演繹:反芻のままに「レベッカ?」
珍しくそう呼んだ声は聞き慣れないものだった。
虚空を漂っていた意識が引き戻される。切れた思考を手繰ろうとして、妙な違和感にかき消されてしまった。
顔を上げた先。正体に気づく。
こちらを覗く憐憫の混ざった双眼。
その柔く憂いを含んだ瞳は声色にも反映されていて、一言でいえば、らしくない。
「あんたもそんな顔するんだな」
そう言葉にしてから掛けるべき第一声ではなかったと少し反省した。
弁明のため二の句を継ごうとして、つっかえたように息が詰まった。
静観する眼差しが失礼な物言いも気に留めず、変わらず、じっとこちらを捉えて離さないでいる。
遠くで遅番の隊員が話す声が聞こえる。
もうそんな時間か。そうだ照明をつけないと。ほとんど電灯を点けていなかったせいで窓明かりとわずかな蛍光灯だけが視界の頼りだった。
でも、なぜ。その眼光から動けない。
まばたき。全てがスローモーションに映る。
開いた先には淡白な光だけが宿っていた。
ほんの数秒の沈黙が永遠のようだった。緊張の糸が切れてため息をつく。いったい何に対しての安堵だろう。
「そんなにわたしは冷血にみえますか」
心配くらいしますよ、あなたであれば尚更。首を傾げて先生はそう続けた。
「だって先生、あんな顔したことないだろ。少なくとも私は見たことないよ」
「あなたが言うならそうなんでしょうね。そもそも自分の表情なんてわからないし意識したって何の意味もないけど」
解けた腕でサイドテーブルの明かりを点ける。はっきりと目に映る覚醒しきれていない顔。
滔々とした語り口はこの人がいつもと変わらないことを思い出させてくれる。見慣れた光景は身体を更に弛緩させた。
先生は他人に無頓着なところがあるが、だからといって薄情な非人間なわけではない。感情に左右されない日常を送っているだけで、この人自身は何も我々と変わらないのだ。
悪戯に笑うのも、仕事が面倒だとぼやくのも、苦手なものに怯えて身体がすくむのも。垣間見える人間味はかえって増幅して映り、どれも先生を人間たらしめている。
「ああでも、さっきのは」
続きの言葉を待つ私に手が伸ばされた。フードと頭の隙間に指が滑り込む。
「あなたの表情が移ったのかもしれない」
輪郭を辿る指はそのまま頬を撫でる。恣に弄ぶ仕草は愛玩する様だ。
「……それは、」
いやでも目についてしまう。
半袖の患者着が晒す腕。
巻かれた包帯とサージカルテープ。空の点滴。
露わになった指先と細かな古傷。
似合わない手当てされた姿。
痛ましい。嘆かわしい。あぁ。
どうしてそう何もなかったようにいれるんだ。
*
以前A級バグの暴走が発生してから厳戒態勢だっただけに、今回の事故は許され難い事案であった。
マインドハック中、FORMATの指示で接続が中断された。同席した隊員と共に更生対象を警戒。接続の感覚が残り混濁した様子だったが、こちらの処置前に沈静化を確認した。
目の端で捉えていた先生に異変が起きたのはその後だった。
FORMATの混乱した声と共に腕を抑えてうずくまる姿がガラス越しに見えた。いやに冷静に、機械音声も悲痛に聞こえるものだと感じたことを覚えている。
駆け寄った先、呼びかけに応じない先生はどうやら施術中に攻撃を受けたらしい。医療班に連れられ医務室へと運ばれる間も意識は途絶えたままだった。
先生に何があったのか。負傷の理由は。程度は。
FORMATに確認しても「マインドハックは成功しました。ドクターに支障が出たのは想定外ですが回復を待ちましょう」とだけ。自分の立場がなければ食って掛かるところだった。
ハッキングはFORMATの観測下で行われている。人工知能である彼女は先生を最大限バックアップするものの監督しかできず、緊急時に盾になることはできない。できても今回のように無理やり中断させるだけだ。
警備隊として知識や言葉では頭に叩き込んでいても、施術中のことは詳細まではわからない。先生と更生対象、そしてFORMATだけが許された空間は、いつだって計り知れない危険をはらんでいる。
だからこそ、先生が無事に戻ってくることへ心の底から安心し、未曾有の事態が起きないよう常々願うことしかできない。願うことしか、できなかったのだ。
外部から干渉する手立てが無いことくらい嫌というほど理解している。それでも、それでもだ。仕方がなかったと溜飲を下げられるほどの達観はできないでいた。
未然に防ぐ手立ては、可能性は。
考えれば考えるほど己の無力さに焦燥する。
デバッグルームの座席で崩れ落ちる先生が未だ目に張り付いたままだ。
手の届かない場所で危険に晒される現実に、私は何ができる?
*
「情けないところを見せてしまったね」
伸ばされた腕の負傷した箇所をなぞる。切り傷なのか打身なのか、それとも別の何かなのか。
想像で補いながら触れる傷跡はザラザラとした不織布の感触しかわからない。
医務室のベッドで身体を起こした姿は薄手の患者着も相まって普段よりも脆弱に映る。
「今までがどれだけ幸運に恵まれていたか痛切に感じるよ」
非常時の想定訓練など配属されてから何度も行い脳裏に刻み込んでいると言うのに、今更冷静さを欠くだなんて。内心の取り乱し様を知られては他の隊員に見せる顔がない。
当の本人は他人事のように「考えすぎでは?」と平然としている。
「現にこうして生きてるし、仕事道具も無事ですよ」
冗談めかして親指を立てる様は言葉通りで、その掌に手当ての跡はない。
不幸中の幸い、とでも言うべきか。手放しには喜べない。人知れず痛みが内包されているかと思うと、あぁ、だめだ。
「……先生は強いな」
差し迫る危機にも臆しない、マインドハッカーたらしめる精神性。その柔な足腰が支えるには重荷が大きすぎる。それが、本人の望んだ生業だったとしても。
突然顎が引き上げられた。
双眼がこちらをするどく射抜く。
「あなたは、わたしをそう評価するのが好きですね」
その物言いの抑揚のなさに。
静かに、だけど確かに、愛想を尽かしたような渇きを感じた。
けして非難するわけでもなく表情もそれまでと何も変わらない。はずなのに、口から出る言葉がうまく弁明にならなかった。
「あ、あぁいや、本心だよ。気に障ったなら謝る」
持ち上げた指だけですべての自由を奪われ、固定された顔に視線が降り注ぐ。影がかかって見えない瞳の奥。
なにとはなく思った言葉だっただけに、踏み入れてはいけない領域だった可能性に腹の底が冷える感覚に襲われる。
「わたしはいつも通りですけど、こうも強いだなんだと称されると相対的に周りが脆弱と言われているようで癪ですね」
スプリングをぎしりと軋ませながら身を乗り出し、両の手が顔を包んだ。
「過剰な謙遜は誰の得にもならない。
……なにより、」
じり、と先生が顔を寄せる。思考の奥の奥まで覗き込まれているようで、生唾を飲み込むことしかできない。
「わたしが、大切にしているものを、卑下しないでください」
ぐらりと揺れる眼光に意識が吸い込まれる。
耳の中で冷たく金属音が響く。
張り詰めた声がキリキリと空気を揺らす。
言葉の意味も掴めないまま文字だけが頭をすり抜ける。
呼吸も忘れ、真っ直ぐな瞳に釘付けになる。
「——ふっ、はは」
堪えきれず溢れた息と、緩やかに上がる口角。
「そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても」
あやす手つきで頬を撫でられる。
「……そんなに、酷い顔してたか」
「はい。深刻そうだったから面白くなっちゃった」
詰問にかける冷えた眼差しは柔らかく弧を描いて溶けた。
「……からかわないでくれよ」
止まっていた時間が動き出し、疲労がどっと押し寄せた。
どこまでが冗談だったのかわからない。
わからないが、期待外れだと落胆された感覚に陥ってしまった。見限られたのかと、失望されたのかと、錯覚してしまった。
そんなことを説明したとて先生に一蹴されるのが目に見える。
「すべて杞憂ですよ。あなたが思うよりあなたに守られているわたしは強いんです。そう簡単に死ぬわけないでしょう」
ストレートな言葉に面喰らい、視線を外そうとしても頬を包んだ両手がそれを許さない。
先ほどとは打って変わって、瞳にはよく知った先生が映っていた。
「それ以前にわたしは天才なんでね。心配されるまでもなく天才的技量でどうにかできます」
得意げに語るその言葉は高慢でも思い上がりでもない、疑いようもない事実だった。年間何人もの更生対象を相手にし、死線をくぐり抜けてきた者だけが獲得できる自信。
目の前のこの人はそれを言葉にできる唯一の存在だ。
「そう。すべて杞憂。いいですね」
ただでさえ近い距離を詰め、鼻先が触れそうになる。淡い色の眼光は薄明かりの中でも眩しく映った。
捕捉されたまま暗示のように繰り返される声が脳に直接染み込む。
不安定な思考を払拭し、安寧を塗り込まれる。何も考えられなくなる。
わかった、と小さく頷けば「上出来です」と満足した声色で微笑んだ。
時刻にしてどれほど経ったのだろう。廊下から聞こえていた慌ただしい足音は程々に落ち着いていた。
先生が起床した今、FORMATに報告するのが先決である。しかし彼女のことだ、手負いの患者であれど無事を確認できれば即現場に戻すのが目に見える。ここで時間を稼いだところでいずれ呼び出されるのは想像に容易い。
「自分の部屋でもないのにこうして触れているとなんだか背徳的で良いですね」
逡巡するこちらの気も知らず、当事者は恣に指先で頬から顎へと線を描く。
先生の言うように露わになった掌は逢瀬の中で目にするのがほとんどだ。微かな傷跡の残る手背や指先は限られた者しか謁見を許されず、業務内外でそんな機会に恵まれているのは、まぁ、役得とも言える。
トレードマークの手袋は医療班が衣類と共に回収したのだろう。
「後で持ってくるよ。先生もそのほうが落ち着くだろ」
お願いしますと言いながら指の腹が口元を掠めた。場違いな感情でも沸き立っているのだろうか、向けられる視線からわずかに熱情の混ざりを感じる。触れた指から伝わる血の通った体温がそれを裏付けた。
好きにさせている己の甘さには目を瞑り、
「その調子なら明日には復帰できそうだな」と苦言を呈する。
「意地悪なこと言うんですね」
わざとらしく扇情的な瞳でくすくすと笑う。
こちらの無理強いしたくない念が漏れているのだろうか、柄にも無い行動を諫めても先生には響かない。
「……正直なところ、報告はもう少し後でもいいと思うんだ。今は休んだ方がいい」
「ホットフィックス隊の隊長がサボるのを認めていいんですか」
「必要な休養だよ」
先生の手を引き剥がしてシーツの上へ降ろす。このままではペースに飲まれ続けいつまでも居座りかねない。離れ難くなる前に席を立つ決心をした。
「起き抜けに長話ですまない。とにかく元気そうで安心したよ。足りないものがあったら言ってくれ、すぐに持ってくるから」
ぐるりと部屋を見回した先生は花が足りないと呟いた。つられて眺めて、その殺風景さを感じた。医務室には処置用の医療機器と最低限の日用品しかなく、隅に置かれた観葉植物が先生のお眼鏡にかなう及第点だ。
「朝までに何か持ってきておこうか。その方が寝覚めも悪くないだろうし」
「助かります」
「あんたの部屋から見繕っておくよ。それじゃあ先生、もう戻るから、」
視線を先生に戻せばはたと目が合う。
名残惜し、そうな訳でもなく。
標的として捉える鋭さもなく。
とはいえ、ただ見送るにしては意味ありげにじっと見据えられる。熱っぽさとも、涼やかさとも違う。
————今のあんたは、何を考えているんだ。
得体の知れないものへの違和感に呼吸の間隔が短くなる。
平静を装うも絞り出した声で「せんせい、」と呼びかけることしかできず、続きの言葉も浮かばなかった。
その間も目の前では判別できない瞳の色を宿して緩く笑みを保っている。
張り詰めた空気を先生の腕が揺らす。
緩慢な動きの果てに私の手を掴んだ。
ようやく口を開いたかと思えば「調子は戻りましたか」と極めて素朴な言葉をかけられた。
拍子抜けして、辿々しく「どう、だろう」と返す。
ふす、と笑われ、触れた指先が柔らかく手を包んだ。人肌の温かさは緊張をゆるくほぐしていく。
「……先生には、いつもの私に見えているか」
口を突いて出た思春期の迷いごとのような愚問にも嘲笑せず、先生は視線を落として意図を吟味した。
思案ののち、「別に超能力者じゃないんだから思考の全てまではわからないですよ」と眉を下げて笑った。至極、穏やかな笑みだった。
「少なくとも、あなたはわたしのよく知るレベッカです」
どこまで悟られているか計り知れないが、先生の目には動揺した自分が映っていないことに胸を撫で下ろす。普段通りに振る舞えているなら僥倖だ。
血の通う素肌を忘れないよう先生の手を握り返した。
「心労が祟ってあなたが潰れないようにね」
目を細めて笑った先生に手を振り医務室を後にした。
先生のオフィスへと歩を進めながら飛び交う思考の整理に取り掛かる。
ことの発端はあの瞳だ。憂慮の色を含んだ視線。
本人にも伝えてしまったが先生が真っ直ぐに他人を深憂したことが受け入れ難い、……いや、信じ難かった。他者へ共感する気概など見せないあの人が、当たり前に、人を心配する行為を。
そうはいっても、先生だって気に病むことがあればそんな表情をするというのも納得できる。
卓越した能力を携えているだけで、その実、私たちと同じように生きる人間なのだから。
そんなことわざわざ確かめなくとも理解している。
はず、なのに。
妙な居心地の悪さを思い返して嫌になる。
本心の見えない無慈悲な天才ハッカーはあっけらかんとした表情をしたかと思えば、他者を憂い、怒りを抱き、そして時に見せる笑顔で周囲を懐柔させる。
どこまでも歪な無機質さを連れ歩いている、唯一無二の、ただの人間。
……いや、先生は、そんなんじゃない。
先生は、先生は……。
…………。
辟易とする。
また先生のもとに戻ると言うのに何を考えているんだ。こんなのは相手が理想の姿と違うことに受け入れられないと言っているのと同じだ。
自分の中に蟠る不安も疑念も全て、先生への不信へとすり替えているだけではないか。
それほどまでに、一番の理解者という立ち位置は私の支えだったようだ。
十年来の付き合いは相手を熟知しているという自信を確立するに十分であり、それ故に築かれている姿が揺らぐことに不安が募ってしまった。
先生はこれまでも変わらず友人として、親密な相手として、私に心を許してくれているというのに。
あまりに愚かで、おこがましく、恥ずかしい。
重いため息を吐き出す。
これ以上思案したとして無駄だと分かっているのに思考の海は渦巻き続ける。
入れ替わるように体に入り込んできた鼻をかすめる香りが渦の動きを鈍くさせた。
徐々に強くなるその匂いは目的地に到着したことを気付かせた。
扉を開けて五感全てを支配する芳香に包まれる。
手をつけられていない書類には目を瞑り、卓上に置かれた新顔の花瓶を手に取る。たおやかな花は馥郁としてみずみずしく存在を主張する。
特別香りが強いわけではないだろうに、ただそれだけを見つめてしまう。
先生はなにを思ってこの花を選んだんだろう。
顔を寄せて目を閉じる。
華やかな香りと共に目の裏に先生を浮かべる。
こちらを向いて笑みを作るその人は花のように綻ぶ。一呼吸ごとに先生で満ちていく。
凝り固まった思考を柔らかく絆すように脳の奥まで花が染み渡り、答えのない問いが瑣末なことに感じる。
このままここで眠ってしまいたい。
花に溶かされ緩やかに身を委ねていたい。
『すべて、杞憂ですよ』
頭で繰り返される先生の声。隅の隅まで染み渡った言葉は思考を鈍らせ甘やかな痺れに変わった。
ゆるりと、満たされる。
まじないのように脳裏に刻んで、焦燥に蓋をした。