名前の話 続き「──我が家では『名』は一種の呪いという考え方があります。名によって個人は縛られるということですね」
都内某所、喧騒から逃れた日本邸で二人は一風呂浸かってしっぽりと縁側で晩酌をしていた。
ちょうど元弟の記念日もようやく過ぎ去り、体調が安定してきていた。そんな病み上がりに日本で出張があって、彼の家の世話になっていた。
日本の落ち着いた声で語られた異文化の魅力に引き込まれる。少し前のめりになりつつ、イギリスも口を開いた。
「なるほど。名前の話では言うなら俺たちの文化圏では、悪魔の名前を当てられたら何もされなかったなんて話なら山ほどあるな」
「ほう、そうなのですね。こちらでは逆に山で名前を呼ばれても返事をしてはいけないという話がありますねぇ。古今東西、あまり変わらないようで」
興味深い、そう呟いて日本は日本酒をちびりと飲んだ。
今日は浴びるほど飲みたいだとかそんな気分でもなかったが、西洋にはない甘い味わいの日本酒は是非とも相伴に預かりたかった。日本が選んだものというなら間違いはない。
珍しく「呑みませんか?」と誘ってきた日本を拒む理由などなく、昼間よりも随分と涼しくなって心地よい縁側に腰をかけて杓をしあうことになった。彼と「友達」というむず痒い関係になり百年は経ったが、いまだに徳利を操る手がなんとなく落ち着かない。
彼とは酒をちまちまと入れつつ他愛もない話をしていて、今は「名前」の話題となっていた。
「人の子は私たちのように簡単に名前など変わりませんからね。名付けるという行為は我々が認識しているよりも大事な行為なのでしょうね」
「そうだな。きっと、その感覚は共有し合えないんだろうな」
「ふむ、そうかもしれません。あぁ、でもイギリスさんは人としての名もお持ちですよね」
「まあな。今時持ってないやつの方が少ないんじゃないのか。色々面倒だし」
そう言ってイギリスは煩わしそうに前髪をかきあげた。涼しいとは言えども、ここは自分の家よりもずっと温かい。昔から湿気を含んだ独特の気候だとは思っていたが、最近は特に毛穴に入り込むような暑さが年々増している。夏の日本で会議があると、欧州の北の方に住んでいる奴らはみんなグデグデになっているが、隣の男はいつも平然としている。ここ百年ほどの軽い謎だ。
「そう言えば以前アジアの方々と似たような話になりましてね。皆さん、お名前を決めるのに色々とエピソードがあって面白かったですよ」
「そうなのか。ちなみにお前は……って聞いてもいいか?」
「ええ、勿論」
日本はそう言って口の端をきゅっと持ち上げた。会議場ではお目にかかることのない、控えめだが彼らしい自然な笑顔だ。
「この家に移り住む前に住んでいた家の庭にね、菊の花が自生していたんですよ」
「へぇ」
「近所の子供達がそこから『菊の家の日本さん』と呼んでくれて。そこから全部端折られて『菊さん』となりました」
「ははっ、なんだよそれ。端折られすぎだろ。でもいい由来だな」
「えぇ、えぇ……そうですね」
日本はそう言って、イギリスの笑い声につられるようにくすくすと笑った。オブシディアンのような瞳は光をあまり取り込まないが、優しげな色を浮かんでいる。その思い出が彼にとって良いものであったことを、十分に表していた。
「ファミリーネームはどうしたんだ?」
「あぁ……それはですね。これかなあるあるにしたいんですけど、土壇場で戸籍が必要になって登録したはいいものの、すっかり名字が必要なのを失念していたんです。そしてふと手続きをしてくださっていた方の名札を見たら『本田』さんだった……そういうわけです」
「あ〜……確かにそりゃあるあるだな。フランスのやつがそうだ」
「なんと。意外ですね、そういうことにこだわりをお持ちの方だと思っていました」
日本は童顔の目を僅かに大きく見開いた。そしてお猪口から日本酒を注ぎ入れる。
「そういうのにうるさいのはアメリカだな。あいつはめちゃくちゃ張り切って考えてた。それこそ最初は、カナダと一緒の名字にしたがってたぐらいだ」
「そうなのですか?ふふ、たしかに『らしい』ですね」
「だろ?」
アルコールが入っているからか、今宵の日本はよく笑った。
「それで、アーサーさんは?」
「ッ、え?」
「おや、何かドラマがありそうな反応ですね。爺の目は誤魔化せませんよ」
「お前今日テンション高いな……」
「そうでしょうか」
なにかを期待している様子の日本の瞳は僅かにきらりと鈍く光ってイギリスの方を見た。イギリスはその視線から誤魔化すように、お猪口で口元を覆い隠した。しかしティーカップのように大きくはないため、大した誤魔化しにはならなかった。
「……たしかに名前を決めた経緯はあるけど、お前ほど面白くない」
「フランスさん」
「……え、なんで、」
「おや、当たりでしたか」
「カマかけてきたか」
中身を呑み切ってやや乱暴に置かれたお猪口に、日本はすかさず日本酒を注ぎ込んだ。なんだ、賄賂とでも言いたいのか。しかしこれも、控えめな友達の可愛いおねだりである。イギリスは立派な眉毛をぎゅうとしかめて、口をもにょもにょと動かした。
日本はすっかり期待している様子で、「さあさあ!」という表情をしている。イギリスにはよく分からないが、彼が夏と冬の何かの祭り(アメリカとフランスが言うには、である)の肥やしにされそうなことだけは分かる。
「本当に、つまらないぞ」
「大丈夫です!」
「何がだ」
もう逃れられそうにない。イギリスはそれを悟って、もう一口日本酒を飲んで舌を濡らした。それから「忠告したからな」と喉から絞り出し、観念したように語った。
「お前が察しているように、俺の名前はあいつが付けた
「やはり……」
「それから俺があいつの名前をつけた」
「ほほう」
「協商を結んですぐの頃だ」
あの頃のフランスはしょっちゅう名前が変わっていた。そして、前日に2人で深酒をした際に、あろうことが彼の名を呼び間違えたのである。
自分達は性質上、ある日突然名前が変わるし、名前が変われば思考や性格もそれに寄ることだってままある。そういう意味では己らはあまりにも曖昧な存在だと言える。
だが、その中でも不変のものを与えれば、それを縁(よすが)にして戻ってこれると思った。
「──名前は俺たちが、『俺たち』に戻るための合図として付けたんだ」
「……」
「さっき日本は、名前は個人を縛るための呪いだって言ってたよな。今思えば、俺は俺が知っているフランスを縛り付けたかった。それから、俺はあいつに縛られたかった」
イギリスはそう言って、足を組み直した。空を見上げて、気まぐれに丸い月に手を伸ばす。まるで焦がれるかのような手つきで、丸い淵をなぞるその手つきに日本は目を見開く。
彼と出会った頃から何かとフランスの話を聞いてはいたし、フランスとも交流があるから当然イギリスの話も聞いていた。この2人は口では色々といいながらも、深いところで繋がっているということは日本も分かっているつもりだった。しかし、繋がっているなんて表現すら生ぬるいことを、今この瞬間思い知らされる。
「ただの個人としてはもっと早くにお互いを認識できていれば……俺たちはもっと違う関係になっていたのかもしれないってな。そう思ったよ。まああり得ないんだけどな」
そう言ってイギリスははにかんだ。月に伸ばしていた手をそっと下ろして、猪口を持って残っていた酒を飲み干した。
「友達……になりたかったんですか」
「……さぁ、な。分からない。想像もつかねぇ。過去にもしもはないし、歴史は俺が作ったわけじゃないからそれを否定もしたくない」
「えぇ。ですが、夢を見ることは許されるでしょう?」
「そうだな……夢、かもな。夢ぐらいでちょうどいい。あいつと友達、か。はは、どっちかって言うと悪夢だな」
日本の言葉に、イギリスはそう応えた。その声はどこか清々しいものであった。
日本は旧知たちの意外な一面に、『相変わらず複雑怪奇な方たちだ』と感想を抱いたが、それはそっと八ツ橋に包んで胸に置いた。
完