絶対楽しいと思うんだぁー!ピッっとホイッスルの音がして、前の生徒が走り出す。運動部のその子は軽やかに目の前のハードルを超えていった。ぼふっと音がして、マットに倒れ込む。わぁっと上がる歓声を打ち消すように、僕の耳には己の心臓の音しか聞こえなかった。
失敗したらどうしよう。
みんな見てるのに。
ぶつかったらどうしよう。
痛いのは嫌だ。
ぐるぐると嫌な感情が駆け回る。一歩引きそうになったところに、強張った肩に暖かい重みが触れた。ハッと見上げると先生が側にいた。
「大丈夫」
まっすぐ見つめられる目は森の奥の湖のように落ち着いてた。
「絶対飛べる」
先生の言葉は確信を持っているようだった。その言葉が耳に届き、体から自然と力が抜けた。
「さぁ、行っておいで」
柔らかく微笑みながら先生は僕の背を押した。僕はまるで操られるかのように走り出す。
気づいた時にはマットに沈み込んでいた。青い空の下で大の字になり、唖然としていた。その僕を見下ろし、先生が笑った。
「ほら、できた」
わぁっと盛り上がる他の生徒たちの声がやっと聞こえた。
「というわけで、僕は先生が大好きなんだよね」
僕の話に周りの友達が頷いた。
「体育のストレンジ先生、かっこいいよねぇ」
「赤ライン黒ジャージが似合いすぎ」
「自転車で登校してるんだって」
「この前木の上の猫を助けたらしい」
「ポニーテールが最高」
などと話していると
「おはよう、ホームルーム始めるぞ」
そう言って入ってきた先生は、いつものポニーテールを外し、ふわりと髪を靡かせながらやってきた。
「今日はこのクラスの先生がお休みだから、代わりに来たぞ…って…なんでみんな寝てるんだ?」
いやその普段とのギャップにみんなやられてるんですよ!
『ポニテ先生はかっこいいし優しいしかっこいい』
「授業を始める」
ニコリともせず入ってきて、いきなり黒板に化学式を書き出すのはいつものことだ。チョークが黒板に当たる音が教室中に響いている。クラス全員がそれを必死にノートに写した。黒板が真っ白になった後、くるりと先生はこちらを見る。
冷たい目だ。初めて見た人はみんなそういうだろう。少し疲れたような顔なのもいつものことだ。
先生は書き終わると、教室を歩き出しながら、話し始める。物語を聞いているのような不思議な気分になる。化学の話なのに。歩きながら、僕らのノートを確認する。書き間違えていると、先生の説明は止まらないまま、指先がノートを指し示す。
トントンッとノートを指す指先の爪は綺麗に整っている。なんならたぶんトップコートを塗っているんだと思う。そして爪は淡いピンクで塗っていると思われる。
時々その爪の色が変わる。以前グレーの時に、つい可愛い、と言ってしまった子がいた。皆が硬づを飲んだ。怒られる。そう思った。ぴたりと止まった先生の足音に、部屋が無音になる。
「可愛い…か」
先生が授業の話以外を初めてした日だった。
「そうだろう?」
教室空気が一気に変わった。あの難しそうな先生が、可愛いと言われて、自信満々にそう答えた。おやぁ?と。クラス全員がそう思った。勇気あるものが声を上げた。
「どこの…ネイル使っているんですか…?」
その小さな声は、クラス中の好奇心を膨らませた。ざっと一斉に先生を見上げるも、先生は全く動揺していない。
「気になるか?」
うん。と全員が頷いた。先生はふむ…としばらく顎髭を撫でると、何か閃いたように、目を見開き、そして狐のように笑った。
「明日持ってこよう」
そして、次の日の授業の半分はネイル講座になったのは記憶に新しい。
「というわけで、ストレンジ先生のおしゃれポイント探すの好きなんだ」
私の言葉に、みんなわかるー!と声が上がった。
「先生めっちゃ知識あるよね」
「シャンプーとかおすすめ聞いちゃった」
「それで髪の毛サラサラになったのね」
「ネクタイの色も毎回違うよね」
「ワイシャツもさ、おしゃれなんだよなぁ」
と話していると
「授業を始める」
そう言って入ってきた先生は黒縁メガネをかけていた。
「さぁ、この前の続きから…なんだ?皆変な顔して…あぁ…眼鏡かな?」
くいっと眼鏡を上げる仕草が様になりすぎてクラスのみんなが惚れた。
『シニ先生はおしゃれさん』