むかしむかし、とある森の中に 森の奥の城には怪物が住んでいる。ずっとずっと前に怪物はどこからともなくやってきてあの廃城に棲み着いた。昔は三匹だったが、今は一匹だと誰かが言っていた。三匹だった頃は悪さをしに良く街へ降りてきたらしいが、今は静かなものだ。森に迷い込んだ街の人間や、たまたま通りかかった旅人を脅かす程度で。
「でも、怪物はとても美しいらしいよ」
「ひと目見たいが、命の方が大切さ」
「そうだね。昔は人が食い殺されたんだろう?」
「そうさ。今でも旅人はやられてるって噂だ。森の中に骨がたくさん落ちている」
「人間の骨じゃないって言われてるじゃないか」
「それでも、かなり大きな骨らしいぞ。大きな獣を一人で狩ってるのかと思ったら充分脅威じゃ無いか」
「まぁ、そうだけど……あーあ、退屈な街でこのまま死ぬまで同じ事の繰り返しならいっそ美しい怪物に食べられてしまいたいなぁ」
「ばーか。そんなこと言って、実際遭遇したらお前一目散に逃げるだろ」
三匹だった森の化け物、今は一匹きり。でもとびきり凶暴なのが残ったって話だから。街の人間は森の奥へは入らない。
「……」
美しい怪物の話は街の酒場で毎夜のように噂されるお決まりの話題。街の人間は天気の話より良く口にしたし、あること無いことすべて怪物に結びつけた。そして、旅人は無謀にも森へ足を運ぶ。多くの旅人は怖じ気づいて帰ってきた。でも、ときたま戻らぬ者もいる。
「怪物、か……人も寄りつかぬような場所ならいっそ」
今夜もまた、一人の旅人があらぬ噂に惑わされる。薄汚れた外套の胸元を掻き寄せて、旅人は酒場を出た。もう日は落ちてしまったが、街からも森の奥にひょこっと飛び出した城の尖塔が見えている。今夜は満月だ。まるで此処だよ、と手を上げてくれているようで。
今日着いたばかりの街を今日の内に出て行く。誰もこの旅人のことは知らないままに、彼は森へと消えた。この街に彼が来たことも、この街を彼が去ったことも解らない。
この旅人の消息は、此処でぷつりと途切れたのだった。
***
夕暮れ時、烏が帰宅を告げる鳴き声で、江澄はいつもの様に目を覚ます。緩く持ち上がる意識をかき集めてベッドから抜け出す頃には日没を迎える。空は青闇のカーテンが掛かり始めて、山向こうからみるみる夜が駆け寄ってくる。
「ふぁあ、ん……おはよう、紫電」
身体を起こしてまずは起床の挨拶。右手の人差し指に嵌まる指輪こそが紫電だ。今は亡き家族達への想いを込めて、数少ない遺品に口付ける行為は呼吸をするように自然なことだった。なにより物言わぬこの指輪だけが、今は彼の話し相手だった。
江澄の夜は忙しい。きっちりと髪を結い上げ、衣服を整え、森を散策する。花や木の実を集め、食べられそうな獣を狩って、獣たちの縄張りを確認する。森の中の勢力図をきちんと理解しておくことは此処に住むものにとって非常に重要なのだ。
不意に視界を掠めた違和感。
「足跡、か……」
まだ新しい靴の足跡。縁もしっかり出ているし先ほど通ったばかりといった感じか。
また馬鹿な旅人がこの森に入り込んできたのか、と嘆息する。森の入口付近を出入りするのは構わないが、奥には大型の獣も多い。下手に人の味を覚えさせたら街に降りていく可能性もあるのですぐにも追い出さないとまずいだろう。
「夜に森に入ろうなんて馬鹿が死ぬのは構わんが、他人に迷惑を掛けるなら少し痛い目を見させた方が良いかもしれないな」
紫電がばちんっ、と音を立てた。江澄の昂揚に感応して電気を帯びていく。コレはそう言う代物だった。
江澄が足跡を追って森を進む。一歩、また一歩と足を進めるにつれて嫌な予感が高まっていた。そしてその予感は的中する。
「狙いは俺、か」
城の方へと向かう足跡は絵に描いたように城に吸い込まれていった。渾身の舌打ちを一つ。手にした花や木の実、獲物達を庭に放り出して俺は城に駆け込んだ。
「なっ……」
城には今は亡き義兄がしこたま仕掛けた罠があったがその殆どが起動されていると言っても過言では無い状況だった。お陰でエントランスはぐちゃぐちゃだ。
元々廃城ではあったが俺と姉と義兄で何とか住めそうな位に掃除した日々を思い出して腹立たしくなる。今の今までたった一人きりで維持してきたものがほんの数時間留守にしただけでこんな事になるなんて。
「いっそ罠なんか全て外してしまえば良かったかも知れない」
ぎゅっと眉間に皺を寄せて江澄は悪態を吐いた。床に刺さった矢を避け、割れた花瓶をつま先で寄せ、垂れ下がった紐や網を手で払いながら進む。
罠が起動している方へと進んでいくと江澄の胸が鼓動を早めた。そんな馬鹿な、と思いつつも最悪の状況を否定できないでいる。
この方向にある部屋は使用人室、今は江澄が私室として寝起きしている部屋があるのだ。
この城には当然、客室や主寝室もあったのだが、ひとりぼっちで寝起きするには広すぎて使う気になれなかった。
その点、使用人室は適度に狭く生活環境を維持しやすかった。
この廃城に辿り着いたときは姉弟三人でベッド一つ整えるのにも苦労したものだ。
……そう!苦労したんだ!何処の誰だか知らないが、土足で上がり込んで人の寝床を荒らそうなんてことは許されるはずが無い。大体森で暮らしている俺には財産らしい財産は無い。こんな所まで上がり込んで何が目的なのか。
とうとう、使用人室の前まで来てしまった。この先の罠はもう起動されていない。此処に入ったと思って間違い無いだろう。
「くそっ、ベッドだけでも無事であってくれ」
紫電と並ぶ相棒である三毒と名付けた剣を片手にドアを押し開けた。息を殺してそろりと忍び込む。
日が没してからもう五時間は経つだろう。そろそろ深夜と言っても差し支えない時間の廃城は当然真っ暗だ。江澄は住み慣れた我が家であり、人間よりも夜目が利く。そのためここまで明かり無しで進んできたが、侵入者がいるなら明かりが無ければ満足に動くこともできないはず。地の利はこちらにある。
部屋の中は一見いつも通りに見えた。二台のベッドの内、片方はマットレスだけの状態。もう片方は自分が日々使っているので敷布も掛布も乗せてあり、起きるときに半分に折っておくのだが。
「っ」
ベッドに誰か入っている。
心臓が一気に跳ね上がった。
掛布の膨らみ方を見る限り子供では無い。それに此処へ向かっていた足跡も一人分の大きな足跡だった。男である可能性は限りなく大だ。
三毒を構え直し、じりじりとベッドへと近づく。するとどうしたことだろう。すー、すー、とあまりにも安らかな寝息が聞こえてきた。
「は……?本気で寝ているのか?」
上を向いて胸上で手を組みそれはもう気持ちよさそうに寝ている。そのあまりに無防備な姿に警戒心も吹っ飛んだ。
切っ先を下げてベッドを覗き込む。男、だろうか?夜目が利くと言っても真っ暗なこの部屋で解るのは精々どこそこに目鼻口がある、ということくらいだ。
枕元にあるオイルランプに手を伸ばし、火を灯す。すると其処に現れたのはまるで彫刻作品の様に整った寝顔だった。
白磁の美貌、とでも言うのだろうか。オイルランプの仄赤い明かりに照らされて尚、白く透き通るような肌にふっくらとした桜色の唇。頬はほんのり血色を感じさせる桃色でそれらを縁取るのはカラスの濡れ羽色の長く艶やかな髪。しっかりとした眉はたおやかにアーチを描き、瞼は頬に影を落とすほど長い睫毛に縁取られていた。
江澄は思った。この瞼の下にはどんな宝石が隠されているのか、と。
とくとく、と心臓が高鳴る様は危機感から来る緊張のそれとは違って昂揚や興奮からくるものだと自分でも解った。
「貴方はどこから来たんだ……?」
ランプがぢっ、と音を立てて炎を揺らした。揺らぐ明かりの中、部屋中の影が歪んで瞬間、けぶる睫毛がゆっくりと持ち上がった。玻璃の瞳が自分を捉える。
「ぁ」
「、っ」
いつのまに自分はこれほどこの侵入者に近づいていたのか解らない。江澄は鼻先が触れそうな程至近距離でこの眠れる侵入者を覗き込んでいたらしかった。
起きた途端に自分を覗き込む顔があったら自分も同じように驚き、身体を起こそうとしただろう。そして互いに驚き、互いに思わぬ動きをしてしまい、互いの唇が触れ合って……。
ひたり、と合わさった唇は一瞬のことであったが年頃の二人を真っ赤にするには充分すぎた。パッと口元を抑えた姿は鑑のようにシンクロして江澄だけが慌てて距離を取った。
「っ、き、貴様、何を!」
「あ、貴方が、古城の怪物、さん、ですか?」
侵入者は柔らかく響く通りの言い声でそう聞いてきた。
「……怪物?ああ、街の連中は俺のことをそう呼んでいるらしいが。なんだ?もしかして街で噂されている人食い怪物を当てにした自殺志願か?もしそうなら残念だったな」
手の甲で唇をキュッと拭った江澄はフン、と顎をしゃくった。
「俺は人を食うような悪食では無いので貴方の願いは叶えてやれない。それと、其処は私のベッドだ。早々に退いて貰おうか」
慌てて三毒を構えて威嚇する。これで出て行ってくれたらこれほど助かることは無い。だがしかし、此処まで来る途中の罠をひとしきり起動しておきながら見る限り無傷のこの男にこんな脅しが効くのだろうか。
「失礼しました!今、退きます!」
パッとベッドから飛び降りた男はサッと跪いてこちらを見上げてきた。その思い詰めた表情と態度に俺は思わずたじろぐ。何をしようというのだ。
「失礼承知でお頼みします。どうか、私を此処に置いてくれませんか。訳あって追われていまして……お願いします」
「かまわない。理由は聞かない。この部屋以外は好きにしたら良い」
江澄は自分でも不思議なほど簡単にこの男を受け入れていた。
「そこをなんとか!……え?」
「だから好きにしろ。そもそも俺の城では無い」
この男もまさかこれほど容易に受け入れられるは思いもしなかったのだろう。
「ありがとうございます、怪物さん!」
パッと綻んだ表情はまさに花のかんばせ。
「っ……!」
まるで心臓を握られたかのように胸が苦しくなる。いっそ人間離れした美貌に江澄は動揺を隠せない。
「まずはその珍怪な呼び名を止めろ。江澄だ」
「じゃんちょん?わ、私は……渙です」
「ん?なに渙と言った?」
「すみません、ただの渙とお呼び下さい。間違っても貴方に迷惑を掛けないように」
顔ごと視線を伏せた渙と名乗る人物のつむじを見下ろしながら江澄は間抜けで呼びにくいなぁと思っていた。
「では、阿渙と呼ぼう。ただの渙より呼びやすい」
「あーほわん……始めてそう呼ばれました」
そういうものか?と言いつつも江澄はこれ以上首を突っ込むまいと胸に決めた。訳ありは訳ありでもこれはちょっと根が深そうだ。
あーほわん、阿渙、と男は何度も口の中で己の名前を唱えている。大切なものにそっと触れる様な響きはこの人のまっすぐさを表していて、江澄は悪い人間ではないのだろうと再確認するに至った。
「あの、私も貴方を阿澄と呼んでも?」
「なぜそうなる!ダメだ!」
前言、いや、前思考撤回だ。この男、見た目に反して油断も隙も無いやつだ。
「なぜって……これから一つ屋根の下で暮らす上に、キスまでした仲ですし」
指の甲で唇にそっと触れ、とろりと視線を潤ませる。その仕草、その表情、なにより甘さを含んだ声に圧倒されそうになる。
「こんな広い城に一つ屋根の下もくそもあるかっ!それに、あんなのはキスとは言わない!事故だっ!」
「うーん、解りました。ではいずれそう呼ばせて貰えるように尽くして参りますね。よろしくお願いします、江澄」
立ち上がった阿渙がにっこりと笑って小首を傾げた。
なんだ、この男!本当になんなんだ!顔に似合わず身長はあるし、胸板はあるし、体格に恵まれすぎだろう。それに、美しく整った顔でこんな笑い方、狡い。
なんだかこの先もこの笑顔でごり押しされ、押し切られていく自分のまぼろしが見えた。
「くそ……少し早まったかもしれん」
小さく舌打ちして江澄は独りごちた。
ずっと寂しかった。ひとりぼっちになってもう随分立つ。孤独には慣れなかった。そこへやってきた美しく礼儀正しい男。自分で無くても、こんな善良と美をかき集めて作った人間をそばに置きたいと思うはずだ。
江澄は必死に自分へと言い訳をした。
古城に住む怪物が、迷い込んできた青年と間違ってキスをしたせいで共に住むことになった。
これははそんな昔々の物語、その始まりである――。