復活の日ここのところ何をやるにも気が向かなかった。今日という日のせいなのか。カレンダーには何の印もついていないが、今日の日付はストレンジの心に深く刻まれていた。
今日は人類の半分が生き返り、そして一人が死んだ日だ。
世間では復活の日だなんて盛り上がっているところもあるそうだが、ストレンジにとってはただ後悔する日だ。この日が近づくと酷く気が滅入る。もう何十年と経つというのに。
重い気持ちをなんとか頭の隅にやろうと側にあった山積みの本に手を伸ばす。ペラペラと数ページ読んで、すでに読み切った本であることを思い出した。
深いため息の後、ストレンジは腰からソファに張り付いた根を引き抜くかのようなゆったりとした動きで立ち上がり、地下室に向かった。片付けでもしよう、と。
階段を降りるに連れて冷たい水に潜っていくのと同じように、体の体温が奪われていく。コツンと降りきると目の前には古めかしい銅像や、日焼けした本があちこちに転がっていた。ここに来るのはいつぶりだろうか。歩き進めると、丸まった埃がストレンジの後ろをついてくる。これは掃除しがいがあるなと普段しないくせに思った。
部屋の真ん中らしきところに転がっている物を動かし、空間を作った。空から取り出したチョークで床に陣を描いていく。古い魔術で手順が面倒だが、なかなか気に入っている。円やら三角やら文字やらを書いているうちに無心になっていた。地下なので時間の流れはわからなかったが、気づけば部屋中の物に印をつけていたのだから結構かかったのではないだろうか。
しゃがみ続けていた腰を伸ばすとバキバキと体が鳴った。不老となって幾許か経つが、もともと鳴るものは治らなかった。
部屋を見渡せば全ての物に何かしらの記号が描かれている。準備は万端だ。
部屋の中央に移動して、呪文を唱える。一つ一つの物に描かれた記号が光だし、ふわりと物ごと浮き上がる。全ての物が浮遊した後はそれぞれに指示して片付けていくだけだ。空中で指先をあっちへこっちへ動かすとまるでオーケストラの指揮者のようだ。ストレンジの指の動きに合わせて、埃をかぶっていたはずの銅像たちは歩き出し、本達は宙を舞った。
全てを片付け、ふぅと肩の力を抜くと、先程の騒ぎが嘘のように静かになった。地下を一通り見て周り、片付け忘れがないかを確認した。
「ん?」
地下室の一番奥、綺麗に片付けられた机の上に、一つころりと転がった小さな箱があった。ちゃんとチョークの印が残っているが、ひっくり返ったままなのは、なぜだろうか。
ストレンジは手に取りその箱をよく観察した。ストレンジの掌にすっぽりと収まってしまうサイズのその箱は地下室にある物たちより最近作られたようだ。なるほど、さっきの魔術は古い物質にしか効かないから、この箱はここに放置されてしまったようだ。
箱をよく見れば小さなボタンが付いていた。こういうのはだいたいまずいことが起こると分かっていたが、今日のストレンジは気にも留めなかった。気分転換になるのならなんでもよかった。
躊躇うこともなく押したボタンはふにっと小さく潰れ、赤色に光だしたかと思うと、勝手に箱の蓋が開き、青い光が飛び出してきた。よく見るホログラムだ。なぜこんな近代のものがここに、と思っていたストレンジの耳に懐かしい声が届いた。
『あー……えー…』
聞こえてくる声は、うーんうーんと唸る声だ。しばらくするとホログラムに映ったのは今ストレンジの心にどんよりと雲をかけている張本人だった。
『やぁ、ストレンジ!…いや、変か?こんなラフだと怪しむか?』
一人でぶつぶつ話している人物からストレンジは目が離せなかった。ふらふらと歩き回り、時折頭をかき、両腕を組んで首を捻っているのは、今日この日に亡くなったトニー・スタークだった。
『…えー、こほん。この映像を君が見るかはわからないけれど…何もしないでいるのも嫌だったから。あ、勝手に侵入したわけじゃないからな!ちゃんとウォンに許可を取ったぞ。5年も留守にする君が悪いんだからな。
さて、君は僕のことを覚えているかな?…君のことだ、あの時見た全ての可能性を覚えているかもしれないな。そうなると僕のこの顔は見飽きたんじゃないか?なんせ1400万605通り見たんだもんな』
そう言ってトニーはころころと笑った。いつものサングラスは何処に消えて、大きな瞳が弧を描いている。
『そう…君は全てを覚えている…そして、きっと苦しむんじゃないかと思ったんだ。いや"思った"じゃない。苦しんでたんだ』
ピクリと跳ねる掌の上でホログラムのトニーはまるでそこにストレンジがいるかのように話ている。ばちりと視線があったかのような気がして、そこにトニーがいるかのような気がして、ストレンジはきゅっと唇を噛み締めた。そうしなければこの箱を投げ飛ばしてしまいそうだった。
『君は僕たちに、勝利の道は一通りしかないと言った。皆で共闘し、サノスを迎え撃つ。僕はそれが勝利の道だと信じ、そして君が石を渡し消えていくのを見た。その5年後に戻ってきた君の前で僕は指を鳴らし、息絶えた』
その言葉にストレンジは違和感を感じた。トニーは確かに目の前のホログラムが言うように死んだ。でもなぜそれをこのトニーが知っている?
『言い方がおかしいな。僕はまだ生きてるんだから!』
ストレンジの違和感に応えるようにトニーが笑った。
『ストレンジ、僕はな…僕も知ってるんだ。1400万605通りのうちのいくつかを』
ひゅっとストレンジが息を飲み、箱を投げ捨てたのは同時だった。箱は机の上で横に倒れたままトニーのホログラムを流し続けていた。
『僕の記憶も曖昧なんだ…何万回目の出来事なのかはわからないけれど…君は僕に言ったことがあった。「君の死は確定事項だ。なんて言われたらどうする?」って。人類皆平等に死ぬだろ、何を聞いてるんだ?って思った。でも君があまりにも暗い顔していたからこう答えた』
『どうにも変えられないのなら、僕の意思で決めたい』
「どうにも変えられないのなら、僕の意思で決めたい…」
トニーとストレンジの声が重なる。ストレンジは立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
あのタイタンでの出来事は鮮明に覚えている。
1000万通りサノスと対峙してもストレンジ一人では勝つことができなかった。あの頃の自分は弱かった。だから一緒にタイタンにいるメンバーを"使う"ことにした。どんな作戦を立てても、どんなに一団となっても、勝つことができなかった。
そして1100万回目には、酷く疲れていた。何もかも嫌になった。トニーが目の前で殺されそうになるのを見てられなかった。彼が死ぬのももう100万回も見てるのだから。だから石を渡して、消え去ることを選んだ。これでまたリセットされる。みんなが死ぬところを見なくて済むと。
それなのに次に目が覚めたらまだ可能性は続いていて、地球での大戦争へと突入したのだ。そして気づいた。この道が勝利に一番近いのではないかと。
そしてついに、勝利の一通りを見つけ出したというのに、トニーが死んでしまった。一人消え行く彼を認めたくなかった。医者としてそれだけは避けたいという気持ちと、彼は覚えていないだろうがもう1200万回以上も顔を合わせているのだから、愛着も湧いていた。だからなんとか彼を生き残らせる道はないのかと、探し求めた。
だが、何回繰り返しても、物語が少しずつ変化しているのに、どうしてもトニーも人類も救う道を見つけることができなかった。
それが辛くて、つい聞いてしまった時があった。
「君の死は確定事項だ。なんて言われたらどうする?」
「…どうにも変えられないのなら、僕の意思で決めたい、かな」
「自分の意思…」
「先に死にたいって意味じゃないぞ。僕が、僕自身が死を選択した。ってことになれば、いいんだ」
「…そうか」
「なんだ…急に暗い顔して…さっきまでの謎の首振りしてた人間とは同じに見えないな」
この時の彼も結局地球でのサノス軍との激闘の中散ってしまった。
彼の答えはストレンジの心に深く刻まれてしまった。結局勝利の一通りを導くには、彼に選択の余地を与えることなど許してくれなかった。彼の死は彼自身の意思ではなく、ストレンジが選んだ道で消費される存在となってしまったのだ。
ストレンジはそれを後悔し続けていた。ほかに方法があったかもしれない、もしかすると1500万通り目には全員が勝つ未来があったかもしれない…全てを救うことができなかったのも自分の力不足だと。彼の死を選んだ自分は、彼を殺したもの同じだと。
『何度か繰り返される未来の中で僕は気づいたんだ。君が僕を助けようと何度も何度も試しているんだって。だって、周りに誰もいないピンチの時に、君が突然現れるんだもの!あれは正義のヒーローって感じだったな!
まぁ…僕はそのあと死んじゃうんだけど。僕を抱えた君が「またダメだった…」と泣いているのも見てるんだ』
ストレンジの手の甲に水滴が落ちた。呆気に取られて、頰を撫でるとそこが濡れていて、自分が泣いていると気づいた。
『そして1400万605通りを見終わって帰ってきた君を支えた時、僕の頭の中に断片的だけど、君が見た唯一の勝利を僕も見たんだ』
はっと視線を上げると、机の上のホログラムがストレンジを見下ろしていた。
『だからこれから僕があの戦場で指を鳴らすのは、僕の意思なんだ。僕はわかってる。こうすることでみんなが救われるってこと。自分が死ぬってことを』
「トニー…」
『だから、君が気にすることはない。君が何度も繰り返してくれたおかげで、僕はその道を選ぶことが最善だとわかっていた。僕も君と同じ考えだ。君は間違っていない』
「っ…」
『一つ間違っているとするなら…』
ホログラムのトニーは少しの間を空けて机の端の上に腰を下ろした。あまりの自然な動作にストレンジはぽかんと口を開けてしまう。ホログラムは過去の映像のものなのに、なぜ机にぴたりと合わさっているのだろう。
『一つ間違っているとしたら、君が何十年も地下室の片付けをしなかったことかな。早く箱を元に戻してくれ』
「ん?」
『だから、このホログラムが出てる箱だよ。大事にしてくれよ、僕が入っているんだから』
「…?」
『はいはい、わからないのはわかってるからとりあえず泣くのはやめる。はい、立って。そう。そして箱、真っ直ぐな。よし、ありがとう』
ストレンジは訳がわからないまま、ホログラムのトニーの指示通りに動き、机の上の箱を見下ろした。トニーはストレンジを間違いなく見上げている。
「とにー?」
『そうだよ。こんなことができる天才は僕だけだろ?』
「…???」
『こら!ひっくり返すな!おもちゃじゃないんだから。おいおい、揺らすな!何も入ってないって』
「…まほう?」
『…じゃないことは君が一番わかっているだろう?』
ものすごく呆れたかのような顔をしたトニーにストレンジは顔を顰めることもできず、何もわからない赤ん坊のように、パチパチと瞬きを繰り返していた。
『この箱に、僕の意思をデータ化して詰め込んだんだ』
「うん」
『簡単に言えば体全部サイボーグ化したみたいなもの』
「うん」
『わかってないだろ』
「うん」
『はぁ…まぁいいか……それじゃ、これからよろしく』
「うん……はい?」
突然のセリフに呆気に取られていたストレンジの前でトニーのホログラムは掌サイズから一気に実物サイズへと拡大され、本物のトニーがそこにいるかのようだった。
『泣き虫魔術師のためにここまで尽くしている僕優しすぎかなぁ…まぁ君とはもう何万回もあってるんだから、今更毎日顔を合わせたとて飽きはしないよな。君はなんだかんだ優しいから、引きずると思ってたよ。まさかこんなに引きずるとは思わなかったけどね…それをもっと初対面で出してくれたらなぁ、また違ったかもな』
「とにっ…」
『違う違う、攻めてるわけじゃない。何度も言うがあの選択をしたのは僕の意思。そしてここにいるのも僕の意思。なんだか君を一人にしてたら、闇の世界とか呼び出しちゃいそうだろ?魔術師だし』
「そんなことしない…」
『わかってるよ。君は世界の医者だもんな』
「…」
『ドクター・ストレンジ。こんなところでうじうじしてる暇はないだろ?君のやるべきことは君にしかできない』
まっすぐと見つめられて、ストレンジはぶるりと体を震わした。そっとホログラムに手を伸ばしたが、するりと手は通り抜けてしまう。それでもそこに彼がいるという事実は、今のストレンジにとって救いだった。
『さぁ、まずは外を見せてくれないか?』
「…何も変わってないぞ」
『あれは?ドーナツ屋があったろ?サンクタムから出てさ…』
「そこはもうケーキ屋」
そんなたわいのない話をしながら階段を登る。上りきった一歩目はとても軽やかだった。