが一時間前。そこから体の火照り、平衡感覚の乱れ、息切れと次々に異常が現れ始めた。ふらついてビルの壁に手をついた瞬間、携帯が振動する。
    「おい愚物、さっきの花粉が解析し終わった。一応あの花粉をモロに被っていたからな、特別に教えてやる。ありがたく思え」
     曰く、あの花粉は人のダイナミクスに働きかけ、暴走させる作用があるとのこと。
     ダイナミクスとは人が持つ属性の一つで、大まかにDom/Sub/Usualに別れる。DomはDominantの略、SubはSubmissiveの略で、DomはSubを支配したい、SubはDomに支配されたいという本能的欲求が生まれながらに備わっている。Usualはどちらにも属さない人を指し、ダイナミクスの中で一番人口が多い。
    「Usualは特に反応を示さないが、DomとSubだけ異様に性質が強調される。つまり加虐性、被虐性が増す。視床下部が活性化されるから、自律神経も乱れて性的興奮も伴う。一種の発情に近いな」
    「は……」
     あまりに明け透けな言い方に唖然とした。
    「ど、どれぐらい経てば治るんじゃ」
    「……おい、まさか俺様の忠告を聞かずにフラフラ外を出歩いてたんじゃないだろうな」
     さすがに何も反論できずヒヨシは黙った。そもそも、慎重に物を考えて動く質なら退治人になっていない。
     電話越しでも表情が分かるほどの大きなため息の後、ヨモツザカは続ける。
    「あの時の散布量と、お前の体格を考えれば……まあせいぜい五時間か」
    「ご、五時間!?」
     既に立つことすらままならない今、五時間後は遥か遠い未来のように思えた。時刻は午前一時。弟と妹の朝食を作るには間に合うだろうが、それまで人間性を保っていられる自信はない。
    「じっとしていれば、の話だ。ダイナミクスの欲求が満たされればもう少し短い。お前なら、適当な女を引っかけて交尾するなりいくらでもできるだろ」
     これ以上バカの面倒は見きれん、適当に過ごせと一方的に言って電話はブツリと切れた。無慈悲な電子音を聞きながら、ずるずるとヒヨシは座り込む。
    「はぁー……」
     ヨモツザカの言う通り、ヒヨシにとって女性と一夜を過ごすのは、難易度だけでいえば寝る前に歯磨きをするとか、コップに水を入れて飲むとか、それぐらいに簡単な行為である。
     だが今回は、単純な性欲ではなくダイナミクスが関わる。そうなると話は別だ。
    「何が”支配されたい”じゃ……」
     プライドの高いヒヨシにとって、己のダイナミクスがSubなのは、いつの間にか誰にも言えないコンプレックスになっていた。

     DomとSubのお互いを求める欲求は三大欲求に並ぶとされ、満たせない場合はうつ症状や自律神経失調症に繋がる。それでも、男だろうが女だろうが、他人から”支配される”というのは、ヒヨシにとっては耐え難い屈辱だった。
     中学一年生で行われた第二次性徴の検査で、自分がSubと知ってヒヨシはショックを受けた。保健体育でDomとSubの在り方を学んでも納得できなかったし、高校生の時、ホルモンバランスの乱れでSubの性質が強く表れ、被支配欲を感じた時は人知れず泣いた。それからずっと他人にはUsualであると偽り続け、ダイナミクスの欲求を紛らわすように沢山の女性と関係を持った。
     ずっとそういう人生を送ってきたのに、いきなりDomに支配されろというのは、もはや逆立ちしてコップの水を飲むに等しい。
    「……五時間……」
     携帯に表示された時間は、ヨモツザカとの通話から三十分と経っていない。手足は鉛のように重いのに、熱はぐるぐると体中を駆け巡る。耐え難いほど辛いが、どうせ動けないなら耐えるしかない。
     目をつむって、最近抱いた女の体を思い浮かべた。一昨日は腰にホクロがある女、先週は足の小さな女。次第に強くなるダイナミクスの欲求を、性欲でかき消そうとする弱々しい足掻き。俺は誰にも支配されない、されたくなんかないという自己暗示。空しいそれに耽るあまり、ヒヨシは通りから近づく足音に気づかなかった。
    「こんな所にいたのか」
     頭上から声が降る。ヒヨシを見知ったような言い方だが、ゴウセツや知り合いの退治人の声ではない。それでも妙に聞き覚えがある声音に、サッと血の気が引いた。
    「なんで……」
     最悪だ。ヒヨシは本日何度目か分からない悪態をついた。
     顔を上げた先にいたのは、吸血鬼対策課隊長のカズサ。吸血鬼を退治するという仕事柄、度々顔を合わせる相手であり、妙にヒヨシを気に入ってちょっかいをかけてくる、ヒヨシにとって苦手な男だった。
     カズサはいつもの白い制服ではなく、黒いジャケットに身を包んでいる。非番なのだろう。
    「さっきヨモツザカと電話してる時に話が出てな。お前、人に頼るとか苦手だろ。捜して正解だった」
     立てるか?と腕を引かれる。いつもなら罵声の一つも浴びせるところだが、抵抗する気力もない。されるがままに立ち上がり、途中ふらりとバランスを崩した。咄嗟にカズサが支えたため転倒こそしなかったが、普段の威勢のよさを知っているだけにさすがのカズサも動揺したらしく、肩を支える表情は真剣である。
    「どうする、救急車呼ぶか」
     救急車と聞いて咄嗟にヒヨシは首を振った。確実に大ごとになり、弟と妹が心配する。
    「適当な……ホテルでいい。休めば治る」
    「ヨモツザカもそう言っていたが、治るってツラじゃないだろ」
    「いい」
     沈黙。しばらくの後、カズサは大きなため息をつくとヒヨシの肩を支えたまま歩き出した。引きずられるようにしてヒヨシも歩き出す。
    「近場のホテルに放り込んだら俺は帰るからな。後で絶対文句言うなよ」
     もはやヒヨシにとっては何でもよかった。路地裏で座り込むより、どんな安宿だろうが人の来ない個室でじっとしている方がずっとマシだ。
     返事をするために口を開きかけて、ヒヨシはふとカズサから甘い香りがしている事に気づく。砂糖とも違う重い甘さはさながらバニラのようであり、はるか昔に嗅いだ記憶があった。ヒヨシは記憶を手繰り寄せ、そしてすぐに後悔する。蘇ったのは、中学校の保健体育でダイナミクスの体を知るために実習として嗅いだ香り。Subにとっての、Domの香りそのものだったからだ。
     ダイナミクスの欲求と性欲は全く別ものとされるが、どちらも視床下部という脳の自律機能調節器官によってコントロールされている。これは嗅覚とも密接に関わっており、鼻粘膜から吸収された香りの情報は視床下部に伝達され、それにより内分泌や自律神経系に影響を及ぼす。ダイナミクスにはまだ解明されていない部分も多いが、古くからDomはSubを、SubはDomを香りで判別するとされ、一種のフェロモンとして認識されているのがこの香りだった。
     これは常時感じるわけではなく、Subの場合は強くDomを求めている際にDomの体臭として感じるのがこの香りであり、またその際にSubの汗腺から分泌される成分は、UsualやSubには無臭だがDomにとっては同じく甘い香りとして認識される。つまり、一連の生理的反応は全てDomとSubがお互いを見つけるための本能的なものなのだ。
     ヒヨシがこの香りをカズサから感じるという事は、カズサはDomであり、自分はDomを求めている状態であり、今この瞬間カズサに自分がSubであることが高確率でバレているという、絶対に認めたくない事実を三つも認めなくてはならない。
     処理能力を超えた事態にヒヨシはただただ俯くしかなかった。せめてカズサが香りに気づいていない事を祈るばかりだったが、一歩ごとに強くなる甘い香りに、本能が惹かれているのを感じて眩暈がする。
     早く休みたい。その一心で、ヒヨシは重い足を引きずって歩みを進めた。

     どれくらい歩いただろうか。
     平坦な道から、少しの段差を経て自動ドアをくぐる。ヒヨシは項垂れて足元しか見えていないため何の施設かは分からなかったが、静けさからしてホテルのエントランスのようだ。
     遠くから「お、お客様」と慌てた声と足音が聞こえる。明らかにぐったりとした人間を抱えた男が来店したら、スタッフとしては声を掛けざるを得ないだろう。
     カズサがポケットから何かを取り出すと、スタッフがハッと息を飲むのが伝わった。おそらく警察手帳だ。
    「すまない、急病人の救護のために部屋を貸してもらえるだろうか」
     スタッフは「少々お待ちください」と答えてどこかへと立ち去る。しばらくの後、数人の足音が近づいてきた。只ならぬ事態に支配人を呼んだのかもしれない。少しの会話の後、部屋に案内されることとなった。
     部屋の前まで案内したところで、スタッフが「救急車をお呼びしますか?」と心配したが、カズサは「こう見えて命に別状はない。何かあればこちらから連絡する」と断った。スタッフが頭を下げてその場を離れ、一歩部屋に踏み込んだところで、ヒヨシはついに床に崩れた。
    「おい、本当に大丈夫か」
     カズサが屈みこんで顔を覗き込む。甘い香りが一層強くなり、ヒヨシは顔をしかめた。
    「……平気じゃ」
     どう考えても強がりだが、もはや後には引けない。
     カズサは少しの逡巡の後、口を開く。
    「知り合いにDomはいないのか」
     ピクリとヒヨシの肩が揺れる。
     あの至近距離では香りに気づかないはずもない。それは分かっている。だが、そもそもダイナミクスとはデリケートな話題だ。気づかないフリをするのが礼儀だろう、とヒヨシは眉間に皺を寄せた。
     心配からわざわざ及言したのだと頭では理解できる。普段から歯切れのよい物言いの彼が逡巡したのもそのためだろう。それでも、疲弊した精神では、プライドを守るために八つ当たりをすることしかできなかった。
    「……だったらなんじゃ」
     自然、怒りの籠った声色になる。それに気づかないカズサではないが、怯むことなく言葉を続けた。
    「Domのパートナーがいない場合、行政の支援事業を利用する手もある。俺の方から連絡をとって、自治体から担当を」
    「うっさい!」
     伸ばされた手を弾くように叩いた。
    「関係ないじゃろ」
     辺りが静寂に包まれる。顔を上げる気力もなかったため表情は見えなかったが、周囲の温度がスッと下がるような感覚がした。怒っている。当然だ、ここまで恩を仇で返すような真似をされて、怒らない方がおかしい。
     屈みこんでいた気配がゆっくりと立ち上がる。この男は自分を見放してホテルを後にするだろう。それでいい、もう一人にしてくれ。懇願するようにヒヨシは目を伏せた。
     しかしその予想は、カズサの背後で閉じる扉の音により裏切られた。
    (は?)
     ガチャン、という自動施錠の音だけが響く。扉を閉めた男は何も言わない。
     真意を測りかねて顔を上げるが、カズサはヒヨシの横を無言で通り過ぎ、そのまま部屋の中央に置かれたベッドの前に辿り着くと、白いシーツの上にゆっくりと腰かけた。
     何のつもりだろうか。カズサは破天荒な性格だが筋の通った男であり、無意味な行動はしない。説教でもするのかと声をあげようとした瞬間、カズサが口を開く。

    「”come”」

     その言葉を聞いた瞬間、体中に電流が走ったような感覚に襲われた。
     心臓がバクバクと脈打ち、体が火照るように熱くなる。今までのような気だるさを伴う苦しみではなく、目が覚めるような興奮が脳を支配し、初めての感覚にヒヨシは困惑した。
     DomがSubへ行う命令は「Command(コマンド)」と呼ばれ、DomやUsualには何の影響も及ぼさないが、Subにとっては「抗いがたいほど本能的に従属したくなる」ものとして感知される。カズサが発した言葉は、ヒヨシに対する明確なコマンドだった。
     命令されている、”こっちに来い”と。
     立つこともままならなかった体が、自分のものではないかのようにゆっくりと立ち上がる。おぼつかない足取りで進む姿を、カズサはじっと見つめていた。自分の命令にSubが従うかどうか監視するのはDomの性であり、その視線にさらされること自体がSubにとっては快感を伴う。視線が体の奥底まで届くような感覚に、ヒヨシは必死に目を背けた。
     ベッドの前で立ち止まる。しかしカズサは、緩く口角を上げたまま何も言わず、自分の膝をポンポンと軽く叩いた。
    ”もっと近くに”
     コマンドは発声された言葉だけでなく、仕草や文章でも効果を発揮する。ヒヨシはベッドに膝をつき、カズサの脚に跨った。服越しに伝わる体温と、むせ返るような甘い香りがあまりに煽情的で、きっと食中花に捕らわれた虫はこんな気持ちなのだろう、とヒヨシはどこか他人事のように思った。
     ヒヨシの腰にするりと腕が回され、ピアスに唇が触れるような距離でカズサが囁く。

    「”good”」

     途端に、強烈な快感が体を駆け巡る。全身を愛撫されているような、オーガズムが延々と続くような感覚は、ヒヨシのこれまでの人生で経験したことのないものだった。
     体に力が入らず、倒れ込むようにして眼前の男に寄りかかる。とめどなく押し寄せる快感から逃れようと、男の首元に顔を埋めて歯を食いしばった。
     Subは、命令であるコマンドと、命令を遂行し褒美を与えられる「Reward(リワード)」を繰り返されることで、「Sub space(サブスペース)」という状態になる場合がある。これはDomのコントロール下に入ることで強い多幸感・高揚感を得ている状態で、サブスペース中に放出される脳内快楽物質の量はマリファナの4倍とされている。
     縋るようにしがみつくヒヨシの体を、カズサはそっと撫でる。その手は慈しむようでもあり、同時に欲情を煽るようでもあった。
    「もしかして、初めて?」
     愉快そうに囁く男を罵ろうにも、息も絶え絶えで言葉を紡ぐことができない。その上、サブスペースに入ることは事実ヒヨシにとって初めてのことだったため、何も言い返せなかった。せめてもの抵抗で睨み返すが、涙の膜を張った瞳では迫力もない。
    「怒るなよ」
     くすくすと笑いながら、カズサは密着した体の間に腕を割りこませる。その手は下へと伸びていき、ヒヨシの下腹部で主張する熱をそっと愛撫した。
    「……ッ」
     ビクッと大きく揺れた体に気を良くしたのか、カズサの目が細められる。ベルトに手をかけ、片手で器用に金具を解くが、途中でピタリと動きが止まった。
    「コマンドの方がいいか」
     頭を上げ、ヒヨシの顔を覗き込む。ヒヨシの瞳が浅瀬のような青であるのに対し、カズサは深海のような深緑だ。
     ゆるりと細められた瞳が言外に語る。
    ──その方が、嬉しいだろう?
     カッと顔が熱くなる。それが羞恥によるものか、怒りによるものか、ヒヨシには正直分からなかった。不敵な笑みを浮かべる目の前の男が、憎らしくてたまらない。
     それでも体を引き離さないのは、きっと命令を期待しているからだ。十年以上抑圧されてきたSubの本能が、”もっと支配されたい”と大声で叫んでいる。それを制止する理性の声は、ガラス越しのように遠く、曖昧に感じた。
     本当に、最悪だ。
     心の中で何度目かの悪態をつきながら、カズサが耳元で囁く命令を、ヒヨシは本能のままに受け入れた。
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