わがままを言わせて書斎の扉をノックする音が響く。
バンジークスが入室を促すと、扉を開けて亜双義が入ってきた。
手に一冊の本を抱えている。
「こちら、お返しします。ありがとうございました」
部屋の奥、主人用のデスクに座るバンジークスの元までくると、その本を差し出し丁寧に礼を述べた。
「役に立っただろうか」
「ええ、とても。手書きの注釈は、貴公が?」
亜双義が検事を目指すと宣言した際、最初に渡されたのがこの本だった。
基礎となる知識が、比較的平易な言葉でまとめられている。
それでも出てくる専門用語や解釈の難しい一説などには必ず赤インキで注釈が添えられていた。
本文より分かりやすい解説であったり、凡例を用いて理解を促したり、
まるで暗い道の足元を照らすランタンのようなそれに導かれ、初歩を進み始めることができた。
「それは……兄の手によるものだ」
兄、クリムト・バンジークス。亜双義に対して彼の父の話以上に、触れることに気を遣う名前である。
あまり出さない方がよいようにも思えたが、隠しても不自然なため正直に答えた。
「そうか。本当に優秀な検事だったのだな。深く理解していなければこのような注釈など書けまい」
その名に気を悪くするどころか素直に称賛され、バンジークスは少し拍子抜けしながらもひそかに胸をなでおろす。
しかし机を挟んで立ったままの亜双義が、何か考え込んでいることに気が付きまた心中穏やかでなくなった。
「貴公から見て、父は優秀な刑事だったか?」
「もちろん。文武に優れ、悪を許さず正義を貫く、刑事の鑑だ。自他ともに厳しい人だったから、それを疎ましく
言う人も多かったが……兄はそこを気に入っていたのだと思う」
突然の問いに、若き日の思いが蘇り言葉が溢れそうになる。だが在りし日の玄真とクリムトの様子は、バンジークスの脳裏にしかよぎらない。
それを申し訳なく思うことすらはばかられて、気取られぬように努める。
亜双義は父をほめる言葉を聞いて喜ぶでもなく、まだ何か考え込みながら、部屋の中程に置かれた
1人がけのソファに身を沈めた。
「そんな優秀な検事と刑事が二人、頭をつきあわせて考え抜いて、それでもあの方法しかなかったのだろうか」
ぽつりとこぼれたような言葉は、いつもの亜双義からは想像がつかないような弱さを伴って発された。
「追い込まれていたことは分かっている。俺もまだ知らぬ罠や事情だってあったのかもしれない。
父上の覚悟は尊重するし、正義を貫いたことを誇りに思っている。
でも、たとえば……あの探偵や御琴羽教授や他にもいたかもしれない味方と手を取るなりできなかったのだろうか。
それも無理だったならば、いっそ俺のことなど意に介さず裁判ですべてぶちまけてしまえばよかったのに、と恨めしく思う気持ちがとめられない」
こぼれ出した途端、あふれるままに紡がれる思い。バンジークスは何も言わずに聞いている。
「父を思う時、何も知らず帰りを待っていた幼い頃の自分がいる。そんな子供のわがままだ」
我ながら幼稚な思いを吐露しきった亜双義は今更ながら恥ずかしくなり、両手で顔を覆った。
バンジークスがどんな顔で自分を見ているのか確かめることもできない。
「わがままを言ってしまうほど、俺は父が大好きだったのだ」
二人きりの、静かな書斎でなければ聞き逃してしまいそうな小さな声。
幼い彼が父にわがままを言い困らせた日を、当然ながらバンジークスは知らない。
だがそんな日があればこそ、こうして乞うような思いを募らせるのだろう。
「貴公も、兄に言いたいわがままはないのか。敬愛していたのだろう。一人蚊帳の外で、それが彼らの優しさだとわかっていても、
なお一緒に戦いたかったと言いたくはならないか?」
バンジークスに向き直り、ソファから身を乗り出すようにして亜双義が問う。
その勢いは照れ隠しもあるのだろう。
バンジークスは兄の最期の行いに、疑問を持つことはあれど異を唱えるなど考えもしなかった。
そんなことは許されないと思っていた。
だが、どうして、と言いたくなる気持ちは罪ではなく、遺された者の切なる叫びなのだと目の前の子供が言う。
己の中の子供がそれを聞いて、泣きじゃくりながらうなずいている。
「貴君の言うとおりだ。もし兄に会うことが叶えば、きっとそんなことを言って困らせるに違いない」
そうだろうと言いながら何故か満足げにソファに再び沈む亜双義から視線を外し、バンジークスは先ほど受け取った本を開く。
注釈の字はインキの色鮮やかなまま、ペンを走らせる兄の姿が浮かぶようだ。
いつか、彼にわがままを言った時、困ったようなその顔に、今思い返せば喜びも滲んでいた。
文字をなぞれば指先が、ほんの少し温かくなったのを、気のせいで片づけたくはなかった。